真理を求めて

真理を求めて

2005.01.13
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エクリチュールの問題での宮台氏の発言の中で、もう一つ理解したいと感じたのは「否定の図式」というものだ。それは、エクリチュールの問題を、言葉に表されたものは、実際には存在しない「幻想」に過ぎないのではないかという、ある意味ではマイナスの意味でのパラドックスとしてとらえるのではなく、プラスの面もあったというふうにとらえる見方を示すものだと感じた。そういう意味で「否定の図式」を受け取ったので、エクリチュールの問題を対立物の統一として理解するためにも、「否定の図式」の意味を深く考えてみたいと思う。

宮台氏は、「否定の図式」を説明するのに、自明性を裏切る事態というものから始めている。これは、「アンビリーバブル(信じられない)」というものだろうか。こういう事態に陥った人は、その事実をどう受け止めていいか分からなくて、パニック状態に陥ってしまう。

これが自明性を裏切るものと受け取られるのは、自明性が成り立っていた世界(システム)の外がとらえられていないからだ。これが、もっと広い視野を持っている人なら、システムの外部としてそういうこともあり得るという予期も持っているはずだ。そうするとそのようなことが起こっても「自明性を裏切る」とは感じない。それは自明性の延長として受け取られるだろう。

システムの外部を見るには、そのシステムよりも広いシステムをとらえて、外部さえも内部になってしまうような、相対的な広いシステムが必要だ。人間は、長い歴史を経て、そのようなシステムを次々に作り上げてきたのではないだろうか。これは、アプリオリ(先天的)に、天才の頭脳に舞い降りてくるものではない。最初は、「内外差異という内部」という形で、内部を基準にして作り出した「幻想」としての外部というものを作り出して、実践を通じながら、「幻想」が「現実」になっていったのだろうと思う。。そして、「幻想」ではなく確かな現実だと確認されて、本当の外部としてシステム化されるのではないだろうか。

「否定の図式」で否定されるのは、「自明性を裏切る」と思われることを否定し、パニックに陥ることを防ぐということではないかと思われる。これはエクリチュールの問題のプラスの面を指しているのではないかと僕は感じる。宮台氏は、古いタイプの宗教で、このパニック状態を処理するために、「超越的なものを呼び出すための共同的儀式を行う」というものを「否定の図式」としてまず考察している。

例えば、日食のメカニズムを知らない人々は、突然暗闇が訪れるような事態にはパニックになっただろうと思う。世界が終わったかのような恐怖さえ抱くかも知れない。このときに、たとえ正しくなくても、ある程度合理的に納得できる説明があれば、そのパニック状況をやり過ごすことが出来る。ある種の神の怒りということにし、やがて日食が終われば、神の怒りが解かれたと解釈すれば、不安を取り除くことが出来る。

これは、日食のメカニズムが正しく捉えられ、それが正しく予想できるようになれば、大きなシステムの中での一つの事実という内部にすぎないものになる。そうなれば、もはや日食でパニックになることはない。これも一つの自明性として処理されるだけだろう。その処理が出来ない、つまりメカニズムの本質が解明されていない間は、不安の解消という働きのために、「否定の図式」としてのエクリチュールの問題が使われるのではないだろうか。エクリチュールとして記述することで、それを「内外差異という内部」にしてしまい、内部であるがゆえに「自明性」を取り戻したと安心できるのではないだろうか。

人間にとっての世界とは、理解している範囲内のものとしてのシステムになるだろう。理解できない外部は、世界の中に入っていないので、「幻想」すら抱かないだろう。しかし、ある時に「事実」がこの世界を超えてしまう時がある。今回東南アジアを巨大な津波が襲ったが、これなどは、それまで津波というものが考慮の中に入っていなかった人々には、それは自分の世界には存在しない「外部」だったのではないだろうか。それが、事実として突然内部を訪れたという感じがするのではないかと思う。

これは、現在では津波のメカニズムがかなり解明されているので、パニックは長続きせず、合理的な説明によって津波そのものは理解されるかも知れない。しかし、もしもそのメカニズムが解明されておらず、パニックだけが残るようなら、どんな説明でもいいからそれが起こった必然性の説明を求めるのではないだろうか。人間は、偶然性という不安の中にいつまでもいられるのではないと思う。



人間が解明できる事柄というのはまだまだ世界の中の一部だけに過ぎない。それも、本当に合理的に説明できるのは、一部の自然科学的な対象だけである。「意志の自由」が絡んできたりする問題では、その「自由」の中に不合理なものを選ぶ自由があったりするので、完全に合理的に説明することは出来なくなる。

特に、近代社会は、社会のいろいろな要素が複雑に絡み合ってくるので、「自明性」はきわめて低くなっている。不安の材料は世界中に満ちている。それをやり過ごすためには、エクリチュールのパラドックスは、たとえ「幻想」であろうとも有効性を持つのではないかと思う。それは、世界を超えるわけの分からないものとしてパニックを起こすものではなくなり、「内外差異という内部」として、理解できるものとして不安をやり過ごすことが出来る。

このあたりのことを宮台氏は次のように記述している。

「否定の図式は、正義と不正義、道徳と不道徳、正常と異常、美と醜などといったものです。かつてであれば自明性の破れゆえにパニックになったところが、あらかじめ「あり得る否定性」としてボキャブラリーに登録し、事前に対処の仕方を決めておくようになるわけです。宗教から法が分出していくのも、そうした流れにおいてです。
 これは文字文化の誕生と相即的です。文字化すると、かつてならパニックを招いた否定的な出来事が、参照可能な形でアーカイブスに収蔵されます。その結果、図式を超えるような事態が起こることは滅多になくなり、事前に用意された「外」や「異常」という範疇に当てはめられるようになります。差異ではなく、反復が優位になります。」

これは、不安をやり過ごすという面ではプラスの面を持っているが、そのプラスの面が同時にマイナスにつながる恐れもあるから、また難しいところがある。その説明としてのエクリチュールが、本当に正しい現実とつながっていなくても、不安を沈めるという点で役に立てば、そのまま信じられてしまうというマイナス面が出てくることもあるだろう。その合理的説明が、論理的整合性を言葉の上で取るだけでなく、事実としても整合性をとれるような方向にしていかなければならないだろう。

また、どんなに合理的な説明を尽くしても、すべてにわたってそれが成功することはない、ということをゲーデルが不完全性定理で証明したように僕は感じる。そうすると、いつかは、説明できない世界を超えたもの、宮台氏の言葉では「超越」というものを考えざるを得ない時がやってくるかも知れない。しかし、そんなものは「幻想」だ、と片づける立場も当然あるだろう。

ゲーデルは、存在証明はしたが、その存在が具体的にはどうなるかということは語らなかった。だから、証明不可能な命題が、これがそうだと提出することは出来ない。証明できそうにないな、ということが予想されるだけだ。その時に、そこに「超越」という存在を見て、その「超越」から合理的に説明しようとする立場と、その「超越」も「幻想」に過ぎないとして、あくまでも現実を基礎に説明しようとする立場と、二つの立場がありそうな気がする。

これは、どちらの立場が正しいかは分からないということがあるだろう。うまく現実から説明する方法が見つかれば、どちらが正しいかの結論が出せるが、その説明が見つからない時は、どちらを正しいかと考えて、どちらの立場に立つかを選び取ることしかできないのではないかと僕は感じる。

主体性の問題は、それがあるともないとも、どちらの立場も合理的な説明が出来る。極端な、完全な意味での主体性の存在を考えると、それはないと結論せざるを得ない。何ものにも縛られない、完全な自由のもとに自己決定するなどということは、具体的な特殊な社会と時代に生きている人間には出来るものではない。必ず、社会と時代の制約を受ける。それを逃れることは、どこにも存在していない抽象的な人間にしかできないことだ。

しかし、このような完全な意味での極端なものでなければ、ある種の制限された「自由意志」による自己決定はあり得る。この自己決定をする「主体性」の存在を信じるか信じないかで立場の違いが生じる。



それが、あくまでも「超越」は存在しない。そんなものは全て「幻想」だ、と考える立場は、結果的にはニヒリズムに通じていくだろうと思う。理想など無いのだから、何をしようとやったもの勝ちだ、と言う考えにも通じるものだ。

僕は、この両方の考えを揺れ動きながら、あえて「幻想」を見ながら生きていきたいという立場だろうか。「幻想」だというニヒリスティックな思いが頭をよぎりながらも、しかし、その「幻想」を見なければ、理想が消えてしまうという思いだ。理想が消えた世界を生きるのは、現在に安住して幸せを感じていればいいという生き方になる。しかし、どうにも、そのように世界に内在して幸せを感じるというメンタリティを持つことが、僕には難しい感じがする。どうしても「理想」という「超越」を求めたい気持ちが働く。そういう気持ちの揺れの中で、合理的な説明を求めていくという生き方をするんだろうなと思う。





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最終更新日  2005.01.13 00:10:57
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