真理を求めて

真理を求めて

2005.01.25
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論理が分からない「ゴミ」がまた増えてきているようだが、いつまでも「事実」の問題をほざいているのは、事実がベタに(ウラの意味を持たずにそのままの姿で解釈する)現れないと、何も分からないのだと言うことを告白しているに等しい。ウラの意味を読みとる技術こそ論理というものなのだ。

他人に事実を示せと言うのなら、自分で先に事実を示せばいいのである。安倍氏が語っているということが事実であることをどう証明するというのだろうか。相手が、自分が語ることが「絶対的な」事実であるということを証明できなければ、安倍氏の側が事実であると証明できるとでも思っているのだろうか。

背理法というのは、世界がきっちりと二分される時にしか成り立たない。安倍氏の側が正しいといいたいなら、長井氏の側が間違っていることを証明しなければならないのである。しかしそれは、「絶対的に」証明することはできないのである。せいぜい言えるのは、長井氏の語っていることが本当かどうかは、この時点では「絶対的には」分からないということだけだ。だからこそ、どちらの言い分に妥当性があるかを論理で判断するのである。

ここで、「事実を示せ」などという「ゴミ」を撒き散らしている暇があったら、自分でブログでも作って、トラックバックをつけてみろということだ。自らの論理も語れない人間に、この問題に口を出す資格などない。まともな論理展開をしていればトラックバックを返してやるけれど、くだらない言説だったら無視して放っておくだけだ。


今週のマル激でもNHKの問題を採りあげて議論をしている。神保哲生・宮台真司両氏に加えて、哲学者の東浩紀氏をゲストに迎えている。話し言葉なので、「」(カギカッコ)で正しく引用することはできない。それで、<>で、僕がどのように受け取ったかを示すことにして、その発言を考えてみようと思う。<>の中は、僕が受け取り方を間違えている可能性もあるので、それを前提として読んでもらいたいと思う。

まずは問題提起としての<放送法における中立性とは何なのか>ということを考えてみたい。これは、現在報道されている問題が、何を言ったかということに収斂されてきていることに対する批判だろうと思う。事実の問題ではなく、本質的には「中立性」をどうとらえるかという問題だということだ。以下の議論も、それにかかわるものが多い。


<「偏向」の意味。取材対象が語っていることが偏っていた場合、その取材をちゃんとやっても、そのまま報道したら「偏向」になるのかどうか。>

という問題に関してはどうだろうか。偏っている人が、いかに偏っているかを伝える「事実」の報道は偏向と呼ばれるのだろうか。偏っているものを提出したということが「中立性」を欠くことになるのだろうか。それなら、もう一つ別の見方を別の番組で提出することで「中立」を保つことができないのだろうか。

後の方で、「天皇に戦争責任がある」という立場と「天皇に戦争責任がない」という立場が出てくるが、この立場で複数の番組を作ることが日常化していれば、一つの番組の中で、両方の意見を提出して中和する必要もないのではないかという考えだ。




<それは、見ている人の民度による。それを批判的に受け取ることができない人が多いと、「偏向」になってしまう可能性がある。それを見て、影響を受けすぎる人が多い場合は、「偏向」に見えるかも知れない。メディア・リテラシーの問題がある。>

もし、日本人の大部分が、人に言われてその意見を変える主体性のない人間ばかりだったら、一方の側の主張だけを伝える報道は、それがいかに正確であろうとも、「そういう見方もあるんだな」と冷静に受け止めることができなくなる。

本来なら、そのような主体性は、教育によって育てられなければならない。しかし、日本の教育は主体性を育てる方向に行っていないので、自分の判断ができる人間が少ないという前提で、NHKの側は社会を見ているのだろうと思う。

しかし、自分の判断ができないから、両方の立場を見せるというのは、たとえそれを見せても自分で判断できないのだから、報道そのものの提出に意味がないということにならないだろうか。

僕は、むしろそのような中立性を作るよりも、そのままの立場を提出して、それに対する賛成・反対を明確にするように、視聴者に求めることで主体性を育てることにもなるのではないかと思う。反対なら反対でもかまわないと思うのだ。それだったら、自分たちの主張をストレートに示す作品を提出すればいいのだと思う。そして、批判を問えばいいのだと思う。メディア・リテラシーがないからといって、主張を曖昧にすれば、いつまでもメディア・リテラシーは育たないと思う。そのまま受け取らずに、「疑う」という批判精神を持って見ればいいだけの話だと思う。


<反対の人を連れてきてしゃべらせれば「偏向」でなくなるのか。「中和」することが解決なのか。両方の意見を、別々に提出することが偏向でなくすることなのではないか。わざわざ中和することで、かえって偏向になるのではないか。>

中和すると言うことは、本来の主張を薄めると言うことなので、その主張を伝えたいと思っている人間にとってはマイナスである。一方の側にとってマイナスになるようなことをするのは、それこそ「偏向」だと言うことになるのではないだろうか。


<中和の方法に疑問がある。今回の場合は、法廷に全く関係ない人を持ってきて、それを批判する映像を付け加えている。>

これは、神保氏が語っていた疑問だったが、僕もその通りだと思う。批判するのなら、シリーズの別の番組として、批判する特集も組んだらいいと思うのだ。そうすれば、両方の意見がハッキリして、それを比較することもできるだろうと思う。そして、比較して自分でどちらに賛成するか判断すればいいのだと思う。


<メディア・リテラシーについての想定の低さ。>

これは、テレビに関して東氏が語っていたものだ。東氏がテレビに出演した時に、使ってもらっては困る言葉というのを伝えられたらしい。それは、差別語のようなものではなく、視聴者が理解できないだろうと思われる言葉のいくつかだったようだ。



これは民主主義というものをNHKの側があまり信じていないことを示しているのではないだろうか。視聴者に判断をゆだねることができないのだ。また、視聴者に批判されるのが恐いのかも知れない。これは、薄められた「中立」を放送してきたことによる弊害だろう。本来なら、放送の内容は、もしそれが批判に値するものなら、誰を批判しなければならないのかということは、その内容によって決まってくる。いつでも放送をしたNHKの側が批判されるとは限らない。しかし、薄められた「中立性」があれば、いつでも放送したNHKが批判にさらされることになる。視聴者のメディア・リテラシーが高ければ、誰が批判に値するかも正しく判断されるだろうに、と思う。


<メディアはイデオロギー的に中立である必要はない。朝日は「偏向」しているという批判があるが、朝日が「中立」であるとする見方が「幻想」だ。NHKに関してもそう。>

これは、今回の問題というか、世論の問題の本質を突いているものだろう。今回の批判の多くが、NHKに対するものは、それが与党よりであるという、つまり「右翼的」だという批判だ。それに対して、朝日新聞に対する批判は、それが反権力という「左翼的」だという批判が多い。

これは、どちらも「中立」「公正」でなければならないという前提があるので、そうでないのはケシカランという思いが生まれてくるからだろう。しかし、現実には、様々な条件からある種の「偏向」があるのが当たり前だと言えるかも知れない。NHKは、予算を握られているのだから、政府与党に気を遣うのが当然だし、朝日新聞は、その購読者の割合が、左翼的な人間の比率が多いのだから、左翼的な言説に気を遣うのが当然だとも言える。そう考えると、

<メディアに対する判断は、見る人にまかせればいい。>



もし大部分の人がメディアの主張に対して間違った判断をしていれば、それが日本の現状なのだと受け取った方がいいだろう。それを、誰か正しい判断をする人がいて、その人の意見を受け入れることが正しいのだと思っている人間ばかりだったら、それは全体主義国家と言ってもいいだろう。民主主義国家なら、<メディアに対する判断は、見る人にまかせればいい。>というのが基本なのだと思う。


<メディアが中立性を保つのは、発信する情報が、全て立場のあるものだと受け取られるのを避けるため。主張としての意見では偏っても、記事そのものは中立性を保つ努力をする。そのためには、例えばクリントンを支持した新聞は、クリントンにとって都合の悪い事実があったら、より厳しくそれを報道しなければ信用されない。>

これは、神保哲生氏の発言だがその意味は、主張においては偏っていて、ある種の立場を表明していてもかまわないが、事実においては偏りがあってはならないと言うことだ。これも正論だと思う。そういうことが出来るメディアの方が信用を獲得していくだろう。主張はハッキリしていてもいいが、事実は事実として認めると言うことだ。

しかし、これは今回のNHKの問題ではどのように現れてくるかは、まだ分からない。いままでの朝日の動向を見ていると、神保氏は次のような見方もしている。


<朝日は、立場的に右を叩く記事が多すぎたので、右から見れば「偏向」しているように見える。>

という朝日の歴史があるので、朝日が右から叩かれる客観的な理由もあるということだ。朝日も、左に都合の悪いことこそ厳しく受け止めて報道すればよかったのだろう。しかし、これは朝日に対して「俗情に媚びる大衆迎合主義」と見ている宮台氏の判断が正しいと思う。大衆が左を叩くことを望めば、市場原理として、売れる新聞を作るという意味で左を叩いただろう。

朝日は、むしろ左に立つことを自覚すれば、左の正当性を貶めないためにも、左を厳しく見つめることができただろう。それが出来なかったので、左の読者に媚びるために、左をたたけなかったのだろうと思う。そして、結果的に右をたたく記事ばかりになったのだろう。

まだまだ、興味深い発言が続くが、今日の所はここでいったんまとめにしよう。





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最終更新日  2005.01.25 00:11:52
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