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2006.01.05
論理的な理解と芸術的な理解について考える
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msk222さんから、川柳の解釈を褒めてもらって嬉しく思ったが、このことをきっかけにして、論理的な理解と芸術的な理解との違いについて考えてみたくなった。msk222さんの川柳の例でいえば、論理的な理解とは、msk222さんがその川柳を作ったときの状況をすべて把握して、その上でmsk222さんの心理状況(つまり認識)についても正しく把握出来ることを意味すると僕は思う。
これは、三浦つとむさんが語る言語論での<対象-認識-言語(表現)>という過程的構造を理解するということになる。これが正しく理解出来るようなら、たとえその言語表現に間違いが含まれていようとも、その間違いがどこで発生したかという構造さえも理解出来るようになるだろう。つまり論理的な理解というのは、言語表現に対する客観的な理解というものを意味すると僕は思う。間違いを間違いとして正しく受け取ることは論理的な理解なのである。
これに対して芸術的な理解というのは、三浦さんの言葉を借りるなら、芸術というのは<鑑賞>の対象になるものがすべて芸術だから、<鑑賞>として受け取るときの理解が芸術的な理解ということになる。<鑑賞>の主体性は作者ではなく、鑑賞する人間の方にある。その表現が<鑑賞>の対象であるなら、ある意味ではどう受け取ろうと自由なのである。
例えば自然の風景に対してそれを「美しい」と思う人もいれば、ありふれた「陳腐」なものだと思う人もいるだろう。これはどちらが正しいと結論出来るものではなく、<鑑賞>であればどちらも正しいのだと思う。受取手がそう感じたのであれば仕方がない。どんなに有名な芸術作品であろうとも、受取手に感動を与えないのであれば、その受取手にとっては「陳腐」な作品なのである。受取手の鑑賞者としてのセンスは論理的に論じることが出来るだろうが、<鑑賞>そのものが間違いだとは言えない。それが<鑑賞>だと思う。
論理的な理解には、正しいか正しくないかが結論出来る。しかし、芸術的な理解は、自分がどう感じ・どう思ったかが重要になる。正月に、ロビン・ウィリアムスが、保守的な進学校の教師を演じた「いまを生きる」という映画を見た。その学校は、名門大学に合格することが究極の目的で、そのために邪魔なことはすべて排除して、ひたすら受験勉強に打ち込むように生徒を追い込むような学校だった。
そこに、自分の感性を大事にして、今を充実感を持って生きることが大切なのだと教える教師が登場する。印象に残ったのは、詩に関しての授業だった。教科書で語られていたのは、詩を物理現象のように扱う理論だった。詩を二つの側面に分けて、その二つの領域で点数をつけて評価する。そして、その二つの評価点を掛け合わせて、点が高いものをよりすぐれた詩だと判断するような理論を学んでいた。
これは、一見すると理科系的で、科学的な詩の理論のように見えるが、物理現象でない対象に対して、物理的な評価をするような形式だけを取っている、ある種の詭弁のような理論だ。これに対してロビン・ウィリアムス演じる教師は、これをきっぱり否定して破り捨ててしまう。受験のためには、たとえ正しくない理論だと思っても、丸暗記して点を取る方が合理的だ。しかし、詩というような芸術の<鑑賞>では、自分の感性こそがもっとも大事なものだということを、彼は教えた。
授業の一シーンでは、机の上に立って上から眺めるということを教える場面があった。これは、物事を違う視点から眺めてみて、新しい発見をすることを教えていた。<鑑賞>というのは、まさに違う視点を学び取ることでもあるということを教えたかったのではないかと思う。受験勉強のように、誰もが同じ読み方をするのではなく、芸術には違う読み方がいくつもあるのだということを教えたかったのではないだろうか。
msk222さんの川柳について僕は、それを論理的に理解することは難しいと書いた。それは情報をつかんでいないからだ。しかし、芸術として読むことなら出来るとも書いて、僕が感じたことをそのまま書いた。論理的に理解するには、あらゆるデータを基にして、そのデータからは、誰が考えても同じ結論が出るような判断が出来ることを示さなければならない。しかし、芸術の<鑑賞>は、そこに表現されたものだけから、読み手のイマジネーションを頼りに、読み手の頭の中に浮かんだ世界から判断出来るものを読めばいいと思う。
優れた芸術作品は、受取手が同じくらいに優れているなら、それは必然的に一つの読み方を決めてしまう。論理的な文章と同じことが起こる。優れた文芸作品を何度も読み返したくなるのは、自分が成長するにつれて、その<鑑賞>が作者に近づいていくのを感じるからだ。何度読み返しても面白い作品こそが優れている芸術だとも言えるだろう。
逆に言えば、一度読んだだけで二回読みたいとは思えないような作品は、あまり優れているとは言えないだろう。作者の認識や考えの深さを伝えてくれるような作品は、その深さを自分が理解するために、何度も繰り返し読みたいと思うのではないかと思う。芸術作品ではないが、学問的な著作も、著者の考えの深さを感じるものは何度も読み返したいと思うものだ。僕にとっての三浦つとむさんの著書はそういうものだった。今では、宮台氏の著書にそれを感じている。
論理的な理解と芸術的な理解には明らかな違いがあるにもかかわらず、究極では一致するというのは面白いものだと思う。これは、三浦さんが弁証法を語るときによく言っていた「両極端は一致する」ということの現れだろうと思う。
さて、ここで学校における国語の読解について考えてみると、それは芸術的な理解を求める、芸術作品の読解に偏りすぎているように感じる。論理的な理解を求める「論説文」というものもあるのだが、これも文脈の理解の方に偏っていて、それがどのような対象について記述しているかという、記述に関する情報を豊富に与えて読みとるという形を取っていない。
国語では、書いてある内容そのものが正しいのかどうかということを考える論説文はない。そこに書かれている内容はすべて正しいという前提で、その意味を読みとる訓練だけがなされる。批判精神はまったく教えない。これは、論理の理解では片手落ち(一方的な理解であって、全面的な理解になっていない)なのではないかと感じる。論理の理解のためには、対象に関するデータは必要不可欠なのである。その上で、書かれている内容が、その対象を記述する表現としてふさわしい形式を取っているかを考えるのが、論理的な理解というものだ。
国語の読解が、芸術的な理解を求めるものであるにもかかわらず、その理解が誰もが同じ理解であるように求められるというのは、教育的に問題が大きいと思う。芸術の理解は、究極的には、作者と同じくらいの深い認識・深い対象理解があれば、同じ理解に達するのであるが、未熟な学生がそのような深さに達するのは困難だ。優れたセンスを持っていれば到達するかも知れない理解に対して、未熟な間はさまざまな違う理解があって当然だ。
教育というのは、その未熟さを未熟だと理解させて、それを少しでも高めていく方向付けをするものであるべきだ。しかし、その方向付けもなく、優れた読み方をすればこう読みとらなければならないという結論だけを押しつければ、機械的にそれを丸暗記するしかなくなる。
優れた国語教師なら、生徒の未熟なさまざまな読み方を、芸術の<鑑賞>として受け入れて、それをさらに優れた<鑑賞>にするための方向付けをすることが出来なければならないだろう。しかし僕が生徒として接した国語教師には、そう言う発想がないように僕は感じた。今の同僚の国語教師には授業を受けたことがないので、そういう発想があるかどうかは分からないが、受験に偏った指導をしている教師にはそのような発想があるとは思えない。受験では、正解を導くテクニックがどうしても必要だからだ。
正解を出すためだけなら丸暗記をした方が手っ取り早い。これは、教師にまつわりつくジレンマのようなものだろう。深い認識と深い考えを育てるような教育は難しい。丸暗記して正解を出せるようにすれば、その成果も認められやすい。数学でも、本当の理解をするよりも公式を覚えた方がテストでの点は取れる。
両極端は一致するから、究極の丸暗記は、究極の論理的理解に近づいていくだろうと思う。宮台真司氏はそう語っていた。しかし、誰もが究極の丸暗記をなし得ることは無理だろう。かつても今も、学校教育の内容は丸暗記に満ちているが、今はそれが受け入れられなくなってきている。かつてもそれを拒否した人間がいくらかはいたが、今では拒否する人間が大部分になっているようにも感じる。
拒否しながらも、その押しつけがきつくなっているようにも感じるのだが、一般にはどう受け取られているのだろうか。かつては、丸暗記の押しつけも、今ほど役に立たないということが明らかではなかったので、仕方なく受け入れるものが多かったのだろうか。今は、本当に役に立たないということが明らかになってきているので、見切りをつける人間が増えたのだろうか。
論理的な理解と芸術的な理解という二つの観点を意識するということは、物事の理解を進める上で有効なのではないかと今僕は感じている。論理的な理解はあくまでも正しさを追求する。芸術的な理解は<鑑賞>としての自由を保障して、これは正しさよりも、より深くより多様に対象を受け取ることの上達を目指すものとして位置づければ、自分の成長というものも自覚出来るのではないだろうか。<鑑賞>には正しさはない。そこには多様さがあるという理解が大切なのではないかと思う。
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最終更新日 2006.01.05 10:41:02
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