真理を求めて

真理を求めて

2006.01.17
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
宮台氏が書いた 「選挙結果から未来を構想するための文章を書きました」 の前半は、選挙前に選挙の結果を予想するような分析を語っていた。

社会的流動性や共同体の空洞化によって不安となった人々が、農村型保守から都市型保守へと変化していき、その増大した都市型保守層を支持者として取り付けた小泉自民党が選挙で圧勝するという構図の分析だった。その支持は、不安を煽って「断固」「決断」を見せつけるという、「不安のポピュリズム」という手法で得られたものだった。これが短期的には効果的であることは、理論的にも証明されているし、事実としても歴史がそれを証明している。

この「不安のポピュリズム」の理論的考察には、本質的に男女の違いという要素は入ってこない。性差というものは捨象されている。だから、基本的に男であろうと、女であろうと、「不安のポピュリズム」によって支持層として取り込まれてしまうことが予想される。それが、実際にどういう形で現れるかには、男女の違いがあるかも知れないが、「不安のポピュリズム」に取り込まれるという点では同じだと結論出来る。

さて、農村型保守の崩壊と、それに変わる都市型保守の台頭は、ある意味では歴史的必然性として避けられないものとして宮台氏は論理的に語っているように見える。しかし、このまま都市型保守が続けば、それは基本的にネオリベ路線を歩むことになり、次のような弊害が起こってくる。


「「都市型保守」のみでは、ハリケーン騒動で支持率3割に落ちたレームダック(死に体)ブッシュ政権に象徴される「新米国病」を回避できず」

「既得権益破壊にだけ注意が向くのも自然だが、それが長く続き過ぎると国はむしろ荒廃する。」


この問題を解決するには、大きなコストを必要とする。「この回避不可能なコストを、しかし出来る限り低く抑えるべく、「都市型リベラル」の成長を促す必要がある」と宮台氏は語る。現状分析に続く「未来の構想」として、中心となることが、都市型リベラルの成長と言うことではないかと僕は感じる。

都市型リベラルが成長しなければ、都市型保守のネオリベ路線によって国は疲弊する。しかし、都市型保守が、諸条件によって必然的に生まれてきたのと違い、都市型リベラルは、待っていれば成長してくるという対象ではなさそうだ。成長のための条件がなければ、それは育ってこないもののようだ。だからこそ「構想」として、どのような方向を取っていくかが語られているのではないだろうか。



都市型リベラルというのは、弱者を切り捨てるのではなく、相互扶助のメカニズムで農村型保守にあったような依存体制を乗り越えようとするものだ。この依存体制は、宮台氏の表現では「くれくれタコラ」と言っていたが、とにかく自らの利益を誘導するような政治家を支持するという、何でももらえるものはもらうというメカニズムが働いていたのが農村型保守の体制だった。これは、容易に腐敗していくので否定されなければならない。

この否定が、すぐに都市型リベラルに向かうのではなく、間に都市型保守というものが入り込むのは、弁証法論理で言う「否定の否定」として解釈することが出来る。相互扶助のメカニズムは、一見、利権を持ってくる「くれくれタコラ」のやり方と同じように見えてしまうのではないかと思う。それが、否定という面を強く打ち出せるのは、都市型保守の切り捨てというものになるのだろう。

腐敗した談合的体質は、一度明確に切り捨てるという都市型保守の否定がないと、人々はその腐敗が否定されたという風に見ることが出来ないのではないだろうか。また、都市型リベラルを装って、農村型保守の談合体質を温存しようとする人の、だましのテクニックを見破れないのかも知れない。

腐敗した談合ではなく、弱者の生存も保障されなければならないという、正当な意味での「談合」という都市型リベラルは、その理解が難しいのではないかとも感じる。優勝劣敗は、適者生存の進化の法則だ、と言うことで弱者切り捨てを正当化する考えに対して、都市型リベラルが対抗するのはかなり難しいだろうと僕は感じる。しかし、弱者を切り捨てて強者だけを残すという思想は、その強者が今度は弱者になると言う、尻すぼみの方向へ向かうだろうと思う。弱者の生存を保障してこそ、強者も強者として生き残れるのだ。

物事の発展は、一直線に進むのではなく「否定の否定」という構造で発展していくというのが弁証法の考え方だ。都市型リベラルも、本物になるためには、都市型保守を通過しなければならないと言うのは、論理としてそう理解することが出来る。都市型リベラルは、単に言葉で覚えただけで実現出来るものではないと言うことだ。

数学に限らず、いろいろな学習において、結論を言葉だけで覚えていても、それを本当に理解したことにはならない。その結論を否定するような対象の理解を媒介として、つまり否定を媒介にして、もう一度否定することによって本当の理解に達する。そのようなものが、都市型保守と都市型リベラルにはあるのだろうと思う。

さて、都市型保守の否定が都市型リベラルへと向かう、そのきっかけとなるものを宮台氏は「サブカルチャーのコミュニケーションが支えるだろう/べきだ」と語り、サブカルチャーの中にロールモデルを見出すことによって、都市型リベラルへとシフトする民度の上昇を見ようとしている。

都市型保守のロールモデルというのは、基本的に不安を抱いて生きている。だからこそ「不安のポピュリズム」に乗せられてしまうことになる。このような不安を抱いた人間は、ロールモデルとしての魅力に乏しい。不安でおたおたしているのに、見かけだけマッチョマンのようにカッコつけるだけの強がりを尊敬しろと言われてもなかなか出来ない。言葉で強がるだけなら誰でも出来るが、本当に深刻な場面に遭遇したときに、恐怖でおたおたしてしまう人間は、歴史上でもかなり見つけることが出来る。このような人間が、基本的には都市型保守の本質になると僕は思う。

それに対して都市型リベラルの基本は、「不安よりも内発性(意欲)をベースに生きる。不信よりも信頼をベースに人と関わる」というものだ。このようなロールモデルの方が、圧倒的に魅力が大きい。このようなロールモデルは、かつての時代なら、歴史上の偉人にしか見られなかった資質だろうと思う。坂本竜馬であったり、西郷隆盛であったりと、それなりの偉人でなければ持てなかった資質ではないかと思う。

それが、サブカルチャーの発達により、このような資質がようやく大衆的なものになったという感じがする。平凡な一市民であっても、このような素晴らしい資質を持ちうるというロールモデルが存在する。このことが、多くの人が都市型保守を通過して、その否定を経て都市型リベラルへとシフトするきっかけになるのではないかと感じる。

田中康夫長野県知事やフランスのミッテラン大統領は、まだ有名人なので、歴史上の偉人に近いだろうが、宮台氏が紹介する「大谷健太郎監督『NANA?ナナ?』(05)」「ゴスロリ界での映画『下妻物語』(03)」に表現されているロールモデルは、「不安に振り回されず、圧倒的にポジティブに生きるロールモデル」でありながら、偉人ではなく普通の人間なのではないだろうか。



しかし、否定されるべき都市型保守の方は、男女の違いなく同じような姿が見えるのを感じる。それは、自分の観点というものが乏しく、他人が自分をどう見るかと言うことにおびえるという感性だ。「大谷健太郎監督『NANA?ナナ?』(05)」で描かれているのも「ハチはやりたいことが何なのか分からず、男の視線が不安で右往左往するヘタレ」として、都市型保守の女性が表現されている。

このような都市型保守にとって、「断固」「決断」を体現しているように見える小泉さんと一体化することは、「どう見られているか」という不安をいくらか解消してくれるだろう。小泉さんと同じように見られていると感じることが出来ればいいわけだから。

このように考えると、小泉さんのニセモノ性を批判して、小泉さんを否定するような言説に対して、都市型保守の人間が大きな抵抗を示すのも理解出来る。小泉さんの否定は、自分自身の否定につながってきてしまうからだ。しかし、「断固」「決断」の姿というのは、本当にギリギリのところで「断固」「決断」出来るかは分からない。主体的な判断が必要なときに、「周りの空気を読んで判断する」というのが小泉さんの「断固」「決断」の正体だ。ニセモノ性はいくらでも見つけることが出来る。

同じように、歴史上の大いなるものと一体化して自尊心を保とうとするタイプの都市型保守は、大いなるものの批判を許さないだろう。そのニセモノ性を暴くことは、自らのニセモノ性を見つめることになるからだ。しかし、そのニセモノ性を直視しなければ、都市型保守を否定して都市型リベラルに移行することは出来ない。そのためには、圧倒的に魅力的なロールモデルが必要だ。

宮台氏は、この映画について



 この逆説をシステム理論の枠組で記述することもできるが、それはともかく、映画は「観察」による逆説への気づきまでを描き、原作はそれに続いて「行為」の変化を描く。即ち「鈍感だから右往左往するヘタレ」から「敏感だから動じない威丈夫」へ。実に象徴的だ。」


のように語っている。「敏感」「鈍感」と言うことが理解出来たとき、ロールモデルの魅力が、自らの行為に結びついていくことが示唆されているようだ。このような意味でのロールモデルとしては、宮台氏というのは、実にタフな敏感さを持っている圧倒的な魅力を持つロールモデルのように感じる。しかし、宮台氏は、まだ偉人に近い天才にも感じるので、もっと普通の人間で、このようなロールモデルになりうる人間が、男にも出てくる必要があるだろうと思う。そうでなければ、ヘタレ右翼の都市型保守は、都市型リベラルに移行出来ない。ハリウッド映画的な、マッチョなヒーローが男のロールモデルである間は、男はなかなか都市型リベラルへ移行出来ないだろうなと思う。女性の方が都市型リベラルへの移行は早いのではないかと感じる。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006.01.17 10:44:16コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

コメント新着

真の伯父/じじい50 @ Re:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) 現行憲法も自民草案も「抑留」に対する歯…
秀0430 @ Re[1]:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) 穴沢ジョージさん お久しぶりです。コメ…
穴沢ジョージ @ Re:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) ごぶさたです。 そもそも現行の憲法の下で…
秀0430 @ Re[1]:構造としての学校の問題(10/20) ジョンリーフッカーさん 学校に警察権力…

フリーページ


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: