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2006.01.20
静止の表現としての形式論理(数学)
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形式論理は静止を表現するものであり、運動を表現することが出来ない、と語ったのは仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんだっただろうか。この言葉を聞いたとき、僕は、目から鱗が落ちるという感じがしたものだった。ゼノンのパラドックスを解釈する鍵があるように感じたからだった。
形式論理がなぜ静止を表現するものであるかというと、それは、存在するものの存在する時点を表現することしかできないからだ。もし、運動を表現するとしても、時間のずれた時点を表現することしかできない。ある時点と、それから時間が経過した別の時点を表現して、その間に違いがあるから、結果的に運動をしたと結論するだけで、運動そのものを表現したわけではないのが形式論理の表現だ。
これは映画のフィルムによく似た表現だ。映画のフィルムは、ある時点の存在を静止として焼き付けている。フィルムだけを見てもそこに動きを見ることは出来ない。つまり運動の表現とはなっていないのだ。しかし、フィルムをつなげて時間の経過と共にそれを連続して見ていくと、我々にはそれが動いているように見える。それは、我々に動くように見えるだけであって、フィルムそのもの表現としては決して動きを表現しているのではない。
ゼノンは「飛ぶ矢は止まっている」というパラドックスを語ったが、飛ぶ矢を映画に撮れば、確かにフィルムの上ではそれは止まっている。止まっているというのは、動いていることの否定であるから、ゼノンはこれによって運動の存在を否定しようとした。しかし、実はゼノンが否定したのは、論理によって運動を直接表現することであって、本質的な意味としては、論理は運動を表現出来ないと言ったのだと僕は思う。
飛ぶ矢が確かに存在しているとしたら、それは空間のある位置を占めなければならない。それがどこにあるかという位置情報が、存在するものにはなければならない。しかし、飛ぶ矢の位置情報を確定してしまうと、その瞬間にはその矢はそこで止まっていると考えなければならない。もしそれが動いているなら(運動をしているなら)、飛ぶ矢はその位置にとどまることが出来ずに、その位置にはその瞬間にはすでにいないものと考えなければならない。つまり、飛ぶ矢は「そこに存在すると同時に存在しない」と表現しなければならないのだ。
これは形式論理では<排中律>に反する矛盾である。形式論理で運動を表現しようとすれば、そこには矛盾(すなわちパラドックス)が生じるのが必然的だ、というのが板倉さんが語ったことだったように記憶している。このような発想から考えると、ゼノンのパラドックスは、運動の否定ではなく、運動の論理的表現には必ず矛盾が生じると言うことの主張のように思える。板倉さんは、むしろ積極的に、運動というのは「ここにあって、同時にここにない」という矛盾した表現を使わざるを得ないものとして、弁証法的に捉えることが正しいとらえ方ではないかと語っていたようにも記憶している。これは三浦つとむさんにも通じる考え方だったと思う。
形式論理においては、運動という「動く」と言うことを直接表現することが出来ない。写真のように、ある瞬間を切り取って、その状態を表現することしかできない。それでは、形式論理において運動は扱えないと言うことになるのだろうか。ニュートンの運動方程式が扱っているのは、運動ではないということになるのだろうか。
ニュートンの運動方程式では、微分や積分という数学の考え方が使われているが、実はここに、静止の表現である形式論理が、運動をどう扱っているかという鍵があるような気がする。微分というものが、ある「瞬間」を扱う数学であって、積分が、その「瞬間」をつなぎ合わせたものになっているということが、運動における「瞬間」に通じている感じがする。
瞬間というのは、時間的にはゼロだと考えられるが、それは普通はどんなに積み重ねてもやはりゼロになるはずだ。しかし、積分においては、瞬間の積み重ねがゼロにならずに、ある極限に近づくという考え方が使われる。そこには「無限」というものの不思議さが現れているのだが、この極限というのも、実は運動の表現と考えられる。
0.9999999999……
「……」の部分は、実は無限に続くというものなのだが、もちろん無限にこれを表現することが出来ないので、想像としてこの部分は考える。これが、「限りなく近づく」という見方をしていると、これはいつまでたっても最後まで行き着かない。それは無限に続くのであるから、ある時点で到達した最後の9の次にまた9が現れてくる。だから、この数を最後まで確認することは、これが「限りなく近づく」という運動をしていると考える限りでは、決して最後まで到達しないからできない。
だから、この数を運動としてみている限りでは、
0.9999999999……=1
という表現は矛盾したものになる。最後まで確認出来ないにもかかわらず、それが1に等しくなるという判断が出来ることはおかしいと言うことになるからだ。しかし、数学という形式論理では、この等式は数学的に正しいという判断をする。それはなぜだろうか。
数学は、限りなく1に近づく上のような数字を、運動としてではなく、静止した存在として解釈することに成功したからだ。静止した存在として受け取る限りでは、それは1に等しいという判断が出来るのである。
「限りなく近づく」という表現は、そのままでは運動の表現になる。そこで、この表現の否定を考えてみる。つまり「限りなく近づくのではない」という表現だ。これは運動の否定であり、この否定は静止として表現出来るのではないかと予想出来る。
限りなく近づくのではないとすれば、ある瞬間という時点を取ると、近づくと言うことが否定される瞬間が見つかる。その瞬間から先を取ると、どの時点を取っても、以前の時点よりも近づいたとは言えなくなるような瞬間が見つかるはずだ。上の数字において、そのような瞬間が見つかったと考えてみよう。
そうすると、そのような瞬間と1の差として表現される値は、ある固定値よりも大きくなるはずである。その差は、それ以上埋めようのないものとして存在しなければならない。そうでないと、次の瞬間にはまた1に近づいてしまうので、このような繰り返しで「限りなく近づく」という状態になってしまうからだ。
しかし、その固定値を見つけたと思っても、小数点以下の数字を増やしていけば、どうしてもその固定値を超えて1に近づいていくのも、また必然的なことになる。9は無限にたくさん続くのであるから、どこかで止まることはないのである。つまり、静止の表現としては、ある固定値としての1との差が存在してはいけないというのが、結果的に「限りなく近づく」と言うことと同じ状態を表現することになる。
固定値が存在しないと言うことは、任意の値に対して、いくらでも差を小さくできるという表現になる。これこそが<イプシロン-デルタの論理>と呼ばれる、数学における極限の表現になってくる。<イプシロン-デルタの論理>というのは、数学において、極限という運動を静止によって捉えて表現する技術であったのだと僕は思う。
ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスにおいては、運動の矛盾性と共に、「時間」という概念をどう捉えるかというものが重要になるので、論理が持つ静止性だけで単純に解決するとは思わないが、アキレスが亀に限りなく近づいていくという、極限的な部分の論理に関しては、限りなく近づくと言うことを直接表現しようとすると、そこに矛盾が生じるというパラドックス性は理解出来そうな気がする。
アキレスの前方にいる亀に対して、アキレスが、亀がいた地点に達したとき、亀はその時間内に少し先に進む、ということは論理的に正当な結論だ。しかし、その論理を、アキレスが亀に「限りなく近づく」範囲でいつまでも永久に適用し続ければ、それは運動の持つ矛盾を論理の中に引き入れてしまうことになるのだと思う。
瞬間瞬間の論理としては正当性があっても、運動の表現として考えると矛盾が生じる。それは、「限りなく近づく」という解釈も出来るが、数学的な極限として捉えると、運動ではなく静止の表現になってくる。だから、これが極限として表現されたときは、永久に追いつかないという結論にはならなくなる。ある極限のところで等式が成り立ち、追いつくと言うことが表現される。そしてまた、次の瞬間には追い越すと言うことも、数学的には表現出来るだろうと思う。
運動を静止の表現として捉えるという数学を使えば、数学の範囲内では「アキレスと亀」のパラドックスは解決するかも知れない。しかし、それは数学という観点で解決したのであって、他の観点での問題はまだ解決していないとも言える。特に「時間」を含む解釈という点では、数学は解決していないように思える。
ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスが、実践的に否定されても、それが論理的な解決になっていないと感じたのは、実践の観点と論理の観点では、問題にしている事柄が違うから、そう感じるのではないかと思う。それが、問題として実践的なものだと意識されている対象なら、実践によって答を出すことは正しい。しかし、問題意識が実践ではなく、あくまでも論理にあるとしたら、その解決はやはり論理の問題として解決しなければならないのではないかと思う。
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最終更新日 2006.01.20 09:32:08
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