真理を求めて

真理を求めて

2007.01.01
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不可知論とは、辞書的には次のように説明される。


「哲学で、経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説。また、後者の存在そのものも不確実とする説。」


これは僕は間違った考えだと思っている。なぜなら、この考え方を肯定すると、科学が仮説に解消されることが正しいという結論が導かれてしまうからだ。科学を検証する実験で確かめることが出来るのは、現実の経験的事実の確認であって、それから抽象された法則が確かめられているのではない、とする考えがこの不可知論に通じる考え方だろう。

科学法則は、言葉の上では全て(任意)の対象について当てはまるので、超経験的なものだと考えられる。これは存在はするかも知れないが、現実存在としての人間には決して捉えることが出来ないとすれば、それはいつまでも仮説にとどまると言うことになるだろう。もし不可知論が正しいとするなら、このような科学を仮説に解消する考えも、それに符合するのであるから正しいと言うことになってしまう。

僕は、人間は超経験的な意味での科学法則を認識できると思っている。これは、科学法則に反するものを例外的な存在として比喩的な意味で誤差として処理することを意味するのだが、それはその存在が確率的に捉えられているのではない。

たとえば、客観的に存在する物(物質的な対象)は、全て原子で出来ているという科学法則は、例外的な存在が、ある確率で原子で出来ていないと言うことを意味するのではない。物質は全て原子で出来ているのである。物質であるにもかかわらず、原子がないように見えるのは、それはそのように見る判断の方に間違いがあるのか、それを物質的存在だとする見方に間違いがあるかのどちらかだと考えるのである。

たとえば「霊魂」というような対象が、もし本当に存在する物質ならば、必ず原子が見つかると考えるのが科学である。そこに原子が見つからないのは、見つけるだけの技術を持たないのか、あるいはその存在が物質ではない、すなわち観念が作り出した想像だと言うことを意味していると考えるのが科学だ。ある対象が、もしかしたら原子であることを否定する存在かも知れない、などとは考えない。

このような科学法則のとらえ方は超経験的なものだ。超経験的なものは認識できないとする不可知論では出てこない結論になる。僕は、このような論理の飛躍をもたらすのは、経験と超経験を結ぶ「仮説実験の論理」( 「2006年12月29日 科学とは何か--仮説実験の論理」 で詳しく論じている)だと思っているのだが、このことが確信できない人にとっては単なる思い込みにしか見えないかも知れない。



ここではある部屋の存在を巡っての議論でこんなことが話されていた。ある部屋が存在することは、自分がそれを見ていることで確かめることが出来る。これは経験によって検証すると言うことになる。しかし、その部屋を自分が見ていないときにも、それは相変わらず存在していると言ってもいいだろうか、ということを考えると、経験を越えた神の視点という超経験的なものを想定しなければならなくなる。翔太は猫のインサイトと次のような会話をしている。


「そうかも知れないけれど、それって誰でも信じていない?たとえばさ、僕たちがこの部屋から出て行って、誰もこの部屋を見ていなくなっても、この部屋は客観的に実在しているって、誰だって信じていると思うよ。それもやっぱり超越的な実在を信じるってことになるの?」
「そうだよ。超越的な実在を全く信じない人はいないさ。いま現在自分に知覚しているものしか信じないんだったら、誰もマトモに生きてはいけないからね。見られていないときのこの部屋は、見ようと思えばいつでも見ることが出来るし、他の人に見てもらうことも出来る。抜き打ちで見てみていつもあれば、それは客観的にあると言っていいんだよ。」


ここで猫のインサイトが語る「見ようと思えばいつでも見ることが出来る」「他の人に見てもらうことも出来る」「抜き打ちで見てみていつも(ある)」と言うような要素は、「仮説実験の論理」で考えた「任意性」を他の言葉で表現したものになっている。「いつでも」というのは時間の「任意性」であり、「他の人」は主体の「任意性」であり、「抜き打ち」というのは未知なる誰かの確認という意味での「任意性」に当たるだろうか。

この説明に対して翔太は、「それは見られればいつもあるってことで」(つまり経験を越えていないと言うことか)「見られていないときにあるってことはやっぱり超越的な信念を持つことじゃないかな」と言って、それの客観性を疑っている。超越的な信念は思い込みではないかというわけだ。「仮説実験の論理」で言えば、実験したときにはいつも確かめられるけれど、実験する前には正しいかどうか言えないだろうと、科学を仮説に解消する考えに通じる。

それに対して猫のインサイトは、それは「自然な超越」だと言って次のように語っている。


「いつでも好きなときに存在することが確かめられれば、僕らはそれを客観的に実在するって言っていいんだよ。いやむしろ、言わなくちゃいけないんだ。そんな場合でも、見ていないときはこの部屋は本当はないかも知れないなんて言うのは、むしろ『無い』ということに関して不自然な超越的視点に立つことになるんだ。」


「本当はないかも知れない」という予想は、実は確かめてもいない「可能性」を根拠にして予想していることになる。実際には、「無いかも知れない」という予想は、その場所に行って部屋があることを確かめればすぐに間違った予想であることが確かめられる。でも、四六時中そんなことをしていられないから、確かめていない時間がでてくるだろう。その時に、確かめていないからと言って、無いかも知れないと言う「可能性」だけの根拠で主張することは「不自然な超越的視点」だというのが猫のインサイトの説明だ。これは非常に説得力のある説明だと思う。

「いつでも好きなときに存在することが確かめられれば」というのは、経験的に確認出来ることを根拠に超越的な視点を語ることだから、「自然な超越」と呼べる。だが、「見ていないときはこの部屋は本当はないかも知れない」というのは、単なる可能性だけを根拠にしている。これを経験によって、無いことを確かめることは出来ない。これは極めて不自然だと言えるだろう。

次の会話も実に示唆の富んだ内容を持っている。


「でも、やっぱり、本当はないかも知れないじゃん。無いって言ってるんじゃなくて、無いかも知れないって言ってるんだから、別に間違ってはいないと思うよ。」



不可知論が語る認識できない超経験的なものというのも、それは可能性として存在しているから認識できないとするものだ。それが認識できないと言うことの根拠は、背後にあって我々には見えないからだ。しかし、それは我々には見えないのであるから、それが存在するかも知れないと言うのも可能性の話に過ぎない。

不可知論が語る認識できない超経験的なものは、可能性として語る以外に語れないものだ。もし、可能性ではなく、それが存在するという積極的な根拠が見つかるならば、それは背後に隠れているのではなく、何らかの形で我々に知られるものになるから、不可知にはならなくなってしまう。積極的な根拠があるものは、我々に知ることが出来るのだ。

もし不可知のものがあったとしても、それを知ることの出来ない我々が、それについて語ることに何の意味があるだろうか。語り得ぬことに対しては沈黙することが正しいのだろうと思う。

科学を仮説に解消すると言うことは、その法則が正しくなくなるような対象の存在の可能性を語ることによって導かれる。これが、可能性ではなくて、もっと積極的に具体的な対象としてその法則を否定するような対象であることが確かめられれば、それは科学を否定して誤謬にするのではない。相対的真理にこびりついていた誤謬が解明されたと言うことを意味するだけだ。相対的真理の真理である範囲がより厳密に規定できるようになったと言うことだ。

科学を仮説に解消するような論理に、可能性以上に積極性を持った根拠はないと僕は思う。もし、単なる可能性だけではなく、もっと積極的な根拠があるのなら、僕も科学を仮説に解消する論理に耳を傾けようと思う。だが、積極的な根拠があるのなら、それは科学をより厳密にするだけのことになるのではないかと思う。そう解釈できない、積極的な根拠というのは果たしてあるのだろうか。僕はないと思う。不可知論や、科学を仮説に解消する考えは、「不自然な超越的視点」なのだと僕は思う。





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最終更新日  2007.01.01 22:24:30
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