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2008.01.22
空気と文脈
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宮台真司氏が
「昨年の映画を総括しました〔一部すでにアップした文章と重なりますが…)」
という文章で
「携帯小説の編集者によれば、情景描写や関係性描写を省かないと、若い読者が「自分が拒絶された」と感じるらしいんです。情緒的な機微が描かれていない作品、単なるプロットやあらすじの如き作品が望まれる。「文脈に依存するもの」を語らず、「脊髄反射的なもの」だけを描く作品です。」
と語っている。文脈というのは、前後の文章の関係や、それが表現する現実とのかかわりから、見ただけの視覚的世界を越えた意味を読み取ることを指す。単に見たものから直接引き出される感情に寄りかかるのではなく、それが意味するもの・隠された伝えたいものを読み取ることが文脈を読むということになる。
したがって文脈というのは、そこに書かれた文章に関するある種の予備知識を必要とし、しかも論理的につながりのある事実を想像できなければ読めないものとなる。すぐに分かるものではなく、何度も読み返してやっとほのかに見えてくるようなものになる。このようなものに対して、若い読者は「自分が拒絶された」と感じるのは、自分の知らないことを元に話されていることに対して排除されていると感じるのだろうと思う。
そのような感性は誰でも感じるもので、知らないことばかり話されていると自分が拒否されていると感じるのは自然である。しかし文脈というのは、合理的思考が出来る人なら、すぐには分からなくてもじっくり考えれば何とかつかめてくるものだ。そのじっくり考えることを拒否して、文脈を少しも考えなくてもよいような表現に流れるというのは、大衆の意志(多くの人がどう考え・どう感情を抱くかということ)が社会の意志を決定する民主主義社会では非常な危険を感じる要素となる。どうしてそのような傾向になってしまったのだろうか。
これは、分からないことを我慢して何時間も聞いていなければならないという学校教育に大きな責任があるのだと思うが、このような拒否感があるにもかかわらず、昨年の流行語にもなった「空気」というものに対しては、若者は非常に敏感でそれをとても気にするように見える。(なおこの「空気」は、カギ括弧付きで書いているように、それまでの山本七平氏の「空気の研究」などに書かれていた「空気」とも若干の違いを感じる。)「空気」は文脈以上に拒絶されたという感じがあると僕などは思うのだが、空気に抗ってそれを拒否する人は少ないようにも思う。拒否されなければならないのは、文脈よりもむしろ「空気」ではないかと思うのだが、なぜそうならないのだろうか。
「空気」は、表現されていないにもかかわらず、その裏の意味を読み取らなければならないものとして、文脈と似ているにもかかわらず本質的な部分での違いがあるように感じる。内田樹さんが
「恐怖のシンクロニシティ」
で、この「空気」についても語っているが、それはある種のゲームにおいて、ルールを知らない人間が、そのルールに従って行動している自分以外の他者から感じる排除感に通じるものとして描かれている。
内田さんが紹介するゲームでは、はさみを開いて渡すか閉じて渡すかという動作がなされるのだが、そのときに言葉としても「開いて渡す」「閉じて渡す」という言語表現がなされる。しかし、動作とこの言葉とはまったく連動していない。言葉と連動しているのは、「ハサミを渡すときに脚を開いているか閉じているかによるのだ」というのがルールになる。このルールを知らないものは、はさみの状態と言葉を連動させて動作しようとするが、まったく関係ない足の動作と連動していなければ間違いだといわれる。
これはルールを知らないものにとっては深い排除感を伴った衝撃となる。このようなルールは、すでに知っているものでなければ、よほど頭がいいか偶然その事に気づかない限り分かるものではない。このゲームは、ルールに従って楽しむゲームではなく、「ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである」ということになる。
これはたわいない遊びだといえるかもしれないが、排除される人間にとっては、カフカの小説に出てくる主人公のように、どれほど努力しても共同体に受け入れてもらえない深い絶望感のようなものが湧き上がってくるのではないかとも感じる。カフカの『城』などでは、主人公がこう思うというような行動が、その共同体においては常に非常識とされて否定されてしまう。そういう経験を繰り返していれば、人はやがて何が正しいのかまったくわからなくなり、他者を真似て行動しているのに、それが真似になっていないことから、行動そのものができなくなるという状態にまで追い込まれる。
このような絶望感を与える要素が「空気」にはあるのではないかと思う。「空気」は、あらかじめルールを知っている人間でなければ読めないのだ。文脈は違う。文脈は、そこに表現されているものを合理的に理解すれば、ある意味では誰でも同じ結論に達することが可能なものとして読まれている。もちろん、意味の読み取り方には多種多様なものがあるが、その多様性は、「そういう読み方も出来るね」ということで理解できる多様性だ。「空気」のように、何がなんだか分からないけれどそういう読み方をするというようなものにはならない。
内田さんが語るはさみのゲームのように、「空気」というのは、合理的なつながりがない、まったく無関係なものを恣意的につなげたルールに従っているように見える。知っているかどうかだけが重要で、合理的に考えるということはどうでもいいことになる。
文脈の場合は、努力して勉強すればだんだんと読み方が上達し、その意味を深く読めるようになる。だから初歩の段階でよく分からないとしても、そこからの排除感は少ないだろうと思う。だが「空気」のほうは、どんなに考えても誰かが教えてくれなければ分からない。誰かが教えてくれるというのは、仲間として迎えてくれるということになり、仲間として受け入れてくれるかどうかが「空気」が読めるかどうかに関わってくる。
だが、どのような基準で仲間として迎えてくれるようになるのだろうか。普通は、気があうとか、同じ境遇にいるとかいうことで仲間になったりするのだが、仲間になるかどうかが恣意的に決められて、仲間になれば「空気」によって排除されることがないが、仲間でなければいつまでも排除されるという感じになる。これは非常に恐ろしいプレッシャーを受ける世界ではないかと思う。文脈よりも切実に気になるプレッシャーとなる。
「空気」がこのようなものであれば、それは文脈よりも気になるものになるだろう。だが、文脈を読み取ることにはあからさまな拒否感が示され、「空気」を読み取ることにはこのような大きなプレッシャーがかかって常に気にしなければならないというのは、まったく健全なこととは思われない。このような社会の中では、暖かみのある人間関係を築くなどというのは不可能になってしまうのではないか。
「ALWAYS 三丁目の夕日」を改めて振り返ってみると、そこでの登場人物に「空気」を読むという意識は薄いように感じる。誰もが自分がそうしたいという感情に従って行動しているようにも感じる。そうしてその行動が、ある意味では場の雰囲気を壊したとしても誰も非難するものがいない。何もなかったかのように明日はいつもの日常が過ぎていく。これがファンタジーである意味は、現実の日常では常に「空気」を意識していなければならないのに、ここでは「空気」を無視して自由に生きられるという憧れのようなものがあるからではないかという気もしてきた。それが多くの人に受け入れられる要素になったのだろうか。
携帯小説や、それを元にした映画では、脊髄反射的で短楽な表現が連続するという。これも、ある意味では「空気」を読むことなく伝わる表現となっているのではないだろうか。それは読む必要もないくらい明確で単純な表現になっているので、「空気」が読めないというような理由で排除される恐れがないのではないだろうか。安心して見られる表現として、そのような表現が好まれているのではないかとも感じる。
文脈と「空気」には似ているところがある。隠された意味を読み取らなければならないというところだ。そのために、文脈から排除されたときに、まるで「空気」が読めなくて排除されたときと同じような感覚が生まれてしまうのかもしれない。人々は「空気」というものが本当は嫌いなのではないかと思う。だがそれを避けて通ることが出来ないので、嫌でありながらもプレッシャーを受けてそれを気にせざるを得ないというのが現代社会の特徴なのかもしれない。
この「空気」の概念が分かってくると、ウィトゲンシュタインが言う「言語ゲーム」の概念も、そのゲームという観点が内田さんが語っていたような意味でのゲームではないかという気がしてくる。それは、ルールを知らないものにとっては、それがゲームであることすらわからないゲームだ。そしてそのルールが、いつどのようにして知られるかということが分からない。ルールの獲得に法則性を発見することが出来ない。現代社会というのがそのような社会になっているのではないかということを思わせる。
カフカの時代やウィトゲンシュタインの時代には、優れた文学者の直感や、優れた哲学者の論理的思考でしか捉えられなかったこの種の「ゲーム」が、いまや普通の人まで巻き込まれるほど日常化してしまったのではないかと思う。我々はどのようにして「空気」に抗い文脈を取り戻すことが出来るのか。文脈を拒否し、「空気」に振り回される社会はひどいものになると思う。論理や合理性への関心を取り戻し、教育によってこの現代社会の傾向を変えたいものだと思う。
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最終更新日 2008.01.22 10:16:42
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