真理を求めて

真理を求めて

2010.01.12
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カテゴリ: 読書
牧さんのカルタ

【つ】突き当たったら曲がれ

という言葉を有効に使うための「突き当たった」という状況の判断のためにどうするかという事を示唆したカルタを前回は紹介した。それは、「ねばならない」という義務感に駆られて、多様な視点から物事を見ることが出来なくなり、玉砕へと向かうような状況に陥ったときに、「突き当たった」と判断せよというものだった。

運動が行き詰まり、なかなか打開策が見つからないとしても、それが難しい目標を持つものであれば、うまくいかないのがある意味では当然だ。だから、うまくいかなかったとしても、それをまだ多様な視点から総合的に見ることが出来るほど、自分に冷静さと余裕が残っていれば、それは「突き当たった」事にはならない。単に問題が難しいというだけのことだ。

重要なのは、「突き当たった」という判断が正しい場合であり、そのときにそれでは次に何をするかということだ。この場合も、牧さんは、次の行動を示唆するカルタを語っている。しかし、これは意外な言葉のように聞こえるかもしれない。次のようなものだ。

【な】何にもせずも芸のうち
【ゐ】居直ってみれば世は事もなし
【や】やらぬよりやったがよいが命取り

これらの言葉は、次に何かをせよと示唆しているのではない。何もするなと語っている。つまり、壁に突き当たったときは、何かをして事態をもっと悪くしてはいけないと言うことだ。何もしないで事態が変わるのを待て、というのが牧さんの格言だ。



だからこそ、そんなときは「何もするな」という指針が役に立つ。しかしこれは、牧さんが語っているように非常に難しい。牧さんは、「日本には伝統的に「みんなの方が間違っていると思っているときでも、みんなと一緒に一生懸命(その間違いを)やるのがいいことだ、そうでないといけないんだ」というような風潮があります」と語っている。間違っていると思っているときでも、何かをせずにいられないのだから、間違っていると思っていない人は、いくら行き詰まっていても何かをせずにはいられないだろう。たとえそれが玉砕につながっていようと。

自分が圧倒的少数派で、何かをするには、自分が間違っていると思うことしかできないとなると、これは何もしないというのはかなりつらくなる。自分では、その運動のことを誰よりも一生懸命考えているつもりでも、何もしないということで、サボっているように見られるかもしれない。こんな時は、じっとしているのがつらい。そこでそのつらさを耐える指針も欲しくなるので、次のカルタ「居直ってみれば世は事もなし」ということになる。牧さんは次のように書いている。

「あんまり辛くなったら居直って考えてみてください。「この運動をやるかやらないかで、本当に世界がひっくり返るか?ま、世の中大勢に影響ないな」と。<居直ってみれば世は事もなし>です。実際、運動だとか闘争だとかは、人間社会のある限りそのタネには事欠きません。一度や二度機会を逃したって、どうってこともありやしません。」

さて、「壁」に突き当たったときは、このようにして、ひたすら何もせずに待つことが重要だと牧さんは言う。だが、それはいつまで待てばいいのか。ただ待つということは、やはり辛いことではないのか。居直ってみたとしても、そこにとどまるのでは、運動をやめてしまうということになりはしないか。結局「壁」に行き詰まって絶望して、希望を失って終わりということでは寂しい。何とか打開する道はないのだろうか。

それを示唆するのは牧さんの次のカルタだ。

【た】棚を吊ってボタ餅を待つ

「棚からぼた餅」ということわざは、偶然手に入れた宝の幸運を語るものだが、牧さんは、それを偶然にまかせるのではなく、自分で棚を吊ってボタ餅が落ちるのを待てと語る。つまり、必ずボタ餅が落ちる棚を持っていれば、どんなに辛い毎日が続こうと、何もせずに待てるのだというのだ。牧さんの言葉はこうだ。

「何にもせずに寝ているときの心構えが<棚を吊ってボタ餅を待つ>です。棚を吊るとはどういう事か?将来に備えて準備をしておくということです。たとえば「かくかくの運動方針には反対である」とか「かくかくのやり方を進めていけば手痛い目に遭うこと必定」とか、みんなに自らの意見、仮説、予言をはっきり言っておく等々のことです。
 このようにしっかり棚を吊っておけば、必ず棚からボタ餅は落ちてくるんです。だから、少数派の人は、自分が正しいと思ったら、多数派(あるいは敵)が失敗するのを待っていればいいんです。間違っていれば相手は必ず失敗するんですから。そしたらその時に得たりや応と「それ見ろ、間違っていたじゃないか。俺の言っていたことが正しかったのだ」と。今度は我々の出番です。これが運動の方針転換になるのです。」

棚を吊って待つためには、自分の方が正しく、主流派が間違っているという確信が必要だ。そうでなければ、それは吊っておける棚にならない。個人としては、このような指針で対処することが「壁」への対処では有効だ。これを組織としての対処ということで考えると、牧さんは、「組織の中の意見の相違を天下公知のことにしておかなければならない」と語っている。そうすると主流派が間違えたときに、正しかった少数派が吊っていた棚からボタ餅が落ちてくる。そうすると、運動は間違った行動で壊滅することなく、方針転換して新たな方向へと進むことが出来る。

日本の運動では、とかく一枚岩のように一致していることが正しいとされる。その考えが主流になっているので、牧さんのような考えは少数派になるだろう。しかし、民主主義の強さは、一枚岩になってみんなで玉砕するのではなく、間違いが修正されていく可能性を残しながら、少数が正しかったとき、あるいは多数派の間違いが明らかになったときに主流派が交代するところにある。民主党が政権を取ったように。牧さんの運動論は、民主主義という概念の本当の有効性を語っているのではないかと思う。





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最終更新日  2010.01.12 09:49:29
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