これは金属等が放射化されるという意味だと思います。確かに放射化されるという事はあります。ですが、建屋の中のもの全てが放射性物質に変わるというのは誤りです。物質が放射能を持つには、放射性元素を含む必要があります。金属が放射性を持つ元素に変われば放射化された事になりますが、モノによっては殆ど放射化が起きないものもあります。
また、一部のプラスチックなど放射線の照射によって脆くなってしまうモノもありますが、放射化する物質はあまりないです。ですから、原子炉内構造物の交換工事の時は化学除染と呼ばれる、化学薬品洗剤を混ぜた水を循環させて炉内にこびりついた放射性物質を溶かして除去し、原子炉本体の放射能を下げてから作業しています。(公開資料より)
まぁ簡単に言えば、ポットの内部にこびり付いた水アカをクエン酸洗浄剤で洗うようなモノですね。だからこそ、充分な放射性物質除去を行う事で、原子炉施設の解体作業も可能になりますし、放射性廃棄物の量もかなり少なくて済むんです。コンクリートなんか殆ど放射化されていないので一般廃棄物として処理できます。
また、原子炉格納容器の外側、コンクリート遮蔽の外側に有るモノはまず放射化はしません。なぜなら放射化するほどの放射線が存在しないからです。「どんなに厚い鉄でも放射線が突き抜けるからです。」という記述もありますが、これも誤りです。実際には原子炉内の核燃料がフルパワーで反応している運転中でも原子炉本体金属による遮蔽、炉内の水による中性子遮蔽、原子炉周囲にある生体遮蔽コンクリートによる遮蔽、原子炉格納容器による金属遮蔽、その更に外周のコンクリートによる遮蔽等によって、原子炉建屋内の放射能もほとんど屋外と変わらないんです。
実際に見学に来られれば運転中の原子炉炉心上部に立つことが出来ます。この見学の写真は良く出回っているので見た事のある方もいるかと思いますが、つまりあの頂部ハッチのコンクリート遮蔽によって放射線は充分遮られているんです。放射線を浴びなければ放射化は起きません。従って建屋内の物が全部放射性物質になっていくという事はないんです。
だいたい、放射線が全てを貫通してしまっていたら、発電所周辺にも放射線が出てしまう事になりますが、もちろんそんな事はありません。実際発電所周辺に設置されている放射線測定器モニタリングポストの測定値は自然量と変わらない数値を示していますから。そろそろ訂正するのも疲れてきましたが、次行きます。
ここの批判は、レトリックの問題と正確な科学的知識とが混同しているのを感じる。平井さんは学者ではないので、所々にレトリックとしてのやや大げさな表現があるのかもしれない。それを文字通りに科学的知識だと受け取ると、この批判者が語るようなある種の蘊蓄を語りながら批判するというスタイルになるのではないかと思う。
「全部の物が放射性物質に変わってきます」という言い方を、文字通り「全部の物」と受け取ると、批判者が語るような文句も言いたくなるだろうと感じる。中には放射性物質に変わらない物もあるだろうと言うことだ。それが一つでもあれば、論理的には反論として成立する。
しかし、これをレトリックとして受け取ると、「すべて」という言葉が、レトリックとして何を指すかということが重要になる。それは論理的なすべてではなく、問題としている対象の「すべて」と言うことになる。では、平井さんは何を問題としているのか。このあとの記述では「内部被曝」というものについて語っている。引用しよう。
「ホコリ、どこにでもあるチリとかホコリ。原発の中ではこのホコリが放射能をあびて放射性物質となって飛んでいます。この放射能をおびたホコリが口や鼻から入ると、それが内部被曝になります。原発の作業では片付けや掃除で一番内部被曝をしますが、この体の中から放射線を浴びる内部被曝の方が外部被曝よりもずっと危険なのです。体の中から直接放射線を浴びるわけですから。」
放射性物質が付着した「ホコリ」という物が、非常に危険な物であることを指摘していることから考えると、この「すべて」は、内部被曝を起こす可能性のある「ホコリ」のような物の「すべて」が放射性物質となる、と語っているように受け取れるのではないだろうか。それは科学的知識としてはどうなのだろうか。
これは、今回の福島の事故でも報道されているが、空中に飛散した放射性物質が、チリやホコリに付着して風によって運ばれるということが言われていた。ホコリは放射性物質になり得るのだ。それを、平井さんは「すべて」がそうなると指摘していると、文脈上から読解できる。ホコリについて「すべて」なら、批判者が語るような指摘は当たらないのではないかと思う。レトリックを文字通り受け取った誤読だと、反批判することも出来るのではないだろうか。
批判者は、この批判に関連して、原発の内部が必ずしも放射能で汚染されていないことを次のように説明している。
「まぁ簡単に言えば、ポットの内部にこびり付いた水アカをクエン酸洗浄剤で洗うようなモノですね。だからこそ、充分な放射性物質除去を行う事で、原子炉施設の解体作業も可能になりますし、放射性廃棄物の量もかなり少なくて済むんです。コンクリートなんか殆ど放射化されていないので一般廃棄物として処理できます。」
この指摘はにわかには信じられない。原発付近のがれきが今だに撤去されていないのは、それが放射能によって汚染されているからだと言われていた。それなのに、原発を覆っていたコンクリートがほとんど汚染されていないと言うことがあり得るのだろうか。もし、それがあり得るとすれば、鉄の格納容器から放射能が漏れると言うことがない、という前提がなければならないだろう。それはどうなのだろうか。
平井さんは、「どんなに厚い鉄でも放射線が突き抜けるからです」と語っているが、放射能は鉄を突き抜けるのだろうか?
<a href="http://www.radi-edu.jp/questions/detail/3">「放射線の透過力について」</a>
というページに寄れば、鉄はかなりの放射線を遮断するようだが、中性子を止めることは難しいようだ。このあたりは、平井さんの真意を受け取る読み取りはちょっと難しいかもしれない。文脈上からは、鉄でさえも止められない放射能があるのだから、放射能の危険性は強調されなければならないと語っているようにも感じる。
原発の作業員たちは、放射能の濃度の高い場所での作業もかなりあるという報告もある。だから、原発内部での放射能が少ないと言うことはないだろう。また、中性子というのは鉄を疲弊させるということも言われているようだ。そのほか、金属疲労の可能性もあるから、通過ではなくも漏れ出てくる放射能もあるだろう。その放射能がホコリに付着するという可能性もあるのではないかと思う。
かつて本多勝一さんの著書をよく読んでいた頃、本多さんを批判する文章も数多く見た。そのときに感じたのは、なぜこのように文章を誤読するのだろうか、ということだった。本多さんの文章は論理的で大変わかりやすく、誤読の可能性も少ないと思ったのだが、文章を読むことに慣れている学者のような人でも、本多さんの真意をねじ曲げて理解しているようなところがあった。
後にそうかなと思ったのは、批判をする人というのは、その立ち位置によって注目する言葉が違うので、立場の違う人間なら末梢的だとして無視するところこそが批判の対象になるのだなと言うことだった。言葉というのは難しいものだと思う。本多さんでさえも誤読されるのだから、言葉の専門家ではない平井さんの言葉は、違う立場から見れば気になるところがたくさんあるだろう。
批判者が「そろそろ訂正するのも疲れてきましたが、次行きます」と最後に語っているのも、立場の違いが注目させる言葉があまりにも多いと言うことなのだろう。それが、逆に言えば、批判者の立場が平井さんといかに違うのかというのを物語っている。
批判者は、端的に言えば原発推進派の立場から見ていると言える。平井さんは原発を批判し、すぐにやめるべきだと考える立場だ。それぞれの立場で、論理の前提にすることが違っている。それは文脈理解に大きな影響を与える。批判者の言葉も、平井さんの言葉も、どちらもその理解を考えるときは、その立場から来る発言というものを強く意識して読むことが必要だろう。それが正しい理解につながると思う。
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