こんにちは、かみさんの亭主です。
今日は土曜日、京都は快晴です。紅葉にはまだ早いものの、各名所では、
ライトアップばやりです。
この前歩いた時に、
平 宗盛の胴塚が草津宿にありました。



「ウィキペディア」より抜書き
平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・公卿。
平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、
安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は従一位行内大臣。
通称は屋島大臣など。
屋島・壇ノ浦の戦い
平氏は彦島に残存兵力を結集して最後の戦いを挑んだが、元暦2年(1185年)
3月24日、壇ノ浦の戦いで滅亡した。知盛・経盛・教盛ら一門が入水する中、
宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを息子の清宗とともに引き上げられ
捕虜となった。
『愚管抄』は「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、
イカント思フ心ツキニケリ(宗盛は水泳が上手なため、浮き上がり浮き上がり
する中に、生きたいと思うようになった)」とするが、『平家物語』は
「西国にていかにもなるべし身の、生きながら捕らわれて、京鎌倉恥を
さらすも、あの右衛門督(清宗)ゆゑなり(西国で死ぬはずだった身が、
生きながら捕らわれて、京・鎌倉に恥を晒すのも、右衛門督のためだった)」と
いう宗盛の言葉を記しており、子への愛情が死をためらわせる
原因だったとしている。
最期
5月7日、宗盛・清宗は義経に連行されて鎌倉に向かう。兼実は「配流の儀にあらず」
(『玉葉』同日条)と記しており、死罪は決定していたと思われる。
宗盛は輿に、清宗は騎馬に乗り(『吉記』同日条)、5月16日、鎌倉に入った。
6月7日、宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出される。頼朝は勝者として
簾の中から宗盛を眺め、比企能員に自らの言葉を伝えさせた。
『平家物語』『吾妻鏡』によれば、宗盛は卑屈な態度に終始して助命を乞い、
集まった者から非難・嘲笑されたという。
6月9日、宗盛は京都に送還され、21日、義経の命を受けた橘公長の手により
、近江国篠原宿で斬首された。享年39。
嫡男清宗、次男能宗(幼名・副将)、その他男児二人(名前は不明)も
順次処刑され、宗盛の血統は途絶えた。
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