わたしのこだわりブログ(仮)
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遅れて申し訳ないです。腰痛めて椅子に座れない状態でした。それに加えて、なぜか更新する度に書式のフォームが崩れて毎回修正していたからなかなか進みませんでした。原因不明の悲劇楽天の入力フォーマットが変わったのかな?今回は内戦から共和制に至るピューリタン革命と王政復古でいったん切りました。名誉革命まではすでに書いてはいたのですが、フォームが崩れて書き直しに収拾がつけられないからです。「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回。イングランド、スコットランド、アイルランドには同じ王が支配していたにもかかわらず、それぞれに議会があり、宗教が異なり、一つの国家になるのにはたくさんの困難があった事。目次程度の歴史認識では正しく理解できない。現在のイングランドと言う国が形成されるに至る重要な時代の話しです。全3回の2回目です今回はピューリタン革命を中心にする内容なのでまずはオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)の経歴から探りました。なんて事でしょう。知るごとにどんどん嫌悪が増してきました。彼はイングランドにおいて誇れる人物なのか? 私には汚点にしか観て取れない。そもそも、ピューリタン革命と言う名称も実情にあっていない気がする。確かにピューリタンが仕掛けた内乱から始まった騒動ではあるど、結果論で見ればピューリタン革命は失敗だったからだ。※ ピューリタン(Puritan)は改革派、カルヴァン派の総称。カルバン派による国教会乗っ取り? 王を殺して議会が樹立した共和制を持って 3国統一を力で行ったが失敗。イングランドは元の王政に戻る事になるからだ。彼は自分の目的の為にたくさんの人を殺している。とにかく残虐だった。英雄に扱われた彼も権力に付くと力で統治。反対派は処罰。危ない因子も抹消。国教会主教を処刑しただけでなく、さらに国王をも処刑。王を殺して自分がその椅子に座わった。ウエストミンスターでの儀式はまるで戴冠式のようだったらしい。また、次代に何の力もない息子を後継に選び世襲を行おうとするなど何を勘違いした?どこが宗教革命?王殺しの罪で、死後に墓から引きずり出され処刑され、その首は数十年とウエストミンスター・ホールの屋根にさらされた。英雄とされた男の末路である。国政はカリスマ性だけで行えるものではない。責務も必要。また、その能力は人格にも及ぶのだとつくづく思う。★彼の死後、共和制を市民は否定し、イングランドは元の王政に戻った。共和制時代の事は、後々市民のトラウマになったとも言う。また、現在も続くアイルランド紛争。その遺恨はこの時にさかのぼる。すべてクロムウェルが要因だ。一連を鑑(かんが)みると、「ピューリタン革命」と言うより「ピューリタンの暴走による3国内乱とオリバー・クロムウェルの王国」と、タイトルした方が解り易い。何よりも、オリバー・クロムウェルの悪影響は今も尾を引いていると言う点ではイングランドの黒歴史だろう。イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古国王と宗教カラー(チャールズ1世まで)イングランド国教会が求めた祈祷書と監督制監督制(episcopacy)祈祷書(Book of Common Prayer)スコットランド聖公会(Scottish Episcopal Church)の祈祷書セント・ジャイルズ大聖堂(St Giles' Cathedral)宗教から見るイングランド内戦(English Civil War)混乱の始まり主教戦争からのイングランド内戦内戦史議員だったオリバー・クロムウェル内戦で活躍したオリーバー・クロムウェル指揮官としての成功クロムウェルの戦い方国王軍 vs 議会派 (和平派 vs 徹底抗戦派)ピューリタン革命(Puritan Revolution)国王の至上権改革派(ピューリタン)の勝利なぜ独裁が可能に?王政復古の功労者チャールズ2世(Charles II)妻の持参金オリバー・クロムウェルの死後処刑国王と宗教カラー(チャールズ1世まで)前回のおさらいを兼ねて当時の歴代国王と国教会のカラーなど再確認。前回と被る部分もあります。1534年、カトリックから離脱せざる終えなくなったイングランドは独自のイングランド国教会(Church of England)を樹立した。それは王を頂点とするキリスト教会派で始まったが、大陸で発生したプロテスタントの波が遅ればせながらイングランドにも到達すると他国のようにキリスト教徒とプロテスタント教徒の対立が始まる。議会、特に庶民院 (House of Commons)のプロテスタント化? が進むと? イングランド国教会も徐々にプロテスタントの影響を受けて変化を見せる。1. ヘンリー8世(Henry VIII)(1491年~1547年)(在位:1509年~1547年) イングランド王(在位:1509年~1547年) アイルランド卿 アイルランド王(在位:1541年~1547年) 1534年にイギリス国教会を樹立させた本人。王を頂点とする完全なキリスト教会派としてスタート。 王の本音はカトリックに戻りたかった。だから変革は嫌ったと言う。2. エドワード6世(Edward VI) (1537年~1553年)(在位:1547年~1553年) 父王亡き後、9歳で即位。15歳で崩御。 プロテスタント化を進める。本人でなく側近が・・。★1548年、イングランドの最初の共通祈祷書発行。 ジェーン・グレイ(Jane Grey)(1537年~1554年)は含んでいない。※ノーサンバランド公の陰謀で即位宣言するも在位9日間でメアリー1世により廃位され大逆罪で処刑されている。3. メアリー1世(Mary I of England)(1516年~1558年)(在位:1553年~1558年) 前王エドワード時代の改革を全て白紙に。国をキリスト教に戻したかった女王。 結婚相手はカトリック国の王。スペイン王フェリペ2世(Felipe II)。父はヘンリー8世。 子を残すことなく病気で早世したのでイングランドがカトリックに戻る望みは絶たれた。4. エリザベス1世(Elizabeth I)(1533年~1603年)(在位:1558年~1603年) 再びプロテスタント化。★1559年版祈祷書(エリザベス祈祷書)発行。 異母姉メアリーとは敵対。カトリック国スペインを敵に据えていたからよりプロテスタント化を進めたのかもしれない。 イングランド国教会は彼女の代でほぼプロテスタント化決定であるが、祈祷書はカトリックとプロテスタントの中道でできている。つまりカトリックではないけれど、本当の所プロテスタントでもなかった?5. ジェームズ1世(James I)(1566年~1625年) スコットランド国王ジェームズ6世(在位:1567年~1625年) イングランド・アイルランド国王ジェームズ1世(在位:1603年~1625年)★エリザベス体制を引き継ぎ即位した頃、イングランド国教会はすでにカルバン派より。 彼の母スコットランド前女王メアリーは国をカトリックに戻したかった人。 メアリーは廃位させられ牢獄に入れられたのでジェームス1世自身は生後13か月で即位。 側近にプロテスタントとして育てられている。★1611年、欽定訳聖書(きんていやくせいしょ)ジェームズ王版(King James Version)初版発行。※イングランド国教会の典礼で用いる為の英語の聖書の標準訳本は英語圏プロテスタントの標準訳になる。ジェームズ1世自身は本来は欧州での宗教的対立を収め平和的共存を望んでいた人。 結局自国の宗教をまとめる事もできなかったが、共存を考える上で息子の嫁にはカトリックの姫を迎える計画をしていた。 スペインの姫との結婚を考えていたのは実は彼なのだ。だから息子チャールズ1世も父の意を汲みスペインの姫と結婚するつもりでいた。議会(庶民派)の猛反対がなければそれはあったかもしれない。★宗教統合をあきらめたジェームズ1世は、まず3国の統一にのみ尽力した。3国は王冠連合となる。 出自のスコットランドでさえカトリックからカルバン系長老派に転換と宗教革命もあったから3国まとめての宗教統一は難しいと考えたはず。6. チャールズ1世(Charles I)(1600年~1649年) イングランド・アイルランド王 チャールズ1世(在位:1625年~1649年) スコットランド王ジェームズ6世(在位:1625年~1649年) ※ 父はジェームズ1世。 ※ カルバン派の流れをくむアルミニウス主義派(Arminianism)。(ガルバン派の天敵) ※ 1649年、カルバン派の議会により処刑されている。★カトリック教徒の妃問題。 チャールズ1世はプロテスタントであったが、妃はブルボン家のカトリックの姫。妃は結婚後もカトリックを通したから国民には嫌われたが、夫婦仲は非常に良く子だくさん。また彼女の内助の功は特筆できるほど。★議会との対立は彼の即位前から始まっていた。何もかも反対するイングランド議会にチャールズ1世は議会を開かない策で国勢を行った。(対立するのはいつも庶民院)しかし、予算だけは議会の採決が必要であったから、大きな予算のいる案件では議会を開かざるおえなかったのが現状。それ故、歴代の王らも議会を通さなくても集金できる方法を探っていた。システム的にも金銭的にも束縛されていたイングランド王はフランス王のような専制君主になる事は出来なかった。客観的に見れば、そもそも議会の行為にはチャールズ1世への敬意が全く感じられない。議会の意見ばかり優先し、聞く耳も譲歩も見せないから話は全く進まない。そんな議会は開いていても無駄。そうした事情による議会の解散はジェームズ1世の時代から繰り返されている。★諸悪の根源は議会。プロテスタント諸宗派の中でもカルバン派の力の増大、強硬、過激さがイングランド王を追い詰めたと考えられる。そんなカルバン派の中でたまたま成功し、権力が集中し成りあがったオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)の登場がイングランド王家に最悪の事態をもたらす事になる。イングランド国教会が求めた祈祷書と監督制チャールズ1世が新国王として即位した時にイングランド国教会の新たな主教を任命。当時国教会の中で力を付けて来ていたウィリアム・ロード(William Laud)(1573年~1645年)がカンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)として就任した。彼はアルミニウス主義派(Arminianism)の人物で、カルバン派の天敵であったが、それはチャールズ1世の思想と一致した。※ カトリックからは受け入れ易いプロテスタント会派である。★チャールズ1世とウィリアム・ロードは、共に国教会会派の統一政策に乗り出す。即位式の典礼もイングランド式で行われたが、さらに今後は祈祷書も監督制も全てイングランド国教会の形式をとるようスコットランドに強要。これが長老派のスコットランドでは大問題となり市民の不満爆発(1637年7月)。主教戦争に発展する。そもそも祈祷書と監督制とは何か?監督制(episcopacy)※ 新約聖書(ギリシャ語)由来の監督(epískopos)は、後代、キリスト教の高位聖職位Bishop(司教)を指す語となっている。イングランド国教会では主教を国王が選ぶだけでなく、カトリックと同じように階級階層が存在する。つまり、大主教を頂点とするヒエラルキー(hierarchy)でなりたっている。しかし長老制では長老は一般信徒から選ばれるし、長老らの合議で事は決まる。主教はいない。スコットランドはプロテスタントでも長老派が多勢。スコットランドでは絶対に受け入れられない事。ルターはそもそもこう言うのも嫌で宗教改革で訴えている。祈祷書(Book of Common Prayer)聖公会系の教会(Episcopal church)における祈祷や礼拝の仕方のテキストであり、且つ儀式(典礼)の進め方などのマニュアル本でもある。※ 典礼の式次第から引用する聖書の言葉なども定型があり、信徒はこれらを遵守しなければならない。※ 聖公会・ アングリカン・チャーチ(Anglican Church)はイングランド国教会(Church of England)のみならずカトリックとプロテスタントの中道系会派が含まれる。1548年、イングランドの最初のプロテスタント祈祷書はカンタベリー大主教のトマス・クランマー(Thomas Cranmer)(1489年~1556年)によって完成されている。1559年版祈祷書(エリザベス祈祷書)1562年にJuggeとCawood が印刷した表紙1559年版祈祷書はエリザベス1世即位、翌年に発行されたのでエリザベス祈祷書(Elizabethan prayer book)とも呼ばれる。この祈祷書はトマス・クランマー(Thomas Cranmer)による初版よりもカトリック寄りでエリザベス1世の中道志向がみられると言う。※女王自身は最後までカトリックであったと言う話もあるからね★スチュアート朝を通して長く汎用されており、アメリカ合衆国の最初の聖公会系の礼拝にも採用されている。★主教戦争の発端の1つとなるチャールズ1世がスコットランドに強要したのがこの1559年版祈祷書(エリザベス祈祷書)である。カトリックよりな祈祷書と言うところで納得である。この1559年版祈祷書は1645年にピューリタンが多数を占めた長期議会によって違法とされるまで使われている。★王制政復古の後、イングランドでは1662年版祈祷書が発行される。以降、1662年版が正式な英国王公認の祈祷書となっている。また、この祈祷書は英国国教教会はじめ英語圏に属する各宗派にまで影響を与えている。時々小規模改定はなされるらしいが基本的には1662年改訂版が現在も使われているらしい。スコットランド聖公会(Scottish Episcopal Church)の祈祷書長老派教会がスコットランドの大多数を占めるので他の会派とは典礼などもかなり異なるはず。それ故? 独立した祈祷書(Scottish Book of Common Prayer)を持つ。1764年に大きな改訂が行われて以降、1929年にほぼ完成?以降は時代に即した改定が多少行われているらしい。スコットランド(Scotland)首都エディンバラ(Edinburgh)セント・ジャイルズ大聖堂(St Giles' Cathedral)上の写真はウキメディアからかりました。聖ジャイルズ(Saint Giles)(650年頃~710年頃)に献堂されたスコットランド聖公会の大聖堂です。※ 聖ジャイルズ(Saint Giles)は英語名。聖アエギディウス(Aegidius)の事。身体障害者とハンセン病患者の守護聖人とされている。★当初はカトリック教会として1120年に創建され14世紀に現在の建物に建て替えられている。16世紀の宗教改革時には長老会派の教会やイングランド国教会など複雑な入れ替えが起きている。※プロテスタント教会と一つにくくられる事が多いが、諸宗派あるから派閥が違えばプロテスタントは別教会です。上の写真はウキメディアからかりました。ここはジョン・ノックス(John Kno)によるスコットランドの宗教改革においてカルバン系長老会派の教会として再生されているが、チャールズ1世の治世(1633年)にイングランド国教会の教会としてエディンバラ主教区の大聖堂となり立派な教会として建築されると言う経緯がある。大聖堂の名の由来はそこから。1689年以降、長老派教会はスコットランド国教会となってここを母堂にしているので本来は大聖堂ではない。1637年セント・ジャイルズ教会で発生した祈祷書による暴動が発端でチャールズ1世とスコットランドとの間で主教戦争が勃発。王が敗戦(不戦敗)し1689年長老会派は正式に認められた。現在はスコットランド国教会(Church of Scotland)スコットランド聖公会(Scottish Episcopal Church)の母堂としてセント・ジャイルズ大聖堂(St Giles' Cathedral)は存在している。上の写真はウキメディアからかりました。内部は完全なカセドラル(Cathedral)。大聖堂と呼ばれても仕方が無い。何よりここが主教戦争(Bishops' War)の発端の教会であったと言う事で紹介しました。宗教から見るイングランド内戦(English Civil War)混乱の始まり先に触れているが、チャールズ1世王がイングランド国教会の主教に選んだのはカルヴィニスム修正主義神学とも呼ばれるアルミニウス主義派(Arminianism)。同じプロテスタントではあるがカルバン派からは天敵としてとらえられている会派の人物。チャールズ1世は過激なカルバン派が嫌いだった。何でも反対するからだけではない。側近でもあった親友を暗殺されているからね。王の行為に対しカルバン派は、王がイングランド国教会をカトリックに戻すつもりではないか? と疑った。★学者による支持の多かったアルミニウス主義派は過激なカルバン派とは異なり穏健派である。イングランドではカトリックに近かった?ただ、主教に選んだウィリアム・ロードは強硬派であった。※ イングランド国教会の主教は設立時はカトリックの司祭から転じている。主教戦争からのイングランド内戦騒動の始まりはチャールズ1世の選んだ大主教にあったのは間違いない。この大主教ウィリアム・ロード(William Laud)はイングランド国教会の3国統一を王に求めた。反対派は王権をもって粛清させる。歯向かう場合は武力で統制するよう助言され王は軍隊を出動。結果、スコットランドでは国教会の主教らが反対派に追放され主教戦争(Bishops' Wars)が勃発した。それらを起因にイングランド国内各地で内乱が起き始めた。国王軍と議会との戦闘が開始される。それらがイングランド内戦(English Civil War)である。※ 1642年~1651年にかけて国王軍(王党派)と議会派の間で繰り広げられた一連の内戦。日本ではピューリタン革命と訳されているが、「Puritan Revolution」の言葉は使われていない。一連をイングランド内戦(English Civil War)としている。スコットランド(Scotland)首都エディンバラ(Edinburgh)カールトン・ヒル(Calton Hill)からの眺め(エディンバラ城方面)カールトン・ヒル(Calton Hill)はエディンバラ市の中心部にある小高い丘。1995年、この景色「エディンバラの旧市街と新市街」はユネスコの世界遺産に登録されている。この都市は、中世の要塞都市として発展した旧市街と、18世紀以降の都市計画によって整備された新市街が調和する独特の都市構造が評価されているのだ。スコットランドは、グレートブリテン島の北部3分の1を占めシェトランド諸島、オークニー諸島、ヘブリディーズ諸島などの島々からなる。北部(ハイランド)は山岳地帯で、氷河に削られた丘陵や陸地に食い込んだフィヨルドなど北欧に近い地形。ジェームズ1世はもともとスコットランド王(ジェームズ6世)。ここが彼の本当の故郷。エリザベス1世の後継に選ばれてイグランドの王(ジェームズ1世)にも即位。イングランドとスコットランドは同じ王を戴く同君連合となった。二つの組織の合体はなかなか大変だ。カールトン・ヒル(Calton Hill)からのエディンバラ城(Edinburgh Castle)エディンバラ城(Edinburgh Castle) こちらはウィキメディアからお借りした写真です。エディンバラ城は古代の火山の頂上に建設されている。エディンバラ城が王宮として使用されるようになったのは11世紀。スコットランド王エドガー(Edgar)の時代。しかしスコットランド独立戦争(13~14世紀)の間はイングランド人が城主となっている。エディンバラ城(Edinburgh Castle)入口スコットランド女王メアリーの息子としてエディンバラ城で誕生したのがジェームズ6世。彼は1歳でスコットランド王に即位(在位:1567年~1625年)。1579年の成人後、再びエディンバラ城に居住している。★1603年、イングランドのエリザベス1世が崩御するとイングランド・アイルランド王も兼任。イングランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年~1625年)として即位。それからはイングランど暮らし?次代王となる息子チャールズ1世はイングランド暮らしでほとんどスコットランドに縁が無かった事もあり? チャールズ1世のスコットランド即位式から騒動になり主教戦争に発展する。ある意味縁の地である。カールトン・ヒル(Calton Hill)からの眺め(クローヒル方面)内戦史そもそもはチャールズ1世の即位式から問題が始まった。1639年 第1次主教戦争(First Bishops' War)1640年 第2次主教戦争(Second Bishops' War)※ 主教戦争はスコットランドで起きた王との対立。1642年~1646年 第1次イングランド内戦(First English Civil War)1648年~1649年 第2次イングランド内戦(Second English Civil War)※ イングランド国内での議会派と王党派の対立紛争※ 清教徒革命(ピューリタン革命・Puritan Revolution)とはこの期間をさしているらしい。1649年 ピューリタンによる国王チャールズ1世の処刑。1649年 王の処刑を受けてチャールズ1世の子息、チャールズ2世Charles II(1630年~1685年)がスコットランドで即位。1649年~1651年 第3次イングランド内戦(Third English Civil War)勃発。※ チャールズ2世によるイングランド奪還の戦争であるがチャールズ2世敗退して一時撤退。1649年~1660年ピューリタンによるイングランド共和国(Commonwealth of England)樹立。※ オリバー・クロムウェルが国家元首として振舞ったので護国卿(Lord Protector)時代とも呼ばれる。1658年 オリバー・クロムウェルが死去し、議会は内紛勃発。1660年 チャールズ2世はブレダ宣言(Declaration of Breda)をイングランドに向けて発表。※ 宗教上の意見の相違を許し、信仰の自由を保証する事。また、今までの狼藉に対する恩赦などが盛り込まれている。1660年 チャールズ2世イングランドで即位。王政復古。★イングランド共和国は消滅。New Model Army(ニューモデル陸軍)は解散。議員だったオリバー・クロムウェルオリバー・ロムウェル亡くなる2年前、護国卿(Lord Protector)時代の1656年の肖像画。オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)(1599年~1658年)それほど裕福ではなかったが、かろうじて紳士(gentry)に属する地主階級の家に生まれている。ケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジ(Sidney Sussex College)に進学している時に父が亡くなった? 学位を取らずに1617年に退学。1620年にエリザベス・ボーチャー(Elizabeth Bourchier)(1598年~1665年)と結婚(21歳)。エセックスに広大な土地を所有する義父はロンドンの皮革商人で、そこからオリバー・クロムウェルはロンドンの商人社会の有力者たちと繋がり交流が広がって行ったらしい。クロムウェルの軍事的、政治的キャリア、また有力な支援者はこれらの関係の中で始まり築かれて行ったと思われる。1628年、ハンティンドンシャー州のハンティンドンから国会議員に選出されたが翌1629年にはハンティンドンのジェントリの間で起こった町の新たな勅許状をめぐる論争に巻き込まれ枢密院に召喚され負債をおっている。ハンティンドンの所有地の大半を売却し経済的ダメージと共に精神的ダメージも追っている。どうもこの時期に強い信仰心が芽生えたらしい。何より収入の激減は社会的地位の低下である。転落時は細々と農業をしていたが母方の叔父からイーリー大聖堂(Ely Cathedral)の十分の一税徴収官の職と財産を相続し収入は年間300~400ポンド程度にまで増加。1630年代末までに公認ジェントリの地位に戻している。同時にこの頃は熱心なピューリタンになっていたらしい。1628年~1629年の議会においてハンティンドン選出の国会議員となったがチャールズ1世はその議会を解散してその後11年間開かれていない。1640年、チャールズ1世が議会を再開したを時にケンブリッジ選出議員としてこの議会に臨んでいる。しかしこの議会も3週間で解散。(1640年後半に第二回議会は長期議会となっている。)クロムウェルは再びケンブリッジ選挙区の議員に選出されている。これらクロムウェルの議員としての活動は、どうも強力な後援者がいたからのようだ。ハンティンドンの時はヒンチングブルック・ハウスのモンタギュー家(Montagu family)がいた。長期議会の最初の2年間にクロムウロェルは大きな人脈を築いて行く。貴族院および庶民院議員の敬虔な貴族グループ、エセックス伯(Earls of Essex)、ウォリック伯(Earls ofWarwick) 、ベッドフォード伯(Earls ofBedford )、オリバー・セント・ジョン(Oliver St John)、セイ子爵(Viscount Saye)とセレ子爵(Viscount Sele)らと結びついていた。クロムウェルはこのグループの政治的策略を実行に移す一員として議員活動をしていたのかもしれない。共和制時代に彼を護国卿(Lord Protector)に推し、支えたのは彼らであるのは間違いない。内戦で活躍したオリーバー・クロムウェル★オリバー・クロムウェル率いる議会の擁立した軍隊(New Model Army・ニューモデル陸軍)との数度の交戦で国王軍は敗退。1649年、国王は議会に捉えられ処刑され王制が絶たれた。イングランド王家が排除されイングランド議会による共和制が開始。イングランド憲法において国家元首(Lords Protector)となったのが先のオリバー・クロムウェルである。※ Lords Protectorを日本では護国卿と訳されている。実質、この共和国時代はクロムウェル共和国(Cromwellian Commonwealth)と呼ばれる。また、イングランド史においては、この共和国時代は王制の空位の期間であり、この期間の国家元首の称号としてLords Protecto(護国卿)が使用された。※ 本来は統治できない君主に代わって王国摂政会議の役を担う王子や貴族ら摂政者に使われた呼称であるが・・。指揮官としての成功そもそも彼は一介の議員だった。なぜ彼は国家元首にまで上り詰められたのか?彼の成功の1つは軍の指揮官としての活躍から始まっている。それにしても兵隊経験は全くなかったオリバー・クロムウェルがなぜ軍の指揮官になったのか?オリバー・クロムウェルは新しい軍の結成に尽力している。New Model Army(ニューモデル陸軍)はイングランド内戦期、議会が国王の軍隊と戦う為に創設した議会派員の所属部隊である。将校は貴族院または庶民院の議席を持つ者の中からピューリタンの宗教的信念のある議員が選抜されている。しかもこの新しい軍は地域を問わず全国展開できると言う点で画期的であった。※ 兵隊は思想を同じくする退役軍人や一般人の徴集兵が集められている。※ 初戦は1645年4月。※ 1660年、王制復古(スチュアート朝の復古)で解散。クロムウェルは正式な軍事戦術の訓練を受けてはいなかったが戦場では騎兵中将兼副司令官として才能を発揮する。戦術の才能があったようだ。1645年 Battle of Naseby(ネーズビーの戦い)サー・トーマス・フェアファックス(Sir Thomas Fairfax)とオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)率いる議会派ニューモデル軍(New Model Army)が、ルパート王子(Prince Rupert)率いる王党派軍(Royalist army)に勝利したネーズビーの戦い(Battle of Naseby)はイングランド内戦(English Civil War)のターニングポイントになった。クロムウェルの戦い方古来からあるClose order formation(密集隊形)を騎馬戦に応用。close-order cavalry formations(騎兵隊の密集隊形)は当時のイングランドにおいては革新的な戦法でこれが成功する。因みに、絵画で見るに、ワーテルローの戦線の時はどこの部隊もこの形態をとっていた。ナポレオンはこのフォーメーションを崩す秘策として胸甲騎兵と大砲を活用していた。銃器や大砲の改良と進化で兵隊の危険度が増し19世紀末には無くなった戦法らしい。また、他の部隊と違い、クロムウェルは身分に関係無く強い闘志のある者を採用していたと言う。話を戻し、クロムウェルの戦法は、War of annihilation(絶滅戦争)。敵を戦場から追い出すのではなく、部隊を密集させてまとめてを殲滅(せんめつ)する戦い方。つまり、絶滅戦争は、大量虐殺または生計の破壊を通じて国家、民族、または少数民族を完全に絶滅させることを目標とする戦い方なのである。クロムウェルにつきまとう大量虐殺。報告書の改ざんなども普通におこなっていたと思われる。現実の事象と異なるからだ。本人は弁明しているが、自分の宗教に従わない者の殲滅が目的であったのは間違いない。カトリックの典礼も否定し、他の宗教は一切認めない。言っている事とやっている事が違いすぎる。スコットランドは支配されてもそれほどひどくは無かったが、カトリック教徒が多勢のアイルランドの場合は虐殺された者が非常に多い。そもそもクロムウェルのアイルランド進行は反核分子の抑制と言うよりは、そもそもカトリックの殲滅にあったと思われる。そこには土地の強制奪取の目的もあった?クロムウェルがカトリック教徒を消すためにしかけた戦闘のせいで1641年のアイルランド総人口140万人のうち60万人が亡くなったと推定されている。アイルランド人が今に至る300年、Curse of Cromwell (クロムウェルの呪い)」と、憎悪している理由だ。イングランドとアイルランド紛争はここから始まっている。はっきり言っておかねばならないのは、アイルランド問題は、オリバー・クロムウェルが共和国時代にやらかした悪行であり、イングランド王家が造った植民地問題ではない。と言う事だ。国王軍 vs 議会派 (和平派 vs 徹底抗戦派)議会派は内戦が進むにつれ内部分裂を見せる。議会派内部に和平派(長老派)vs徹底抗戦派(独立派)が形成されつつあった。和平派(長老派)は上院(貴族院)とスコットランド議会が占め、彼らは徹底抗戦派のクロムウェルの排除を求めマンチェスター伯を押した。一方、下院(庶民院)は徹底抗戦派が集まりクロムウェル支持を表明。俗に改革派ピューリタンは下院(庶民院)に多かったと言う事だ。つまり議会も上院と下院で分烈していたが、そんな中、彼らの寄せ集め即席の軍隊「ニューモデル軍(New Model Army)」は国王軍騎兵隊に勝利したのだ。そのニューモデル軍の中核にいたのがクロムウェル率いる騎兵隊。結果を出した下院のピューリタンが優位に立ち、和平派の長老派は排除される事となった。この頃、すでに騎兵隊(騎馬)同士の戦いが勝利に関係していたようだ。国王軍騎兵隊、特にチャールズ1世の甥のカンバーランド公ルパートの騎兵隊は強かったみたいだけどね。ニューモデル軍の勝利は新たな戦術の考案だったのかも。ピューリタン革命(Puritan Revolution)冒頭も書きましたが、そもそも「清教徒革命(ピューリタン革命・Puritan Revolution)」と言うワードは適当でない気がするのですが、日本では教科書に書かれているのでとりあえず・・。国王の至上権初期の段階では、両陣営の大多数が君主制を支持していたらしい。議会の反乱の目的は何か? 簡単に言えば国王主導の宗教の否定である。つまり、イングランド国教会の否定であり、それは在り方の否定ともなった。最も、自分らが天下を取り共和国を造ると自分らの主導による国教会を作りそれを全ての国民に強いているのに・・。話しを戻し、★本来はイングランド国教会が樹立された時、国王をイングランド国教会の唯一最高の首長とする事が決められ宣誓されている。これにより公職や教会の役職に就く者に対して国教会の最高統治者である君主に忠誠を誓うことが義務付けられていた。この法律はエリザベス1世の時に再発布もされている。つまり、イングランド国教会が国王を頂点とするキリスト教会派として法的にも明確化されている。また当然そこには、国王による教会の人事や教会領の管理統制の権限も付随する。それ故、王党派は、議会とイングランド国教会は共に国王に従属すると主張したが、議会派でも強硬の改革派(ビューリタン)はそれを否定。★国王の至上権は宗教には及ばないと議会派は主張した。それはイングランド国教会を根底から否定する事になる。議会派でも、長老派の議員らはそこまでは考えていなかったはずだ。長老派の主導するスコットランドやカトリック多勢のアイルランドでは国王に従属しながら、自らの穏やかな信仰を望んでいただけ。改革派(ピューリタン)の勝利なぜ王が処刑され共和制が樹立されたか? と言えば、強硬の改革派(ビューリタン)が国王の軍を倒して戦争に勝利してしまったからだ。もともと彼らの言い分は不条理であったのに・・。まさに「勝てば官軍負ければ賊軍」の言われのごとく道理や正義がどうあれ、勝ち方が正しく負け方が間違っていると言う論法だ。結果、議会は調子に乗って暴走した。国王斬首と言う信じられない暴挙までして議会はイングランド王家を閉じた。彼ら議会は国王の至上権を奪い、イングランド共和国を造ったから彼らは本当に改革派(ピューリタン)となった。しかし、そのイングランド共和国(Commonwealth of England)も、オリバー・クロムウェルによる独裁政治の時代となった。ステュアート朝に代わりイングランド・スコットランド・アイルランドを事実上統治する最高権力者となったクロムウェルは護国卿(Lord Protector)と呼ばれたから護国卿時代(プロテクトレート・Protectorate)とも呼ばれている。※ ウエストミンスターで戴冠式のような事をしています。なぜ独裁が可能に?終身任期の護国卿となり3国を議会と共同統治。そこには立法も司法も含まれる。もともと彼の出身であった中産階級層は護国卿の支持層だったらしいが、王党派や平等派など他の派閥は反対派にまわったので1648年、議会の長老派(穏健派)らの反分子はクロムウェルにより追放された。★自分に属する残留の改革派のみで議会を編成。ランプ議会(Rump Parliament)を作り独裁を固めている。また、議会の権限そのものを弱く規定して自らの権限を拡大。独裁を可能にした。1649年のアイルランド征服、1650年のスコットランド征服は共に反国教会の者らによる反革命運動を抑える口実での進行であったが征服に代わる。冒頭ですでにふれたが、彼の死後、オリバー・クロムウェルによる共和制を市民は否定し、イングランドは元の王政に戻っている事からも、イングランド共和国はろくなものでは無かった。と結論できる。実際、力でねじ伏せるオリバー・クロムウェルのやり方は政治とは程遠い。特にオリバー・クロムウェルによるアイルランド征服は最低の所業。改宗しないカトリック教徒には容赦しなかった。降伏を試みた者も惨殺され葬られているからね。イングランド史において、一連は、ピューリタン革命(Puritan Revolution)と言うよりは、ピューリタンの暴走(Puritan Rebellion)による負の時代となった。それ故、英国内乱(British Civil Wars)が正しい。フランス革命と違い、元の王政に戻っているし・・。ピューリタン暴走(Puritan Rampage)でも良い。清教徒革命と言う漢字だけは使ってほしくない。彼らが正義だったような印象を受けるからね。王政復古の功労者スコットランド代表として共和国の政権にいたジョージ・マンク(George Monck)はクロムウェル亡き後の争乱を収めるべく、チャールズ1世の息子で亡命中のチャールズ2世を呼び戻すべく尽力。共和政に不満を持ち王政復古を望む国民の支持もあった。クロムウェルに解散させられた長期議会を召集し、共和政から排除された長老派を含む議員を復帰させ大陸に亡命中の王党派と連絡を取りチャールズ2世を向いいれるべく手配。艦隊司令官エドワード・モンタギューの艦船でチャールズ2世を帰国させ王政復古を実現させた。王政復古の成功はジョージ・マンクの功労のおかげ。チャールズ2世は非常に感謝。彼らに叙勲と年金など多額の恩賞を与えている。軍人ジョージ・マンク(George Monck)(1608年~1670年)。※ 初代アルベマール公爵( 1st Duke of Albemarle)(1696年)※ 軍最高司令官・寝室係侍従・アイルランド総督・主馬頭・ガーター騎士叙任。※ アルベマール公爵・トリントン伯爵・マンク男爵・ビーチャム男爵に叙爵。艦隊司令官エドワード・モンタギュー(Edward Montagu) (1625年~1672年)※ 初代サンドウィッチ伯爵(1st Earl of Sandwich)1660年叙爵。マンクに協力した秘書サミュエル・ピープス(Samuel Pepys)(1633年~1703年)※ 一平民からイングランド海軍の官僚に出世。チャールズ1世の妃。チャールズ2世の母。ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France)(1609年~1669年)夫の戦いの為の資金集めに尽力し危険なイングランド内にも戻って夫の支援をしている。カトリックだったから国民人気は無かったらしいが、非常に夫婦中は良かったから9人の子女を出産している。(死産2人) 夫の処刑はショックであったろう。内戦中にできた末娘ヘンリエッタ・アン(1644年~1670年)の出産時には戦況は悪化。出産の為に 分かれてから夫婦は再会する事は無かった。チャールズ2世は1649年に処刑されている。ヘンリエッタ・アンは父を見ていないだろう。王政復古後も子女の嫁ぎ先など尽力し、イングランドにとっては強みとなるネーデルランドやフランス王家に嫁がせている。政略結婚ではあったが、フランス王家の姫は肝も据わっていた。姫には姫の覚悟もあるのだと改めて思う。因みに、彼女の亡骸はウエストミンスター寺院ではなく、歴代フランス国王らの墓地であるフランスのサン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)に埋葬されている。ところで、これも余談ですが、チャールズ皇太子亡命時、1652年、ジェントルマン階級のロイヤリスト80名により騎馬護衛隊(Royal Mounted Bodyguard)が編成され皇太子を守っていたと言う。そこにマンクの騎馬護衛隊(Monck's Life Guards)が加わり編成され現在に繋がる近衛騎兵連隊ライフガーズ(Life Guards)が誕生している。チャールズ2世(Charles II)7. チャールズ2世(Charles II)(1630年~1685年)(在位:1660年~1685年)王政復古後にイングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1660年~1685年)として即位。幼少のチャールズはプロテスタントのドーセット伯爵夫人(Countess of Dorset)の元で育てられたらしい。父王チャールズ1世はフランス王との約束を無視? 妃はカトリック教徒のままであったが、やはり将来の国王候補の二人の息子はイングランド国教会の元で育てられていた。最も、弟ジェームズは1668年頃カトリックに改宗。チャールズ2世も1685年、死の床でカトリック教徒に改宗している。1630年、彼の生誕の洗礼を行ったのが当時ロンドン主教であったウィリアム・ロード(William Laud)(1573年~1645年)である。チャールズ1世に取り立てられたロードは3年後の1633年にイングランド国教会トップのカンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)に就任している。ウィリアム・ロードもまた、クロムウェルにより処刑されている。王政復古でチャールズ2世はイングランド・スコットランド・アイルランド王に即位。ステュアート朝を再興させた。即位に先立ち、チャールズ2世はブレダ宣言(Declaration of Breda)で信仰の自由を保証する事を約束していた。おそらく本人は望んでいたと思うのだが実際はできなかった。妻の持参金1661年、結婚。妻はポルトガル王ジョアン4世の王女カタリナ。カトリックの姫である。やはり、イングランド国教会の儀式には一切出席していない。英名 キャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza)(1638年~1705年)。ポルトガル王ジョアン4世の次女カタリナの結婚は誕生と共に画策され1640年2歳の時に婚約。父王はスペインとポルトガルの戦いにおいて強力な同盟国が欲しかったらしい。しかしイングランドの内乱など一連の事情で2人の結婚は王政復古(1660年)するまで棚上げとなっていた。1662年に2人はポーツマスで結婚。(カタリナ24歳。チャールズ2世は8歳年上。)強いカトリック教徒であるカタリナはイングランド国教会の典礼による戴冠式を拒否して問題になっている。また二人には子供ができなかったのである。夫チャールズ2世は王妃のことは大切にしたらしいが、愛人がたくさんいたし庶子もいた。チャールズが偉かったのは、庶子を正当な相続者とみなさず、後継は弟ジェームズに決めた事だ。※ 庶子の一人が王位を要求してクーデターを起こしている。ところで、カタリナは持参金にインドのボンベイと北アフリカのタンジールを持って来たのでこれらはイングランド領となりイングランドのボンベイ進出に繋がったのである。また、彼女の莫大な持参金はイングランドが抱える負債の問題も解決されたほどの額だったらしい。財源としては、他にクロムウェルが導入した消費税や関税が王室収入に宛てられることになったし、フランス王ルイ14世からの資金援助もあったので歴代王の中では裕福だったはず。その為に議会を開かないで政治をする事が可能でもあった。※ チャールズ2世とルイ14世は従兄弟関係。母の代よりブルボン家はいろんな形で彼らを援助している。オリバー・クロムウェルの死後処刑ところで、1661年4月ウェストミンスターで戴冠式が行われた同日先駆けて、オリバー・クロムウェル墓が暴かれ遺骸から首は落とされた。その首はウエストミンスター・ホールの屋根に四半世紀もさらされたのだ。と言う事実。ウエストミンスター・ホール(Westminster Hall)の名を聞くたびに思い出す。なのにそのウエストミンスター・ホールの正面に彼の銅像が立っていた。これはちょっと驚く。ウエストミンスター・ホール(Westminster Hall)後ろの建物がウエストミンスター・ホール(Westminster Hall)で、ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)の一部です。前にオリバー・クロムウェルの銅像が置かれていますが正規に置かれたものではないようです。ウエストミンスター・ホールはヨーロッパで最も古いホールの1つ。14世紀には広範囲に渡って再建された。ここは古くは王らのアパートであり、法廷としても利用され、1649年チャールズ1世の死刑判決などの重要な判決もここで言い渡されている。それだけにここは王家にとっても恨みの場所。当てつけに? クロムウェルの首をさらした場所でもあるのにその前に銅像を建てるのはどちらにとってもまずくないか? と思ったのは私だけ?オリバー・クロムウェルの銅像この写真はウィキメディアから借りました。反対されたので、銅像は個人の資金で鋳造されたらしい。オリバー・クロムウェルの名を商品のネーミングにいろいろと使いたがる者がいるらしいが、本当の所イングランド王家は嫌らしい。それ故、ウエストミンスター・ホール前の銅像も、未だ撤去もせず残しているのはイングランド王家に失礼な気がする。アイルランドも嫌悪を示めしているし・・。彼の存在と行為は、現在に至り議会のみならず、国民の意見も賛否両論評価が分かれてもめている。書き込み上のトラブルがあり今回はここまでとし、次回「名誉革命」です。結局3部作になってしまいました。書式形態が崩れるのでちょっと特殊な書き方をしました。誤字修正などの更新でくずれないか心配です。「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回としてBack numberも入れておきます。Back number イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2025年09月28日
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