わたしのこだわりブログ(仮)

わたしのこだわりブログ(仮)

2009年12月22日
XML

ディンケルスビュールでは、城壁の写真がほとんど無かったので、ローテンブルクの城壁を持ってきました。
ディンケルスビュールは小さな街でしたが、ローテンブルクはちょっと大きな街です。

「生きている中世都市」と呼ばれるローテンブルクは、1802年ナポレオン戦争のさなかに整理されてバイエルン王国に併合されるまで一国一城だったのです。(城は途中で消えたけど・・。)
Lage des Landkreises Ansbach in Deutschland.png


バイエルン( Bayern)
ローテンブルク・オプ・デア・タウバァー(Rothenburg ob der Tauber)
城塞都市と帝国自由都市


帝国自由都市が、必ず城壁に囲まれていたのは、もちろん外的からの防衛の為 でした。
帝国自由都市は、すなわち独立小国 だった のです。

小国がひしめく中で、決して戦乱の世ではありませんでしたが、いつ、どこぞの国から攻められて乗っ取られるかもしれない状況で、自国の防衛をおこなった結果です。

もとは、城を、そして、城下町そのものも壁の内に取り込まれて広がり、商業で栄えたローテンブルクでは見事な城壁が築かれて残っています。
(特にローテンブルクでは、帝国自由都市になってから人口も増えて、城壁は拡大。)

城壁に囲まれたローテンブルクの街(一部)
ローテンブルク  4

少しズームしてもまだ見えにくいですが、街は城壁の上にあります。
ローテンブルク 1
手前はタウバー川にかかる橋です。

タウバー川を望む丘の上に城塞都市はある。
ローテンブルク 5

帝国自由都市
帝国自由都市と言うのは 「神聖ローマ皇帝に直属する。」と言うお墨付きをとる事により諸侯の支配を逃れた地元領主の領地の街なのだそうです。(いわゆる地元の豪族の土地)

もちろん、 毎年皇帝への上納金を納める事になってはいますが、実質ここは独立小国 になったも同然で、地元領主は小国でも王となったわけです。(ローテンブルクはちょっと事情が違いますが・・。)

こうした事は ドイツ圏だけにおきた特殊な事情 が背景にあったようです。

歴史をさかのぼれば西ローマ帝国崩壊後のカール大帝の西ヨーロツパ統一までさかのぼる事になります。
カール大帝の統一は強いものではなく、彼の孫の代には帝国は分裂、 ドイツ圏の東フランク王国ではカール大帝の血が絶え、血縁のない諸侯から王を選挙して選ぶという選定侯時代 に入ります。

選帝侯時代の彼ら豪族はドイツ王選挙や政治駆け引きなどに振り回された時代だったようです。

また、歴代ドイツ王はほぼ13世紀まで分裂していた一部、イタリアの統合に力を注がねばならず、結果 ローマ法王から神聖ローマ皇帝の冠は頂いたものの、自国の管理に手がまわらなかったので諸侯の自立が加速 したと言います。

つまり、ドイツ王の中央集権は力不足で、結果、19世紀初めまで、ドイツには300以上もの独立国が生まれたのだそうです。

メルヘンで読むような、「・・・と、ある国の王様や王子様」がたくさんいたと言う事です。
(どこの王様だ?   と思う問題の解決がされた気がします。)

ローテンブルク 2
市紋コーボルツエラー・トーア

タウバー川からの坂の途上にある城門コーボルツエラー・トーアを抜けるとすぐにもう一つの門を抜けます。二重門? 城壁も城門も時代とともに戦略も変わり強固に・・。
ローテンブルク 3
10世紀にローテンブルク伯爵の城が築かれたのがこの街の起源です。
城壁が最初に築かれたのは12世紀後半。
その後第二次城壁、第三次城壁と城がなくなっても都市として栄えて壁は拡張。

ローテンブルク 6
別の時に説明を入れますが、砲弾用の穴がたくさん空いており、大砲の位置が移動できるようになっている巨大で強度のある堡塁を備えた城壁です。

ローテンブルクの街並。
ローテンブルク 8

もちろんここはロマンティック街道です。
ローテンブルク 7
なぜ日本語入りなのか・・しかも漢字入り・・・・びっくり

少しつづく






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2009年12月23日 05時33分20秒
コメント(0) | コメントを書く
[建造物・教会・墓地・墓石・遺物] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: