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今回紹介している聖墳墓教会は2008年に撮影したものです。
十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)
ウトラメール(Outremer)
エルサレム王国
聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre)
キリストの墓
テンプル(神殿)騎士団のルーツ
ウトラメール(Outremer)
ヨーロッパではない外地 レバント、シリア地方、パレスチナなど東地中海の海岸沿いの
地方
にできた国を指す総称で、
特に十字軍派遣の副産物。 騎士が造った4つの王国(アンティオキア公国、エデッサ伯国、エルサレム王国、トリポリ伯国)を指した言葉 だそ
うです
。
1096年8月から順次出発した公式部隊
は、エルサレムまでの道中で幾度もの激戦をし進軍。翌年
1097年5月までには東ローマのビザンティンに到着
。
ところが公式特使の部隊でさえ
、以降エルサレムに向かうまでに陥落した街を自分の所有にし 、聖地に
行くのを止めた部隊もあり初心通り聖地にたどりついた部隊はわずか2万ほど。
シリアの中心アンティオキアを陥落後に君主になったのはイタリア軍の指揮官ボヘムント。
タルソスとエデッサを陥落して君主になったのはブローニュ伯ボードワン。
1099年1月やっと トゥールズ伯レイモンとブイヨン卿ゴドフロワ
がアンティオキアを出発してから聖地に到着したのはその年の6月
の事。
当時の戦闘は城壁を越えるまでの攻防があり、城内に入れば勝ち・・と言うもの。
公式の第一次十字軍によるエルサレム陥落は1099年7月13日夜半。
騎士500人、兵卒2万人ほど。
街の住人はイスラム教徒もユダヤ人も全く無差別に殺され、通りは彼らの血で真っ赤に染まったと言う。
聖地エルサレムは話し合いにより ロレーヌのゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)がエルサレム王国の君主に 決まった。
トゥールズ伯レイモン(Raymond IV de Toulouse)の方は数年後に北アフリカのトリポリに自分の国を造る事になる。
エルサレム王国
初代君主、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)(1060年頃~1100年)
しかし、彼は君主と呼ばれる事を拒否。 聖墓守護者でありたかったようだ。
正式に王と呼ばれるのは2代目のエデッサ伯ボードゥアン1世(Baudouin I)(初代ゴドフロワ・ド・ブイヨンの弟)である。
征服した1099年から始まり
、セルジューク・トルコのサラディンに攻め落とされる1187年までエルサレムに存在
。
エルサレム陥落後、王国の首都はアッコに移り、マムルーク朝スルタンのアシュラフ・ハリールにアッコが攻め落とされる 1291年まで存続
。
第一次十字軍で残留した兵士は土地をもらい領主になったが、そのほとんどはフランス人だった為に公用語はフランス語だったと言う。

エルサレム王国の紋章(ウィキメディア・コモンズより)
聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre)
巡礼ポイント ゴルゴタ(Golgotha)の丘

Aポイントがキリストが磔になったゴルゴタの丘。
Bポイントは「キリストの墓とされる場所。
聖墳墓教会はそれらの上を覆うようにして連結して教会堂を建てられている。
つまり、 ヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa)悲しみの道の10~14ステーションがこの教会の中にある
。
聖堂はキリストの墓所のあるアナスタシス(anastasis・復活聖堂)とマルチュリオン(martyrion ・殉教聖堂)。それに地下の聖ヘレナ聖堂からなっている。
ギリシャ正教会の聖堂

ここは キリストが十字架にかけられ亡くなった・・とされるゴルゴタ(Golgotha)の丘。
その 祭壇の下、十字架が建てられた穴の場所



アナスタシス(anastasis・復活聖堂)
キリストの墓
ドームの下には完全なるサンクチュアリ(sanctuary・聖域)である囲われた建物がある。
ここは キリストが葬られ、かつ復活を果たした岩の洞窟跡を囲った墓所
とされている。
福音書マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネともにキリストの死の章の内容にはずいぶん差がある。
十字架に付けられて亡くなったのはどれも同じであるが、槍に突かれ亡くなった・・との記載はない。唯一イエスの脇腹を刺した・・の箇所はヨハネの福音書のみで、それも死後の確認の為であった。
世間に有名なキリストを刺した聖槍であるロンギヌス(Longinus )の槍はこの一点からのみ誕生している。また、槍で突いた事による出血の血を受け取った聖杯伝説もここに由来している。
福音書マタイ、マルコ、ルカではキリストが十字架上につけられていた時に起きた奇跡の現象が描かれ、特別な人だった・・との印象を示している。
ヨハネにはそれが無い。
翌日が安息日の為に罪人はすみやかに十字架から降ろされた。
遺骸を引き取ったのは議員で、アリマタヤ出身のヨセフ。
彼は遺骸を亜麻布で包み、ほど近い園の新しい墓にキリストを安置した。
それぞれ異なるのは、香油と没薬のくだりである。
いずれも翌日が安息日の為に慌てていた様子がある。
安息日の翌日墓に行くと墓を塞いでいた石のふたが開いていた。
マタイ、マルコ、ルカでは天使が現れている。
ヨハネの方は普通にキリストが消え亜麻布が残されていた。と言う現実的なもの。
つまり 埋葬された墓から3日目にはキリストの遺骸は消えていたので「復活された」・・と解釈
。墓は墓でもそこにキリストの骨一つさえ無い・・と言う事である。
イスラエルの第二神殿時代、金持ちの墓は岩を真横にくり抜いて造られていたと言う。
入り口を入るとさらに入り口が・・。

そして祭壇
テンプル(神殿)騎士団のルーツ
テンプル騎士修道会の正式認可は第1次十字軍(1096年)遠征後1120年頃の
イスラム教徒からキリスト教の聖地エルサレムを奪還したものの騎士はその後の国の防衛にあたり、 エルサレムを除けばほぼイスラム勢力圏内で、巡礼路は相変わらず危険地帯
だったそうです。
巡礼
者を守る為の仕事を最初にかって出たのがシャンパーニュの騎士、ユーグ・ド・パイヤン(Hugues de Payens)(1070年~1136年)とジョフロワ・ド・サントメーら当初9人。
彼らは 巡礼者が上陸するパレスチナ港ヤッファからエルサレムまでの警護を始めたと
言う。
それが後に騎士団に正式に認められるのである。
続きはテンプル騎士団で・・。
back number
リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 1
リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)
リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)
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