PR
Keyword Search
Category
Freepage List
Mail (armour)のリンク先追加しました。
今回写真は神殿の丘から
尚、本筋のロンドンのテンプル教会では、テンプルの資金と騎士ウィリアム・マーシャルを紹介する予定です。
騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
騎士修道会(Knights of Christ)
テンプル(神殿) 騎士修道会(Knights Templar)
ソロモン王の神殿(Solomon's Temple)
シトー会と聖ベルナール
騎士修道会(Knights of Christ)
十字軍時代に大活躍したのが騎士と修道会である。
中でも 修
道会を軸とする修道騎士で作られたコミュニティーは、負傷兵や巡礼者の病院の役割ばかりでなく、巡礼者を保護したり、イスラムとの戦いにおいては戦闘集団にもなった
。
そんな 志を同じくする騎士の集まりはローマ教皇に認可された騎士修道会となる
。
十字軍時代騎士修道会は8つほど発足したと言われるが、その中でも 代表的な騎士団は3つ
。
聖ヨハネ騎士修道会(Knights Hospitallers)
テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)
ドイツ修道会のチュートン騎士団(Teutonic Knights)
当時騎士団に入る事はとても栄誉な事であり、非常に人気があったようだ。
最初に認可された聖ヨハネ騎士修道会には欧州の身分の高い貴族の子息がこぞって参加したとされる。
下、白装束に赤い十字はテンプル(神殿)騎士修道会の騎士
彼らは修道士か? 騎士か?
どんな身分の者も入団には 修道請願をたてる必要
があり、修道士としての規律を守る必要があった
。
それ故、 団員のほとんどは臨時の修道士
だった・・と言う事になり、 聖戦において、戦士が僧侶になった・・と言うのが騎士修道会の実態
である。
十字軍時代の 発足当初の「騎士修道会」とはKnights of Christ(キリストの騎士)と言う存在
だったのだろう。
が、 後半の騎士修道会は十字軍国家の防衛の主力となり、祈りよりも戦力
。
キリストの騎士と言うよりは 国の防衛の為だけに戦ったただの戦士となっていた
。
聖ヨハネ騎士団だけで2つの大要塞と140の砦を守る任務があてられたと言う。
テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)
治安の悪かった巡礼路において、巡礼者を守る為に活動を始めたのがテンプル騎士団の創始理由
です。
創始者のユーグ・ド・パイヤン他8名で始まった警護は個人のボランティア? だったのか?
ユーグ・ド・パイヤン
(Hugues de Payens)(
1070年~1136年)は1104年聖地での現状を聞いた後に聖地に出かけ1108年まで逗留。
再び聖地に(1114年~1116年)
次に帰国した時には資産を整理して1118年、 3度目の聖地入に親類と仲間と共に入り活動を始めたとされる。
神殿の丘は後にシオンの丘と呼ばれている。
右の金色のドームが岩のドームで、左端にある銀色のドームがエル・アクサ・モスク
テンプル(神殿)騎士と呼ばれるよう
になった理由
最初は俗人の服を身につけ、信徒が与える施しにより生活
。
貧しさに耐え。報いられる事も世に認められる事も望まず。
黙々として危険に身を呈していた
彼らに対して、エルサレムの指導者達は深い感銘
を受け、 3代目国王ボードワンII(1118年~1131年)は主の神殿のそばにある王宮内に彼らの事務所と住居を与えたと言う
。
以降彼らはテンプル(神殿)騎士(Knights Templar)と呼ばれる
のであるが、それが1118年~1120年の間とされている事からもしかしたらユーグ・ド・パイヤンは前の聖地入りの時からすでに活動を始めていたのではないか? と言う推察もできる。
また、彼らが突然スターダムにのし上がるのはクレルヴォーの修道士ベルナール(1090年~1153年)
の熱烈な支持があったからである。
※ ベルナール (仏 Bernard de Clairvaux)
ベルナルドゥス (ラテン語 Bernardus Claraevallensis)
「新しき戦士を讃えて」の小雑誌では 騎士の精神を忘れて世俗化した騎士を批判し、テンプル騎士団の清貧と熱意を賞賛
。
貧しき神殿の騎士を正式な騎士団に昇格する努力を彼は惜しまなかった。
かくして豊かな寄付が彼らに寄せられるようになり、入団希望者は押しかけ、 1129年のトロワの宗教会議では、テンプル騎士団の創設が決定
された。
ボードワンIIがユーグ・ド・パイヤンにソロモン神殿を譲る図 13世紀頃
ウィキメディア・コモンズより
ソロモン王の神殿(Solomon's Temple)
主の神殿とは、ソロモン王が造ったとされるエルサレム神殿の事
である。
ソロモン王の神殿は紀元前960年頃の話であり、この当時すでに城壁の一部しか存在しておらず、神殿の上にはイスラムの建てた岩のドーム(The Mosque of Omar)(690年)とエル・アクサ・モスク(Mosque of El Aksa)(710年)があった。
十字軍は 岩のドームが契約の箱を納めた場所だと特定。アル・アクサ・モスクはソロモンの宮殿と呼ばれ十字軍のエルサレム王国の王宮として使用されていた
。
岩のドーム(The Mosque of Omar)(690年)
アブラハムが生け贄(息子イサク)をささげようとした場所であり、
ダビデ王やソロモン王が祈り、契約の箱を祀った場所である。
イスラム教徒にとっても聖地。ここはマホメットが昇天した場所でもある。
エル・アクサ・モスク(Mosque of El Aksa)(710年)
エルサレム王国の王宮として使用され、テンプル(神殿)騎士修道会の本拠が置かれた。
十字軍時代ここが至聖所の一画と考えられていたからでもある。
テンプル騎士のフィギュア
左の騎士の持つ白と黒に赤い十字の盾(たて)が1147年以降のテンプル騎士団の印。
見えないが、白いマントの左胸に赤い十字のマークもテンプルの印。
衣装の白装束は当初、テンプル騎士達がシトー会の聖ベネディクトの戒律を遵守していた事による
。
トロワ公会議の後にテンプル独自の戒律はできるが、衣装はそのままで、鎖帷子(くさりかたびら)の上に白い衣を着てマント
をはおるのがテンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)風として定着。
以前テムズの橋のところでドミニコ会系の修道士をBlackfriars(黒衣の修道士)と書いたが、逆に「白衣の修道士」と言うのが存在する。
それがベネディクト会改革運動から分派したシトー修道会の装束である。
シトー会と聖ベルナール
シトー会は1098年、ディジョン南東の森の中シトーに「巡礼病院」として認可‥ 修道服の白色は自己犠牲、清貧、福音主義などの改革精神を象徴する色。
前述、フォンテーヌの城主ベルナールの入会によりクローズアップされる修道会である。
ベルナールの 名演説で2
回目の十字軍を募り後に彼は聖人に認定
。
神秘思想家にして政治、社会問題まで幅広い調停をこなすベルナールは 当時欧州で最も影響ある人物であった
。
鎖帷子(くさりかたびら)
ニットのように見えるが、薄い鉄板を輪切りにしたり、鉄の細糸を輪にしてつなぎ止めた防具。それ故Chain mail と呼ばれる。
以前
「西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)」でMail (armour)について紹介しています。
リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)
リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
嘆きの壁(The Wailing Wall)
ヘロデ大王時代のエルサレム神殿の西の外壁跡
「嘆きの壁」はユダヤ人にとっての最も聖なる場所。

つづく
リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)
リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)
リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)
リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)
リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)
アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 … 2024年03月03日
アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí) 1 高… 2024年01月22日
ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日 2023年10月08日