スコットランド聖公会(Scottish Episcopal Church)の祈祷書
長老派教会がスコットランドの大多数を占めるので他の会派とは典礼などもかなり異なるはず
。 それ故? 独立した祈祷書(Scottish Book of Common Prayer)を持つ。 1764年に大きな改訂が行われて以降、1929年にほぼ完成? 以降は時代に即した改定が多少行われているらしい。
1645年 Battle of Naseby(ネーズビーの戦い) サー・トーマス・フェアファックス(Sir Thomas Fairfax)とオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)率いる議会派ニューモデル軍(New Model Army)が、ルパート王子(Prince Rupert)率いる王党派軍(Royalist army)に勝利した ネーズビーの戦い(Battle of Naseby)はイングランド内戦(English Civil War)のターニングポイントになった。
クロムウェルの戦い方 古来からあるClose order formation(密集隊形)を騎馬戦に応用。 close-order cavalry formations(騎兵隊の密集隊形)は当時のイングランドにおいては革新的な戦法でこれが成功する。
チャールズ1世の妃。チャールズ2世の母。 ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France)(1609年~1669年)
夫の戦いの為の資金集めに尽力し危険なイングランド内にも戻って夫の支援をしている。 カトリックだったから国民人気は無かったらしいが、 非常に夫婦中は良かった
から9人の子女を出産している。(死産2人) 夫の処刑はショックであったろう。
1630年、彼の生誕の洗礼を行ったのが当時ロンドン主教であったウィリアム・ロード(William Laud)(1573年~1645年)である。 チャールズ1世に取り立てられたロードは3年後の1633年にイングランド国教会トップのカンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)に就任している。ウィリアム・ロードもまた、クロムウェルにより処刑されている。
王政復古でチャールズ2世はイングランド・スコットランド・アイルランド王に即位。ステュアート朝を再興させた。 即位に先立ち、チャールズ2世はブレダ宣言(Declaration of Breda)で信仰の自由を保証する事を約束していた。おそらく本人は望んでいたと思うのだが実際はできなかった。