Lemonhart755

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小早川隆景・豊臣秀長




豊臣政権で五大老の一人となった小早川隆景は

毛利元就の三男で、吉川元春の弟である。

天文13年(1544)12歳のとき、瀬戸内沿岸地方に勢力をもつ

小早川家の養子となり、19歳で家督を継いだ。

先見力もあるし、知略や武勇にもすぐれていた。

だから隆景は秀吉の器量を見込んで親近し、後には秀吉の参謀として

意見を述べることも多かった。

天正18年(1590)秀吉が小田原城を攻めた時のことである。

なかなか城が落ちそうもないので、秀吉は秀次にあとを任せ

大阪に帰ろうとして隆景に相談した。

隆景は即座に反対し、逗留を進言した。更に

「皆を退屈させぬために、歌舞などを催してはいあかがでしょうか。

 味方の慰めとなるし、我らの長陣の覚悟を敵も思い知るに違いありません」

と、言ったのである。

篭城中の適に戦意を失わせる作戦としては、これほど効果的なものはない。

秀吉は隆景の意図を知り、「なるほど」と感心し、すぐ実行に移した。

小屋掛けをし、歌舞音曲を賑やかに催させたのである。

味方の疲れが吹っ飛んだし、篭城する側は戦意を喪失し降伏してきた。

さらに、隆景は、いよいよ落城という時、秀吉に「東国のことゆえ

徳川殿にお任せすべきでしょう」と家康を立てている。

決して目立ちたがり屋ではなく、むしろ周囲の調和に配慮する良識派であった。


あるとき、隆景は黒田孝高と話をしていて、こう言ったことがある。

「貴殿は事を決断して、後で悔やむことがおありであろう。

貴殿の才知はすこぶる聡いから、一を聞いて二を知るし、人の言葉を聞くと

即座に善悪を決められる。まるで、水が低いところに流れるごとく

十分に思慮を尽くすということをなされない。

だから本意でないことも出来して、後悔されることになる。

私などは才が鈍いゆえ、人の言葉を聞いて、即座に是非を決することは

できない。心を尽くして思案し、ようやく決断する。

それだけに後悔することは少ない」


思慮深いと評された隆景らしい言葉である。即座に決断するのも

大切なことだが、しかし、後で後悔するようでは意味がない。

やっぱり「思案」は必要なことである。

おそらく晩年のことと思われるが、隆景は三か条の遺訓を残している。

その第一条はいまでも生き方の指針として十分現代で通用する。

「天下が乱れても輝元は、戦いのことに深入りしてはならない。

ただ、自分の国を堅く守り、失わないよう心がけるべき。

なぜなら、輝元には天下を動かすだけの器量が無いからだ。

もし、分限に満足せず、守らずに、天下の戦いに参画し、自国以外に

望みを持つようなことがあれば、必ず、自国を失い、身を危うくすることになる。」

つまり、己の分をわきまえ、思慮をもってことに処せと言っているのだ。

これはまた、隆景自身の生き様そのままだった。


文禄4年(1595)隆景は家督を秀吉の養子秀秋に譲り、備後の三原に引退した。

ところが、その2年後の慶長2年(1597)6月12日、家臣たちと懇談している時

突然嘔吐し、そのまま絶命してしまった。65歳であった。

数時間前まで執務をし、昼食もして元気だったというから、脳卒中か

蜘蛛膜下出血の可能性が高い。

思慮深く生きた隆景であったが、病気には勝てなかった。


彼や利家が後3年生きていたら、家康の天下は無かった可能性が高いと思う。


非常に残念でならない。






豊臣秀長



秀長は太閤秀吉の実弟で、優れたNO2の手腕の持ち主であった。

秀吉が天下を取れたのも秀長が陰で支えていたからであると言う歴史学者は多い。

その秀長が天正18年(1590)1月、病に襲われた。

秀吉は小田原攻めの陣中から母の政所に宛てた手紙の中で、「秀長の病状がよくなったと聞き

とても喜んでおります。」と書いている。

一時は小康状態が続いたが、病は一進一退を繰り返し、回復することなく

天正19年(1591)1月22日、52歳の人生を閉じ帰らぬ人となった。



秀長は秀吉の3歳年下で、もともと故郷の中村村で百姓をしていたが

永禄5年(1562)、23歳の時、信長に仕え百人足軽組頭となった兄秀吉に

口説かれて、桑を捨てて兄の下に組みした。

こうして秀吉に従い各地を転戦し戦功を上げた。

永禄9年(1566)の金ヶ崎城の攻略、天正元年(1570)の小谷城の攻略などがある。

天正3年(1573)I秀長は秀吉の長浜城入城に伴い、8500石をもらっている。



天正5年(1577)信長は越後の上杉謙信を討つため、柴田勝家や秀吉に出陣を命じた。

ところが、秀吉と勝家は意見が合わず、秀吉が勝手に長浜へ引き上げた。

当然、信長は怒った。秀吉は安土城へ出かけて謝罪したが、信長は何も言わない。

家臣たちは、別室に控えていたが、緊張のあまり、何度も厠に立つほどだったが

秀長だけは落ち着きはらい、静かに白扇を使いながら庭先の菊を眺めていた。

このため、家臣たちの緊張も和らいだという逸話も伝えられている。


それほど秀長は、沈着冷静な人物であった。


とはいえ、一度戦場に立つと、勇将として恐れられた。

特に、天正5年からの中国攻めでは功をあげ、天正6年には十万五千石の

出石城の城主となった。


その後も、天正11年(1583)の賊ヶ岳の戦い、天正13年(1585)の紀伊根来衆討伐などで奮戦した。

この功によった近江43万石を与えられて、大和郡山城の城主となった。

さらに、和泉、紀伊両国を与えられ、紀伊の岡山に城を築いた。


勇将と言われ、冷静沈着と評された
























































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