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東武バス最悪@ Re:東武バスの本社にクレーム入れようかと思う(04/08) 態度が偉そうな奴が多い。普通にできない…

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2009.12.08
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カテゴリ: 矢沢永吉
矢沢の言葉を本にしろ!
編集者が明かす
『成りあがり』出版舞台裏!

永ちゃんが永ちゃん々の言葉で、
ソロになるまでの自身の半生、生き様、
哲学を語っている「矢沢永吉激論集 成りあがり」。

矢沢永吉という強烈な個性は、
‘78年に出版されたこの本を通して
広く世に知られることになった。


その舞台裏について語っていただこう。

'76年東京、中野サンプラザ
当時ちょうど30歳だった
小学館「GORO」編集部の音楽担当
島本修二は衝撃を受けた。

矢沢永吉、初のソロコンサート。
そこに立つ26歳の矢沢は、
革ジャン、リーゼントにサングラスがおなじみだった
ロックバンド「キャロル」を率いていた頃とは
明らかに変わっていた。
島本は鳥肌が立った。


キャロルのように体を動かすハードなリズムもやるけど、
バラードがすごくきれい。

当時のロッカーは
「Don't trust over 30! 30歳以上を信じるな!)」
と叫んでいたけど、


永ちゃんはもっと幅の広いロックを
追求していく人なんだと思ったんです」



当時は井上陽水や吉田拓郎などの
フォーク全盛期。

しかしロック好きだった島本は、
矢沢のために「GORO」の誌面を割いた。

「写真ページをやったり、対談をやったり。
自分が好きなヤツって仕事にカコつけて
見に行きたいじゃないですか」

地方ツアーにも付いて回った。
ホテルも矢沢と同じホテルに泊まった 
コンサートが終わると
矢沢の部屋で酒盛りが始まる。

ビール片手にそこで飛び出す
矢沢の半生がとても面白かった。
「この話を僕だけが聞いていてももったいない」
島本は思った。

「そうだ、本にしよう!」。
島本にはまだ単行本を手がけた経験はなかったが、
手探りでタイミングを窺った。
すると幸運が訪れた。

'78年のニューアルバム
「ゴールドラッシュ」のリリースのタイミングで、
プロモーションの一環として出そうということになったのだ。

「矢沢という存在を世の中に広めよう」。
レコード会社の人たちと手を取り合った。
「それまでミュージックビジネスで成功してきたのは、
テレビを始めとしたメディアにもたれかかっていた人たち。

テレビをあえて無視し、
それまでの芸能界とは違うとこでやってきた永ちゃんは、
新しいやり方を知っている。
彼の存在を、彼の半生を通して、
もっと若い人が知った方がいいと思ったんです」



しかし、月に2回出る『GORO』も
回さなくてはならなかった島本。
激務であった。
とうとう体が悲鳴を上げ、
半年寝たきりになってしまった。

半年後ー会社に復帰した島本は
「マミイ」編集部に配属された。
幼児向けの学習誌である。
ヒマだった。

しかしその分、
矢沢の本に力を傾けることができる。
島本は、
産婦人科と矢沢を往復する日々を送った。

島本は考えた。
本を作るにあたって
「誰に」、「何を」、「どういう風に」伝えるのか? 
そのヒントになったのは、
父親の本棚であったと島本は言う。

「父はエンジニアだったので、
本棚には茶色の箱に入った
工学専門書がずらっと並んでいるんです。
でも、その中に唯一色の違う本がある。

松下幸之助の経営哲学の本なんですが、
それを父が読むように、
永ちゃんの本を若い人たちが読んだら…と」

島本は、矢沢のコンサートに来る人に、
矢沢は最初、広島から出てきて
都の一歩手前の横浜で降りて…
ということを伝えようと思った。

そこからさらに掘り下ける。
矢沢のコンサートに来る人…
「本を読んだことのない人たちだ!」。

島本は矢沢に散々付いて回って見てきた
コンサートの客層から推察Lた。

「文章は短い方がいい。
一つの話が見開きで終わるくらい短く。

少し長めの見出しをつけよう。
机の上で読む本じゃないし、
そもそも机も持ってないかもしれない。
だから本のサイズはポケットに入るサイズにしよう」



いろいろ決まった。
しかし、文章をどうするかで頭を悩ませた。

その時、ふと、
糸井重里を思いついた。
当時29歳だった糸井は、
新進気鋭の若手コピーライター。

島本とは友人の紹介で面識があった。
その頃、何気なく手に取ったミニコミ誌に、
糸井が矢沢について書いていた。
明らかに矢沢が好きだという文章であった。

「コピーライターはまさに短い文章にうってつけです。
畳み掛けるようにして文章を作っていく。
早速、糸井さんに連絡を取ってみると
「やりたい」と二つ近事でOKしてくれたんです」

本のデザインは、
糸井と仕事をしているアートディレクター
浅葉克己にお願いした。

安い仕事だが、快く引き受けてくれた。
陣容が整ったところで、
糸井といよいよ矢沢のインタビューに取りかかる。

「2~3時間を10回くらいやりましたね。
永ちゃんはユーモアの固まり。
笑わないインタビューはありませんでした。
永ちゃんが涙を流す時もありましたね。
金持ちの息子にケーキをぶつけられる話だったかな」

矢沢の半生が明らかになっていくにつれ、
糸井の質問の角度も冴えてきた。
数話分溜まったところでプロトタイプを作ってみた。

(遊びっても、スポーツなんて知らなかったよ。
サッカーとか、野球とか全く知らん。
打率とか、あれ、わかんなかった。

ライト、レフト、セカンド、わかってなかった。
オレ、ピッチャーわかった。
ピッチャー、投げるやつ。
キャッチャー、受けるやつ。
これは知ってた)

読んでみると、
目の前で矢沢が唾を飛ばしているかのような感じになった。
見出しは島本が付けた。
本の製作は順調に進んだ。



「その頃、会社に、
『矢沢永吉激論集』と書いて企画書を出したんです。
当時のミュージシャンの本は
ゴーストライターを立てたものばかりだったけど、
すごくカッコ悪かった。
ゴースト仕立てにはしたくなかった。

激論集というスタイルにしたのも、
あとがきを糸井さんに書いてもらったのも、
そうしたくなかったからです」
会社からハンコをもらって本ができる目処がついた。
いよいよ本のタイトルを決めなくてはならない。
そのとき、糸井が言った。
「『成りあがり』って言葉、面白い」

島本の体に電撃が走った。
それは矢沢がインタビュー中に発した言葉であった。

〈成りあがり。大好きだね、この言葉。素晴らしいじゃないか〉
そう矢沢が語った部分を、
島本は本の冒頭に持ってくることにした。

かくして'78年7月15日、
島本にとって初の単行本
「矢沢永吉激論集 成りあがり」は発売された。
島本は語る。

「この本を通して、
生き方の知恵を若い人たちに伝えたかった。
成りあがりと言われようと這い上がっていく知恵を。

本ってそもそもそういう役割じゃないですか。
僕は機能する本を作りたかった」


父にとっての松下幸丁之助。
若者にとっての矢沢永吉。
発売後、
「成りあがり」は10D万部を超えるベストセラーとなり、
これからの時代で生き方を模索する
あらゆる若者のポケットに収まった。
そして、今なお、
28歳の矢沢は読者に向かって唾をまき散らしている。

一回目、散々な目に遭う。
二回目、落としまえをつける。
三回目、余裕。






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Last updated  2009.12.09 01:10:32
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