Locker's Style

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『橋の下の彼女』(15)-3


 食後もしばらく、関内は日商赤丸時代の逸話と、ミツオカプロジェクトの話を入れ替わりで延々と続けた。最初のほうこそ我慢強く聞き入っていたジョエルとリンドンの兄弟は、トイレに行くと言って席を立ったきり戻ってこなかった。ライアンとアルマンは、関内の話を辛抱強く丁寧に相づちを打って聞いていた。アルバートともう一人の召使は、そのあいだもひたすら機械のようにヤシの葉を左右に振りつづけていた。
「辰三さん、そろそろ社宅に戻りますか」 
 二時間ほども話し続けて、さすがにしゃべり疲れた様子の関内は、そう言いながら、もう何本目になるかわからないサンミゲルをグイっとあおった。日が傾くにつれて蚊が湧き始めた。将人の脚の膝下は、たたき潰した無数の蚊の残骸と汗と吸われた血が混ざり、墨を塗ったような灰色になっていた。
「レックスよ、私たちはどれだけこのときが来るのを待ち望んだことだろう」関内が椅子ごとレックスに向き直った。「辰三さんがサマールにやってきた。そしてブエナスエルテがついに稼動の準備を整えた。私たちの勝利はもう目前じゃないか」
「その通りですよ、セキウチさん」関内に頷くと、レックスは辰に向き直った。「こうして、タツミさんを無事ブエナスエルテ社にお迎えすることができました。ウチの従業員たちが、本物の日本の品質管理基準を理解するには少し時間がかかると思いますが、どうかタツミさん、私も含めて、ご指導のほど、よろしくお願いします」
 将人が通訳すると、辰三は、任せておけ、と胸を拳で叩いた。
「冷凍庫と冷蔵庫さえ動いてくれりゃ、あとは何とかなるよ」
「あの発電機で、おそらくアレンの町全部の電力を供給できるでしょう、なんなら、新しく電力会社でも始めましょうかね」レックスがおどけて言うと、ライアンとアルマンがくすくすと笑い声を漏らした。「では、そろそろ社宅に行きましょう」

 パジェロは、バス停のある三叉路を左折して未舗装の道路に入った。道幅は五メートルほどあるが、実際に車が通行できるのはその半分もない。ところどころに、ショベルカーでえぐられたような陥没があるからだ。応急処置のつもりか、その中には割れたレンガやコンクリートの破片が投げ込んであるが、下手をすればタイヤがはまって出られなくなりそうなほど深い。
 ここにきて、なぜミナモト水産がわざわざ左ハンドルに改造してまでパジェロをサマールまで持ってきたのか、将人は思い知らされた。車高の高いオフロード車でなければ、この道を走るのは不可能だ。
 土煙の上がる夕方の路上には、小さな子供から老人まで、多くの人々が、まるで公園で遊ぶかのようにあふれており、運転手は細かく何度もクラクションを鳴らしている。道の悪さも相まって、パジェロは人が歩くよりも遅い速度でしか進めない。
 その悪路を五十メートルほど、数分かけて進んだところで、車一台通るか通れないかという脇道に入った。道の左に、朽ちかけたような他の家々とは明らかに違う、高い塀で囲まれた、西洋風の二階建ての家が見えてきた。
 パジェロは進み、その家の門の前で止まった。
「着きましたよ」
 レックスに続いて、関内が降りた。将人と辰三も続く。薄暗い裏路地の土を踏みしめた瞬間、アレンという町の、生の音が耳に飛び込んできた――土の道を歩く人々の足音、鶏や犬のなき声、トライシクルの排気音、子供たちの笑い声――まるで、この町が呼吸する音のようだった。
 アレンへようこそ――。
 社宅は、高さ三メートルほどの、先端が鋭くなった、錆びた鉄柵で囲まれていた。門の向こう側で、門番が一人、小さな椅子に座り笑顔でこちらを見ている。彼は住み込みで働いているらしく、門の脇にある小屋には洗濯物が干してあった。
 パジェロに乗っていた全員が門をくぐると、門番は立ち上がって門にかんぬきを掛けた。門の外には、いつのまにか多くの子供たちが集まっていて、好奇心むき出しの笑顔で将人たちを見つめている。
 なんだろう、この懐かしさは――将人は、ふと妙な既視感を覚えながら、必死に手を振ってくる子供たちに向けて、将人が笑顔で手を振り返すと、子供たちが奇声を上げて嬉しそうに飛び跳ねた。
 社宅の玄関のドアを開けたまま待っている運転手の怪訝な顔に気付いて、将人は慌てて玄関へと歩みを早めた。
 そのとき、はっと思い出した――この社宅も、あの子供たちも、未舗装の道も――将人がまだ幼稚園に通っていたころ、家族で居候していた、母の実家周辺の雰囲気にとても似ているのだ。二十年ほど前の三津丘市では、こんな光景はどこにでも見られる当たり前のものだった。
 社宅の玄関ドアをくぐると、その先は古臭いソファーを壁に沿って〈コ〉の字型に並べたリビングがあり、その〈コ〉の真ん中に、チャンネルがダイヤル式のテレビが一台あった。リビングの左隣には、二階まで吹き抜けになっているダイニングがある。建てられてからかなりの年月が経っているようで、壁や床の木材がところどころが黒くくすんでいた。
 ダイニングの奥にクローズドキッチンがあり、左手に二階への階段があった。階段の途中の壁には、イエス・キリストの肖像画が何枚か飾ってある。
 ほどなくして、ブエナスエルテ社から徒歩でやってきたライアンとジョエル、アルマンとリンドンの四人が社宅に到着した。
 ライアンたちに気付くなり、辰三が将人に顔を寄せた。
「あいつらに、この社宅に一緒に寝泊りできるか聞いてみろ。関内さんがサンパブロに戻ってからのほうがいいなら、それでもかまわねぇからよ」
 将人はライアンに歩み寄り、辰三の提案を伝えた。
 開口一番、ライアンは大笑いした。
「僕とアルマンとジョエルは、もうここで寝泊りしてるんだよ」
 辰三が拍子抜けしていると、ライアンが耳打ちした。
「だからさ、父さんとセキウチさんがルソンに戻ったら、その――僕たちだけで、抜け出すことができる」
「抜け出す?」
 将人は聞き返した。
 ライアンが、ジョエルと含みのある視線を交わす。
「決まってるだろ、夜のお楽しみだよ、アレンのね」
 ジョエルがにんまりと笑った。
 首をかしげていると「そのうちわかるさ」とジョエルが将人の肩をたたいた。
 関内から部屋割りを聞かれると、ライアンさっと真顔に戻り説明を始めた。二階には三部屋あり、一番奥のダブルルームは辰三と将人の二人が共同で、隣のシングルルームは関内が一人で使うという。あと一部屋あるが、そこは物置部屋で、メイドが寝泊りするということだった。一階にもダブルルームが一部屋あるが、そこはライアンとレックス、アルマンが三人で共用しているという。
 辰三と同じ部屋で寝泊りすると聞いて動揺した将人に、ライアンがささやきかけた。
「セキウチさんが帰ったら、ショウはシングルルームをひとりで使えるから」
 たかが数日間の辛抱だから問題ないよ、と将人は元気に答えたが、割り当てられた部屋に入った途端、自分の言ったことを後悔した。
 ダブルルームには、その名のとおり、それほど大きくないダブルベッドが一つあるだけだった。
「これ、どうやって寝れば良いんでしょう?」
 将人はあっけにとられて聞いた。
「並んで寝るしかねぇだろ」
 さすがの辰三も困惑している様子だった。

 荷ほどきを終え、一同はダイニングの大きな円卓をぐるりと囲んだ。ライアンとジョエル、アルマンとリンドンが並んで座り、その隣にレックス、関内、辰三、将人と並ぶ。一周して、将人とライアンが隣になるかたちだ。 
 関内はさっそくジョニ黒の箱をあけて晩酌を始めた。気持ちよさそうに酔いながら、昼食のとき聞いた日商赤丸時代の話を、凝りもせず繰り返す。露骨に退屈そうな表情を浮かべているレックスは別にして、ライアンもアルマンもジョエルもリンドンも、昼間と同様に興味津々といった面持ちで相づちをうちながら聞いている。関内は自分の話に酔いしれいてしまったかのように、途中から演説のような大声になり、時おり両手を振り回しながら、恍惚とした表情で話すようになった。
 このときも、将人は辰三から「通訳はいらねぇから」と言われた。
 関内だけがひたすら話し続けて二時間以上が過ぎた。話しすぎて疲れたのか、八時をまわったあたりから、関内は何度もあくびをするようになった。
 逸話のセットが六周目に入ろうとする気配を見せたが、関内は思い直したように口をつぐんで立ち上がった。
「それでは諸君、君たちの若き日々に栄光を! 多くを学び、多くを称えよ。この粗末な男の取るに足らない講釈を最後まで聴講していただいたことを、光栄に思う。まだまだ私の積もる話を聞きたいこととだろうが、この老体が部屋に戻り睡眠を取れと悲鳴を上げている。どうか失礼することを許したまえ。やがて来る栄光を称えて、あとは君たちで楽しんでほしい。それでは、おやすみ」
 恍惚の表情でそう言い残し、関内は二階へ続く階段を上がっていった。
 あまりの自画自賛ぶりに、将人はあんぐりと口を開けて見送った。それにひきかえライアンたちは、吹き抜けになったダイニングから、関内が二階の部屋に入るまで、惜しみない拍手を送り続けた。
 レックスも席を立ち、おやすみ、と言い残して部屋に戻った。ライアンたちはリビングへ移動すると、急に英語からタガログ語に切り替えて、何やら楽しそうに若者らしい馬鹿笑いをしている。
 ダイニングテーブルに残った辰三は、何も話さず、ひたすらジョニ黒をすすった。
 手持ち無沙汰になった将人は、持っていた書類カバンからノートを取り出した。ここ数日のあいだに、日記を書くことで、自分に起きたことを客観的に見ることができ、どれだけ嫌な事があっても、心を落ち着かせられることがわかった。そういうわけで、さっそく日記を書き始めた。
 しばらく日記に没頭していると、辰三が横から首を突っ込んできた。
「お前さ、そんなもん書いてねぇで、ライアンたちと話してこいよ。それもお前の仕事の一つだって言ったろ」
 すみません、そうでした、と将人は詫びた。
「でも辰三さん、テーブルで一人になっても大丈夫ですか?」
「これ飲んだら俺はもう寝るからよ、心配すんな」
 言って、辰三はグラスの残りを一気に飲み干して立ち上がった。
 ライアンが歩み寄ってきて、「タツミさん、もう少し話しましょうよ」と言ったが、辰三は「グッナイ」と手を上げるなり、階段をそそくさと上がっていった。
 辰三が部屋に入るのを見届けると、ライアンは将人の隣に座り、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「さてと。ようやく若者の時間だね」
 ライアンは、リビングにいたジョエル、リンドン、アルマンの三人に手招きして、円卓に呼び寄せた。みな、待ってましたとばかりの笑みを浮かべて席に着いた。
「ブエナスエルテ社の従業員たちって、みんな自宅から通ってるの?」
 将人は、ふと疑問に思ったことを聞いてみた。
「従業員は基本的にあの工場で寝止まりしているんだよ。この社宅は、セキウチさんやタツミさんのために借り上げたんだ。僕だって、ここを借りるまえは会社に住み込んでいたよ」
 ライアンが答えた。
「ブエナスエルテ社のどこかに、寮みたいなものがあるの?」
 昼間見た限りでは、社宅や寮のような建物は見当たらなかった。
「屋根さえあれば、そこが寮さ」
 ライアンが、当然だろ、というように答えた。
「僕は屋根がなくてもいいよ、毛布だけあれば」
 ジョエルが続く。
 言われてみれば、確かに雨さえしのげれば、一年中夏といって良いこの国の気温なら、毛布一枚あればどこでも寝られるだろう。そう考えると、こうして一軒家を借り上げて社宅に供するというのは、相当な贅沢だというのがわかる。
「えっと、改めて彼らを紹介するよ」ライアンが言った。「彼はリンドン。電気工事が専門だけど、ブエナスエルテ社では、主に総務や人事を担当してもらうことになるね」
 柔らかそうな直毛を真ん中分けしている、長身で細身のリンドンが頷いた。
「彼はアルマン。サンパブロのAMPミナモトから派遣されてきたスパイで――」アルマンが抗議の声を上げたので、一同が爆笑した。「――というのは冗談で、担当は電気関係ね」
 色黒の顔に八の字の口ひげ、くせ毛で垂れ目、小太りのアルマンが頷いた。
「アルマンったら、いい年してまだ結婚しないんだよ。両親は心配で毎日嘆き悲しんでいるんだってさ。セキウチさんすら心配している始末で、いい女がいたらアルマンに紹介してやってくれって、ジョエルがいつも頼まれるんだ」
 そうそう、とジョエルが笑った。
「僕とジョエルの自己紹介はもう済んでるから省略ね」ライアンが微笑んだ。「父さんとセキウチさんがルソン島に戻ったら、アルマンにもこの社宅で寝泊りしてもらうから、タツミさんにそう伝えてください。リンドンはブエナスエルテ社の従業員たちを昼夜通して管理しなければならないから、会社に寝泊りすることになるけどね」
 そのあと、将人は彼らの年齢を聞いて驚いた。ライアンが二十四歳だというのは知っていたが、どう見ても三十代前半にしか見えないジョエル、リンドン、アルマンの三人が、いずれも四十歳を越えていたのだ。
「フィリピン人というのは歳をとらない人種なの?」
 将人は本気で聞いた。
「日本人が歳を取るのが早いんだよ」
 アルマンが言う。
「つまり関内さんとか辰三さんのことを言っているの?」
 将人がからかい半分で言うと、アルマンは血相を変えて「ちがうちがう!」と弁解したので、ライアンとジョエルが爆笑した。
 笑いがひと段落したところで、ジョエルが将人に顔を寄せてきた。
「ところでさ、サマールではかなり安く女を買うことができるんだけど、興味ある?」
 将人は高橋の話を思い出した。
「そういえば、そんな話を聞いたっけな」
「ちなみにここアレンでは、一晩五百ペソなんだ」
 将人はそれを冗談だと思って笑ったが、アルマンとライアンが、そうなんだよ、と真顔で頷くのを見て、本当なのかと驚いた。日本円にすれば約千五百円だ。
「信じられないな」
 将人はかぶりを振った。
「ここはフィリピンの中でも特に田舎なんだ。何から何まで、とにかく安い。娼婦も例外じゃない。日本人のショウが高いと感じるものは、恐らく何一つないと思う」
 アルマンが言った。
 僕は月給十万円の雇われ通訳なんだよ――と言いかけて、もしかするとアレンでは、日本円で十万円というのは相当な額なのかもしれないと将人は思い至った。
「アルマンはしょっちゅう女を買いに行くんだ」
 言って、ジョエルが笑った。
 アルマンは抗議せず、僕の勝手だろ、と照れくさそうに苦笑いする。
「結婚してないとはいっても、彼女くらいいるでしょ?」
 将人はアルマンに聞いた。
「残念ながらいないんだ。最後に女性と付き合ったのは、もう何年もまえかなぁ」
「じゃあ、今度みんなで女を買いに行こう、アルマンを元気付けるために」
 将人は冗談のつもりで言った。
「僕には愛しの彼女がいるんだ」ライアンが真顔で言った。「リンドンは結婚してるし、奥さんのことが大好きで子供もいるから」
 りんドンが「僕は遠慮する」と慇懃に言った。
「僕はまったく問題ないよ」ジョエルが、待ってましたとばかりに手を上げた。「ただし、ここの町にはろくな売春婦がいないんだ。でもショウ、心配しなくていい。そのうちカルバーヨグに魚を買い付けにいくんだろ、あそこでなら、それなりの女がそろってるバーがあるんだよ。君のために、最高の女をを見つけてやるからさ」
「ちょっと待ってくれよ、『買いに行く』って僕が言ったのはあくまで冗談で――」
「まあまあ、照れることはないって」
 ジョエルもアルマンが声を合わせて言った。将人が弁明しても、まったく耳を貸そうとしなかった。

 十一時近くまでわいわいと話し続けた後、リンドンとアルマンが、「そろそろ会社に戻るから」と社宅を出て行った。
 将人は、二階へ続く階段を上りながら、すでに彼らとのあいだに友情らしいものが芽生えつつあるのを感じて嬉しくなった。
 エミリーの言葉を思い出す――あなたとライアンは、性格が似てる感じがするわ、きっと仲良くやっていけるはずよ――。
 階下のライアンとジョエルは、将人が部屋に入るのを、手を振りながら見送ってくれた。
 部屋のダブルベッドの上で、辰三は仰向けで大の字を描き、牛か豚の鳴き声のようないびきをかいて熟睡していた。
 将人はスーツケースからバスタオルを取り出して、ベッド脇の床の上に広げた。それからクローゼットの中を漁って、埃っぽいにおいがする枕と、擦り切れた薄い毛布を引っ張り出した。
 硬い床の上でも、眠りはあっという間に訪れた。
 ただ、その夜、辰三のいびきのほかにもうひとつ将人の眠りを妨げるものがあった。それは、将人の顔の上を、かさかさという音を立てて這って行く、バッタのような長い足をした大きなゴキブリだった。

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