Locker's Style

Locker's Style

『橋の下の彼女』(18)

1999年7月2日(金)夕方~3日(土)早朝

フィリピン・カルバヨグ

 カルバヨグまでは、カタルマンからアレンまでと似たり寄ったりの、コンクリートで舗装された〈悪路〉を進む、二時間ほどの旅路だった。車には、関内、レックス、辰三、将人と、荷物スペースにライアン、アルマン、ジョエル、それに運転手を合わせて合計八人が乗っている。リンドンは明日の早朝、アルバートと共にジープニーでカルバヨグまでやってくることになっている。
 道中、ブエナスエルテ社の前も通っているその舗装路が、実はあの〈アジアンハイウェイ〉だとレックスから聞かされたときには、さすがに将人は驚いた。その道路は、フィリピンのほぼ全土を南北に縦断する、日本のODAで作られたひと続きの道路だという。レックスから渡された地図を見ると、確かに、〈AH26〉と記された黄色の線は、ルソン島北端のラオアグから下に延び、マニラを通って島の南端で途切れたあと、海を越えてサマール島のアレンから再び始まり、カルバヨグを越えて、島の南端で右に折れ、サンファニーコ橋でつながったレイテ島に入り、さらに南へ進んで海をまたぎ、ミンダナオ島に入り、島の形をなぞるように半円を描いてから、マレーシアの国境線も近い、西端のサンボアンガで止まっていた。
「この道路が日本のODAで作られたと知っているフィリピン人はほとんどいないだろうけどね」関内があきれるような口調で補足した。「日の丸の入った記念碑でも何でもいいから『この道路は日本の金で作ったんだぞ』とわかるものを道端に立てるくらいのことやればいいのにね。ODAが実質的に戦後賠償の役目を果たしてるとはいっても、日本国民が払った税金で作ったんだからそれくらいさせてもらわなくては、納税者としては割に合わない。アメリカを見てみなさい。あんなだだっ広い軍人墓地を、恩着せがましく首都圏のど真ん中におっ立てちまうんだからね」
 そのときばかりは、将人は関内の言葉に心から共感した。関内があの軍人墓地を将人に見せたのは、これを伝えたかったからなのだろうか、と訝う。


 カルバヨグに到着したのは、すっかり日の沈んだ午後八時過ぎだった。
 目に付くのは平屋ばかりのアレンと違って、カルバヨグには三階建てかそれ以上の建物が通り沿いに並んで建っている。アレンなら真夜中に感じるこの時間でも、通りには街灯が点り、ちらほらと通行人もいる。古びてはいるがボーリング場のような大きな映画館もあり、上映中の作品のポスターが、壁に沿ってずらりと貼ってある。ガソリンスタンドも、アレンのように手動ポンプ式でなく、電動の給油機を備えていた。町の中心部に入ると、通りに面した建物の一階はテナントの店舗が軒を連ねていて、商店街らしい雰囲気を漂わせている。
 そんな町の一角にそびえる、五階建てのビルの前でパジェロは止まった。
 関内が無言でそそくさと車を降りた。またどこぞの誰かとこのビルの一室で長い会合でもするのかと、将人はうんざりした気分で彼のあとに続いた。見れば、辰三も同じように滅入った顔をしている。
 雑居ビルのような外観のビルに入ると、一階は通路に電球がひとつだけ点っている以外は真っ暗で、まるで物置のように大小さまざまなダンボールが積み上げられている。階段を上って二階にたどり着くと、それまでの陰鬱な雰囲気が一変した。煌々とした廊下の先に、赤と白のペンキで塗られた派手なフロントが見えている。その脇には向かい合わせに置かれたソファーと低いテーブルが、ちょっとしたロビーを作っていた。
 ここは雑居ビルではなくホテルなのだと将人は気づいた。
「言いたいことはわかってるよ、ショウ。これでも全室エアコン完備の、カルバヨグでは最高級のホテルなんだよ」
 将人の驚いた顔に気づいたライアンが、そう言って苦笑いした。
 部屋はトリプルとツインが各一つずつ予約されていた。どう考えても七人が寝泊りするには無理がある。予約するのが遅れたせいで二部屋しか空室がなかった、とライアンは言ったが、関内から経費は徹底的に抑えろ、といった指示があったに違いないと思えた。
 荷物を運んできた運転手に、関内がトリプルルームに運び込むよう指示したので、将人は自分とライアンたちの四人がツインを割り当てられたのだと悟った。エクストラベッドがあるのかと将人はライアンに聞いたが、彼は面白い冗談でも聞いたかのように、くすくす笑いながら首を振った。
 社宅だけでなくホテルに来てまでも、男二人がシングルベッドを共有しなければならない情況に、将人は不満を超えてむしろ愉快な気分にさせられた。
 荷解きを終えた関内は、辰三とレックスを従えて、さっそくロビーのソファーで晩酌を始めた。関内はまたいつもと同じ日商赤丸時代の昔話を英語で始める。二人がけのソファーに、辰三はレックスと隣り合わせで座ったので、将人は仕方なく関内の隣に座り、聞き飽きた逸話の内容をひとつ残らず通訳した。そのとき将人はふと、関内のはちゃめちゃな英語も、レックスの強い訛りも、このたった数日のうちにずいぶんと理解できるようになっていることに気付いた。考える時間もなく、次から次へと、訳が頭に浮かんでくるのだ。
 やっぱり慣れるもんなんだな――将人は強く実感した。エミリーの言った通りだ。
 自信が沸いてくるのを感じながら通訳を楽しむ余裕すら持ち始めたそのとき、関内から「今夜は私たちだけで大人の会話を楽しむから、柏葉君は若者たちと飲んでなさい」と言われ、手を振って追い払われてしまった。
 文法の間違いも、単語の誤用も、意訳せずそのまま訳す余裕すらあったので、関内はさぞかししゃべりにくかっただろうなと、内心でしてやったり、と将人は思いながら――次の復讐はさぞかし豪勢になるだろうことはとりあえず考えないことにして――にこやかにライアンたちのいるツインルームに戻った。
 部屋に入ると、ジョエルが手前のベッドに寝転がってタバコをふかしていた。
「ずいぶん早く開放されたじゃないか」ジョエルはにやにやと笑いながら、もう片方のベッドの上に散乱した、二十本はあるサンミゲルのビンの山に向けて顎をしゃくった。「さっきフロント係に金を渡して買いに行かせたんだよ。ショウも遠慮なくやってね」
 言って、ジョエルはビンの山から一つ取り上げると、栓を抜くなりぐいぐいと飲み干した。
 ライアンとアルマンはどこへいったのかと聞くと「町の探索に出かけたよ」とジョエルは答えた。
「探索って、何の?」
「それはあとのお楽しみ」
 ジョエルがげらげらと笑った。
 二本のサンミゲルで酔いもまわり、ベッドに横たわりながら、ジョエルとくだらない話で盛り上がって一時間ほど経過したとき、ライアンが息を切らしながら部屋に飛び込んできた。
「関内さんたちは?」
 ライアンが聞いた。
「ロビーにいなかった? だったら、もう寝たんじゃないかな」
 ジョエルが答えると、ライアンはタガログ語に切り替えてせっつくように話し出した。
 会話が終わると、ジョエルがにんまりと将人に向き直った。
「ショウ、ようやく君にフィリピンの夜を教えられるときが来たようだ」
「フィリピンの夜? いったいどういう意味――」
 将人が言い終わらないうちに、ライアンは部屋から駆け出して行った。ジョエルに「いったい何事なんだ?」と何度聞いても、「もうじきわかるから」と訳知り顔を向けられるだけだった。
 数分したのち、ライアンが、さっきの騒がしさとはうってかわって、身をかがめながら忍び足で部屋に戻ってきた。
「そろそろ何を企んでいるのか教えて――」
 将人が言いかけると、ライアンは「静かに」と人差し指を口に当て、ロビーの方にいる誰かに向けて手招きした。今度は、爪先立ちになったアルマンが、重たそうな体に似つかわしくない軽い足取りで静かに部屋に走り込んできた。
 そのアルマンも、ロビーの方に向けて手招きする。
 数秒後、どう見ても十五歳くらいの顔つきの、背の低い少女が部屋に入ってきた。
「いい子を見つけてきたじゃないか」
 ジョエルの声が静かな部屋に響いた。
「言われた通りの場所で待ったんだ。たくさんいて、選ぶのに困ったよ」
 アルマンがにんまりと答える。
「じゃあ、僕たちは町で遊んでるから、ごゆっくりね」
 ライアンは将人に親指を立てると、少女を残したまま、アルマンと共に部屋から出ていってしまった。
 将人は呆気に取られた。何が起きているのかまったく把握できない。カルバヨグの町で、ライアンたちが将人のために、この少女をナンパしてきたのかとも思ったが、それにしてもホテルの一室に連れ込まれたこの少女がまったく動揺するそぶりを見せないというのは妙だった。
「さてと――」
 ジョエルは少女とタガログ語で言葉を交わすと、ベッドから起き上がり、サンミゲルのビンを三本取り上げて部屋を出て行こうとした。
「ちょっとジョエル、君までどこへ行くつもりだよ」
「心配しなくてもロビーで待ってるからさ。終わったら呼んでよ、次は僕の番だから」
 ドアノブに手をかけて今にも部屋を出て行こうとするジョエルに駆け寄って、無理やり部屋に引き戻した。
「ちょっとジョエル、いい加減に何がどうなってるのか、はっきり説明してくれないか」
「お金のことだったら心配いらない。こっちで持つからさ」
 将人の両肩をポンポンとたたきながら、ジョエルがにこやかに言った。
「僕が聞いているのはそういうことじゃなくて――」そこで将人ははっと気付いた。「お金だって? それじゃまさか、この子がその――」
「娼婦さ」ジョエルが平然と答えた。「病気はないそうだから安心していいよ。もし気になるなら、僕が先にやってもいいんだけど――まあ、二人とも感染するのは同じだけどね」
 言って大笑いするジョエルのシャツをつかむと、将人は彼を部屋から廊下に引っ張り出した。
「いったいどういうつもりだよ。確かに〈こういうこと〉に興味がないわけじゃないけど、よりによって、あんな子供みたいな子を連れてくることはないだろ。どう見てもまだ中学生じゃないか」
「ショウも変わってるね、あれくらいが最高じゃないか。わかった、もっと年上がいいなら、またライアンたちに別の女を探してもらって――」
「だから――」将人は、隣のトリプルで寝ているだろう関内たちのことも忘れて、思わず声を荒げていた。「――やっぱり僕にはできないよ、こんなこと」
 嘘だろ、と言わんばかりに目を見開いて、ジョエルはかぶりを振った。
 ジョエルはしばらく腕組みをしながら何やら考えている様子だったが、そのうち、ここでちょっと待ってて、と言って部屋に戻った。
 半開きのドア越しに、ジョエルと少女のタガログ語の会話が聞こえてくる。内容は理解できないが、途中から少女が怒ったように声を荒げ、ジョエルがなだめているのがわかった。
 数秒後、ジョエルが舌を出しながら部屋から出てきた。
「実はね、ライアンたちがもう彼女にお金を払っているんだ。だから『ショウが君の事を気にいらないから、悪いけどさっき払った金を返してくれないか』と言ったらさ、あの子、怒っちゃって」
「ちょっとジョエル、それじゃまるで僕が悪者じゃないか」
「まあまあ落ち着いて。あの子は中学生じゃなくて高校生なんだけど、〈これ〉で学費を稼いでるんだって。だから『半額にするから、あなただけでも買ってくれない?』って頼まれちゃって」
 これ、と言うとき、ジョエルは、左手で作った輪の中に、右手のひとさし指を突っ込んで何度も往復させた。
「つまり、君はあの子を買うんだな?」
 将人が聞くと、ジョエルが歯を全部見せて微笑んだ。将人は頭がくらくらしてきた。
「だからショウ、悪いけど〈これ〉が終わるまで、ロビーで待っててもらえない?」
 再び、ジョエルが左手の輪の中に右手の人差し指を突っ込んだ。
 ジョエルの卑猥な指使いから、将人は目をそむけた。
「わかったよ」
 将人は頷くと、少女を見ないように顔を伏せて部屋に入り、サンミゲルを三本つかみ上げ、逃げるように部屋を出た。
 ドアの外で待っていたジョエルに将人は言った。
「あんなふうに声を荒げるくらいだから、お金には相当困ってるんだろ。君たちがいくら払ったのかは知らないけど、学費だって言うんだし、半額なんていわずに、僕の分も払ってあげてくれないか?」
 ジョエルは、わかった、とにんまり笑うと、部屋に顔を突っ込んで、少女にタガログ語で将人の言ったことを伝えた。少女は、わずかに開いたドアの隙間から将人が見える位置まで歩み寄ると、とても娼婦とは思えない幼い顔で「サンキュー、ベリー、マッチ」と訛りのある英語で言った。将人は軽く頷いたが、少女の目を見ることはできなかった。
 サンミゲルのビンを抱えながらロビーのソファーに向う途中、「ダブル、ダブル!」と叫ぶジョエルの声が聞こえた。恐らく、将人の分も合わせて二回させろ、とう意味であろうことは、容易に察しがついた。

 ロビーでサンミゲルをあおってみても、あの十代の少女と、四十を超えるジョエルが、数メートル先の部屋で体を合わせていると考えると、とても落ち着いて座っていられる気分ではなかった。かといって、ホテルを出るわけにも行かない。あっという間に三本のサンミゲルを飲み干してしまった手持ち無沙汰から、空になったビンをさらに傾けて数滴のビールをすすってみたりする。
 そんな将人を見かねてか、フロント係が「何か飲み物をお持ちしましょうか」と声をかけてきた。それならばと、フロントで売っていたビン入りのレモンティーを三本買った。
 十時を過ぎても、ジョエルが部屋から出てくる気配はなかった。今夜はここで寝ることになるんだろうか、と将人は思いながらソファーに横になったが、フロント係は注意するどころか親切に毛布を貸してくれた。
 毛布に包まってまどろみかけたとき、誰かが階段を駆け上がってくる音が響いてきた。強盗かと慌てて体を起こすと、現れたのはライアンだった。息を切らしながら、ロビーで寝転がっている将人を見て驚いている。
「どうしたんだショウ? まさかジョエルのやつ――まったく良い歳して、またやってるの?」
 言いながら、ライアンはためらいもなくドアをノックして部屋の中に入っていった。ドアが半開きになり、将人の位置からでも部屋の中が見えた。ジョエルはベッドで少女に腕枕をし、体を寄せ合って、鼻先をこすり合わせながらいちゃついている。まるで本物の恋人同士のように見えた。
 ライアンはタガログ語でジョエルと話した後、叱責するような声を上げ、続いて将人に振り返って部屋に入るよう促した。
 ジョエルはベッドに寝たまま「ごめんごめん、この子のことで頭がいっぱいで、君がロビーで待ってることをすっかり忘れていたよ」と、まったく悪びれるようすもなく言った。
「今からショウを連れてゴーゴーバーに行く。一、二時間で戻るから、それまでにその子を帰すんだよ」
 ライアンが英語で言った。
「ちょっと待ってよ、ゴーゴーバーっていったい――」
 言い終わらないうちに、将人はライアンにロビーへ引っ張り出された。
「ショウ、君はあの子と〈これ〉をしなかったんだそうじゃないか。 まったく、あの子が気にいらなければ別の子を連れてきたのに。そうすれば、何もひとりでロビーにいなくても、ジョエルと一緒に――」
「そんなことできるわけないだろ」
 将人はかぶりを振った。
 ライアンは「なぜ?」というように首をかしげながらも「今からジョエルの埋め合わせをするから」とまるで仕事に取りかかるような口調で言った。とりあえずこのままロビーにいても仕方がないと思い、将人はライアンと一緒にホテルを出た。深夜にも関わらず、外は汗ばむほど蒸し暑い。
 ホテルからすこし離れた道路脇に、パジェロが止まっていた。ライアンに続いて将人もパジェロに乗り込んだ。
「良いバーを見つけたんだ。いま、その店で人気一番と二番の女の子をアルマンが囲ってる。その二人ときたら、それはもう飛びっきりの美人でさ! ハンサムなショウでも気に入ること間違いなしだよ。さあ、さっきまでのことは忘れて、今夜は朝まで思い切り遊ぼう! 金のことなら心配いらない、すべてブエナスエルテ社が面倒を見るからさ」
 キャバクラやパブみたいなものだろうか、だったら女の子を織り交ぜて飲むだけだから心配ないだろう、と将人はにこやかに頷いた。場所はどこだろうと、こうしてライアンたちと飲みに出られることが、とにかく嬉しくて仕方ない。
 走り出したパジェロの中で、ふと、ひとみの顔が脳裏に浮かんだ。金曜の夜――今ごろ〈すなっく・さちこ〉で客の相手をしていることだろう。
 出発前の出来事が、とんでもなく遠い昔のことのように感じられる。
「どうしたんだ、ショウ? やっぱり、気が進まないの?」
 ライアンの言葉で、将人ははっと我に返った。
「いや、ちょっと考え事をしていたんだよ」
「今夜くらい仕事のことは忘れよう。僕もそうするからさ」
 そうだね、と将人は微笑んだ。
 アレンからカルバヨグへの道のりでも数羽の鶏をひき殺した運転手は、半分閉じかけた目を何とか開いているといった不機嫌な顔でハンドルを握っていた。時計を見れば、まもなく日付けが変わろうとしている。さっきは娼婦の送り迎えをさせられ、今度は私用で出かけるライアンと将人をバーに送っていく。おそらく将人たちがバーを出るまで、ラウルのように表の道路で寝ずに待っていなければならないのだろう。彼が不機嫌になるのも仕方がないと思えた。
 車はカルバヨグ川の岸壁沿いを走る道を河口に向けて走った。しばらくして通りの雰囲気が一変した。派手な電飾看板を掲げた店がずらりと軒を並べている。どの店の入り口にも、ノノイのような体つきをした男たちが二人一組で、威圧するように立っていた。
 数件の店を通り過ぎ、パジェロは乳房を描いたピンク色のネオン看板のある店の前で止まった。そこは他の店と比べてひと回り大きく、入り口には、〈ムーンライト(Moon Light)〉という屋号が、薄暗い中、赤のネオン管でくっきりと浮かび上がっている。
 ライアンが車を降りたので、将人も続こうとすると、彼に慌てて止められた。
「ショウはひと目で外国人だってわかるから、ふっかけられるに決まってる。だから僕が先に君の分まで入場料を払ってくるよ」
 運転手と二人きりになると、車内に居心地の悪い沈黙が漂った。ライアンは五分以上経っても戻らず、何か問題があったのではと将人は心配になった。運転手もどこか落ち着かないようすで、フロントガラスの先の暗闇をじっと見詰めたまま、舌打ちと貧乏ゆすりを続けている。
「私は、クリスって言います」
 唐突に、運転手が名乗った。
「僕はショウトです」言うつもりではなかったのに、いきなりのことだったので、思わず「ショウト」の「ト」まで言ってしまった。
「叫ぶ(Shout)?」運転手はおどけたような顔で首をかしげた。「それとも、影(Shadow)?」
「英語の名前じゃないんだよ。〈ショウ〉でかまわないから」
「もちろん知ってます」言って、運転手は普段のうつろな顔つきからは想像もできないような、人好きのする笑みを浮かべた。「みんな、あなたのことをそう呼んでますからね」
 言われてみればその通りだった。今さら自己紹介するまでもない。
「でも、〈影〉って、格好(Cool)いいね、これからそう名乗ろうかな」
 将人は運転手が意外に気さくなことに驚きながら微笑んだ。
「影は冷えて(Cool)いますからね」クリスがにやりとした。「ところで、あなたはさっきから落ち着かないようすですが、トイレを我慢しているんですか?」
「いや、その――」
 落ち着かないのはライアンがなかなか戻ってこないからだが、何となく「実はさっきからトイレに行きたくて」と返していた。
「それは奇遇ですね、私もなんです」言って、運転手がげらげらと笑い出した。「あの、こんなこと、上司に対して非常に申し上げにくいのですが、できましたら五十ペソほどいただけませんか? トイレに行きたくても、車を離れるわけにはいかないし、かといって、あなたを車にひとりだけ残すわけにもいかなくて」
 いいよ、と将人は財布をまさぐり、五十ペソ札を手渡した。夜間はトイレが有料になるのだろうかと思いながらも、日本円にすればたかが百五十円程度なので、あえて理由を聞こうとも思わなかった。
 運転手は手渡された札を握り締めると、車を降りて〈ムーンライト〉の門番を呼んで金を渡した。門番は嬉しそうな顔で親指を立てて見せた。
「行きましょう」
 五十ペソは門番へのチップだった。そういえばサンパブロで、ラウルも車の見張り番を頼むのに小額の金を渡していたっけな、と将人は思い出した。
 クリスのあとに続いて、港の公共施設らしいビルに入った。一階の奥の奥まで進んだところに、靴を履いていても床を踏むのがためらわれるほど汚れたトイレがあった。
「車の中で何時間も待っていなければならないときの一番の問題はトイレなんですよ」クリスは水道の蛇口を全開にしたときのような音を立てて放尿しながら言った。「どうしても我慢できないときのために、ビニール袋を持ち歩いてるんです。十秒でも車を離れたら車を盗まれかねないですから」
「用を足したあとそのビニール袋をどうするの?」
「窓から投げ捨てるんですよ。臭うし、手にかかったりするから、できれば使いたくないんですけどね。でもビニールに小さな穴が開いてたときなんかは最悪です。この世の終わりかと思いますね」
 将人は静まり返った建物に響き渡るほどの声を上げて笑った。
 車に戻る途中で、クリスが「日本人は難しいですね」と愚痴るようにつぶやいた。関内、源社長、辰三、それから名前を知らない他の日本人たち――恐らく、清新設備の山本や、将人が会ったことのない斉藤食材の社長のことだろう――が、一緒に楽しく飲んだ次の日から、ころっと態度を豹変させ、まるで汚いものでも見るかのような視線を向けてきた、と言うのだ。「私はそれ以来、どんあ日本人が来ても、絶対に関わらないと心に決めていたんです」
 あのジョニ黒の話か、と将人はぴんときた。
「たぶんその原因は、君が彼らの貴重なジョニ黒をまるまる一本持っていってしまったからだよ」
 将人は、飲んでいいとは言ったが一本まるまるくれてやるつもりではなかった、という辰三たちの言い分を話して聞かせた。
 クリスが心底驚いたような顔になった。
「だって、『全部飲め(Drink all)』って言ったんですよ? 全部飲んで良いなら、持って帰っても同じじゃありませんか?」
 言われてみれば確かにそのとおりだ。将人は肩をすくめて微笑んだ。恐らく、フィリピンへの投資が決まってから英語をかじり始めた源社長が、クリスに「どんどん飲め」と言うつもりで、知っている単語を並べたのが、そもそもの誤解の始まりだろうと思えた。
 クリスに「日本では相手のグラスに無理やりでも酒を注いでまで飲ませるのが歓迎の証なんだよ」と説明した。「だから、『全部飲め』は、『ジョニ黒を一本まるまる君にあげる』と言う意味じゃないんだ」
「それじゃ、中身を別のビンに移し替えて、空のビンを置いておいたら?」
 将人は噴出した。「多分、問題にはならなかったと思う」
「違いがわかりません」
「それが日本語のあいまいなところで――」
「もういいんです。やっぱり、私は日本人に近づくのはやめておきますよ」
 言って、クリスはげらげら笑った。
 そんな話を続けるうちに、将人は、このやたらと流暢な英語を話す運転手に対する否定的な考えを改めなければならないな、と思った。

 車に戻ると、見張り番をしていた門番がクリスに歩み寄り、苦々しい顔で何か告げていた。
 クリスが顔をしかめて舌打ちした。
「ライアンは、あなたを呼びに戻るのをすっかり忘れて、夢中で女の子を口説いているそうですよ。どうりで戻ってこないわけです」
 それを聞いて、将人は怒るどころか、むしろ学生時代に戻ったような浮いた気分になった。
「それでこそ男だよ」将人はクリスの背中をポンと叩いた。「さてと、ライアンを首ったけにするほどの美人がどれほどのものか、ご拝見させてもらうとしようか。車は門番に任せてさ、クリスも一緒にいこうよ」
「でも、私が行ったらライアンに叱られるかもしれません。それに、入店料の持ち合わせもありませんし――」
「一人で店に入るのが不安だったから君を無理やり連れてきた、と言えばいいさ。僕もそんなに手持ちがあるわけじゃないけど、君一人分くらいなら何とかなると思う」
 将人が財布の中身を確かめていると、クリスが申し訳なさげな顔で聞いてきた。
「入場料は百五十ペソするんですが、本当に良いんですか?」
「そんなに安い――」言いかけて、将人は目の前に門番がいるのに気付いて、慌てて言葉を替えた。「――いやいや、けっこう高いんだね。でも、それで君が日本人に対する考え方を少しでも変えてくれると約束してくれるなら」
 クリスは顔をしわくちゃにして「今この場で改めます」と微笑むと、見ている方が恥ずかしくなるようなへんてこなダンスを踊り始めた。
「クリス、今すぐそのダンスをやめてくれ、呼吸ができなくなる」
 腹を抱えなて将人が笑うと、門番二人も港に響き渡る声で大笑いした。

 二人の門番に誘われて、将人は〈ムーンライト〉の暗い入り口をくぐった。樹皮の張り付いたままの床板は、気をつけて歩かないとつまずくほど波打っている。
 入ってすぐのところにあるキャッシャーで、将人は言われるまま二人分の入場料を払った。店の奥からは、軽快なダンスミュージックが大音量で流れている。
「そういえば僕の入場料はライアンが払ったんじゃなかった――」
 将人が言い終わらないうちに、愛想の悪い男の店員は首を振って、中へ行け、と促した。
 フロアに続く細い通路ですれ違うホステスたちはみな、立ち止まって将人を見上げ、その背の高さに驚いた顔をした。ウェイターたちも、まるで異星人を目撃したかのように目を丸くして将人を見つめている。
 通路の先は、仕切りのない、広い客席フロアになっていた。ちょうどサンパブロでエミリーとラウルと行った〈ナイトクラブ〉に似ている。
 ディスコ調の古臭い音楽が鳴り響くフロアには、木製のデッキチェアとテーブルが雑然と並べられていた。天井から垂れ下がる裸電球には、赤青黄色のセロハンが貼られ、そこから放たれる光が混ざり合って床をピンク色に染め、フロアに安っぽい卑猥さをかもし出している。フロアの端にある6畳ほどのステージでは、ミラーボールがスポットライトの光を反射し、小さい粒にしてあちこちにばら撒いている。天井と床をつなぐように延びた二本の金属棒のあいだでは、トップレスのダンサーが、引き締まった体をくねらせながら扇情的なダンスを舞っている。
 ステージの真正面の一等席、十人は余裕で座れる長テーブルにライアンとアルマンがいた。二人とも傍らにホステスをはべらかせ、彼女たちの腰にべったりと手を添え、額に血管を浮かび上がらせながら、呼吸も惜しむほどの勢いで口説いている。
 他のテーブルの客たちも、金に余裕のありそうな服装をした男たちだった。彼らもまた、接着剤で貼り付けたようにホステスにべったりと体を密着させ、だらしない顔で酔っ払っている。
 テーブルに座って数秒してから、ライアンがようやく将人に気付いた。
「ああ、ショウ、遅いじゃないか、待ってたんだよ」ライアンは言って、正面に座った将人の肩をテーブル越しにぽんぽんとたたいた。「さあ座って座って、ああ、もう座ってるのか。それよりこの子を見てよ! とんでもなく可愛いだろ? この店のナンバーワンだってさ」
 ライアンの隣にいるホステスは、年齢は二十前後、栗色の艶やかなロングヘアで、どちらかといえば中華系だが、褐色の肌と、部分的に彫りの深い顔立ちからして、マレー系の血も混じっているのではないかと思えた。確かにナンバーワンにふさわしいと思える美人だった。
 そのホステスが、タガログ語で何か言って将人に微笑みかけた。
「彼はアメリカ人だから、英語で話してあげてくれ」
 ライアンがおどけて言うと、彼女は英語で言いなおした。
「ワタシの名前は、ケイシーです。スペルは〈KC〉ね!」
 言いながら、ホステスは宙に指で〈KC〉と書いた。
 将人は「どうも」と思わず日本語で返してしまった。
「それより何でクリスがここにいるんだ? お前、車はどうしたんだ?」
 クリスが助けを求めるような顔を向けてきたので、将人はライアンに事情を説明した。ライアンは将人がクリスの分まで入場料を払ったと聞いて表情を曇らせた。
「彼はここにいてはいけない人間だ。クリス、車に戻れ」
 ライアンがクリスをにらみつけた。
「おいおいライアン、クリスがいなかったら僕はまだ車の中だったんだよ。少しくらい一緒に飲んでもいいじゃないか」ライアンのクリスに対する乱暴な口調に少しばかり腹がたって、将人は思わず言い返していた。「おまけに君たちは女の子に夢中で、僕の話し相手になってくれそうもない。だからクリスにはここにいてもらいたいんだ。そうすれば君たちも僕にかまわず、彼女たちを口説き続けられるだろ?」
 ライアンはぎこちない笑みを浮かべてしぶしぶ「そういうことなら」と承諾した。しかし次の瞬間にはケイシーをぐっと抱き寄せるなり、再び熱心に彼女を口説き始めていた。
 そんなやりとりが終わってようやく、こちらに背を向けて座っていたアルマンが、ようやく将人とクリスに気付いた。アルマンが懸命に口説いているのは、とてもナンバーツーとは思えない、けばけばしいメイクをした太ったホステスだった。
「ねえ、本当にこの子がナンバーツーなの? ナンバーワンとえらく差があるみたいだけど」
 将人はアルマンの耳元で聞いた。
「話が面白いんだよ」
 アルマンはそう答えるなり、将人のことなどお構いなしに、ホステスを抱き寄せて、唇が触れるまで彼女の耳に顔を近づけ――恐らく甘い言葉を――いろいろとささやき始めた。
 それからしばらく、将人はステージで繰りひろげられるストリップダンスを横目で見ながら、ひたすらサンミゲルをあおり続けた。パンティ一枚の女性が目の前で踊るような場所に来たのは初めてだったから、興奮するというよりも、ここに自分がいることが滑稽に思えて仕方なく、だから将人はずっと声を上げて笑っていた。
「あのダンス、そんなに面白いですか?」
 クリスが小首をかしげている。
「いや、そういうわけじゃなくてさ――」
 そのとき、フェイドアウトするわけでもなく、いきなり音楽が止まった。乳房をさらけ出して踊っていたダンサーが、床に脱ぎ捨てた服をさっと拾い上げてステージの端に消えていく。スピーカーから割れた男の声が響き、次のダンサーの名前を告げると、別の曲が流れ始めた。
 ステージに現れたのは、小柄で色白の、黒髪をショートカットにしたダンサーだった。彼女は登場するなり、もったいつけもせず服を脱ぎ捨てた。腹筋に線が走るほど引き締まった体に、形の良い小ぶりの乳房が揺れている。彼女はそのすらりと長い足をバーの高いところに巻きつけては、くるくると回転しながら床まで落ちて行くことを繰り返した。
 彼女のダンスとその裸の美しさにすっかり心を奪われ、将人は笑いを止めて、食い入るようにステージを見つめた。
「もしあの子が気に入ったのなら、ステージが終わったあとで、ここに呼びましょうか?」
「あの子と話せるの?」
 将人は驚いて聞き返した。てっきりダンサーはホステスとは別で、客の接待などしないと思ったのだ。
「もちろんですよ。彼女はホステスなんだから」クリスが当然だというように言った。「ステージを見て、気に入った子を呼ぶのがここのやり方なんです。効率的でしょ?」
 KCもストリップダンスをしたのか――将人は、ライアンがなぜあそこまで夢中になって口説いているのかわかった気がした。きっと、〈すばらしいもの〉を見せられたに違いない。
 クリスが、口に指を二本突っ込んでけたたましい口笛を鳴らした。店員が駆け寄ってくる。クリスは店員に顔を寄せながら、ステージで踊る彼女と将人の交互に顎をしゃくる。
 将人は、まるで友人を通して意中の彼女に告白しているような、小恥ずかしい気分になった。妙に落ち着かなくなり、テーブルの上にぎっしりと並んでいるサンミゲルのビンの中から、中身がまだ残っているものを何本か取り上げると、続けざまに飲み干した。
 曲が替わり、ステージに次のダンサーが現れてしばらくすると、Tシャツとジーンズに着替えた彼女が、店員に連れられて将人たちのテーブルにやってきた。
「ハロー」
 にこやかに微笑んだ小柄なホステスは、さっきまでステージで妖艶なダンスを繰り広げていたとはとても思えないほど幼い顔をしていた。彼女は将人とクリスのあいだに割り込むように座ると、ためらいもなく将人の手を握ってきた。そして将人には理解できない言葉で、ペラペラと話し出した。
「この子の名前は〈セシル〉で、十八歳だそうです」
 クリスが通訳した。将人がタガログ語を理解できないのに驚いたようすのセシルは、矢継ぎ早に、クリスに質問を浴びせ始めた。クリスとセシルは、将人の方をちらちらと見ながら、なにやら楽しそうに話している。言葉がわからない将人でも、そのやりとりがどんなものかはおおよそ想像ができた。どこの国の出身か、何の用事でフィリピンに来たのか、歳はいくつか、独身なのか――。
 会話にひと区切りついたところで、クリスとセシルが、同時に将人に向き直った。
「彼女、英語がほとんど話せないそうです。でも、あなたはハンサムだから、千二百ペソで朝までお相手します、と言ってます」
 予想とはかけ離れた言葉に、将人は、口に流し込んでいたサンミゲルを噴き出してしまった。
「ちょっと待ってくれよ。そんな話がどっから出てくる――」そのとき、将人ははっと思い至った。「もしかして、彼女たちはその――」
 夢中でホステスを口説いていたはずのアルマンが、そこでいきなり会話に加わった。
「ショウ、〈これ〉だよ〈これ〉」 
 アルマンは、ジョエルとまったく同じように、右手と左手を組み合わせて下品に上下させた。
「まさか、セシルも〈これ〉を――」
 驚きのあまり、将人はアルマンのジェスチャーを真似そうになって、慌てて手を引っ込めた。だがセシルはそれを気にするどころか、むしろ楽しんでいるといった面持ちで、将人の目をじっと見詰めながら、大きく二回、頷いた。
「千二百ペソくらい持ってるだろ? 金持ちの日本人なんだからさ」アルマンが責めるような口調で言った。「僕なんてこれだけ交渉しても、まだ千ペソだよ。手持ちが八百しかないから、あと二百ペソ、何としても値切らないと、この子を連れて帰れないんだぞ」
 アルマンは相当飲んだらしく、ろれつが回っていなかった。将人は、すっかり言葉を失った。ライアンやアルマンは、ホステスを口説いていたわけではなく、単に価格交渉していたのだ――。
「こっちは二千ペソからなかなか下げてくれないんだよ」
 ライアンがホステスの髪にキスしながら苦々しい顔で言った。
 クリスがさらに追い討ちをかける。
「セシルが、『二時間なら八百ペソ』と言ってます。それから、これは個人的なお願いなんですが――」クリスが顔を寄せ、将人の耳元でささやいた。「どうか私に七百ペソ貸していただけませんか? 人気のないホステスなら、それくらいでも買えると思うんです」
「君たちときたらまったく。貧乏人の僕がおごるなんて日本じゃありえないんだからね」
 将人は独り言のように言って、まずはアルマンの手に二百ペソ握らせた。彼は目玉が飛び出るかと思うほど目を見開いて、「おお友よ!」と抱きついてきた。
「それからクリス、ほら――」
 続いてクリスに七百ペソ渡すと、彼はお年玉をもらった子供のように顔をくしゃくしゃにした。
「君はいくら足りないんだ、ライアン?」
 ライアンにもいくらか渡そうと、将人が財布をまさぐりながら聞いた。
「いや、手持ちはあるんだよ。ただね、どう考えても予算オーバーなんだよ。サンミゲルを頼みすぎたから〈セキウチさんにもらった金〉は、もうほとんど残ってないし――」
「ちょっと待って――」将人はライアンに向けて身を乗り出した。「何のことだよ、関内さんの金って?」
 ライアンが、しまった、という顔をして口に手を当てたが、酔っ払ったアルマンが代わりにためらいもなく答えた。
「セキウチさんがね、ショウにフィリピンの夜を教えてやれって、三千ペソもくれたんだよ。どうやらショウはセキウチさんにすごく気に入られてるみたいだね」
「冗談はよしてくれ」
 だが言われてみれば確かに、今夜の関内の行動には妙なところがあった。ロビーでの晩酌では将人を追いしたあど、それほど時間をおかずに部屋に引上げていった。いったん晩酌を始めれば数時間は続ける関内らしからぬ行動だ。しかしそれが全て、将人を夜の町で遊ばせるためだったと考えるのは都合が良すぎる気がする。逆に考えれば、これは何かしらの罠に違いない、と将人は勘ぐった。
「つまり君たちは、関内さんからもらったっていうその三千ペソを、ジョエルの相手をしてるあの女の子と、ここの入場料、何十本ものサンミゲル、そして、〈君たちが彼女たちを抱くために〉使い切ってしまうつもりなのか? そんなことをしたら、僕が関内さんに大きな借りを作ってしまうことになるのがわからないの? 支払いはブエナスエルテ社が持つっていうから、僕は安心して出てきたっていうのに――」
「まあまあ、そうカッカしなくても」将人の言葉をアルマンが遮った。「セシルが好きなんだろ? だったらさ、僕たち三人で仲良く彼女たちを連れて、ジョエルのいる部屋に戻って、男女八人で仲良く朝まで過ごせばいいじゃないか。簡単な話なのに、いったい何の問題があるっていう――」
「冗談じゃないよ!」将人は声を荒げた。「やりたければ君たちだけでやればいい。僕はロビーで寝るからね!」
 将人が立ち上がりかけると、クリスが服を引っ張って引き止めた。見れば、セシルが泣きそうな顔で将人を見つめている。クリスがなだめるように頷きかけてきた。将人は仕方なく、上げかけた腰を下ろした。
「セシルには三歳の息子がいるそうです」クリスが言った。「彼女ひとりの稼ぎで、両親と祖父母と息子の五人を養っているんです。旦那は、子供が生まれてすぐに家を出て行ってしまったそうで――」
 見え透いた話だよ、と言いかけたが、セシルの顔を見て、将人は言葉を飲み込んだ。これだけは聞いて欲しい、というような真剣な表情で、将人を見つめながら、横にいるクリスに必死に何か語り続けている。
「今夜は残念だったけど、もしまたカルバヨグに来ることがあれば、絶対にここに寄って欲しい、普段は指名されることなんかめったになくて、でも今夜は、あなたのようなハンサムな男性に呼んでもらえて、すごく嬉しかった――セシルが、そう言ってます」
 彼女を一介の娼婦だと突き放すつもりだった将人の覚悟はぐらぐらと揺らぎ――そして、あっというまに崩れ落ちた。このまま何もせず帰れば、むしろ罪悪感を覚えそうな気さえしてくる。なんと不思議な場所なんだろう、フィリピンというのは――。
「ショウ、サマールでは、十七、八の女の子に子供がいるのは当たり前なんですよ。こういうところで働いているホステスたちはまず子持ちで、旦那は行方不明、ひとりで家族を養っているというのがほとんどなんです」
 クリスが言った。
「これでわかっただろ? ショウ、人助けだと思って彼女を買ってやりなって」
 諭すような口調でアルマンが言った。
 セシルは、餌をねだる子犬のような目でじっと将人を見つめている。
「やっぱり無理だよ、僕にはできない――」将人はかぶりを振った。「でも、彼女にこう伝えてくれ。次にカルバヨグに来たら、必ずまた会いに来るから、それまで僕のこと、おぼえていて欲しいって」
 アルマンが通訳しているあいだに、将人は財布から五百ペソ札を抜き出し、手の中で小さく折りたたんで、テーブルの下でセシルの手に握らせた。そして彼女の耳元に顔を近づけ、わかりやすい英語でささやいた。
「この金で、子供にミルクを買ってあげて」驚いた顔で将人を見返した彼女の整った顔を見つめながら、さらに続ける。「君と寝ることは、百万ペソの価値がある。でも今夜は、あいにくそれだけの持ち合わせがないんだよ」
 通訳し終えた途端、アルマンがあんぐりと口をあけて将人を見返した。
 セシルは将人に軽く抱きつくと、早口で何か言った。
「『私はあなたのことを忘れない、だからあなたも私のことを忘れないで』と言っています」
 口を開けたままのアルマンの代わりに、クリスが彼女の言葉を通訳した。
 薄暗い裸電球に照らされたセシルとクリスの目が、わずかに潤んでいるように見えた。

 入店料、テーブルチャージ、指名料、サンミゲルを全て合わせて、勘定は三千ペソをわずかに超えていた。不足分を割り勘で補充したおかげで、結局誰ひとり、 〈ムーンライト〉から女性を連れ帰ることができなくなった。店を出たあとで、ライアンが、領収書の飲み物代金が二重に会計されているらしいことに気付いた。将人を外国人だと気付いた店員の仕業だろうとアルマンが言った。だが今さら店に戻って、飲んだサンミゲルと支払った代金の違いを確かめる証拠も、気力も、体力も、誰一人として持ってはいなかった。
 ホテルに着いたのは四時近くだった。パジェロの窓から見える遠くの空がわずかに明るんでいた。カルバヨグの魚市場は、まもなく開くだろう。
 部屋に入ると、ジョエルが一人でベッドに横たわり、もごもごと寝言を言いながら気持ちよさそうに寝ていた。
 五時には魚市場で待機する予定なので、今からだと寝られたとしても数十分が良いところだった。それでも、ライアンとアルマンが同じベッドに、将人はジョエルの寝ている隣に転がった。
「それにしても――」アルマンがあきれた口調でつぶやいた。「ショウはミルク代だといってセシルに五百ペソも渡したんだぞ。ドラム缶入りのやつが買えるよ、まったく」
 ライアンがクスクス笑うのが聞こえた。
 一緒になって笑っているうちに、将人は眠りに落ちていた。

次へ


トップへ


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: