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『橋の下の彼女』(25)-1
1999年7月9日(金)朝~10日(土)深夜にかけて
フィリピン・アレン
十時の休憩になった。明け方から降り続いた雨もすっかり止んで、青々とした空と入れ替わっている。
バケツ氷を加工場に運び入れた将人の顎からは汗が滴り落ちていた。
アルバートがビンのコーラを持ってきた。
「ありがとう、アルバート」
将人が頭を下げると、彼もぎこちないおじぎを返した。
今朝、何が原因かはわからないが、アルマンとライアンの間で激しい言い争いがあった。そのせいか、今日はアルマンが加工場に手伝いにやってこない。
その代わり、ジョエルが朝からずっと、アマリアのそばをうろついていた。
休憩が終わり、作業が再開してすぐ、ライアンがジョエルに指でサインを送っているのに将人は気付いた。
ジョエルはライアンに頷き返すと、さっそうとアマリアに歩み寄り、彼女の耳元に顔を寄せ、何かささやいている。彼女は梱包作業の手を休めることなく、視線は下に落としたまま、小さく頷いている。周りの従業員たちは、二人のやりとりに関心を払うことなく、黙々と作業を続けている。
ジョエルたちが本当にアマリアをどうにかしようとしているのではないかと将人は本気で心配になってきた。
ライアンが歩み寄ってきた。将人の肩ほどしか身長のない彼は、背伸びするように耳打ちした。
「タツミさんはしょっちゅうアマリアの方を見てる。ショウも気付いてるよね?」
「そうなの? あまり気にしたことなかったから」
そう答えたが、将人はうっすらと気付いていた。辰三は加工係たちと共に黙々と出刃を動かしているが、ときおり出刃を置いて伸びをするときは、必ずアマリアを見ている。
「だから言っただでしょ、タツミさんはアマリアが好きなんだよ」
ライアンは満足げに何度も頷いた。
「単なる目の保養だろ。僕だってクリスティやイザベラの方を、暇さえあれば見てしまうもの」
「それにはとっくに気付いてる」ライアンがくすくすと笑った。「無理もないよ。フィリピンに来てから、君もタツミさんも〈ごぶさた〉なんだろ?」
「当然だろ」将人は笑った。「でも、辰三さんのような年でも、やっぱり性欲がたまったりするのかな?」
「たまるに決まってるさ、男なんだから。きっとああやってアマリアを見ながら、彼女の裸を想像してるに違いないんだ」
ライアンが言ったちょうどそのとき、辰三は出刃を置き、伸びをしながらさりげなくアマリアを一瞥した。
「ずいぶん決め付けるんだな」
将人は苦笑いした。
「アマリアに対するタツミさんの思いを、ぜひ現実にしてあげるべきだよ。実はね、タツミさんが、ここアレンでの生活を天国だと思えるような完璧な計画を用意したんだ。タツミさんがアレンを気に入ってくれて、何度でも戻ってきたいと思うようになってくれれば、それはブエナスエルテ社のためにもなるんだよ。この話は父さんも承知していることで、いわば〈ミツオカプロジェクト〉の一部といってもいいくらいさ」
「レックスも承知しているだって?」将人はライアンを見返した。「彼女を巻き込んでいったい何を企んでいる――」
「静かに」ライアンが口に人差し指をあてがった。「他の従業員たちには内緒なんだから。いいかい、今夜楽しむのはタツミさんだけじゃない、ショウ、君もなんだ。計画が成功したら、あとは僕たち若者だけで、思いきり飲んで騒いで――そのあとは、言わなくてもわかってるよね?」
「本当に辰三さんやブエナスエルテ社のためになるなら、僕はもちろん協力するけどさ。まずは何をするつもりなのかはっきり教えてもらわないと」
だがライアンは答えず、将人の肩をポンッとたたいて、にやりとしただけだった。
終業のホイッスルが鳴ると、それまで脇目も振らず作業に没頭していた従業員たちの顔に陽気な笑みが戻る。
加工係たちは、うろこと内臓と血で汚れた加工テーブルをホースの水で洗い流していく。
排水は加工場の裏の雑草地に垂れ流しなので、リンドンが白い塩素の粉を汚水に混ぜ込んでいる。汚水は塩素で殺菌するようにと、先日、衛生局から指導されたそうだ。
「これで本日の業務を終了します。明日も八時から。遅刻しないように」
清掃が終わると、リンドンがかすれた大声でそう従業員たちに告げた。
女性の加工係たちが、辰三に手を振りながらにこやかに帰っていく。辰三は照れくさそうに彼女たちに小さく手を振り返している。だがアマリアが手を振ってきたときだけは、きゅっと口を結んで目を合わせず、小さく頷き返しただけだった。
加工場の片付けが終わると、辰三はリーファーコンテナの中を見て回った。製品保管用の冷凍庫として使っている緑のリーファーコンテナの中には、出荷用の白いきれいなダンボールに梱包された製品が何十箱も積み上げられていた。
庫内での作業から開放されてもまだ防寒服を着たまま青い顔をしているブノンとイボンに辰三はねぎらいの言葉をかけた。マイナス十度のコンテナの中で、ほぼ一日中、急速冷凍されたビニールパック詰めの製品を、出荷用の箱に梱包する作業というのは、生まれてからずっと熱帯に住んでいる彼らにとっては拷問に近いだろう。
「小イワシの痛みが激しい。まだバケツ八杯もある。まいったな」
小イワシの入ったバケツの水は、魚から染み出した血で茶色く濁っていた。辰三はその中の一匹を取り上げ、腹を指先で押した。ぶかぶかしていて、簡単に皮が破れてしまう。
「内臓が腐ってくると、こうなるんだよ」辰三が苦々しい顔を将人に向けた。「こんだけ鮮度が落ちちまうと、もう干物にしかできねぇな。でもこれをぜんぶ干物にしたら、サンパブロへ送る製品が干物ばかりになっちまうな」
アジの干物は順調なペースで製造されていたので、初回出荷にはすでに十分な量が確保できている。これに、さらにバケツ八杯分の小イワシの干物が加わるとなれば、サンパブロへ送る製品がそれこそ干物だらけになってしまう。
「そもそも関内さんは、天ぷらやフライの具材を欲しがってたからなぁ。TTCの日本人連中なら毎日干物でも喜んで食いそうだが、さすがにこの量だと飽きられちまうだろうな」
辰三は、緩んで膨れ上がったパンチパーマをぼりぼりと掻いた。
腹のそげおちた小イワシを見て、将人ははっと思いついた。
「こういう形のずれた魚って、よく煮干で見かけませんか?」
「おう、そうだそうだ、煮干って手があったな」辰三は手をたたき合わせた。「少しばかり大きすぎるが、煮干なら腹が腐ったやつでも捨てずに使える。よし、でかしたぞ、ショウ!」
辰三に〈ショウ〉と呼ばれたので、将人は驚いた。今までは「お前」と呼ばれただけで、「柏葉」とも「将人」とも呼ばれなかったのだ。
「小イワシに希望がでてきたところで話は変わるが――」辰三がはにかんだ笑みを浮かべた。「行くんだろ、今夜?」
「結束会ですね。もちろんですよ」
「お前、どんな格好するんだ?」
「どんな格好っていっても、選ぶほど持ってませんから」
「そうじゃなくてよ、前に、レックスとライアンとカラオケ屋に行っただろ。そんときは、どんな服を着てったんだ?」
「Tシャツに短パンですよ、いつもどおり。そんなにめかしこんでいくような場所じゃないですし」
話しながらリーファーコンテナから出た途端、むっとした熱気が襲ってきた。
「実はな、服の着替えがあんまり残ってねえんだよ」
サマールの社宅では、サンパブロのゲストハウスのように、洗濯かごに入れた衣服が次の日にはすっかり乾いてベッドの上にたたまれて置かれている、というようなことはない。少なくとも、三日か四日に一度だけ、それも洗いに出したもの全部は戻ってこない。将人はすでに手持ちのパンツを全て洗濯に出していたので、昨日からパンツなしで短パンを履いていた。
「僕もTシャツはあと二枚しかありません」
「めかしこむわけじゃねぇが、ワイシャツとスラックスでも着てくか」
言いながら、辰三は小イワシを握っていた手で、パンチパーマに何度も手ぐしを入れた。
社宅に帰ると、ライアン、アルマン、将人と辰三の四人は、争うように夕食をかき込み、代わる代わるシャワーを浴びた。辰三もすっかり上機嫌で、普段はほとんど浴びることがないシャワーを、鼻歌を歌いながら一番乗りで済ませた。おまけに、フィリピンに来てから初めてドライヤーを引っ張り出し、時間をかけて髪をセットしていた。
坊主頭に近い将人は、ドライヤーを使う必要もなく、シャワーを浴びたあと、〈ランドマーク〉で買ったフィラのTシャツと、アディダスのジャージ――もちろんパンツは履いていない――を着こんだ。二つとも、まだ糊の効いている新品だ。
リビングでは、クリスがいつものよれよれの白いタンクトップと半ズボンで、へそが出ているのも気にせずにソファーにもたれかかっていた。テレビのコメディ番組を見て、こちらまでつられて笑いたくなるような滑稽な笑い声を上げている。
「ショウ、えらくめかしこんだじゃないですか」
「Tシャツにジャージ姿の男に向ってよく言うよ」
将人が言うと、クリスがげらげらと笑った。
「アレンじゃ、その服装でもイタリア製のスーツくらいの価値がありますよ」
「この気温と湿度でスーツを着るやつは頭がおかしいだろうね」
クリスとそんなやりとりをしていると、ゴルフシャツに薄緑色のスラックス、それに磨き上げた革靴、といういでたちで、辰三が階段を軽快に下りてきた。緩んで膨れ上がっていたパンチパーマは、うしろに向けて何度もブラシを入れたらしく、作ってから時間がたって縮んだ綿菓子のようになっている。
クリスは辰三を見るなり、あんぐりと口をあけ、そのままの顔で将人に向き直った。そのクリスの顔と辰三の髪形の両方に吹き出しそうになるのを、将人は太ももをつねって必死にこらえた。
辰三は将人の隣に腰掛けるなり、真顔で言った。
「もし女を買うんなら、いいか、俺が先にやって、お前はあとだからな。こういうのは上司が先って決まってんだ」
そう言うなり、辰三は表情を緩めて笑った。辰三がそんなふうに生き生きとした顔で笑うのを見たのは、〈みなとや〉での送別会以来だった。
「辰三さんのあとってことなら、僕は遠慮させていただきます」
「バカ野郎、ぜいたく言ってんじゃねぇぞ」
辰三はふっきれたように馬鹿笑いした。
考えてみれば、英語の話せない辰三の方が、将人の何倍も、アレンでの生活にストレスを感じているに違いなかった。久しぶりの外出とあって、辰三もかなりの開放感を味わっているのだろう。
「でも、もし本当にライアンたちが女を買いに行くと言い出したら、辰三さん、どうします?」
将人は探りを入れるつもりで言った。今夜、何が計画されているのか、いまだにほとんど聞かされていない。辰三がそういう状況に対してどう対処するつもりなのか、あらかじめ知っておきたかった。
「ライアンたちがそんなこと言ってたのか?」
「そういうわけじゃないんです。ただ、『今夜は辰三さんを楽しませるんだ』って息巻いてたから、もしかするとそういうことも起こりうるかなって思って」
「梱包係のあの子たちを誘ったんだろ。だったらそんな話になるはずがねぇだろ。それより、重役四人のほかに誰が参加するか聞いたか?」
辰三が口をすぼめながら言う。
「何を聞いても詳しいことは教えてくれないんですよ。『タツミさんを楽しませる』という返事しか返ってこないんです。でも――」
「でも?」
「アマリアが来るようなことは言ってました」
アマリア、と聞いた瞬間、辰三がぱっと表情を明るくしたが、まるでそれを悟られまいとするかのように、急に気難しい顔になった。
「何度も言うが、俺がサマールに来たのは仕事のためだ。女をどうこう考えてる余裕はねぇ。今夜は飲んで食って、ちょっとだけ騒いで帰る。それだけだ。それだけ、それだけ――」
まるで自分に言い聞かせるように、辰三は、それだけ、を何度も繰り返した。
「辰三さんが女に興味がないのはわかってますよ。あらかじめ、『辰三さんにはその気がない』と僕からライアンたちにビシっと言っておきます」
辰三が目をぱちくりさせた。
「いや、その――もしあいつらが、どうしても、って言うんなら、せっかくの気づかいをむげにするのも悪いから、ちょっとようすを見にいくだけってんなら、付き合ってやってやらねぇことも、できねぇわけじゃねぇって、まあ、その、そういうわけだ。つまりだな、そんなに難しく考えなくてもいい、ってことだ」
将人は、つまり本当は興味あるんですね、と言いたい気持ちをぐっとこらえながら「わかりました」と頷いた。
ライアンとアルマンがリビングにやってきた。アルマンは薄茶色のポロシャツにジーンズと革靴といういでたちで、伸びて形の崩れかけていた口ひげも短く刈り込まれ、見事な八の字に戻っている。ライアンは、紺色のラルフローレンのポロシャツにリーバイスのジーンズ、白いスニーカーだった。
二人とも、同じ香水の匂いを漂わせている。
「今夜はタツミさんといっしょに出かけることができてうれしいですよ」
言って、ライアンが深々とおじぎした。
将人が通訳すると、辰三は顔をクシャクシャにして微笑んだ。
「今夜はな、俺のことを上司だと思わねぇで、友達かなにかだと思って、気楽にやろうぜ。関内さんもレックスもいねぇんだからよ」
「アリガト、ゴザイマス」ライアンは日本語で言った。「それでは、フィリピンでも有数の大都市、高層ビルが立ち並ぶアレンの繁華街にお連れいたします」
アルマンはアマリアが来ることを意識してか小ぎれいな格好をしているにも関わらず、妙に不機嫌なのが将人は気にかかった。
パジェロに、いつも通りの席順で乗り込んだ。後部座席の左端に辰三、真ん中にアルマン、右端にライアン。将人は助手席だ。レックスがマカティに帰ってからは、体の大きい将人は暗黙の了解で助手席を使うようになり、仕事の行き帰りの車中では、いつもクリスとくだらない冗談を言い合っている。だが辰三は、車に乗るとほとんどしゃべらず、窓の外を見ながら、物思いにふけることが多い。たまにライアンやアルマンが気を使って話しかけるが、そんなときも、愛想笑いを浮かべて頷くだけだ。
だが今夜は違った。辰三は片言の英語でライアンとアルマンと楽しそうにおしゃべりして、指でつつきあったりしている。
社宅前の小道を抜け、アレンのメインストリートに入った。朝方のスコールのせいか、前に見たときよりも凹凸が激しくなったように感じる。
町の中心部あたりにさしかかると、盛り土の中央分離帯で分けられた左車線が、半透明のビニールシートで覆われた鉄パイプのやぐらで埋め尽くされた。
「もうじきアレンのお祭りなんですよ。あれは屋台です。露天商たちはあの中で寝泊りするんですよ」
ライアンが説明した。
ビニールハウスそっくりのその骨組みの中に、いくつか小さな明かりがともり、人影がビニールに大きく映し出されている。
「それで今夜は誰が来るんだ?」
辰三が聞いた。
「僕たち四人と、リンドンにジョエルの合計六人です」ライアンが答えた。「二人はもうタタイ・アナックで待っていますよ。あとボディガードでイボンもいますけど」
将人は拍子抜けした。
「それだけ? 加工場からは誰も来ないの?」
「誘ったんだけど、丁寧に断られちゃってさ」
ライアンが答える。どこか芝居がかった口調だ。
通訳すると、辰三の顔からみるみる笑みが消えていった。
「でもよ、加工場の連中を何人かこっそり誘うって言ったじゃねぇか。もしかしてお前、ライアンたちの英語聞き間違えたんじゃねぇか?」
「ちょっと辰三さん、関内さんみたいなこと言わないでくださいよ。聞き間違えじゃありません。彼は確かに言いましたよ、『結成会には加工場の従業員を何人か誘う』って」
辰三がふてくされたように頬を膨らませた。
「まったく、手先は器用だが、言ったことを守らねぇとこは、さすがフィリピン人って感じだな。加工場の従業員を呼ばなけりゃ、現場の結束会にならねぇじゃねぇか」
辰三の言ったままをライアンに伝えてから、将人は付け加えた。
「なんだか辰三さん、肩透かしを食らったみたいに残念がってるよ」
しかしライアンは余裕ともとれる笑みを返してきた。
「今夜は確かに〈結束会〉と銘打ったけど、何もこれが最後じゃない。これから何度も何度も出かけるうちの、まだ一回目じゃないか。確かに華やかさはないけど、まずは僕たち重役が辰三さんともっと親しくなりたいんだ。加工係や梱包係は、また次の機会に誘えばいいしさ」
逆に諭されたような気分になって、将人は「それもそうだね」と頷いた。
辰三も「そういわれちゃしかたねぇか」と苦笑いした。
ふと、でも妙だな、と将人は思った――アマリアが来ないなら、昼間のライアンとジョエルのあの怪しい行動は、いったいなんだったのだろうか――。
ビニールに包まれた露天の列を抜け、中央分離帯代わりの盛り土がなくなるあたりから、道幅が急に狭くなる。五十メートルほど進むと、暗闇のなかで白く浮かび上がる〈タタイ・アナック〉が見えてきた。
今夜も、憲兵隊のような薄青色の制服に身を包んだ二人の守衛が、店の前をふらついていた。彼らはパジェロに気付くと、へつらうような笑みを浮かべて、店のすぐ脇の路肩に誘導した。
パジェロが止まると、まずライアンが降りた。
将人と辰三が続こうとすると、ライアンは「車で待っていて」と言って店の中へ走っていった。
ライアンが客席フロアに続く通路の先に見えなくなってから、将人はむっとした顔で窓の外の暗闇を見つめているアルマンに話しかけた。
「ねえアルマン、アマリアは本当に来ないの? それに他の従業員たちも? 昨日の話とずいぶん違うから、正直言って驚いてるんだよ」
「ショウが知らないのも無理はないけど、ライアンの気まぐれは、昨日今日始まったことじゃないよ」
アルマンは窓から顔をそらさずに答えた。
「もしかして、君が今日の朝からやけにさえない顔してるのは、ライアンがアマリアを結束会に誘わなかったからなの?」
「そのまったく逆で――」
アルマンが答えかけたそのとき、助手席のドアを力強くノックする音が響いた。将人は飛び上がって窓を見ると、そこにはサル――ではなく、イボンが立っていた。
将人はほっとして窓を開けながら、ふと、イボンとラウルが並んだら、どんなふうに見えるだろう、と考えてひとり微笑んだ。
「ショウ、どうした? なぜ、そんなに、にこにこしてる?」
「やあ、イボン。みんなと飲めるのが楽しみで、にやついていただけだよ。それより、今夜は君も一緒に飲むんだろ?」
「わたし、ボディガードだけ。いっしょに、のまない。あやしい、にんげん、いないか、みせのなか、しらべた。もう、だいじょうぶ。ジョエルとリンドン、まってるよ」
「そんなに危ないの、ここは?」
将人の早口の英語にイボンが首を傾げたので、クリスに同じことを聞きなおした。
「危ないってわけじゃないですけど、安全ってわけでもないんです。とにかく、タツミさんは大事な人だから、普段の何倍も慎重になりますよ。タツミさんの安全に関しては、くれぐれも気をつけろとライアンがレックスにきつく言われてましたからね。あ、ライアンが戻ってきました――」
ライアンは勢いよく駆け寄ってくると、将人に向って、さあ行こうか、と大きく手招きした。
タタイ・アナックの客席フロアへ続く細い通路を歩きながら、壁際に沿って作られた、水の流れるオブジェを、辰三は感心したように見つめていた。
「前に兄貴と来たような気がしてたけど、やっぱり俺はここに来るの、これが初めてだな。間違いねぇ、こんな田舎でこんなシャレたもん見たら、ぜったい忘れねぇからよ」
今夜の客席フロアは客もまばらだったので、ずいぶんと広く感じられた。天井から吊り下げられた重そうなモニターには、カラオケの待ち受け画面が流れている。
〈タタイ・アナック〉がアレンの高級店だということを、将人は感覚でわかるようになっていた。メインストリートを外れれば家はニッパハウスばかりで、電話もなく、電気もガスも水道もない家がほとんどだ。だがこの店には板張りの屋根があり、天井にはモニターとスピーカー、電気もガスも水道も通っていて、水槽には熱帯魚が泳いでいるのだ。
ジョエルとリンドンは、フロアの一番奥の長テーブルに並んで座っていた。彼らのうしろ、大きなガラスドアの向こうには、漆黒の海と、星のない部分を探すほうが難しい、明るい夜空が広がっている。
テーブルに向う途中、将人はガラスドアに近づいて外を眺めてみた。手前にオープンテラスがあり、その先のフェンスのちょうど真ん中に、下に向かう階段がある。階段は四メートルほど下の、別のテラスに続いていた。海面から一メートルほどの高さにあるそのテラスは、船を模したような形をしていて、デッキには高いマストが二本立っている。デッキ中央の床はガラス張りになっており、その下にはライトアップされた大型水槽があり、見たこともないような形の大きな魚がゆっくりと泳いでいた。
船縁には白い柵が張り巡らされ、船首近くには白いペンキで〈タタイ・アナック〉という文字と、錨のマークが書かれた木の板が針金でくくりつけてあった。
「笑えるだろ、〈タイタニック〉じゃなくて、〈タタイ・アナック〉だよ。〈父と子(Tatay Anak)〉って意味なんだ。わざわざそんな語呂合わせを考えなくても、普通に〈タイタニック〉にすればよかったんだよ、まったく」
ライアンが、まいった、というように、額に手を当てながら言った。
将人はしかし、海面からわずか一メートルほどの高さに船の形を模したオープンテラスを作るというアイデアに魅了されていた。日本なら規制やらなにやらでまずありえない風景だ。ライトアップされた水槽も魅力的だし、船縁に波が打ちつけて水しぶきを上げる様を見れば、タイタニックとは言わずとも、小型客船に見えてこないこともない。
「せっかくだから、タタイアナック号で飲まない?」
将人は「どうせならあっちで飲もうよ」とデッキを指差した。だがライアンは眉間に皺を寄せて首を横に振った。
「〈父と子〉号で? 冗談が過ぎるよ。ここから見てるだけでも恥ずかしいってのに。あんな席で豪華客船に乗った気になってるのは、自分たちを上流階級だと思い込んでいるアレンの田舎者の小金持ちだけさ」
ライアンのアレン住民をあまりに見下した言い方に将人は少し腹が立った。
ジョエルが長テーブルから手招きした。
「ほらショウ、あんなニセモノの船なんて放っておいて、はやくこっちに座りなよ」
隣のリンドンも、大きく頷く。
「あの下の席、なかなか良いじゃねぇか」
言って、辰三が〈タタイ・アナック号〉を指差した。
将人はライアンの言ったことをひかえめに通訳して聞かせた。
「まあ、フィリピンは階級社会だからよ、こいつらにも、やっていいことわるいこと、いろいろと都合があるんだろうよ」
言って、辰三は肩をすくめた。
すでに注文は済ませてあったらしく、席に付くなり、先日目にしたきれいな黒髪のウェイトレスと、もう一人、まだ十代半ばに見えるウェイターが、カラマーレの大皿と、サンミゲルのビンを十二本、にこやかに運んできた。
「おいおい、いきなりこれか」
辰三がにんまりと笑う。
「ではさっそく飲みましょう」
ライアンがビンを取り上げ、コップに注ぐ。アルマン、ジョエル、リンドンもそれに続いて、コップを満たした。将人と辰三は、コップを使わずビンだけを取った。
「ここのボトルは洗ってないから汚いよ」
リンドンが言った。よく見れば、確かにブエナスエルテ社でアルバートの持ってくるものと違い、茶色のビンは埃まみれだった。
「僕も辰三さんもそんなやわじゃないよ」
将人が言うと、リンドンは「それならせめてタツミさんの分だけでも飲み口をしっかり拭いてくれ」とナプキンをよこした。拭き終えたあとで、将人はリンドンの言うことが正しかったと思い知った。ナプキンがオイルで汚れた床を拭いたかのように黒くなったのだ。
「なんだお前、今夜は女がいねぇから、お前がホステス役をやるのか?」
くすくす笑っている辰三に汚れたナプキンを見せると、途端に渋い顔になった。
「忘れないでくださいね、ここは日本じゃないんですから」ライアンが笑いながら言った。「それでは乾杯しましょう。ブエナスエルテ社に、幸運(ブエナスエルテ)あれ!」
二本のビンと四つのグラスが、ガチャリと音を立てて突き合わされた。
三十分もしないうちに、サンミゲルを三本空にして、将人はすっかり良い気分になっていた。酔いがまわるにしたがって、ろれつはまわらなくなり、通訳がうまく出来なくなっていたが、辰三はむしろ、そんな将人のおかげでライアンたちと無理に話す必要もなく、聞かれたときだけ適当に頷いていれば良い、という気楽な雰囲気に満足しているようだった。
「ショウ、アレンでドラム缶入り乳児用ミルクを買う予定はあるの?」
ジョエルは、そう何度も聞いては、将人が口ごもるのを見て笑い転げた。そんな上機嫌のジョエルがタバコを吸い終わるたびに、辰三は嬉しそうに自分のタバコを一本渡して、火をつけてやっている。
リンドンは、関内ほどではないにしろ、話の合間合間に仕事の話を持ち出した。そのたびに、ライアンが「それは明日話そう」といなしている。
ふくれ面だったアルマンも、いつのまにかすっかり酔っ払って、いつもの陽気さを取り戻していた。
「セシルの子供は最高級のミルクをしこたま飲まされて成長が早まって、今ごろはもう二十歳になっているかもしれないぞ」
そんな冗談すら言うようになったアルマンは、ジョエルと一緒に馬鹿笑いしている。
最初は酔っ払った若者を温かく見守っている大人、という雰囲気だった辰三も、会話の流れが卑猥な方向に進み始め、下品な笑い声が増えてくると「梱包係は美人ばかりでたまらねぇ」とか「アレンではどうやって女を買うんだ」などとためらわず言うようになった。
将人はそんな辰三の変化に驚きながらも、アルコールの沁み込んだ脳を必死に回転させて、ライアンたちに逐一通訳した。彼らは、そんな辰三の言葉を聞くたびに、「タツミさんがようやく心を開いてくれた」と大喜びしている。
「フィリピンでも、男同士がこういうシモネタで盛り上がるってのは、日本と同じだな。つまり、スケベは世界共通語ってとこだ」
言って、辰三は、自分の言葉に満足するように何度も頷いた。
「そうですよタツミさん。お楽しみはこれからなんです。実はこの後――」
「ちょっと待った」辰三は手の平を突き出してライアンを止めた。「言っておくけどよ、俺はうちの社長や斉藤みてぇに、フィリピンに女を買いにきたんじゃねぇ。こうして飲みに出るのもな、ブエナスエルテ社のため、あとはサマールの文化を学ぶためだ」
辰三は大真面目に言ったつもりのようだが、ライアンたちは腹をかかえて笑った。その笑いで気をよくしたらしい辰三は続けて、以前源社長と、斉藤食材の斉藤社長、清新設備の山本が、マニラのホテルで関内に女を用意して欲しいと土下座した一件を語りだした。
斉藤社長や山本と面識のあるライアンたちは、呼吸ができなくなるほど笑い転げていた。
笑いがおさまると、アルマンが神妙な顔で言った。
「セキウチさんが女に興味を示さないのは、きっとインポテンツだからだよ。本来なら女に向けられるエネルギーが、ぜんぶ仕事に流れてしまうんだ。つまり朝から晩まで仕事の話をするのは、それがファックと同じくらい気持ちいいからに違いない」
さすがにこの冗談は笑えないと将人は思ったが、将人以外の全員が腹を抱えて笑い出した。
辰三は苦笑いしながら、ぼそりとこぼした。
「ここだけの話、アルマンの言うこともまんざら間違いじゃねぇかもしれねぇぞ。あの仕事へののめりこみ具合は、性的異常者とかに似てる気がすんだよ」
「タツミさんはそっちのほう、大丈夫なんですよね?」
ライアンが真顔で聞いた。
「何が?」
「その、つまり、〈そっち〉のことですよ」
ジョエルが言って、リンドンとくすくす笑う。
そのとき、アルマンがむすっとした顔になっていきなり立ち上がり、サンミゲルを大きくあおってから、トイレに行く、といってテーブルを離れた。
「そっち、ってつまり、これのことか?」
辰三は、握ったこぶしの人差し指と中指のあいだから親指の先を突き出した。
その意味がわかったらしく、ライアンが大きく二度、頷いた。
「俺はもう若くはねぇが、〈そっち〉だけは、毎朝ビンビンで困ってるくれぇだ」
辰三が答えると、ライアンは笑わずに、ジョエルとしたり顔でうなずき合った。
「俺、何か悪いことでも言ったのか?」
辰三が将人に小声で聞いてきた。
やはり何か裏があるな、と思いながら将人は答えた。
「いえ、何も悪くありませんよ。彼らがこそこそしてるのは、もしかしたら、今夜辰三さんに女をあてがうつもりだからかもしれません」
辰三の顔に一瞬だけ笑みが浮かんだが、すぐに繕ったような仏頂面と入れ替わった。
「俺だって男だから、女に興味がねぇわけじゃねぇけど――」辰三の声は、あえてライアンたちに聞かせようとするかのように大きかった。「――今はよ、ブエナスエルテ社を動かすことで頭がいっぱいなんだよ。そんなお楽しみはな、仕事がぜんぶ、うまく片付いてから考える。まあ、ライアンたちが俺に気を使ってくれるのはうれしいけどさ」
将人が辰三の言葉を伝えると、ライアンが顔を寄せてきた。
「ホンネ? タテマエ?」
ライアンが日本語で言った。使い方は完璧だが、使う場面を間違えている。
「ホンネに決まってるじゃないか」
辰三が耳をそばだてているのはわかっているので、将人は大き目の声で言ってから、ライアンの耳元に顔を近づけた。
「その日本語は本人の前で使っちゃだめだよ。辰三さんのような年齢の男の人は、体裁をとても気にするんだ。年下のまえでは得意にね」
「テイサイ?」
将人は英語でざっと 〈テイサイ〉について説明した。
「そんなもの気にする必要なんて、これっぽっちもないんですよ、タツミさん、男はみんなスケベなんだから」脇で聞いていたジョエルが言った。将人は通訳をごまかした。「それにもう準備しちゃったから、あと戻りはできなしね」
「準備って、いったい何の――」
将人が言いかけたとき、アルマンが――こちらは本物の仏頂面で――テーブルに戻ってきた。
「タツミさん、せっかくだから、もっと涼しい場所に移動して飲みなおしませんか? このまえの日曜に行ったビーチとか」
ライアンが言った。辰三は、そりゃいいな、と微笑んだ。
「アリガト、ゴザイマス」片言の日本語で辰三に頷いてから、ライアンが将人にささやいた。「さて、ここからはショウに活躍してもらわないといけない」
「もういいかげん、何を始めるつもりなのか教えて――」
将人の言葉をかき消すように、リンドンが指を二本くわえて指笛を吹き鳴らした。そのけたたましい音に振り返ったウェイターに向かって、両手の親指と人差し指で空中に長方形を描いて見せてから、「勘定(チェック)!」と彼は必要以上の声を張り上げた。
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