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『橋の下の彼女』(26)
1999年7月10日(土)
フィリピン・アレン
ブエナスエルテ社に雇われるまでは、毎日暇を持て余していたはずの加工場の従業員たちも、採用試験の日を含めれば、今日で六日間連続、働いたことになる。そのせいか、加工場には休日前日特有の、浮き立つような活気が漂っていた。
辰三は、六台の加工テーブルすべてを見渡せる位置に立ち、親が子を見るような、柔らかい表情で、従業員たちの働く様子を――とりわけアマリアを熱心に――見つめている。
「そういやジョエルのやつ、池に戻ったんだったな」
昨夜ほとんど寝ていない将人は、はっと物思いから引き戻された。辰三は、今まで一度も見せたことのない気取った笑みを浮かべている。いつものだらしない笑い顔とは大違いで、良くも悪くも、若々しく見えた。
「あ、はい、今日の朝一番で戻ったようですね」
「それで――大丈夫だったか、あのあとは?」
朝食のときから、辰三とライアンのあいだにはぎこちない空気が流れていた。通訳を介してしか彼らと会話できない辰三だけに、こういう状況では、彼らに声をかけるタイミングがなかなか見つからないようだ。
「もちろんです。『辰三さんは君たちの心遣いに感謝していた』とはっきり伝えましたから。彼らも、何が悪かったのかをしっかり理解したと思います。しかしそうはいっても、いつも通り辰三さんに接することは難しいと思うんですよ。朝から辰三さんの一挙手一挙動をおっかなびっくりうかがってるような感じですからね」
辰三が苦笑いした。そんな表情も、少しだけ気取っているように見える。
「そんなに大げさに考えることもねぇのにな。わかった、あとで冗談の一つでも言って笑わせてやろう」
言って、辰三は近くにあった棒切れを拾い上げると、ゴルフクラブに見立てて素振りを始めた。
「それで、あれからお前は楽しんだのか」
「それはもう――」最高の夜でしたよ、と言いかけて、将人は慌てて言葉を変えた。「――退屈でしたよ。だって、ライアンはがっくり肩を落として何も話さないし、ジョエルとリンドンは、眠い眠い、と早々に引きあげてしまいましたしね。残ったアルマンはアルマンで、アマリアのことをあきらめきれないと愚痴ってるし――」
将人が、アマリア、と口にしたとき、辰三の素振りが一瞬止まった。
「――だから、タタイ・アナックの飲みなおしは、一時間ちょっとの、しんみりとしたものでした」
「アルマンはまだアマリアをあきらめるつもりじゃねぇんだな。まったく、深追いしたって傷つくだけだぞ」
口元だけで笑みを浮かべると、辰三は続いて今度は自分にしか見えないサッカーボールを数回リフティングしたあと、加工場の前の草むらを、発電機のある東屋の方へ軽快にドリブルしていき、発電機の目盛りを読んでいたアルマンに向って、思い切りシュートを放った。
空気を蹴り上げる辰三を見て、アルマンが何事かと目をむいている。
唇の片方をつり上げるようなキザな笑みを浮かべると、辰三は力強くガッツポーズした。空想のシュートは決まったらしい。
「タツミさん、今日はやけに機嫌がいいじゃないか。昨日のことはもう気にしてないのかな?」
リンドンが小首をかしげながら将人のところへやってきた。
「君たちの接待は大成功だったからね」
「皮肉はやめてくれよ、あんな失態をやらかしたから、僕たちは朝から戦々恐々なんだよ」
「僕は本気で言ってるんだよ」将人はリンドンに向けて、辰三の気取った笑みを真似て見せた。「辰三さんが、なぜ急に〈こんな顔〉して笑うようになったのかわかるかい?」
リンドンは「なんとなく」と頷いてアマリアを一瞥した。彼女は、クリスティたちと共に、乾いた煮干を干し網から一つずつ引き剥がして袋に詰めている。
「男がそういう笑みをするのは――」リンドンが、空想のシュートを再び放とうとしている辰三に目配せした。「――好きな女の前で気取るとき、かな」
「ご名答!」言って、将人はシュートを放つ真似をした。「わかるだろ、君たちの計画は確かに失敗したけど、逆にその失敗が、ものすごく練り込まれた演出の役目を果たしたんだよ。冷静に考えれば、誰でも見抜ける露骨な嘘なのに、昨日のあの失敗のおかげで、辰三さんはアマリアが自分に惚れてるって完全に信じ込んでしまったわけさ」
「でもタツミさんは、彼女のこと抱かなかったじゃないか」
「抱かなかったことによって、君たちは、セックス以上のものを、辰三さんに与えたんだよ」
「それ以上のもの?」
「体裁だよ、〈テイサイ〉」
「またそれか。ショウにとっても、〈テイサイ〉は大事なの?」
将人の心臓が、跳ね飛ぶように脈を打った。大事に決まってるじゃないか、あんなに美しく、恐ろしく魅力的な女性なんだから――。
「アルマンのやつ、もう君に話したの?」
「アルマンからは何も聞いてないよ、〈テイサイ〉のことなんて」
リンドンが首を傾げる。
そこで将人ははっと気付いた――自分だって、辰三に負けず劣らず、のぼせ上がっているじゃないか――いくらリンドンの発音が紛らわしかったとはいえ、〈テイサイ〉と〈ティサイ〉を聞き間違えるなんて――。
将人は、恥ずかしさのあまり額にじっとりと浮かんだ汗を手の平で拭った。
「いや、その――とにかく大事なんだよ。理屈で考えないで、日本人にとってはそれが大事なことなんだって思い込めばいい」
「じゃあ、僕にもっと〈テイサイ〉のことを教えてくれよ」
「だめだめ、彼女とのことは――」リンドンのぐりっとした大きな目に見返されて、将人は慌てて我に返る。「――えっと、そうじゃなくて、体裁って言っても、なかなか種類が多くてさ、その、僕とか、あなたとか、彼女とか、彼とか、年齢によってもいろいろだから。つまり、状況次第で難しいんだ」
リンドンが「じゃあまた時間のあるときに」と肩をすくめた。そして掛け時計に目をやって、十時を十五秒ほど過ぎていると見て取るなり、首に下げたホイッスルをむしりとるようにつかみあげて口に突っ込むと、肺が破けるのではないかと思うほどの勢いで吹き鳴らした。
将人は指を耳の穴に突っ込んでその爆音に耐えながら、きっと今ごろ、納屋の奥に広げた簡易ベッドの上でクリスが飛び起きただろうな、と思った。
十時と三時の休憩になると、アルバートは必ずストローを挿したビン入りのコーラを将人に持ってくる。
「ミスター・ショウ、ライアンが、よんでいます」
ビンを差し出しながら、アルバートが英語で言った。
「何だって?」
将人は驚いて、受け取ったビンを手から滑り落としそうになった。
「ライアンが、よんでいます。みはりごやです」
アルバートは、自分の英語の発音が悪くて通じないと思ったのか、苦笑いしながら、もう一度丁寧に言い直した。
「ごめんごめん、君が英語を話したからびっくりしたんだ」
アルバートがにこりとした。彼が笑みを見せてくれたことが妙に嬉しくて、将人は渡されたばかりのコーラのを差し出していた。
「これ、飲むかい?」
アルバートの喉ぼとけがゴクリと大きく動いた。彼はビンに手を伸ばしかけたが、途中で、熱いものに触れたかのようにさっと引っ込めた。
彼がわずかに視線を動かした先には、鬼の形相のリンドンが立っていた。
「山岳民族はコーラは飲まないんですよ、健康に良くないから」
決め付けたようにリンドンが言った。一日に二本のコーラを将人は毎日飲んでいるのだが。
「次からはボゴジュースを出してくれよ、コーラが健康に良くないならさ」
「ボゴジュースは飲みすぎるとお腹によくないよ、それは知ってるだろ?」
リンドンが答えた。確かに、ボゴジュースは食物繊維が大量に含まれているので、飲みすぎると必ず下痢をする。しかし、コーラとサンミゲルを除いたら、ブエナスエルテ社で将人が口にできる飲み物は、ボゴジュースとミネラルウォーターしかない。
「ああ、でもときどき、あの味が無性に恋しくなるんだ」
「わかったよ、じゃあ三時の休憩にはボゴジュースを出すから」
リンドンが肩をすくめて言った。
「ごめんねアルバート、こいつは健康に良くないんだってさ」
言って、将人はアルバートにウィンクしながら、コーラをすすり上げた。
アルバートは、将人にぎこちない笑みを返すと、横目でリンドンを一瞥して、逃げるように加工場から走り去っていった。
加工場の日陰から一歩出た途端、拷問のような日差しに襲われた。数歩も歩かないうちに、頭と背中だけでなく、前腕や手の甲からも、汗が玉粒になって噴き出す。
「アマリア、俺のもの! アルマン、振られた、ハイバイ!」
二十は若返ったような生き生きとした顔で、辰三はアルマンと戯れていた。「見張り小屋でライアンと話してきます」と将人が告げると、辰三は「はいよ!」と威勢の良い返事を返してきた。話が昨夜の一件だというのを察してか、それ以上、何も聞いてこなかった。
古いカローラの車庫になっている小屋の脇を抜けて、製氷機の小屋の前に出た。そこからリーファーコンテナ、計量所、見張り小屋に至るまでの地面はコンクリートがうってあるので、体感温度はさらに上がる。紺色の防寒服に身を包んだイボンとブノンが、大バケツに入った鮮魚をリーファーコンテナからプラットフォームに引きずり出していた。バケツから濁った水が流れ落ち、プラットフォームとその周辺を水浸しにしている。太陽でフライパンのように焼かれたコンクリートに落ちた水があっという間に蒸発して、むせるような異臭を放つ。汚水が乾いて赤茶けた跡には、大量のハエが群がっていた。
見張り小屋の軒下にノノイが立っていた。将人に気付くと、彼は眉を上げてにっこり微笑んだ。
「ライアンが、なかでまってるよ」
将人が頷いて中に入ろうとすると、ノノイが肩に手をかけてきた。
「きのう、ハルディンにいったそうじゃないか」
「もう聞いたの?」
「クリスが、そこらじゅうで、べらべらしゃべってるからね」
「まったく、クリスといい、アルマンといい、本当に口が軽いんだな」
「それにしても、ショウ――」ノノイがあきれたように首を振った。「おんなをへやにつれこんで、あさまで、ただ、かおをみつめていたというのは、ほんとうなの?」
「いや、それはその――」本当だった。昨晩、モーテルの部屋に入るなり、ティサイは将人の腕を引っ張って、ベッドに誘った。ところが、将人が――決断するまでの時間稼ぎの意味も含めて――彼女の髪を撫でていると、ものの数秒で、彼女は完全に眠りに落ちてしまったのだ。「――僕はね、好きな女は、とことん大事にしたい主義でさ」
ノノイが大笑いした。
「あいては、ハルディンのしょうふじゃないか。かのじょたちは、おとこにだかれるのが、しごとなんだぞ」
「だからこそだよ。彼女を抱かないことで、他の男たちと違うって思ってもらえるかもしれないじゃないか」
ノノイが口をあんぐりと開けた。
「まさかショウ、そのしょうふに、ほんきでほれた、なんて、いうつもりじゃないだろうね?」
「完全にひと目ぼれさ、首っ丈もいいところだよ」
ばかげて聞こえるのは明らかだったが、相手がノノイなので、将人は正直に答えた。
「ああ、なんてこった」
ノノイが額に手を当てた。
そう、なんてこった、と将人も感じたのだ――窓がうっすら白み始めたころ、約束どおり、クリスが迎えに来たが、それまでのおよそ三時間のあいだ、汗で湿ったティサイの柔らかい髪をそっと撫で続けた――彼女の美しく整った寝顔に見とれながら――。
「信じてくれ、すごい美人だった。彼女に触れられるだけで、心臓が喉もとまで上がってきて、そこで脈を打つくらいドキドキしたんだよ。ノノイだって、彼女を見れば、きっと僕に賛成してくれるって」
「きみは、あたまが、いかれてる」
将人は、それを褒め言葉だと受け取ることにして、覚えたてのタガログ語で「サラマット(ありがとう)」と礼を言った。
ノノイが、将人の肩をたたきながら「アレンにようこそ」と大笑いした。
見張り小屋に入ると、奥の椅子にライアンが腕組みして座っていた。朝と同じく、難しい顔をしている。
その脇に、てっきり納屋の簡易ベッドで眠い目をこすっているだろうと思っていたクリスがいた。まるで、先生に叱られたあとの小学生のようにうなだれている。
「タツミさんがいるところだと話しにくいことだったから」
ライアンが苦々しい顔で言った。どうやらハルディンでの一件がライアンの知るところとなったようだ。
「ところで、リンドンにも言ったんだけど、君たちの辰三への接待が、意図しないかたちで大成功を収めたってこと、気付いた?」
ライアンが小首を傾げた。朝から辰三を避けるように動いていたライアンだから、辰三の変化をまだ目にしていないのだろう。
将人は、昨夜の一件があのようなかたちで失敗したことで、辰三は逆に〈男を上げる〉ことになり、実は今かなり上機嫌だということ、そして、アマリアに惚れられているとすっかり信じ込んで、まるで思春期の学生のようにはしゃいでいることをライアンに伝えた。
「――だから、君たちは辰三さんに普段どおり接すればいいんだよ。辰三さんもそれを望んでるからさ」
ライアンの表情が、少しだけ緩んだ。
「ショウ、本当に助かるよ」
将人は肩をすくめて返事の代わりにした。
「ところで――」将人は、しょぼくれているクリスの顔をのぞきこむように身をかがめた。「いつも緩みっぱなしの顔をしてるクリスさんが、今日はやけに神妙な顔をしているけど、何か問題でも?」
クリスが、ライアンに見えるか見えないかの絶妙さで、口元を面白おかしく、くねくねと動かした。将人は、気落ちして見えるのは演技だとクリスが伝えているのに気付いた。
「あのあと、よりにもよってハルディンに行ったんだってね」ライアンが、あきれたように首を振った。「君をアルマンとクリスに任せた僕にも落ち度はあるけど、アルマンもアルマンならクリスもクリスだ。いくらショウの了解を得ていたとしても、あんな場所でサンミゲルを何十本も飲むなんてどうかしてる。二千八百ペソも払ったそうじゃないか」
ライアンは、二千八百ペソ、と言うときだけ、クリスに向けて声を張り上げた。
クリスがぎゅっと目を閉じて首をすぼめた。
ライアンが続ける。
「君も気付いているだろうけど、ハルディンのサンミゲルには、ホステスの接待料も含まれているんだ。飲んでもせいぜい二本で止めておくほどの値段だよ。気にいったホステスがいて、彼女と飲みながらゆっくり話したかったのなら、面倒でもペナルティーを払って店から連れ出して、タタイ・アナックで飲めばよかったんだ」
つまりそうしなかったことで、クリスはライアンからお叱りを受けているのだな、と将人は理解した。
「わかったよ、確かに同じ酒を飲むなら安いに越したことはないからね」
「心配だから、次は僕も一緒に行くことにする」
ライアンが言った。
「頼もしいね、ぜひお願いする――」言いかけて、もしライアンが一緒なら、〈タタイ・アナック号〉のデッキに下りようとしないだろうことに気付いて、将人は慌てて口をつぐんだ。次回はあのデッキで、ティサイと素敵なひとときを過ごそうと決めていたのだ。「――いや、クリスかアルマンがいてくれれば大丈夫だよ。もうハルディンでしこたま飲むような真似はしないからさ。僕が出かけるときは、君が彼女に会いにいける貴重な機会でもあるんだろ?」
「その通りだけど、やっぱり心配だから、次は一緒に行くよ」
まいったな、と将人は内心思った。
「それはそうと――」ライアンがイスから立ち上がった。「――ハルディンのホステスをモーテルに連れ込んで、服も脱がさずに、顔を眺めて過ごしたというのは本当かい?」
言うなり、それまで仏頂面だったライアンが、いきなりおどけた笑みを浮かべた。
将人の代わりにクリスが答え始めた。
「本当も本当ですよ、私が明け方にモーテルの部屋を訪れたとき、ベッドの上で、ショウは熟睡しているティサイの髪をやさしく撫でていたから、きっといい夜を過ごしたんだな、と思い込んでいたのに、社宅に戻る車の中で『実は顔を眺めていただけなんだ』ってショウから聞かされたときの、その驚きといったらもう――」
「クリス、僕はこの話を君から聞いたんだぞ。ここでもう一度繰り返す必要はないだろ」
ライアンに言われて、クリスは慌てて口を閉じた。
「それでショウ、君はまたティサイに会いたいの?」
答えはわかってる、と言わんばかりのしたり顔でライアンが聞いた。
ライアンの口調から、彼が彼女を買ったことがあるというアルマンの話は本当なんだな、と将人は直感した。
「もちろんさ」将人はかまわず答えた。「できればすぐにでも会いたい。それから、一つお願いがあるんだけど」
「お願い?」
「彼女に何かプレゼントしたくて」
ライアンばかりでなく、クリスまで、喉ぼとけが見えるほど、口をあんぐりと開けた。
「何だって?」
「彼女に靴を買ってあげたいんだよ。あの子、とってもきれいな脚をしてるのに、サンダルだったから。ヒールの高いパンプスなんか、最高に似合うと思うんだけど」
ライアンは眉一つ動かさず、しばらく将人の顔をぽかんと見つめた。そして、同じような表情のクリスと顔を合わせると、二人して腹を抱えて笑い出した。
将人が怪訝な顔で彼らを見つめていると、ライアンは「ごめん、ごめん」と言って、目頭の涙を拭った。
「そうだな、アレンの魚市場の近くに、輸入品を扱ってる店があるんだ。仕事の帰りに寄ってみよう。この町で〈パンプス〉という履物を、それと承知で売っている店はその一軒だけだからさ」
将人は、左手の親指と中指をぐっと広げた。ティサイが寝ているあいだに、彼女のサンダルの大きさを指で測ったのだ。将人の手にすっぽり収まりそうな小さいサンダルだった。
「それにしても、君は娼婦たちに金や物を与えるけど、仕事はさせないんだね」ライアンが言った。「おまけに、アルマンにも石鹸と歯磨き粉を買ってあげるそうじゃないか。まさか彼とも寝るつもりじゃないだろうね?」
言って、ライアンはクリスと二人揃って大笑いした。将人もつられて笑った。外にいるノノイまで、戸口から顔をのぞかせて笑っていた。
社宅で昼食を取っているとき、ライアンは、辰三が料理に手をつけるたびに「ソースはいりますか?」「塩はいりますか?」などと気を使っていた。辰三は聞かれるたびに「サンキュー」と照れくさそうに微笑んで、そのままでも十分に味が濃い料理に、普段は使わない調味料を存分に振りかけた。当然、辰三はむせかえるが、そんなときはライアンが、待ってました、とばかりに水を差し出す。
食事が終わり、リビングで〈ペラ・オ・バヨン〉をソファーに並んで見るころには、辰三とライアンのあいだに漂っていたぎこちない空気はすっかり消えていた。
「タツミさんは本物の紳士ですよ」ライアンが唐突に言った。「あの状況で彼女に何もせず帰ることができるフィリピン人は、おそらく一人もいませんよ」
「僕だったら我慢できませんね」
こっそりアマリアと良い雰囲気になっていたアルマンも続ける。
「本気で惚れた女ってのはな、寝顔を見てるだけでも満足するもんだ」
辰三は得意げな顔で言った。
そのとき、ソファーの一番端で、それまでわれ関せず、といった顔で座っていたクリスが、将人の方をちらりと見て微笑んだ。彼が何を言わんとしているかは聞くまでもなかった。
「それはそうと、お前らはあれからカラオケ屋で飲みなおしたものの、十二時には社宅に戻ってきた、ってショウから聞かされたんだが、それは本当に本当か?」
「本当ですって!」
通訳する前に、将人は思わず答えていた。
「お前に聞いてねぇ、ライアンたちに聞いてんだ。いいから黙って通訳しろ」
「黙ったら通訳できないじゃないですか」
「そういう屁理屈をこねるところが余計に怪しいな」
「すみません、今すぐ通訳します」
将人は仕方なく、自分の発言の真偽を、自分の口でライアンに確かめた。
ライアンは毅然とした口調で答えた。
「はい、確かに僕たちは十二時には戻っていましたよ。もともと飲みなおすような気分ではなかったですしね」
辰三は、片方の眉を上げながら、したり顔を将人に向けた。
「おっかしいなぁ。というのもよ、俺はあれからなかなか寝付けなくてな。ちょっくらジョニ黒でもやろうかと思って、そうだなぁ、十一時半から十二時くらいまで、リビングで、ひとりでちょびちょび飲んでたんだよ。でもな、俺が部屋に戻るまで、誰も帰ってこなかったんだけどなぁ」
言い終えると、辰三はしてやったり、というようににかっと笑った。
将人がこわばった顔でそれを通訳すると、ライアンもわずかに顔を引きつらせた。だがアルマンだけは違った。「なんだ、ばれてたのか」と膝をたたいて笑い出した。
「そうなんですよ、実はあれから――」
ライアンが、白状しかけたアルマンを遮るように「ああわかった!」と手をたたいた。
「タツミさん、時差ですよ、時差」
「時差?」
辰三が訝しげに首を傾げた。
「そうです、時差です。僕も昨晩はとっても動揺してましたから、今の今まで気付きませんでした。タタイ・アナックから社宅に戻ったとき、ショウの腕時計を見せてもらったんですが、彼の時計は十二時まえだったんですよ」ライアンは、将人の腕を手繰り寄せると、腕時計のボタンをいくつか押した。「ほら、彼の時計は、日本時間と、もう一つ、別の時間も刻めるんです」
ライアンが将人の腕時計を辰三にかざして見せた。将人のGショックは、ライアンの言うとおり、二つの時間帯を切り替えて表示させることができる。一つは日本時間、もう一つはフィリピン時間に合わせてあった。
「フィリピン時間は、日本時間より一時間早いです。つまり、僕たちが帰ってきたとき、リビングでタツミさんと会わなかったということは、そのときのショウの腕時計が日本時間を表示していたってことです。つまり僕たちが帰ってきたのはフィリピン時間で十二時から一時のあいだ、ってことなんですよ」
ライアンは、将人の腕時計のボタンを押して、時計表示をフィリピン時間から日本時間に切り替えて見せた。
「何か上手く騙されてるような気がしねぇでもねぇけど――」辰三が苦笑いした。「仕事にさえ差し支えなきゃよ、若いお前らがどこでどれだけ遊ぼうが、俺はかまわねぇよ」
数日前、将人が冷蔵庫の中で、Gショックのブルーのバックライトを点灯させたのを見たライアンは、時計の値段や機能について、しつこいほどあれこれと質問を浴びせてきた。二つの時間帯を表示できる機能を教えたのは、そのときだった。
「なるほど、つまり僕らは日本時間の十二時には社宅に帰っていた、ってことなのか。僕も今の今まで気付かなかったよ」
ライアンの言い訳に便乗しながら、将人は彼の頭の回転の速さに感心した。
何もかも白状するつもりだったらしいアルマンは、喉元まででかかっていた言葉を飲み下すかのように、コーヒーをぐいぐいと飲んでいた。
午後も辰三は相変わらず上機嫌で、テーブルからテーブルへ、やたらと身軽な動きで加工係の仕事を見てまわった。トトは、ほとんど腐っているといってもいい小イワシを煮干にするために大鍋でゆでていた。そんなことで日本基準が満たせるのか、と気をもんでいるリンドンに、「大丈夫、干せばわからねぇから安心しろ」と辰三はにこやかに言った。
そのうち、辰三がサッカーボールを欲しがっていると本気で思ったのか、アルバートが乾燥させたヤシの実を持ってきた。
辰三は、乾燥してもなお数キロはあるその硬い実を、サンダルで「痛い、痛い」と繰り返しながら、敷地の中をドリブルで進んでいった。そうしながらも、アマリアの方にちらちらと視線を向けている。
「どうだい、僕の言ったこと、本当だろ?」
将人は、加工場にやってきたライアンに言った。
「ああ、間違いない。タツミさんはアマリアに惚れてるよ。本当に二十歳は若返ったみたいに見える」
辰三は口にくわえたタバコに火をつけると、表のアジアンハイウェイまでヤシの実をドリブルしていった。
「この状況は、ブエナスエルテ社にとっては幸運(ブエナスエルテ)なことだけど、ひとつだけやっかいな問題があるのに気付いてる?」
将人は言った。
「なんだい?」
ライアンは笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「辰三さんが、アマリアと両思いだと信じ切ってることだよ」
「それがなぜやっかいな問題なの?」
「アマリアが辰三さんに惚れてるっていうのが、僕たちがでっち上げた嘘だって知ったら、辰三さんはそれをとんでもない侮辱と受け取るよ」
ライアンは肩をすくめた。
「誰かがそうだと言わない限り、タツミさんが真実を知ることはないし、そうすることで得をする人間はここには誰ひとりいない。つまり、このまま嘘を突き通せばいいだけさ。それに、アマリアがタツミさんを慕ってるというのは、まんざら嘘でもないんだよ」
将人はそれを話半分に聞くことにした。フィリピン人の全てに当てはまることかどうかわからないが、ライアンとジョエルを見る限り、彼らが嘘をつくときには、どうも〈敵を欺くにはまず味方から〉という姿勢が見え隠れする。
「ライアン、僕まで騙そうとするのは止めてくれよ」
「そんなことはしないよ。実はね、今日の仕事が始まるまえ、昨日のことでアマリアと話したんだ。タツミさんが、なぜアマリアを部屋に残したまま帰ったのかってことを説明しなければならなかったからね。そしたら彼女、本当に驚いていたんだよ。『そんな男が地球上に存在するの?』ってさ」
「〈嘘から出た誠〉ってとこだね」
「なんだい、それ?」
「〈嘘が本当になった〉って意味だよ」
「ああ、なるほど、いい言葉だ」
もちろん、将人はライアンの言ったことを信じたわけではなかった。今朝は出勤するなり、辰三を避けるように見張り小屋にこもっていたライアンに、そもそも加工場にいたアマリアと話す機会があったとは思えない。
将人が言ったやっかいな問題――それは、アマリアと両思いだと思い込んでいる辰三だから、もしまたライアンたちが似たような計画を実行したら、次こそは彼女を受け入れてしまうだろうことだ。一回目があれば、二回目、三回目と続き、自由恋愛だと思い込んでいるからこそ、頻度も上がっていくことだろう。いくらなんでも、そのたびに彼女に二千ペソ払う余裕は、ブエナスエルテ社にはないはずだ。もし途中で接待資金が底をつき、アマリアが〈無料〉では辰三と会わないとでも言いだしたら、嘘がばれるのは目に見えている。頭の回るライアンだが、どうもそこまで先を見ていないように思える。
将人はライアンを見据えた。
「とにかく、僕には嘘をつかないと約束してくれ。何かしら問題が起きたとしても、裏事情を知ってさえいれば、昨日みたいに何とか対処できるかもしれない。でも、もし僕も一緒になって騙されてしまったら、取り返しのつかない事態になるかもしれないからね」
「もちろん、誓ってショウに嘘はつかないよ」
だが将人は、その言葉を鵜呑みにはしなかった。
五時を告げるホイッスルが鳴り響いた。六日間働きとおした従業員たちの顔が、ぱっと明るく輝く。みな、いつも以上にてきぱきと片づけを始めた。
「明日の休みはどうすんのかな」加工場が片付いていくのを、どこか寂しげな顔で見守っていた辰三がぼそりと言った。「何か聞いてねぇか?」
「そういえば何も言ってなかったですね。ライアンたち、いろいろあって、明日休みだってこと忘れてるかもしれません」
若い男の従業員たちが、テーブルと排水口に塩素の粉を撒き始めた。生臭さが、鼻を突く刺激臭と入れ替わる。
辰三のあとについてリーファーコンテナへ行くと、冷凍室での今日の作業を終えたブノンとイボンが、夕方の蒸し暑い湿った空気の中で、つなぎを着たまま、青い顔でコンクリートの上に寝転んでいた。
何をしているのかと将人が聞くと、疲れ切った顔のイボンが「じめん、あたたかい」と微笑んだ。
辰三が、鮮魚の在庫と、仕上がった製品の在庫を数えていると、ライアンが在庫管理表を持ってやってきた。痛んだ小イワシを片っ端から煮干にしたおかげで、鮮魚の在庫は順調に減っていたし、製品の方は、すでにサンパブロに出荷できるだけの量があることがわかった。
「来週には、またカルバヨグへ買い付けにいかねぇとな」
何から何まで手書きの在庫管理表を見ながら、辰三が言った。
カルバヨグ、と聞いて、将人はセシルのことを思い出したが、それもつかの間、ティサイの顔に変わった。
「次の買い付けはリンドンひとりに行かせようと思っているんです。タツミさんがいなくても、買い付けができるようにならないといけないし、どの魚をどれだけ買えばいいのか、彼はずいぶんわかってきている様子ですし」
ライアンが言うと、辰三は肩をすくめながら頷いた。
「そうだな、それじゃ、あいつにひとりでやらせてみるか」
辰三は将人に向き直ると、「明日、何か予定があるか聞いてみろよ」と小声で言った。
「まだ決めてないんです。最近は仕事のことで頭がいっぱいで、すみません」ライアンは頭を下げた。「そうですね、例えば、ビーチでコテージを借りて、一日中、そこでのんびり過ごすというのはどうです?」
辰三はぱっと顔を輝かせ、何かを期待するような目を将人の方に向けてきた。その視線の告げるところを理解して、将人は聞いた。
「僕たちだけで?」
ライアンが、当然だというように頷いた。
「もちろんさ、他に誰を誘うんだ?」
そう聞くなり、辰三は露骨にがっかりした顔になった。
将人は、それならビーチにティサイを誘えないだろうか、と考えた。白浜で彼女と一緒に寝転べたら、まさにこの世の天国だ。それに辰三が本音ではアマリアを誘い出したいのは明らかだから、将人がティサイを連れて行けば、辰三がひとりだけ女連れになることもなく、肩身の狭い思いをせずに二人で楽しく過ごせるはずだ。
「アマリアを誘ってみるのはどうだろう?」将人が言うと、辰三がぴくっと反応した。「僕も、その――あの彼女を誘ってみるからさ」
言いながら将人は照れくさくなった。どうも『ティサイ』という名をすんなり口にできない。
「ああ、それは良い考えかもしれない」
ライアンが手をたたき合わせた。
辰三が木の枝を拾い上げて、少し離れた位置でゴルフの素振りを始めた。
「でも、アマリアはいいとして、ティサイを一緒に連れて行くのは難しいよ、残念だけど」
「どうして?」
将人は思わず口を尖らせた。
「見ての通り、アレンという町は小さい。この町の誰もが、ティサイが娼婦だってことを知ってる。そのティサイを連れて、僕たちブエナスエルテ社の重役が近所のビーチで戯れていたら、町にどんなうわさが広がるか――わかるだろ?」
言われてみれば確かにそうだ。将人はがくりと肩を落とした。
「ただね、方法がないわけじゃないんだ」
ライアンは微笑んで、将人の肩に手を置いた。
「方法?」
将人は顔を上げてライアンを見つめた。
「少し遠いけど、ここからカタルマンの方角に二十キロほど走ったところに、サンホセって町がある。そこのビーチは広くて眺めもいいし、きれいなコテージもあるんだ。そこまで行けば、ティサイを娼婦だと知っている人はまずいないはずだよ。もしいたとしても男だし、彼らは黙ってるはずさ、なぜなら、ハルディンで飲んだことがない限り、彼女が娼婦だと知りようがないからね」
将人は、顔がにやけるのを必死でこらえようとしたが、無理だった。ティサイが一緒に来てくれると決まったわけでもないのに、頭の中では、さまざまな妄想が所狭しと駆け巡り――。
「できるの?」
「ああ。ただし――」ライアンが人差し指を突き出した。「土曜のこの時間からじゃ、サンホセのビーチコテージの予約は間に合わない。だから、この計画は来週に繰越しにしよう。来週の日曜なら間違いなく予約できるし、アマリアやティサイだって、予定を合わせやすいだろうしね」
将人は満面の笑みで頷いた。
ライアンは続ける。
「だから、明日のことは、明日起きてから決めることにしようよ。何でもかんでも前もって決めておくなんて、仕事だけで十分さ」
そう言ったとき、ライアンがめずらしく疲れた顔を見せた。
考えてみれば、彼も加工場で働く従業員たちと同じく、六日間、朝から晩まで働き続け、ようやく明日休みを迎えるのだ。加工場から運ばれてくる製品の計量と、手書きで在庫管理を行うかたわら、経理の仕事もこなしている。関内によって強引に決められた、おそらくとんでもなく安い卸値から、どれだけの利益を出せるだろうかと、毎日頭を痛めていることだろう。
「そうだね、急かすようなこと言ってごめん。辰三さんには上手く言っておくよ。来週にはアマリアと一日中ビーチで過ごせるんだ、きっと明日の予定なんて、僕と一緒でどうでもよくなるに決まってる。辰三さんがあとどれだけ若返るか見ものだよ」
将人は、掲げた手の平をライアンとたたき合わせた。
住み込みの従業員たちに何やら指示しているライアンをパジェロの中で待つあいだ、将人は辰三に、明日の予定は明日起きてから決めることになったことと、来週の日曜はサンホセのビーチコテージを借りて海水浴に出かけることになったことを伝えた。そして、女性従業員の誰かも一緒に来るかもしれない、と含みを持たせて付け加えた。
辰三は、まるで子供のように目を輝かせると「そいつはいい計画だ」と満面の笑みを浮かべた。
「それからですね――」将人は、できる限り困ったという顔を繕った。「昨日も言いましたけど、替えのパンツがもうないんですよ。サンパブロのときと違って、洗濯物がぜんぜん戻ってこないですからね。辰三さんは、まだ替えがありますか?」
「何を隠そう、俺はおとといくらいから、毎日同じパンツを履いてんだ」
将人は思わず噴き出した。
「それなら、社宅に戻るまえに、アレンのどこかの店に寄って下着を買いませんか?」
「じゃあ金をやるから、俺のも二、三枚買ってきてくれ」
言って、辰三は財布を取り出すと、数枚の千ペソ札を抜き出して将人に渡した。
「こんなにはしないと思いますけど。一緒に店に来ないんですか?」
辰三がそうしないことを期待して、将人は聞いた。
「柄なんて気にしねぇからお前が行ってこい。サイズはMだ。股間はXLだけどな」
言って、辰三は馬鹿笑いした。
将人は一緒になって笑いながら、頭の中でガッツポーズをしていた。これで、辰三の目を気にすることなく、ティサイのためにゆっくりとパンプスを選ぶことができるのだ。
社宅を通り過ぎ、アレンのメインストリートを、パジェロはそのまま南へ進んだ。ビニールシートで覆われた屋台の列が始まる交差点を右に曲がると、車はすっかりひと気のなくなった市場前の広場に出た。カルバヨグの魚市場の、半分の大きさもないアレンの魚市場がその奥に見えている。
アルマンが、広場をぐるりと囲むように建っている店のうちの一軒を指差した。
「あれがセキウチさんに定時連絡を入れるときに使う電話交換所だよ」
店の軒先に、〈長距離電話及び国際電話サービス〉という、手書きでないきれいな看板がつり下がっている。
「今日も午後二時に定時連絡を入れたんだけど、ゴルフに出かけたのか、誰も出なかったんだ」
〈セキウチ〉と〈ゴルフ〉という単語を聞き取った辰三が、「セキウチさん、ゴルフ、エブリデイ!」と苦々しい顔で言いながら、指でバツを作った。アルマンも一緒になって「イエス、セキウチサン、ゴルフ、オルウェイズ!」と、あきれたような表情で、首を大きく横に振った。
広場をなぞるようにぐるりと半周したところで、パジェロが止まった。
「この店だよ」
言って、ライアンが車を降りた。将人も続く。
風が吹けば未舗装の道路から砂埃が舞う店先に、まるで洗濯物のようにごちゃごちゃと商品を並べている他の店と違って、その〈シャイメーリーズ・インポーテッド〉という、白地に赤文字の看板を掲げている小ぎれいな店には、半畳ほどのショーウィンドーがあり、その中で、小麦色をした首のないマネキンが――ひとみが見たら大喜びしそうな――派手な原色のキャミソールとミニスカート、そして、ラメの入ったエメラルドグリーンのパンプスを履いていた。
「ハロー、シャイガール!」
店に入るなり、ライアンはレジに座っていた女性に、親しげに声をかけた。
彼女は、手にしていた雑誌からぱっと顔をあげ、気心の知れた人に向けるような、やわらかい笑みをライアンに返した。髪に強いくせがあるようで、伸ばすとまとまらないからなのか、フィリピン人女性にはめずらしい、ボーイッシュな短髪にしている。飛びぬけた美人ではないが、目鼻立ちははっきりしていて、育ちのよさを感じさせる、気品のある顔立ちをしている。
「あれ、いつもは五時に店を閉めるのに、今日はこんな時間までいったいどうしたんだい?」
「アルバートを使いによこして、『今日はライアンたちが買い物に行くまで店を閉めないで』と伝言したのは、どこのどなただったかしらね」
驚いたことに、その若い女性は、タガログ語ではなく、流暢な英語でライアンと話した。
ライアンは笑いながら、彼女と軽い抱擁を交わした。
「彼が、日本からやってきたショウ。ショウ、こちらがこの店のオーナー、シャイメリー。こんなに若いのに、もう自分の店を持ってるんだよ」
てっきりアルバイト店員だと思っていた彼女を店主だと紹介された将人は、「お会いできて光栄です」と慌てて右手を差し出した。
「うわさは聞いてるわよ」
シャイメリーが将人の手を強く握り返しながら言った。
「うわさ?」
将人は思わず聞いた。
「ショウ、アレンではもう、君とタツミさんのことを知らない人間はいないんだよ」ライアンが言った。「ただでさえブエナスエルテ社は注目の的なんだ。そこへ日本人がやってきたとなれば、うわさにならないほうがおかしいよ」
「それに、こうして本人を見てわかったけど――」シャイメリーはまだ将人の手を握り続けていた。「とても背が高くて、とてもハンサム、ってところまで、うわさどおりね」
彼女はウィンクしながら、キスを求めるように唇を突き出してきたので、将人は驚いて、慌てて手を放してあとずさった。
失礼なことをしてしまったな、と思ったのもつかの間、シャイメリーとライアンが、声を上げて笑い出した。
「大丈夫よ、あなたが〈とある女性〉にプレゼントを買いに来たことは知ってるから」
将人はほっと胸をなでおろしながら、ぎこちなく微笑んで見せた。
「それで、パンプスをお探しだと聞いたけど――」
シャイメリーはにこりと笑って、試着室の脇にある、靴の並べられた棚に歩いていった。
〈シャイメリーズ・インポーテッド〉の店内は、狭いわりにがらんとして感じられた。棚がいくつもあるのに、Tシャツやズボンが、積み上げられることなく、間隔をを開けて、ぽつりぽつりと置かれている。高い輸入品ばかり扱っているから、きっとたくさんの在庫を置く余裕がないんだろうな、と思って、ふと将人は以前、似たような光景をたった一度だけ、それも数分間だけ足を踏み入れた、デザイナーズブランドの店で見たのを思い出した。この店も、アレンではそういう位置づけになるんだろうか、と将人は訝った。
シャイメリーは、二種類のパンプスの片方ずつを、それぞれ左右の手に持って将人のところに戻ってきた。
「それで、サイズはいくつ?」
「このくらいか、これより少し小さいかも」
将人は、左手の親指と中指を、一直線になるように伸ばした。シャイメリーが、ポケットからさっとメジャーを取り出して、その長さを測る。
「二十三センチ、ってとこね。しかしあなた、サイズも知らずに、彼女の靴を買い物にきたってわけ?」
「サプライズが好きなんだ、昔から」
彼女はあきれるように両手を広げると、持ってきたパンプスの一方を差し出した。黒いエナメルに、バラをかたどった銀メッキの金具が付いている。
「これが二十三センチだけど」
デザインを確かめるふりをしながら、将人はさりげなく値札が見えるように手の平の上で靴を回転させた。千ペソは覚悟していたのだが、そこに赤い文字で書かれていた数字は〈450〉だった。
「素敵じゃないか」
値段に対する驚きも込めてそう答えながら、将人は考えた――これを履いたティサイの細い脚が、どれだけ魅力を増すか見ものだぞ――。
「じゃあこれにしよう――」言いかけたところで、ふと、ショーウィンドーのマネキンが履いていたパンプスを思い出した。「――と思ったけど、そのまえに、あのマネキンのパンプスも見せてもらえないかな?」
シャイメリーが驚いた顔になった。
「確かに、あれも二十三センチだけど――」
「売り物じゃないの?」
将人の代わりにライアンが聞いた。
「もちろん売り物だけど、とっても高いからおすすめしなかったの」
「いくら?」
将人は聞いた。
「まずは見てみる? ちょっと待ってて、取ってくるから」
言って、シャイメリーがそそくさとショーウィンドーのマネキンに歩み寄り、エメラルドグリーンのパンプスを脱がせて戻ってきた。
「まったく、実物を見せるのが先とは、君もすっかり商売上手になったもんだよ」
ライアンが苦笑いしながら言った。
期待するような笑みを浮かべて、シャイメリーはパンプスを両手でゆっくりと将人に差し出した。
ひと目見て、さっきの黒いパンプスとは材質も作りも違うのがわかった。貼り合せの部分が丁寧に仕上げられているし、蝶をかたどった止め金具も、メッキではない本物のシルバーのような、白みがかった銀色をしている。
「千二百ペソなんだけど――」シャイメリーが首を振った。「百ペソくらいなら、値引けないこともないわ」
千二百ペソ、と言われた時点で、将人の心は決まった。
「この靴のほかにも、ショウは下着を何枚か買うんだ。そっちも、まけてくれる?」
ライアンが聞いた。シャイメリーは腕組みして、眉を一度、大きく持ち上げると、しぶしぶといったように頷いた。
「いいわ、あなたの大切なゲストですものね」
「買うよ」将人は二人の会話に割って入った。「これにする」
「え?」シャイメリーが目を瞬いた。「これを買ってくれるの?」
将人はにっこりと微笑んでから、大きく頷いた。
シャイメリーは「やったー」と言ってライアンに抱きついた。
結局、シャイメリーの店で、将人はエメラルドグリーンのパンプスと、アメリカ製のトランクスのMとLを三枚ずつのほか、〈セブンティー・シクサーズ〉のベースボールキャップまで買った。全部合わせて二千三百ペソだったが、シャイメリーは、二千ペソでいい、と言ってくれた。
店を出ると、ライアンがあきれるように言った。
「あの店で、一回の買い物に二千ペソも使ったのは、ショウが初めてだろうね」
社宅に戻る車中で、ライアンは「シャイメリーはダバオ大学時代の同級生なんだ」と言った。デザイナーズブランドの店を持つのが学生時代からの彼女の夢だったが、ダバオやマニラでは資金的に難しいので、まずはアレンで、店舗経営の勉強も兼ねて店を開いたのだという。彼女に「店を安く開くならいい町がある」と紹介したのが、そのときすでにアレンでブエナスエルテ社設立の準備を進めていたライアンだったというわけだ。
「彼女は優秀だから、そのうち、うちの会社で会計として働いてもらおうかとも考えてるんだよ」
それはいい考えだね、と将人はパンプスの入った白いビニール袋を握り締めながら答えた。
社宅に戻ってシャワーを浴びたあと、新品のパンツの履き心地を楽しみながら、将人はいつもより時間をかけて夕食を取った。辰三も新しい下着にすっかり上機嫌で、ジョニ黒をあおりながら、来週日曜の予定について、「誰が来るんだ?」「どんなところだ?」などとライアンに同じことを何度も聞いていた。
いつもの倍ほどのペースで飲んだからか、辰三は、八時前には「眠い」と言って、部屋に戻って行った。
今夜、ティサイへプレゼントを渡しにいけないかな、と将人は聞いてみたが、ライアンは、土曜はハルディンも忙しいだろうからと、首を横に振った。
「明日の夕食を五時くらいにすれば、今夜のようにタツミさんは早めに寝るだろ? そのあとでこっそり出かけようよ」
ライアンが提案した。将人は、二つ返事で了解した。
「ハルディンには入らずに、彼女を表に呼び出そう。そこでプレゼントを渡せば、余計な金を使うこともないし」
「そうだね――」言いかけて、ふと、今日も明日も、自分が連れ出さなければティサイは汗臭い男たちと一夜を共にしてしまうかもしれない、と考えて将人は胸に殴られたような痛みを感じた。
「ちょっと疲れたから、僕はもう寝かせてもらうよ」
ライアンがテーブルから立ち上がった。見れば、目の下が少し黒ずんでいる。考えてみれば彼も昨日は真夜中から彼女に会いに行ったわけだから、将人と同様、ろくに寝ていないのだ。
「おやすみ」
ライアンが去ったあとも、将人はまったく眠気を感じなかった。
それから十時近くまで、将人はテーブルに残ったアルマンと、アマリア、ティサイ、セシル、マイコ、クリスティやイザベラといった女の話ばかりを飽きもせず延々と語り合った。
「まったく僕たちときたら、仕事の話が尽きないセキウチさんみたいに、延々と女の話を続けてしまったな」
そう言って、眠気まなこのアルマンは部屋に戻っていった。
ダイニングテーブルでひとりになると、将人は日記を書き始めた。書いても書いても書き足りず、あっというまに三ページ埋まった。
四ページ目に入って文章に一区切りついたとき、いきなり恐ろしいほどの眠気が襲ってきた。開けていたつもりの両目が実は閉じていると気付いたときには、上半身がテーブルの上に突っ伏していた。
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