Locker's Style

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『橋の下の彼女』(33)

1999年7月17日(土)

フィリピン・アレン

 ブノンは、タンクトップに短パン姿でくわえタバコをふかしながら、プラットフォームを支える支柱に、ねばついた墨汁のようなタールを塗り込んでいる。朝一番で、プラットフォームの防水処理をすぐにやれと辰三が指示したからだ。プラットフォームの木材は、連日鮮魚の入ったバケツからこぼれ落ちる汚水を毎日大量に吸い込んだせいで、直射日光を受けない裏側に気色悪いカビの斑点ができていている。おまけにゴキブリに似た昆虫が、そのカビの周辺で、染み出た水を美味そうに舐めているのだ。
 そういうわけで、冷凍庫内の作業は、昨日に続いて今日もアルバートが代わりを務めていた。
 マイナス十度の中での箱詰め作業から開放されたのがよほどうれしいのか、ブノンは笑みを絶やすことなく、ご機嫌に鼻歌を奏でながら、ときおりタバコの火を近づけて昆虫を払い落としてはタールを塗り込んでいる。
 アルバートは、計量所から製品を載せたステンレスのトレイが運ばれてくるたびに、にんまりと歯を見せて受け取り、きびきびと冷凍庫内に運び込んでいた。同じ作業をしながらもしかめっ面を青くして震えているイボンとは対照的だ。
 将人がアルバートから受け取ったバケツ氷を肩に担ぎ上げようとしたとき、後ろから声をかけられた。
「ショウはもうすっかり加工場の一員だね」
 ちょうど関内への定時連絡から戻ってきたアルマンだった。
「辰三さんは加工に没頭してるだろ、ほとんどしゃべらないし、他にやることがなくてさ」加工場の一員だと言われたことが、将人は何だかやたらと嬉しかった。「僕と辰巳さんの帰国日のこと、関内さんは何か言わなかった?」
 アルマンが苦笑いして首を横に振った。
「ライアンもそれを気にしてたけど、セキウチさんは今日もゴルフに出かけていて、話ができなかったんだよ。昨日の定時連絡で製品を出荷したことを伝えたときには、それはもう大喜びしてたから、今はAMPミナモトとTTCのテナントのことで頭がいっぱいなんじゃないかな。どのみち、来週にはレックスがアレンに戻ってくるから、帰国の具体的な日取りについては、それから決めることになると思うよ」
「アレンをいつ発たなければいけないか、それがすごく気になってさ」
 将人が言うと、アルマンは察したように頷いた。
「とりあえず、明日のサンホセのビーチを思い切り楽しむことさ。ライアンに頼まれて、関内さんへの電話ついでに、サンホセのビーチコテージをふたつ予約したんだよ。ひとつはタツミさんとアマリアのため。もうひとつは、誰かさんと誰かさんのためにって」
 心臓がバクリと脈を打った。誰かさんと誰かさんは、将人とティサイ以外に考えられない。
 ティサイの褐色の引き締まった裸体が脳裏をよぎる――。
「どうかしたの?」
「いやいや、なんでもない。それよりアルマン、君は何とも思わないのか? アマリアが辰巳さんと同じ部屋に押し込められてしまうんだぞ? 今度という今度は、彼女、無事では済まないよ」
 アルマンは笑みを崩さなかった。
「今回、彼女はジョエルに三千ペソ要求したそうだ。前回より千ペソ値上げしてくるとは、なかなかの商売上手だね。いいことだよ、なぜならそれは、彼女がタツミさんに惚れてないっていう何よりの証拠だからさ」
「何だか、アマリアが金のために辰三さんと寝るのならかまわない、って言ってるみたいに聞こえるぞ」
「その通りさ」アルマンは平然と答えた。「ショウだって同じだろ? ライアンは一度、ティサイを買ったことがある。 でも君は彼に嫉妬したりしないだろ? 彼女がライアンと寝たのは、それこそ商売だからで、二人のあいだに恋愛感情なんてないんだから。実のところ、僕の目からは、ライアンの方が君に嫉妬してるように見えるんだよ。金で買えないティサイの心を君がつかんでしまったんだからね」
「嫉妬はしないけど、何度も聞きたい話じゃないね」
 苦笑いしながら、将人はふと、ライアンがティサイのことであまり協力的でないのは、そんなやっかみもあるのかな、と思った。
「僕が言いたいのはね、アマリアは明日、ほぼ間違いなくタツミさんに抱かれてしまうだろうけど、それは愛してるからじゃなくて、あくまで金のためだってことさ。タツミさんの方は、ライアンやジョエルにすっかり騙されて、両思いだと思い込んでるみたいだけど。よくよく考えてみれば、まったくひどい話だよ。いくら会社のためとはいえね」
「確かにやりすぎだと感じるけど、でもさ、辰三さんはアマリアの一件があってから、すごく前向になって、情熱的に仕事に打ち込むようになったと思わないか? 顔つきも二十歳若返ったみたいに生き生きしてる。正直に言うと、これはこれで良い事なんじゃないか、って思い始めてるんだ」
 そうは言ったものの、将人には大きな懸念もあった。一度アマリアと肉体関係を持ってしまえば、それが純粋な恋愛感情に基づくものだと信じ込んでいる辰三だけに、以後は体裁を気にせず、彼女を頻繁に求めるようになるかもしれない。彼女がそのたびに毎回数千ペソを要求してきたら、ライアンたちはどうするつもりだろうか。
「良いことだろうけどさ、タツミさんを永遠に騙し続けるのは無理だろ。嘘がばれる前に、タツミさんがアマリアに飽きてくれることを祈るべきだね。もしくは、ブエナスエルテ社の資金が尽きる前に」
「僕が心配してるのも、まさにそこなんだよ」言いながら、将人ははっと思い出した。「そういえば、ライアンのうわさがどうとかこうとか、ジョエルが妙に思わせぶりなこと言ってたんだけど、何か知ってる?」
 アルマンは首を振った。
「僕は何も聞いてない。ここのところ、ライアンがリンドンやジョエルとこそこそ話してるのはよく見るけどね。毎晩、社宅の同じ部屋で寝起きを共にしてる僕に何も言ってこないってことは、きっと身内にしか話せないことなんだろ。まあ、どんな話なのか、想像がつかないわけでもないけど」
「たとえば?」
「ライアンがワライ族のバネッサと本気で交際してるってことは、表向きは秘密なんだ。でも今じゃ、アレン中の住民が知ってる公然の秘密だよ。来週、レックスが戻ってくるだろ。祭りの最中に、それが人伝えでレックスの耳に届くのを恐れているってとこじゃないかな」
「公然の秘って、あんなに人目を気にして、夜な夜なこっそり会ってるのに?」
「誰かに見られたからってわじゃない。バネッサは十七歳、アレンでは結婚適齢期だよ。そんな年ごろの田舎娘が、ダバオの都会からやってきた、タガログ族の金持ちの色男と付き合ってるんだ、口を閉じていられるわけがないだろ」
「ってことは、つまりバネッサ自身がうわさの発信源だってこと?」
 アルマンはしたり顔で頷いた。
「ライアンも困ってたよ。最近は昼間に堂々と腕を組んで町中を歩けないことに不満を漏らすようになったらしい。そういう気持ちに火がついた女は、もう何を言い聞かせても抑えられるもんじゃない。子供を産みたいとか、結婚したいって言い出すのも時間の問題だね。いや、ひょっとすると、もう言い出したのかもしれないな。ライアンの悩みの原因がそれってことも、大いにありえるな」
 アルマンはかぶりを振りながら、発電機の方へ歩いていった。
 将人がバケツ氷を担ごうとしたとき、イボンがリーファーコンテナの中から出てきた。防寒着の中で身を縮みこませて、青い唇をぶるぶると震わせている。
「相変わらず辛そうだね」
「わたし、うまれてから、ふゆ、いちどもない。からだ、おかしくなってしまう」
 イボンはサル顔を歪ませた。
「君は日本にはとても住めないな」
「にほん、こんなに、さむいの?」
「僕の町は日本の中でも暖かいほうだけど、真冬には冷蔵保存庫の中みたいに寒くなる日もあるよ」
「わたし、にほん、ぜったいに、いかないよ」
 腐ったものを食え、と言われたかのように、イボンは顔をしかめて首をぶるぶる振った。
「ああ、そういえば――」イボンが手をぽんと打ち鳴らした。「きのうのよる、ティサイ、ハルディンにいなかったよ」
「やっぱり毎晩、偵察に行ってるんだね」
「そう、まいばん。めいれいだから」
 イボンに命令しているのがライアンかジョエルかは知らないが、まったくお節介なことだ、と将人は思った。
「明日、ティサイとサンホセのビーチに行くんだよ」
 将人が自慢げに言うと、イボンは訳知り顔で頷いた。
「タツミさん、あした、アマリアをファックするね、うらやましい」
 あまりに露骨なイボンの言葉に、将人は考える間もなく大声で笑っていた。
「ねえ、ショウ」イボンが声を落として顔を近づけてきた。「もし、ティサイ、ほんとうに、だいじなら、わたし、ショウのために、なんでもする」
「ありがとう。君に頼みたいことがあったら、ぜひお願いするよ」
 言いながら、彼女のことでイボンに頼むようなことがあるかな、と考えた。
 将人が首をかしげていると、イボンはすでに十分近づけた顔をさらに近づけて、小さくつぶやいた。
「アルフォンソ――」
 将人の心臓がバクリと大きく鳴った。
「あいつ、いまでも、ティサイから、かねを、まきあげてる」
「え?」
 頭にハンマーをたたきつけられたような衝撃が走った。
「もし、ショウがのぞむなら、アルフォンソ、こうね」イボンは、人差し指を自分の首にあてがい、左から右にすっと滑らせた。顔は笑っているが、目は据わっている。「だいじょうぶ、あんな、まやくちゅうどく、いなくなっても、だれもきにしないし、さがさない。ヤシばやしにうめれば、だいじょうぶ。どうぶつが、たべてくれる」
 将人は慌てて首を横にぶるぶると振った。
「ちょっとイボン、いくらなんでもそれはだめだよ。心配しなくても大丈夫、ティサイとはとてもうまくいっているからさ」
 イボンは訝しげに将人の顔をのぞきこんだが、数秒して、「そうか、ショウがそういうなら、しかたないね」と、まるで殺しができないことを悔やんでいるかような顔で肩をすくめた。

 バケツを担いで加工場へ戻ると、ライアンと辰三が、身振り手振りでなにやらやりとりしていた。
「ああ、ショウ、待ってたんだよ」
 ライアンが微笑んだ。寝不足なのか、目がひどく充血している。
「どうしたの?」
「明日のことさ。アマリアも連れて行きますよ、って言ったら、通じたのか通じてないのか、タツミさんが、とにかく『ノー!』としか言わないんだ」
 辰三が将人に、助けを求めるような、引きつった笑みを向けてきた。その表情が、内心の動揺を露骨に伝えている。
 やれやれ、と思いながら将人はライアンを加工場の外へ引っ張っていった。
「この前の夜のこと、まさか忘れたわけじゃないだろ? いいかい、例え辰三さんがアマリアと両思いだと信じきっていたとしても、自分から進んでアマリアに手を出した、って状況は絶対に受け入れないよ。ほら、体裁の話しただろ?」
「だったらどうしたらいい? どうしたらタツミさんはアマリアを抱く気になる?」
 答えようとしたとき、ライアンの肩越しに、辰三が将人に渋い顔を向け、手でバツを作って首を大きく横に振っているのに気付いた。つまらないことを考えるんじゃないぞ、俺にはその気はないからな、と言っているのだ。
 将人は辰三に頷いてから、ライアンに視線を戻した。
「辰三さんがアマリアに惚れているのは間違いない。いつか何かのきっかけで、彼女と結ばれることを期待してはいるだろうけど、僕たちのような年下連中にその世話されるのは嫌だろうね。だから彼女のことには触れずに、表向きは『僕たちだけでビーチに行く』ってことにするんだ。出発の時間になってアマリアが現れれば、辰三さんだって、まさか彼女に帰れとは言わないだろ。それによって、『せっかく来てくれたんだから、一緒に連れて行こう』って体裁ができあがるってわけ」
 なるほど、とライアンが腕組みしながら頷いた。
「そういえば、明日はティサイも呼んだんだろ?」
「ああ、朝八時にここに来ることになってる」
「タツミさんも、まさかショウがガールフレンドを連れて行くとは思ってないだろうから、ティサイを見たらさぞかしびっくりするんじゃない?」
「辰三さんがどんな反応をするか考えると恐いけどね」いろいろと問い詰められるだろうことはもとより覚悟の上だった。ティサイとビーチですごす一日は、しかし何物にも換えがたいのだ。「それより、彼女が待ち合わせの時間通りに来てくれるか、ちょっと心配なんだよ。普段は夜型の生活してるだろうし。クリスかアルバートに、ことづてを頼めない?」
「さすがにうちの会社の人間をティサイの家にやるわけにはいかないな」ライアンは腕組みしてまわりを見まわしてから、ああ、そうだった、と手を打ち鳴らした。「そういう役目にぴったりなのがいた、ほら、あそこの少年――」
 ライアンは、ブエナスエルテ社の前の道路で遊んでいる少年のうちのひとりに、「少年!」と言って大きく手招きした。
 まるで一日中、こうして声をかけてもらうのを待ち構えていたかのように、その十二、三歳の少年は全速力でブエナスエルテ社に駆け込んできた。もともとは白だったと思われるTシャツは、泥汚れで薄茶色に染まり、膝にかかるほど伸びきっていて、小さい穴もたくさん開いている。擦り切れた半ズボンもTシャツと似たり寄ったりの惨状だった。
 ライアンが少年と話し始めた。少年は、映画スターでも見るような畏敬の念のこもった目でライアンを見つめながら、彼のひと言ひと言に、首が取れるのではないかというほど、勢いよく頷いている。
「ショウ、この子がティサイのところに行ってくれるそうだよ。彼女の家は前から知ってるんだって。生意気に『あのハルディンの女だろ?』なんて言ってくれたよ。こんなちっぽけな町じゃ、誰がどこに住んでるかなんて、みんな知ってるのさ。娼婦が住んでる家となればなおさらだよ」
 子供にまでそういう目で見られながら生きているティサイを思って、将人は胸が痛くなった。
「ちょっと待ってね、伝言を書くから」
 将人は廃車のジープニーに駆け寄って、ボンネットの上に置いていた書類カバンを取りあげた。メモ用紙とボールペンを取り出すと、できるだけ簡単な単語を使って、メッセージを綴った。

 〈サンホセのビーチ、明日の朝八時出発、ブエナスエルテ社〉

 ペンをしまいかけて、もう一行加えた。

 〈いつも、君の事を思ってる〉

「じゃあ、これを頼むよ、少年」
 将人がメモ用紙を四つ折りにして渡すと、少年は、仰々しくおじぎをしてから両手で受け取った。
「ショウ、この子に、少しばかり駄賃をやってくれないか?」
「ああ、もちろんさ。百ペソで足りる?」
 将人は、札のぎっしり詰まった財布を取り出して、百ペソ札を一枚抜き出した。
 少年が口をあんぐりと開けた。
「百ペソなんてとんでもない――」ライアンが慌てて将人の財布を両手で覆った。「三十ペソもあれば十分さ。なあ少年、三十ペソでいいだろ?」
 ライアンが指を三本立てて見せると、少年は歯をむき出しにしてにっと笑い、大きく十回ほども頷いた。
「会社が終わる五時までに戻って来るんだよ」
 ライアンが念を押した。
 将人が十ペソ札を三枚渡すと、少年は「サンキュー、サー!」と言って、また深々と頭を下げた。顔を上げるやいなや、少年は短距離走のようにブエナスエルテ社の敷地からアジアンハイウェイに駆け出し、そのまま南に向って、ほとんど全速力で走っていった。
「ティサイの家はここから五キロはあるよね。あんな勢いで走り続けられる距離じゃないと思うけど」
 将人は苦笑いしながら、少年のか細い背中を見送った。
「できるだけいい仕事をして、またショウに使ってもらいたいのさ」ライアンが充血した目で笑った。「トライシクルを拾えば五時までに戻ってこられるだろうけど運賃が二十ペソはかかる。だからずっとあの勢いで走り続けるつもりなんだよ、きっと」
 サンダルで途方もない跳躍をする、あのバスケットボールプレイヤーたちも、こんな感じで子供のころから鍛えられているに違いない――。
 かなうわけないよな、と将人はかぶりを振って微笑んだ。

 加工場へ戻ると、辰三がむすっとした顔で歩み寄ってきた。将人は先を制するつもりで言った。
「明日、ビーチへは僕たちだけで行くことになりました」
 辰三の表情が緩むと思ったが、結果はまったく逆だった。
「何を言ってんだお前は? あの子、もう誘っちまったんだろ? 今さら連れていかねぇとか、お前らが勝手に決めるじゃねぇよ」
 将人は目を瞬いた。
「だって辰三さん、さっきライアンに『ノー』って何度も言ってたじゃないですか」
「それはな、ライアンが、ビーチで〈ラブホテル〉を借りたから、アマリアと俺が、そこで男と女の関係になるみたいなことを言うからよ、それについて『ノー』って言っただけだ。普通にみんなで楽しくビーチで過ごすってんなら、大歓迎に決まってるじゃねぇか」
 ライアンはおそらく、〈コテージ〉という単語が通じなかったので、〈ホテル〉と言い換えたのだろう。辰三がラブホテルと勘違いしたのも無理はない。
 それにしても、身振り手振りと顔の表情だけでここまで意思疎通してしまう辰三のコミュニケーション能力には、つくづく感心させられる。
「すみません、僕の勘違いでした。ちょっとライアンと話してきます」
 そうは言ったが、アマリアはもともとビーチに連れて行くことになっている。要はそれを辰三に内緒にするかしないかだけの話だった。
 将人がライアンの方へ行こうと歩み出したとき、辰三に肩をつかまれた。
「お前は誰か連れて行くのか?」
「え?」
 将人は思わず口ごもった。
「だってよ、女の子がアマリア一人じゃかわいそうだろ。他の誰か、そうだな、たとえば、クリスティとかイザベラとか、声かけてねぇのか?」
「かけてませんよ。彼女たちは既婚者ですし、毎日働くようになって、日曜くらいは、旦那さんや、子供たちとゆっくり過ごす時間もほしいでしょうからね」
 わかったようなこと言いやがって、と辰三は意味ありげににやっと笑うと、乾いた干物を取り込んでいる梱包係たちのひとりに向けて顎をしゃくった。
「あの子、誘ってやったらどうだ?」
 辰三が見つめているのは、ティナだった。イザベラと同い年で幼馴染だとライアンが言っていた、背の低い、おかっぱ頭のかわいらしい子だ。
「あの子だって同じですよ。家族もいるだろうし――」
 辰三が腕組みして唸った。
「お前って、いがいと鈍いんだな」
「はい?」
 辰三はしたり顔で何度か頷くと、加工テーブルのひとつで熟練職人のような出刃さばきを披露しているトトに歩み寄り、肩をたたいて、ついてこい、というように手招きした。
 トトを連れて戻ってくると、辰三は彼と肘をつつき合わせながらくすくすと笑いあった。
「実はな、トトが教えてくれたんだよ。あの、ティナっていうんだっけ? あの子がさ、梱包しながら、暇さえあれば、前の顔をじっと見つめてんだよ。そのたびにな、隣で並んで出刃を動かしてたトトが、ちょんちょんと俺を肘でつつくんだ。最初はなんのことかわからなかったけど、トトがしょっちゅうティナにむかって顎をしゃくるから、それでようやくわかったんだよ、あの子が何をそんなに夢中で見てるのかがな」
 つまりティナが将人のことを気にかけている、と言いたいらしい。しかし作業中に彼女と目が合ったことなど一度もなかった。
「ただの偶然ですよ」
 そう言いながらティナの方に視線を向けたとき、しかし彼女と思い切り目が合った。彼女はびくっとして目を見開き、慌てて視線を干し網に戻した。動揺しているのか、干し網の上の干物を、何度もつかみそこねている。
 トトがにんまりと笑った。辰三と肘を突き合っている。
 考えてみれば、今の今までティナの存在を意識したことはほとんどなかった。意識して彼女に視線を向けることなどなかったのだから、目が合わないのも当然だ。
「どうだ、わかったか?」
 将人は首をかしげながら苦笑いした。もし彼女が将人のことを本当に意識しているのだとしたら、余計にビーチへ誘うわけにはいかない。
「何かの誤解だと思いますよ。いずれにしても、ここの従業員と特別な関係になるなんて考えられないですよ」
 辰三はしたり顔で、人差し指を将人の目の前にぴんと突き立てた。
「どうだ、アマリアをけしかけられたときの俺の気持ちが、少しはわかったんじゃねぇか?」
 言って、辰三はトトと肩をたたき合って大笑いした。
 一本取られたな、と思いながら将人がティナをちらりと見ると、再び彼女と目が合ってしまった。今度は将人が慌てて視線を逸らす番だった。


 五時の終業間際、加工場に白い塩素の粉末が撒かれるころになって、伝言を頼んだ少年が戻ってきた。息絶え絶えで、全身汗まみれになっている。ライアンは表の道路で少年を迎え、ねぎらうように頭を撫でて、にこやかに話し始めた。ただ、少年の表情があまりすぐれないのが将人は気になった。
「あの少年はよくやったよ」道路から戻ってくると、ライアンが言った。「帰り道はさすがにトライシクルを使おうと思ったらしいけど、考え直して、やっぱり走りぬいたんだってさ」
 将人は表の道路端でたたずんでいる少年に向けて、親指を立てて見せた。彼も、疲れ切った顔で、同じサインを返してくる。
「それで、少年はティサイに会えたの?」
「いや、彼女は出かけていて、家にはいなかったんだって。その代わり、家主にメモを預けてきたんだってさ。さすがに彼女だって明日の約束は覚えてるだろうから、心配することもないよ」
「ありがとう。それで、ライアンは明日、どうするの?」
「どうするって?」
「バネッサも一緒に連れて行くんだろ?」
「いや、一緒には連れて行けない」ライアンが赤い目でじっと見返してきた。「とりあえず、タツミさんとアマリアのことを最優先する。二人がうまくいったのを見届けたら――つまり、二人をコテージに押し込められたら、という意味だけど、僕はアレンに戻って、彼女と会うつもりなんだ」
 ずいぶんと面倒なことをするんだなと思って、ふと将人は、ライアンはもしかすると、バネッサをティサイと同じ場にいさせたくないのかもしれないな、と思った。
「僕のことはいいから、ショウには自分がやるべきことに集中して欲しいね。君たちの分もコテージを借りたんだから、まさか今度も何もなし、なんてのはやめてくれよ」
 将人はあいまいに肩をすくめて返事の代わりにした。
 もしコテージで二人きりになり、ティサイにベッドへ誘われたら、拒むことなどできないのは将人自身が一番良くわかっている。もっとも、そんな状況になれば、の話だが――。
 清掃が終わると、従業員たちはようやく迎えた週末に笑みを浮かべながら、軽い足取りで帰宅していった。にこやかに手を振りながら帰っていく彼らに、将人も手を振り返す。
 ふと見ると、見張り小屋の前で、ティナとノノイとクリスの三人が、楽しそうに談笑しているのに気づいた。ティナは照れた顔で、ノノイのことを突っついたり、服を引っ張ったりしている。その二人を、クリスがおどけたしぐさで茶化していた。まるで中学時代の放課後の教室で見かけるような光景だった。
 なんだ、ティナはノノイに惚れてるじゃないか――辰三とトトの勝手な思い込みのおかげで、あやうくとんでもない勘違いをさせられるところだったなと、将人は胸をなでおろした。
 ノノイとティナなら、かなり見栄えの良いカップルになるなと将人は思った。そして、明日は自分も、ティサイとあんなふうにいちゃいちゃできるかな、と考えて、ひとり照れ笑いした。

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