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『橋の下の彼女』(39)-1
1999年7月23日(金)
フィリピン・アレン
辰三に続いて、将人は緑色のリーファーコンテナに入った。つい先日初出荷を終えたばかりだと思っていたが、製品を詰め込んだ出荷用のダンボール箱は、すでに庫内を半分を埋めていた。
「そろそろ二回目の出荷をしねぇとあふれちまうぞ」辰三が満足そうな笑みを浮かべた。「今回はテンプラ用とフライ用の具材に加えて、ミルクフィッシュのボンレスもある。前回は干物ばっかりだったからな、二つ合わせりゃ、サンパブロの在庫もバランスが良くなるだろ。関内さんもご満悦だろうに」
続いて白いリーファーコンテナに入る。鮮魚の入った大バケツの数は、数日のあいだにごっそり減っていた。痛みの激しいものをのぞくと、製品として使えそうなものはわずか五杯だけだった。
「やれやれ、ちょっと目を離した隙に、とんでもねぇことになってやがる」
そう言いながら、辰三は頬を大きくつり上げてにっこり笑った。将人が辰三のそんな気さくな笑みを見たのは、まだ出発前の、あの急遽決まった〈みなとや〉での壮行会以来だった。
「今の加工係たちだったら、五杯程度は午前中に片付けてしまいそうですね」
本来なら、リンドンがとっくにカルバヨグへ買い付けに行っているところだが、なにせここ数日のブエナスエルテ社は、下手をすればその存続すら危ぶまれる状況だったわけだから、鮮魚の在庫がなくなりかけていることなど、誰も気付かなかったか、気付いても口にする余裕などなかったのだ。
明日の朝一番でカルバヨグの魚市場に買い付けに行ったとしても、鮮魚が届くのは早くて昼過ぎ、トラックの手配に手間取れば夕方以降になることもありえる。
リーファーコンテナの日陰で辰三とリンドンが顔を付き合わせて話し込んでいるところへ、レックスとライアンが加わった。
「アレンは祭りということもあるし、いっそのこと、明日は休みにしてしまいましょうか」レックスが辰三に問いかけるように言った。「今日の作業も、鮮魚がなくなり次第終業、ということでいかがでしょう。従業員たちも祭りの活気に気が散っているように見えますしね。今日は半日、明日は休みと聞けば、給料は減っても、むしろ早々に祭りに参加できることを喜ぶはずですよ。私の方も、アレン中の有力者たちから食事に招待されているものですから、今日からでも彼らの家々を訪問してまわりたい、というのが本音なんですよ。それから、タツミさんやショウにも、ぜひ私といっしょに来てもらいたい。彼らは日本人がブエナスエルテ社を訪問していると聞き及んで、ぜひとも自分の家に招きたい、と息巻いているのです。アレン中に電気を供給できる発電設備を備えたブエナスエルテ社――その大株主であるミナモト水産の方を招いたとなれば、彼らもさぞかし鼻が高いでしょうから」
マイナス二十度の冷却能力がある巨大なリーファーコンテナ、ガソリン駆動の発電機、フレーク氷を延々と生み出す製氷機、日本から直輸入したパジェロにカローラ――土と木と布だけでできたようなアレンの町では、ブエナスエルテ社はさしずめ宇宙船の発着基地といったところだろう。虚栄心の強い有力者たちが関わりを持ちたいと思うのも頷ける。
「ご馳走も酒もタダなんだろ。行かなきゃ損ってもんだ」辰三は笑顔で即答した。「働け働けばっかじゃなくて、たまにはこういうのも良いもんだ」
レックスは微笑んでから、はっと何かを思い出したように手をたたき合わせた。
「そうだ、せっかくの連休ですから、ちょっと遠くまで羽根を伸ばしてみるというのはどうです? 明日、カルバヨグから鮮魚が届いたらすぐにでも」
辰三が何かを期待するような顔で首を傾げた。
「羽をのばすって、セブ島へでも連れてってくれるのか?」
「フェリーの所要時間を考えると、一日半で往復は難しいですね。セブ島は次回にとっておきましょう」
ライアンが、どこからか使い古した大判の地図を持ってきた。
「サマール島の南西部に、〈マラブット・マリンパーク〉という素晴らしいビーチリゾートがあります。アレンから車で五、六時間ほど、もしかするともっとかかるかもしれませんが、カルバヨグ、カトバロガンなどを経て南下したところにあります。経路からは外れますが、ご希望ならサマール島とレイテ島を結ぶ〈サン・ファニーコ橋〉に寄ることもできますよ。アジアンハイウェイと同じで、日本のODAで作った巨大な橋なんです。長旅になりますが、ドライブだと考えれば楽しめるに違いありません。月曜の午前中の作業をリンドンに任せれば、土曜から二泊することもできます。月曜の昼にはアレンに戻ってこられるでしょう」
辰三は、地図に指をあてがって、アレンからカルバヨグまで滑らせたが、その先は諦めて、将人に、続きをたどれ、というように頷いた。将人の指が、カルバヨグからカトバロガン、サン・ファニーコ橋を経て、ソホトンナショナルパークという位置まで指を滑らせたとき、ライアンが「そこだよ」と微笑んだ。地図で見る限り、相当の距離があるように思えた。
「考えてみりゃよ、フィリピンに来てから、休日らしい休日を一日も取ってねぇんだ。月曜の半日くれぇリンドンに任せても、バチはあたらねぇだろ」
そうこなくっちゃ、とライアンは両手をパチンと鳴らすと、辰三に地図を見せながら、英語と片言の日本語で、リゾートがどんなところかを説明し始めた。
それを見計らったように、レックスが将人を辰三から離れた位置に引っ張っていった。
「昨日は君の通訳にすっかり助けられたよ。礼を言うのが遅れてすまなかったね」
「お礼なんて、とんでもないですよ」将人は首を振った。「レックスさんのおかげで全てが元通りになったんです。それに僕自身、通訳しながら、あなたの言葉に感銘を受けて、あやうく泣きそうになったくらいですからね」
レックスが将人の肩に手を置いて頷いた。
「ところで、タツミさんはやっぱり色白の女性が好きなのかな?」
将人は目をぱちくりさせた。
「どういうことです?」
「いやね、旅行の道がてら、カルバヨグで娼婦を一人、辰三のために雇おうかと思っているんだよ。小耳に挟んだ話だと、君たちが派手に遊んだ〈ムーンライト〉というゴーゴーバーには、マレー系から中華系まで、いろんな娘たちが揃ってるそうじゃないか。それに、どこかの若い日本人が、子供にミルクを買ってやれ、と五百ペソ渡してしまうほどの美人もいるようだし」
「えっと、その、何というか――」将人は顔が一気に紅潮するのがわかった。「はい、確かに、おっしゃるとおりです」
レックスが、してやったり、というようににんまりと笑った。
「ただ、アマリアで痛い目を見た後ですから、中華系の女性だと、辰三さんは拒絶反応を起こすかもしれませんね。それにしてもレックスさん、懲りずにまた女性をあてがうような真似をして、辰三さんの機嫌を損ねるようなことにはなりませんか?」
レックスは、ハの字に整えられた口ひげが一直線になるほど、にんまりと微笑んだ。
「ショウ、私もれっきとした男だよ。日本人ではないが、タツミさんとそれほど年齢が違うわけではない。男が考えることは、どこの国でもさして違わないものだよ。ジョエルのようなヘマはしないと約束する」
ときに厳しく、ときにおどけるレックスの言葉や表情には、無理なものでも可能にしてしまいそうな不思議な魅力がある。
「こういうのも何ですが、辰三さんは決して、フィリピン女性が嫌い、というわけではないと思います」
ためらいがちに将人が言うと、レックスが、そうだろうね、と頷いた。
「それでショウ、君はどうするつもりだ? 何なら、〈ムーンライト〉でもう一人、雇ってもいいんだよ」
「え、いや、僕はちょっと――」
もしティサイを出発までに見つけることができたら、彼女を連れて行けるかもしれない。
「君みたいな若者が、まさかビーチリゾートのコテージのベッドに一人で寝るつもりではないだろ?」
「あのですね、その、何と言ったらいいか――」
レックスが眉間に皺を寄せて首を傾げた。
「もしかして、もうこっちで恋人ができたのかね?」
将人の驚いた顔が、レックスに答えを告げたのがわかった。
「そういうことなら遠慮はいらない。一緒に連れて行けばいいよ」
「いいんですか? 彼女はブエナスエルテ社とは無関係の女性で、それにちょっと特殊な職業に就いていて――」
「君の恋人なら誰でも歓迎するよ。しかし君も表情がだいぶ明るくなったね。セキウチさんがいたころとは別人のようだ」
「いや、その――向こうでもこっちでも、いろいろありましたから」
将人が答えると、レックスは「なるほどね」と声を上げて笑った。
五杯のバケツは、昼を待たずに空になった。残りの時間は、痛み切って製品には使えない魚を、住み込みの従業員たちのまかない用として干物に加工した。
「こうやって干物にすると、サンパブロに出荷してもわからねぇんじゃねぇかなんて、悪い考えが浮かんでくるよな」
干し網の上で茶色く光る干物を見下ろしながら、辰三がおどけるように言った。
十二時になり、清掃と片付けが始まった。レックスの言ったとおり、従業員たちは半休に不満を漏らすどころか、早送りのビデオのようにてきぱきと動いた。一秒でも早く祭りに行きたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。
加工テーブルの上に溜まった血とあら(残骸)とうろこがあっという間に洗い落とされ、加工場の床に白い粉が大量にまかれる。それまで漂っていた生臭さが、鼻を突く塩素の臭いに取って代わった。
清掃が済むなり、われ先にと駆け出そうとした従業員たちを、ライアンが引き止めた。普段は塩素の粉と混ぜ合わせて裏の空き地に捨ててしまう、魚の頭や背骨、内臓といったあらを溜め込んだ二つのバケツを、アルバートが運んでくる。この日に限って、それが冷蔵庫で鮮魚のように保管されているのを、将人は不思議に思っていた。
従業員たちにビニール袋が配られ、ライアンが「好きなだけ持って帰るように」と告げた。
いくらお祭り気分だからとはいえライアンは冗談が過ぎる、と将人が思ったのもつかの間、従業員たちは先を争うようにバケツへ駆け寄った。赤茶色のどこともわからぬ部分をつかみ上げ、ビニール袋の口が閉じなくなるまで詰め込むと、赤子か何かのように大事に懐に抱え、仲間たちと満面の笑みでおおはしゃぎしている。
その光景を、辰三は苦笑いしながら見つめていた。
「俺が子供のころはよ、同級生の貧乏な連中が、競りの終わった三津丘魚河岸に行ってな、地面に落ちた魚カスを拾い集めては、家に持って帰って焼いて食ってたよ。なんだかそれを思い出しちまった」
見れば、クリスティもイザベラも、滴り落ちる液体でTシャツが汚れるのも気にせず、膨れ上がったビニール袋を両手で抱えている。
「ご馳走でも分けてもらったような顔してるとこまでそのまんまだよ。なんだか昔を思い出しちまうな」
辰三の困惑顔に気付いたリンドンが歩み寄ってきた。
「もちろん、普段からこんなことをすれば、わざとあらに身を多く残そうとする従業員が出ることはわかっています。でも今日はお祭りということで、例外中の例外として行った人道的支援ですから、どうかご理解ください」
人道的支援、という言葉を使うときに、リンドンの顔に、どこか蔑んだような笑みが浮かんだ。
「あいつら、あんなもの、どうやって食うつもりなんだ?」
「煮込んでスープにでもするんじゃないでしょうかね。彼らが普段、何を食べているかは知りませんが、ブエナスエルテ社が買い付けた高級鮮魚のあらですから、きっとお祭りにふさわしいご馳走になるでしょう」
ただひとり、ティナだけは、明るい緑のTシャツを汚したくないのか、従業員たちが群がるバケツからは距離を置いて立ち、あらには一切手をつけようとしなかった。
昼は社宅に戻らず、さっそくレックスが招待されている家々を回ることになった。
まずは巨大なお碗型のアンテナを庭先に備えた町長の家からだった。雑草の生い茂る庭に上向きで設置されたアンテナは、部分的にセメントが使われているような時代遅れの代物で、金属部分はサビだらけだった。日本で売られている最新型のパラボラアンテナなら、直径一メートルもあれば、同じかそれ以上の機能が得られるんじゃないだろうか、と将人は訝った。
二十代前半とおぼしき町長夫人が将人たちを出迎えた。通されたのは、リビングとダイニングがひと続きになった長方形の広間だった。その中央に、長テーブルが縦にいくつもつなげて並べられ、ボーリングのレーンのような長々とした直線を描いている。その上をありとあらゆる料理が埋め尽くしていた。何十人もの訪問客たちが、まるで自分の家のように自由気ままに歩きまわり、立ち話をし、遠慮なく料理をつつき、ソファーで酒を飲み、寝転んでいた。
広間の隅の小さなソファーが空くと、レックスが将人と辰三を誘った。少しして、ライアンが、背の低く、黒髪をオイルで撫で付けたように輝かせている、マレー系の中年の男と一緒に料理を運んできた。
「こちらが町長のミスター・ロランドです」
レックスが紹介した。辰三と将人は立ち上がり、町長と握手を交わす。張りとつやのある褐色の肌が、彼の栄養状態の良さを物語っている。
町長は訛りの強い英語で辰三に「フィリピンはどうですか?」「アレンはどうですか?」などとありきたりの質問をしたが、英語があまり得意でないのか、それだけ言うのに何度もつかえていた。手持ちの英語の語彙を使い果たしてしまったのか、町長は辰三に「ごゆっくり」と言うと、レックスを引き連れて、立ち話に花を咲かせている別の訪問客の群れに加わった。
「何だかアレンらしくねぇな」
辰三がつぶやいた。天井で回転するシーリングファンが、生暖かい風を床に落としている。
「確かに。これが階級の差ってやつでしょうか」
つい先ほど、魚のあらを喜んで持って帰った従業員たちを目にしているだけに、将人はなんだか複雑な気分だった。
「それにしても、こんだけの料理を、まさか祭りのあいだ毎日出してるってことはねぇよな?」
「出してますよ」ライアンが答えた。「もともとは、客人をどれだけ歓迎しているかを、豪華な料理を用意することで示したのがその始まりなんですが、今では、特に上流階級のあいだでは、自分がどれだけ経済的に裕福かを客人たちに見せ付けることに目的が変わってしまったようですけどね」
「金持ちの見栄ってのは、どこの国でも一緒なんだな」
辰三がかぶりを振った。
次の訪問先は、関内への定時連絡でアルマンが毎日使っている、あの電話交換所のオーナーの家だった。メインストリートを南へ進み、タタイ・アナックの手前の交差点を左に折れたところにある、三階建ての白い建物だった。
建物は、外から見るほど奥行きがなく、中は客でごった返していた。レックスとライアンは、人々を掻き分けるようにして進んでいき、オーナーを見つけ出して挨拶を交わした。将人と辰三がオーナーのところまであと一歩というとき、アレンでは日常茶飯事の停電が起きた。テレビやラジオの音でにぎやかだった空間が、一瞬で薄暗い納屋のようになった。天井のシーリングファンも、壁付けの扇風機も止まり、息苦しくなるほど空気が澱み始める。
「ベランダへどうぞ」
突然、水色のワンピースを着た、背の高い中華系の女性に声をかけられた。将人は彼女のあとを追って、辰三と共に、満員電車のような人ごみから逃げるように二階のベランダへ出た。三十五度はあるはずの外の気温すら涼しく感じる。
女性の左手の薬指に、見るからに重そうな指輪が光っていた。将人の視線に気付いてか、女性はオーナーの妻だと自己紹介した。
「ブエナスエルテ社に来られている日本人の方たちですってね。お目にかかれて光栄です」
夫人が手を差し出した。将人も辰三も、遠慮がちにその手を握り返す。
ベランダにある二つの丸テーブルには、手付かずの料理が所狭しと並んでいた。祭りの間は、家中のテーブルを必ず料理で埋め尽くさなければいけない、という不文律でもあるのかと疑いたくなる。
「どうぞ好きなだけ召し上がってください」
女性は、色とりどりの豪華な料理を前に、どこか悦に入ったような口調で言うと、訪問客がひしめく暗い空間に戻っていった。
「どうも俺は、こういう連中は苦手だな」
しばらくして、辰三がぼそっと言った。
「僕も何となくそう感じました」
加工場で日々、共に汗水流して働いている従業員たちは、例え祭りだろうと、こんな豪勢な料理にありつけないのは、ビニール袋一杯のあらを満面の笑みで持ち帰ったのを見ても明らかだった。
将人は、ともすれば手付かずのまま捨てられてしまうかもしれない料理を前にして、胸が痛くなるような罪悪感を覚えた。
辰三も同じ気持ちだったようで、とりあえずいろんな料理に手をつけて食い残したりせず、一皿ずつきれいに平らげていこう、と二人で決めた。まずはエビと野菜の炒め物の大皿から片付けようということになって食べ始めたが、おそらく五人前以上はあるその皿を二人がかりで全て食べ終わる頃には、水すら飲めないほど胃袋が膨れ上がっていた。
さらに五軒訪問し、午後四時近くになってようやくブエナスエルテ社に戻った。料理地獄から開放された辰三は、苦しそうに腹をさすりながら、明日の買い付けについてリンドンと話し合いを始めた。やはり魚市場で実際に魚を見ながら教えるのが一番だということになり、リンドンの買い付けにはこれから辰三が毎回同行することに決まった。
「では、予定が少しせわしなくなりますが、さっそく明日の買い付けから同行していただいてよろしいですか」
リンドンが聞いた。
「そう来るのを待ってたぜ」
辰三がにやりとした。
結局、明日は朝四時にアレンを出発して、カルバヨグで五時前後から買い付けを始め、トラックの手配と積み込みはリンドンに任せて一旦アレンに戻り、鮮魚の到着を待つあいだ、招待されている残りの訪問先をすべてまわり、鮮魚が到着して搬入が終わりしだい、マラブット・マリンパークへ向けて出発、という、まさにせわしない予定になった。
社宅に戻り、辰三を除く全員がシャワーを済ませた。夕食はまた別の訪問先で取ることになっていた。いつも留守番ばかりだったアルマンも、そこの主人が関内と面識がある関係で、一緒に来ることを許された。
パジェロは、薄暗くなったアレンのメインストリートを進んだ。普段ならひとけのない時間だが、まだ多くの人々が道端でたたずんでいる。電話交換所とシャイメリーの店がある魚市場前の広場の、道を挟んで反対側に立つひと際高いベージュ色の建物の前でパジェロが止まった。アレンとその周辺の町に流通する、外国製の日用品から食料品に至るまでの輸入品の販売をほぼ独占している中華系貿易商の家だった。以前将人が町外れの雑貨屋で買った歯磨き粉も、彼の会社から流通したものだという。
建物に近づくと、玄関の両脇に立った二人のドアボーイが――臨時で雇われた高校生だとライアンが教えてくれた――将人たちのためにドアを大きく開いた。建物の中は家というより、商業ビルのような造りをしていて、一つ一つの部屋が事務所のように大きく、階段も幅が三メートルほどあり、踊り場で折り返してさらに上へと続いていた。
ひと目で中華系とわかる平たい顔をした貿易商がやってきて、レックスと親しげな抱擁を交わした。こういうときのレックスの人当たりは、都市銀行の役員を経験した者ならではの洗練されたものを感じさせる。
百人以上の訪問客たちがひしめく広間を抜けて階段を上がり、将人たちはビルの五階に当たる屋上に案内された。フェンスの縁に沿ってつり下げられた裸電球とテーブルの上に灯るろうそくの光で、あたり一面がオレンジ色に染まっている。幅五十センチ、長さ五メートルほどの縦長のテーブルが二台、ここでもわざわさ縦につなげて置かれていて、大皿の料理がその上を覆いつくしていた。脇にある丸テーブルには、サンミゲルやウィスキーなどの酒のビンが隙間なく置かれていて、まるで巨大な剣山のように見える。
この屋上は、レックスたちのためだけに支度したのだ、と貿易商は誇らしげに言った。しかし十メートルはある長テーブルに載った料理は、どうみても二十人分はある。
貿易商は、アルマンと親しげに言葉を交わしたあと、ごゆっくり、と言って階段を下っていった。
「俺はもう食えねぇから、酒だけ飲む」
言って、辰三は酒の剣山からジョニードラムのボトルをつかみ上げた。
将人はサンミゲルを一本取った。海から吹いてくる夜風が心地よい。
テーブルは四人で使うには長すぎで、かといって詰めて座るとそれぞれの取り皿を置く場所がないほど料理が詰め置かれてるので、それぞれがてんでばらばらに座った。
レックスが将人の隣に椅子を引き寄せてきた。
「私たちがこの町でいかに歓迎されているか、今日一日でよくわかっただろ?」
言って、レックスはおどけたような笑みを浮かべた。
「もちろんですよ。どこの訪問先でもそうでしたけど、ここではまた一段と特別扱いですね、屋上を貸切だなんて」
「ここの主人は貿易商だ。将来的にはうちの会社を通して、日本と貿易でもしようと考えているんだろ」
もしそうなれば、ブエナスエルテ社に日本語を話す人間が必要になるんじゃないか、もしかしてレックスの元で働けるんじゃないか、と将人は考えずにはいられなかった。
そのときはぜひ僕を使ってください、と将人が冗談めかして言おうとしたとき、レックスの顔から笑みが消えているのに気付いて、思わず口をつぐんだ。
「実はね、君に話しておきたいことがあるんだ」
レックスが将人に向き直った。
将人は飲みかけたサンミゲルをテーブルに戻した。
「なんでしょう?」
ライアンは三つ分離れた席で、アルマンと向き合って座っていたが、レックスが目で合図すると、不自然なほど大きな声でアルマンと話し出した。
「セキウチさんのことなんだ」
レックスがただの愚痴を言おうとしているわけでないことは、その深刻な表情を見れば明らかだった。
「関内さん――ですか?」
将人はつばを飲み込んだ。
ライアンは辰三とアルマンの三人で丸テーブルに移り、酒のビンを掲げながら、下品な冗談を言って笑い合っている。先ほどからのライアンの振る舞いが、将人とレックスの会話を聞かれないよう、辰三とアルマンを遠ざけようとしているように思えなくもなかった。
「ブエナスエルテ社からAMPミナモトへの卸売り価格が、専売権をたてに不等に引き下げられているというのは、君も承知しているだろう」
「もちろんです」将人は頷いた。「そのことについては、辰三さんも心配していました」
「セキウチさんの考えはね、ブエナスエルテ社の生産効率が最大になった状態で算出した損益分岐点を元に卸値を設定して、そこから利益が出せるように企業努力をしろ、ということなんだよ。数ヶ月か、ひょっとすると数年は赤字経営が続くかもしれないが、その後に引けない状況こそが飛躍的な技術の向上をもたらす鍵だジャパニーズ・クオリティを生み出す鍵なんだ、とも言っていた。その代わり、設定した卸値は固定するから、生産コストを下げれば下げるほど、ブエナスエルテ社は儲かるし、AMPミナモトが販路を拡大すれば、ますますたくさんの製品を必要とするようになって、結果、ブエナスエルテ社の売り上げも上昇する、ということだ。理論的には納得できる部分もある。しかし、私たちがその低い卸価格でも十分な利益を生み出せるようになったとき、セキウチさんが卸値のさらなる引き下げを要求してこないとも限らない。つまりAMPミナモトに専売権を握られている限り、ブエナスエルテ社は吸血鬼に首を噛まれたままずっと血を吸われ続け、常に貧血のまま生きていくのと同じだ。そもそも、〈ミツオカプロジェクト〉の企画段階で、AMPミナモトにブエナスエルテ社の専売権を与えるということを、セキウチさんは伝えていなかったのではないかとう疑いもある。だが、私たちがそれを投資家の方々に直接確かめることはできず、全てはセキウチさんを経由しなければならなかった。それは投資家の方々も同じだと思う。だからこそ、ミナモト水産が今回、タツミさんに君を帯同させたわけだよ」
レックスはそこで言葉を切り、星いっぱいの夜空を見上げた。
「つまり、今の時点ではAMPミナモトがブエナスエルテ社の製品につけた卸値は原価より安い、だからブエナスエルテ社は売れば売るほど赤字になってしまう、ってことですよね? それを避けるためには、従業員たちの技術向上に加えて、鮮魚をできる限り安く仕入れることが要求されますが、鮮魚の価格は天候や季節や漁獲によって大きく上下します。かといって〈日本基準〉をうたうからには、品質を落とすわけには行きませんよね。先行投資と言えば聞こえは良いですけど、要するに本来は共同で負担すべき赤字を、AMPミナモトがブエナスエルテ社に押し付けている、ってことになりませんか?」
将人の言葉に、レックスは関心したように頷いた。
「その通りだ。もちろん、〈ミツオカプロジェクト〉の最高運営責任者がセキウチさんで、あの人がいなければブエナスエルテ社もなかったわけだから、多少の無理難題は受け入れる覚悟で今までやってきたんだが――」レックスが顔をぐっと寄せて小声になった。「――仮の話として、ブエナスエルテ社に投資されるはずだった金が、GFCの赤字補填に使われていたとしたら? 改ざんされた会計報告書が出資者に渡されていたとしたら? 話は少しだけでなく違ってくるとは思わないか?」
将人は耳を疑った。だが、レックスが冗談でこんなことを言うとは思えない。
「GFCの赤字補填ですって? 確かにGFCは関内さんの会社ですけど、〈ミツオカプロジェクト〉とは無関係の会社じゃないですか」
レックスは辰三の方を一瞥し、彼らが楽しそうに酒の飲み比べをしているのを確かめてから、再び将人に向き直った。
「たとえセキウチさんが、〈ミツオカプロジェクト〉の運営を出資者たちから一任されているとはいえ、GFCへの資金流用は、その裁量権を超えた業務上横領に相当する」
「でも、なぜGFCへの資金流用がわかったんです?」
聞きながら、将人はレックスが〈仮の話〉ではなく事実を話しているのだと気付いた。
「セキウチさんの秘書のエミリーだよ。彼女が、AMPミナモトの会計資料の中に、まったく取引のない日本企業からの請求書が混ざっているのを偶然見つけたんだ。それがね、非常に巧みに隠蔽されていたGFCの経営状態の実態を暴くきっかけになったんだ」
レックスは大きく息を吐き出して、ミネラルウォーターのボトルをあおった。
つまり、エミリーはレックスの内通者ということらしい。
「一九九七年七月、つまりおととしの話になるが、GFCが日本向けに輸出した五千キロのナタデココの中に、〈発育しうる微生物〉が混在していることが、横浜検疫所の行った抽出検査で発覚したんだ。結果、同じロットで生産された全ての製品の輸入に対して、積戻し及び廃棄処分の行政命令が下された。破棄した製品の金額と廃棄処分の費用を合わせて、一千万以上の損害が発生したんだよ。ペソでなく、日本円でね」日本円で一千万円なら、フリピンペソでは約三百万ペソになる。将人の現地手当ての二十五年分だ。「GFCの倒産は確定したも同然だった」
「日本企業からの請求書というのは、その破棄処分もしくは積戻しの費用ということですか?」
レックスは頷いた。
サンパブロを発つ前夜、エミリーと食事をしたとき、彼女がまるでライアンとは旧知の仲、とでもいうように楽しげに語っていたのを思い出した。レックスとはそれ以上の深いつながりを持っていると考えるのが当然だろう。
「二年前というと――関内さんが〈ミツオカプロジェクト〉の出資者を募った時期とちょうど重なりませんか?」
レックスが人差し指を立てた。
「日系の鮮魚加工合弁会社、つまりのちの〈ブエナスエルテ社〉設立の話が私に持ちかけられた時期も同じだ。ちょうど、ブエナペスカ社の運営がようやく軌道に乗り始めた頃だった」
将人は、目を何度も瞬いてレックスを見返した。
「まさか〈ミツオカプロジェクト〉が、実はGFCの赤字補填に必要な金を集めるためにでっち上げられた嘘だったっていうんですか?」
レックスはすぐには答えず、背もたれにゆっくりと体を預けた。
涼しい夜風が吹き抜けた。
「そうであるとも言えるし、そうでないとも言える」
「どういうことです?」
「ブエナスエルテ社の製品は、セキウチさんの言うとおり、実際に相当な競争力を持っているからだよ。ラグーナテクノパークだけでなく、メトロマニラ圏でも、恐らく猛烈な勢いで、高所得者層をターゲットにした市場に食い込んでいくことだろう」
日本で売られているものと比べても何ら遜色のない製品を製造できる環境を、辰三の到着からたった二週間で整えることができた。フィリピンに長期滞在を余儀なくされている日本人駐在員たちにとって、〈ブエナスエルテ社〉の製品は、一度味わったら、もうなしでは過ごせない食材になることは大いに考えられる。
「つまり、〈ミツオカプロジェクト〉を立ち上げた動機は偽物でも、結果は本物になるかもしれない、ということですね?」
嘘から出た誠か、と将人は苦笑いした。
「プロジェクトが結果的に成功を収めるならば、関係する誰ひとりとして損はしない。それどころか、莫大な利益を得ることになるかもしれないんだ」
将人が丸テーブルの方に目をやると、ライアンがこちらを見ていた。彼は意味ありげにウィンクしてから、再び辰三たちとの飲み比べに興じた。
「それで――なぜ僕にこんなことを話してくださるんですか?」
レックスが、将人に何かを託そうとしているのはもはや明白だった。そのために、わざわざライアンを使って、辰三とアルマンの気をそらせることまでしているのだ。
「あと数日のうちに、本来ならばブエナスエルテ社に使われるはずだった資金が、いかにしてGFCに流用され、いかに偽装されたかを説明する資料と、証拠書類のコピーが用意できる。君に、それを日本に持ち帰ってもらいたいんだ。そして私からの私信も含めて全てを日本語に訳して、ミナモト社長と、彼を通じて〈ミツオカプロジェクト〉に出資した方々に渡してもらいたいんだよ」
投資家たちに渡るまでに経由する人数を極力抑えようというレックスの意図を将人は感じ取った。要するに将人から辰三を経ずに直接源社長へ渡せということだ。それほど証拠書類の内容がシビアであるとも言える。
「〈ミツオカプロジェクト〉の成否に関わらず、出資者の方々には、彼らの金がどこにどのように使われたのか、真実を知る権利があるというわけですね」
レックスは頷いた。
「真実を知ったあとで、それにどう対処するか――それは出資者だけに許された権利だ。私たちブエナスエルテ社一同は、彼らがどのような決定を下そうとも、それに従うつもりだよ」
しばしのあいだ、将人はレックスの横顔を見つめた。関内がこのことを知れば、レックスもブエナスエルテ社も――もちろん将人も――ただでは済まないだろう。しかし、それに臆することなく、不正に大して毅然と立ち向かい、その結果がどうであろうと受け入れる、と言い切るレックスは、いつにも増してたくましく輝いて見えた。
詳しい話はまだ後日に、と言って、レックスが手を二回たたいた。それを合図に、ライアンがさりげなく辰三とアルマンを長テーブルに連れ戻した。
「どうですか、タツミさん。町中の有力者たちが、ブエナスエルテ社を、そしてタツミさんをいかに歓迎しているか、おわかりいただけたんじゃないですか?」
すっかり酔いがまわり、とろんとした目尻を赤くしている辰三は、大きく頷いた。
「いったい何をどれだけ飲んだら、酒の強い辰三さんがこうまで酔っ払うんだ?」
将人は苦笑いしながらライアンに聞いた。
「僕らがサンミゲルをグラスで一杯飲むごとに、タツミさんもジョニードラムをグラス一杯飲む、という競争をしたんだよ」
「まったくもってフェアなルールだ」
将人はかぶりを振った。だが当の辰三は久しぶりに良い酒が飲めたからかご満悦の様子で、さすがにグラスの中身はサンミゲルに替えたものの、やがて「おい、おねえちゃんいねぇのかこの店は?」と本気混じりで言うほどだった。
玄関のドアボーイとどっこいどっこいの若い給仕の少女が皿を片付けに来たので、ライアンがチップを弾んで、辰三の話し相手になってくれるよう頼んだ。
娘のような年齢の彼女を相手に、辰三は鼻の下を伸ばしきって、まったく通じない英語で話し始めた。
男の考えることはさして違わない、と言ったレックスはやはり正しいんだな、と将人は納得した。
そのうち、ライアンとアルマンが、表をぶらついてくる、と言って階下へ降りていった。給仕の女の子を連れて酒のある丸テーブルに移った辰三は、グラスの中身を再びジョニードラムに戻して、何がそんなに可笑しいのかと思うほどの笑い声を立てながら、彼女と楽しそうに戯れた。
長テーブルで、将人は再びレックスと二人だけになった。
レックスが星空を見上げて目を細めた。
「ここまでたどり着くのは大変だったよ。最近ようやく、自分の選択が間違っていなかったと思えるようになった」
その言葉が、将人には意外だった。
「レックスさんは、いつも自信に満ち溢れているように見えますよ」
レックスは夜空に目を向けたまま微笑んだ。
「メトロバンクに勤めていたころはね、こんな風にのんびりと夜空を見上げる余裕はなかったよ。朝から晩まで仕事に追われ、家に帰っても疲れ果てて家族とゆっくり話す時間もなく、休日でも何か問題が発生すれば、ミンダナオ島のどこへでも飛んで駆けつけなければならなかった。いつしか、こんなことを続けていたら私は絶対に長生きできない、と確信するようになってね。もちろん、膨大な報酬を得たよ、家も車も服も食事も、何一つ不自由しないだけの額をね。だがね、明日死ぬかもしれないと考えたとき、ふと疑問に思ったんだ、これが本当に私の求めていた幸せなのか、こんなふうにせわしなく生きるのが、私の人生のすべてなのかと。一度考え始めると、そういう疑問というやつは、頭の中に張り付いて、寄生虫のように離れなくなるんだ」
社会に対する疑問という寄生虫を飼っている将人は、わかります、と大きく頷いた。
「でも、銀行家だったレックスさんがなぜ、まったく系統の違うミルクフィッシュの養殖を始めようと思ったんですか?」
「ミンダナオ島にもたくさんの養殖池があってね。そんな養殖業の経営者たちにも、多くの顧客がいたんだよ。もしメトロバンクを辞めたら、こんな風に、自然を相手にした仕事をやってみたいと、いつしか考えるようになっていた。彼らと会うたびに、冗談半分でよくそんな話をしたよ。あるとき、そんな顧客の一人から『もし君が本気で養殖業界に来る気があるなら、全面的に援助する』と言ってもらってね。その時、今までずっと動くのを拒んでいた歯車が、音を立てて動き出すのを自分の中ではっきりと感じたんだ。気付いたら、養殖業を営むためにはどんな知識が必要で、それはどこで勉強できるのかとか、実際に起業するための起業資金はいくらくらい必要で、起業するならフィリピンのどこで始めるのが良いか、なんて質問を、機関銃のように浴びせていたよ。二度目に彼のところを訪れたときには、ペンとメモ帳を携えていた。そのときには、もうメトロバンクを辞める決心が固まっていたよ」
レックスはミネラルウォーターのボトルをサンミゲルに持ち替えて豪快にあおった。
同じような勢いで飲んでから、将人は言った。
「僕には社会人経験がまったくありません。だから経営のこともまるでわかりませが、ブエナスエルテ社の雰囲気が明るいのも、従業員たちがとても生き生きして働いているのも、やっぱりレックスさんが社長だからこそだと思うんです」
「なんだ、そんなことに今ごろ気付いたのか」言いながらレックスが大笑いした。将人も笑った。「冗談はさておき、そうだね、ブエナスエルテ社の雰囲気は確かに良いと思う。タツミさんとショウが来てからはなおさら、まるで家族や兄弟かのような絆が、従業員たちのあいだに芽生えているのが感じられる」
「僕も彼らが大好きです」言ってから、将人は無性に照れくさくなった。「サンパブロに戻ったら、何だかAMPミナモトの彼らとも、もっと気さくに話せそうな気がしますよ」
レックスが頷いた。
「カルロを覚えているか?」
「ええ、あのインテリな彼ですよね」
さすがにトトにはかなわないが、辰三の出刃さばきをあっという間に覚えてしまった、あの色黒で彫りの深い好青年の顔を思い出した。
「AMPミナモトのような日系企業は、カルロのようなUP卒のインテリたちにとって、魅力的な就職先の一つなんだ。他にも女の子が何人かいたと思うが、彼女たちもUP卒のエリートだよ。関内さんがどんなうたい文句でUPに求人を出したのかまでは知らないが、カルロから聞いた話だと、彼は自分が調理師として雇われたということを、実際にAMPミナモトで働き始めるまで知らなかったと言っていた。そうだと聞かされたときには、あまりにも驚いて、本当に腰を抜かして地面に座り込んでしまったそうだ。なにせ彼は大学で経営学を専攻していて、トップ五位の成績で卒業したらしいから」
「僕はてっきり、カルロは大学で栄養学か何かを専攻していて、その関連でAMPミナモトの調理場を任されたとばかり思ってました。でもカルロの白衣姿は、ハンサムだけに、かなり様になってましたけどね」
「彼は頭がいいから、何でも短期間で飲み込むんだよ。性格も素直だし」レックスが苦笑いした。「エプロン姿でカレー粉を練らされたり、出刃で魚をさばいてヒラキにしたり、あげくの果てにはあの蒸し暑いAMPミナモトの調理場の現場責任者に任命されるなどとは、夢にも思わなかっただろうな」
言われてみれば、カルロの控えめな笑みには、どこか寂しさのようなものが漂っているように見えた。つまりそういう事情があってのことだったようだ。
次のサンミゲルの栓を開けながらレックスは続けた。
「私はね、サンパブロを訪れるたびに、カルロやエミリーを食事に連れて行くんだ。愚痴を聞いてやるんだよ。なにせ関内さんは、命令するばかりで彼らの話を聞こうとしないからね。何でも一方通行なんだ、あの長い晩酌のように」
確かに関内は相手が誰であろうと、まったく同じ話を機械のように繰り返していた。一方通行とはまさに的を得た表現だと将人は感じた。
「今までは休眠状態だったAMPミナモトだが、ブエナスエルテ社の製品の納品が始まったからには、TTCの日本食テナントでの販売開始も時間の問題だ。メトロマニラ圏への調理済み食材の宅配も本格化するだろう。しかしそうなると、今まではカレー粉を練らされるのに耐えればよかっただけのカルロたちは、いよいよ決断を迫られるだろう――大学で学んだ知識を灰にして、これから何年も調理場の仕事に専念するか、それとも、もっと自分の専門分野を活かせる会社に転職するかのね」
「関内さんのことだから、そのうちカルロをTTCの日本食店舗の店長に任命するようなことも、ありえるような気がします」
「関内さんならやりかねないだろうね」
城村の雇ったあの高橋をAMPミナモトに呼んで、辰三の指導のもと、料理の腕を磨かせれば一石二鳥なのだが、関内も城村も、そして高橋本人ですらも、そんなことは考えもしないんだろうな、と将人は思った。
レックスにならって、将人も夜空を見上げた。今夜も、恐ろしいほどたくさんの星が、テーブルに並んだ料理よろしく、隙間なく夜空を埋め尽くしている。
「いつかアレンに戻ってきて、またこの空を見上げたいです」
将人はひとりごとのようにつぶやいた。
レックスがやさしく微笑んだ。
日本を発つ前、源社長から、関内の通訳が都合よく歪められていないか、確かめて欲しいと頼まれた。関内からは「万事順調だ」という話ばかり聞かされるので、何か裏があるのではないか、と源社長が疑問に思ったからだ。
ところが、だ――まもなく明るみに出ようとしている真実は、源社長が危惧していた事態をはるかに超えるものだった。それこそ〈ミツオカプロジェクト〉の根底を揺るがしかねない、大事件に発展する恐れすらある。
ただ事では済まないだろうな、と将人は大きく息をはき出した。
そのとき、アルマンが階段を勢いよく駆け上がってきた。
「どうした?」
レックスが訝しげに聞くと、アルマンは「いえ、何でもありません」と慌てて首を振った。
アルマンは、荒い呼吸を整えながら、何食わぬ顔で将人の隣に座った。
「ショウ、これを聞いたら腰を抜かすぞ」
「どうせ表でアマリアと出くわしたとか何とか言うんだろ?」
額から滴り落ちる汗を拭うと、アルマンは口元を手で覆い、ささやくように言った。
「ティサイを見つけた」
将人は椅子から転げ落ちそうになった。
「何だって?」
「だから、ティサイを見つけたんだ」
驚きと興奮で、指先が震えだした。
「どこで?」
「ハルディンだよ」
「こんなときに冗談はやめろ」
将人は声を荒げ。レックスが何事かと首をかしげている。
「冗談なもんか」
「なんで彼女がハルディンなんかに――」
祭りどきに稼がなきゃ、娼婦がいつ稼ぐっていうんだ――そういうジョエルの声が聞こえたような気がして、将人は思わず口をつぐんだ。
アルマンが続ける。
「僕はライアンとメインストリートを歩いていたんだ。それこそ、アマリアがいないかな、なんて考えながらね。ぼけっとしてて、気付いたらハルディンのまえまで歩いていた。ひやかしついでに、ちょっとのぞいて見ようかってことになって、ライアンと一緒に中に入ってみたらさあびっくりだ。ティサイが両脇に若い男をはべらかせて、ベロベロに酔っ払ってべたべたといちゃついてるじゃないか」
「まさかそんな――」
それだけ言って、将人は言葉を失った。視界が貧血を起こしたように真っ白になる。
「ライアンは激怒して、ティサイを引っつかんで男たちから引き離した。男たちは殴りかからんばかりに怒ったけど、ハルディンのママさんは、ライアンのバックにマフィアや軍隊がいることを知っているから、すぐに彼らに他の女たちをあてがって、荒っぽいことになる前に収めてくれたからよかったようなものの――」
将人に残りを聞く余裕はなかった。
「それで彼女はまだハルディンに?」
「ライアンがペナルティを払って連れ出した。とにかくショウと話をさせないとってことで、いつものモーテルに連れて行ったよ。今はライアンとクリスが付き添ってる。僕がここまで大急ぎで走ってきたのは、君を呼ぶためなんだよ」
「彼女には――きっとそれなりのわけがあるはずだよ」
そう言ったものの、将人は足元がいきなりぱっくりと割れ、地獄に引きずり落とされたような気分を味わっていた。
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