Locker's Style

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『橋の下の彼女』(40)-1

1999年7月24日(土)

フィリピン・カルバヨグ――アレン

 午前六時。
 太陽はまだ水平線の下に隠れているが、空はもう青く明るい。
 アレンを出たのが朝四時半だったので、カルバヨグの魚市場に到着したときには五時半をまわっていた。だいぶ競りには出遅れたが、幸いこの日は大漁で、魚の鮮度も良く魚種も豊富だった。
 すでにこの市場の要領を得ている辰三は、「サンプルもらうぞ」と言っては漁師のバケツから一匹すくい取り、リンドンに魚種や鮮度の見分け方、向いている加工法などを熱心に説明している。事細かにメモを取りながら聞いているリンドンの顔には、まだ小さなかさぶたがいくつか残っている。
 魚を詰め込んだスチロール箱が八箱、新たに運び込まれてきた。辰三は駆け寄ると、そのひとつから大ぶりなアジをつかみだし、手の平の上で何度か転がしてから、リンドンに向けて大きく頷いた。
「見てみろ、新鮮だから目が澄んでるし、腹も硬い。こりゃいい天ぷらの具材になるぞ。よし、この八箱、ぜんぶ買い占めよう」
 いきなり魚を抜き取られた漁師は、そのときこそ辰三をねめつけていたが、リンドンがアジ八箱分の価格交渉に入ると、手の平を返したように愛想が良くなった。最初に提示された額の六割ほどで交渉成立となり、握手が交わされた。
「今日は良い魚が多いから惜しい気もするが、また買いすぎて腐らせちまったら本末転倒だからな。このへんで終了にするか」
 辰三の言葉に、そうですね、とリンドンが頷いた。
 この八箱で、買い付けた魚の総重量は概算で五百キロをわずかに超えた。一週間分としてはやや少ない気もするが、一回の買い付け量を減らして頻度を上げるという方針には沿っている。
「この調子であと二、三回は買い付けに付き合いてぇんだがな」
 辰三が苦笑いした。
 将人たちの帰国日は相変わらず未定のままだが、カルバヨグに向かう車中でレックスが言うには、観光ビザで入国している関係もあり、来週末か再来週の頭にはサンパブロに戻ることになるだろうとのことだった。だから次の買い付けは、おそらく将人たちがカルバヨグ発の飛行機に乗る日の朝になるという話だった。それが辰三が今回の滞在中に見届ける、最後の買い付けになる。
 将人は、サマールを離れる日のことはあまり考えたくなかった。
 リンドンがトラックの手配に向かったので、将人と辰三は漁業組合長の家に向かった。
 魚市場を見下ろすようにそびえる三階建ての家の前で、レックス、ライアン、組合長の三人がベンチに並んで座り、コーヒーをすすっていた。
 将人たちが座ると、組合長のメイドの女性がすぐに飲み物を運んできた。将人にはコーラ、辰三にはサンミゲルのビンが差し出される。まだ朝だというのに喉を鳴らしてサンミゲルをぐいぐい飲み干す辰三にライアンが歩み寄り、肩を揉み始めた。
 それを合図にするかのよに、レックスが将人に小さく手招きした。将人は彼の隣に席を移した。
「君たちが買い付けをしているあいだに、ライアンがムーンライトで話をつけてきたよ」
 市場に到着してからライアンの姿が見えなかったが、なるほどそういうことだったのか、と将人は納得した。
「明け方に店が閉まる直前ということも幸いしたようでね、なんと店のナンバーワンを雇うことが出来たんだよ。今日から三日間はタツミさんの専属で、マブラットへの旅行にも同行する、という条件も二つ返事で了解したし、報酬もこちらの言い値をすんなり受け入れたそうだ。普段一ヶ月かけて稼ぐような額を数日で得られるという好条件だということもあるだろうが、それにしてもナンバーワン娼婦には似つかわしくない謙虚さだなと驚いたよ。きっと彼女は君たちを覚えていて、いい印象を持っていたんだろうね」
 ムーンライトのナンバーワンといえば、ライアンが熱を上げていた、茶色い髪で、日焼けした日本人のような顔をしているあのKC(ケイシー)という子だ。
 将人はレックスに微笑んだ。
「ああ、あの子なら辰三さんもきっと気にいると思いますよ」
 隣で辰三の肩を揉み続けているライアンが、将人に向けてウィンクした。きっと旅行中に辰三の目を盗んで、隙あらば彼女とどうにかなろうとでも考えているんだろうな、と思いながら将人は苦笑いを返した。
 レックスが満足げに頷いた。
「それで、君のアレンの彼女とは話せたのか? 一緒に連れて行くんだろ?」
「はい、お言葉に甘えて」将人は頭をかいて照れ笑いした。ライアンが聞き耳を立てているのがわかる。「今日の午後二時くらいから、タタイ・アナックで待機してもらうことになっています」
 レックスは、彼女の宿泊費もこちらで持つから心配ないよ、と将人の肩に手を置いた。
 市場の先に広がる海から顔を出した太陽に手をかざしながら、将人は昨日の夜のことを思い返した――。


 驚くほど早く、将人はティサイの中で果てた。とめどなく、そして激しく――。
 将人は彼女を腕の中できつく抱いたまま、その柔らかい髪を撫で続けた。
 この子は絶対に僕が守る――そう自分に誓いながら。
 できることなら何日でも何週間でも、ずっとこのままでいたかった。だが、時間は深夜三時を過ぎていた。四時にカルバヨグへ出発することを考えれば、いつ迎えが来てもおかしくない時間だった。
「もうそろそろ、帰ったほうがいい。ライアンが来るかもしれないから」
 ティサイは頷いて、引き締まった体を引き起こし、将人が一枚残らず剥ぎ取った服を、ゆっくりと着ていった。そうしながらも、彼女は将人にやさしく口づけしてくれる。
 迎えに来るのがクリスひとりなら、ティサイを家に送り届けるまでのあいだも、彼を通じて、これからのことについて彼女といろいろ話し合えるだろう。しかし昨夜からの状況を考えると、ライアンがクリスを一人で寄こすとはまずないと思えた。あんな口調で彼女を罵倒したライアンにはもう彼女と会って欲しくなかったし、それはティサイも同じはずだ。
 旅行のことを話したとき、彼女は一緒に来ると言ってくれた。だからいずれにせよライアンとは顔を合わせなければならなくなるが、将人とティサイの関係を知っているレックスの前では、さすがに彼もティサイをぞんざいには扱わないだろうと思えた。
「明日、午後、二時くらいから、タタイ・アナックで待っていて欲しい。カルバヨグからのトラックが何時に到着するかわからないから、ちょっと待たせてしまうかもしれない。だから、何ならノーラを誘って、好きなものを好きなだけ、食べて、飲んでいて、楽しんでいて欲しいんだ。魚の搬入が終わりしだい、すぐ迎えにいくから」
 ティサイは、〈午後二時〉と〈タタイ・アナック〉という部分を、確認するように何度か繰り返した。
「こんどは、おくれないわ」
 言って、彼女は微笑んだ。その美しい笑みに胸を打ちぬかれるような衝撃を感じて、将人はあやうく彼女をまた押し倒すところだった。

 将人は表の道まで彼女を送り出した。月明かりの下、彼女は将人に窒息するほど長いキスを浴びせてから、そっと体を離し、こちらに顔を向けたまま、ゆっくりと南に向って歩き出した。
 やっぱり送って行こうか、と声を上げた将人に、ティサイは笑みを浮かべて首を振った。
「オルウェイズ(いつものことだから)」
 その一言が将人の頭の中で深くこだました――ハルディンから、もしくはモーテルから帰るのは、いつもこんな時間――。
 暗い夜道にひとり消えていくティサイの小さな背中は、しかし、とてもたくましく見えた。



「――というわけだから、君にはタツミさんと一緒に、そのモーテルに泊まってもらいたい」
 はっと我に返り、将人は物思いにふけるあまり、レックスの言葉を聞き逃していたことに気付いた。
「すみません、もう一度言っていただけますか?」
 レックスが髭をつり上げるように微笑んだ。
「恋人のことでも考えていたんだな、まったく。いいかい、組合長の家で朝食をもらったあと、ムーンライトのナンバーワンを拾ってアレンに戻るわけだが、鮮魚の到着を待つあいだ、彼女を会社で待たせるわけにもいかないだろ。町外れのモーテルを使おうと思ってる。そうすれば、万が一天候が急に崩れて旅行を取りやめにしなければならなくなった場合でも、タツミさんにはそこで彼女と週末を過ごしてもらうこともできるしね。そうなった場合には、君も一緒にそのモーテルに泊まって欲しい、と言ったんだ。もちろん部屋は別に取るから、恋人を呼んで一緒に素敵な時間を過ごしたらいいよ」
 レックスがウィンクした。
 将人は歯をぜんぶ出して「ありがとうごあいます」と微笑んだ。

 漁業組合長の家で豪華な朝食を済ませると、トラックの手配と積み込みを監督するリンドンを残して、将人たちを乗せたパジェロは市場を出発した。八時をまわったカルバヨグ川沿いの道では、トラックやジープニー、トライシクルがひっきりなしに行き交っていた。道端では数匹の犬が地面に鼻をこすりつけて食い物を探している。日差しはすでに強烈で、全開にした窓から吹き込む潮風を浴びてもなお、将人の額にはぬるっとした玉汗が浮かんだ。
 ほどなくしてムーンライトに着いた。昼間見るそれは、トタン板の屋根と、色も大きさも不ぞろいの木板を張り合わせただけの、大きいがみすぼらしい納屋のようだった。乳房を描いたピンク色のネオン看板を艶やかに暗闇に浮かび上がらせていた夜の姿が嘘のようだ。
 ライアンが降りて、ムーンライトへ駆けて行く。
「おい、あいつ、どこ行くんだ?」
 辰三が訝しげに聞く。
 何と答えたらよいか将人が迷っていると、助手席のレックスが代わりに答えてくれた。
「旅行のあいだだけ、別のメイドを雇うことにしたんですよ。どうせ連れて行くなら、若くて美人の方がいいですからね」
「そりゃいい考えだ」
 朝食でサンミゲルを三本も飲み干した辰三の目尻は、ほんのり赤みを帯びている。
 数分して、遠目でも美人だとわかる娼婦を連れてライアンが建物から出てきた。膝丈のワンピースから、か細い脚が二本伸びている。黒髪のショートカットで、少女のような顔立ちをした小柄な――。
 彼女はKCではなかった。
 車の脇に立つと、ライアンは後部座席のドアを開けた。
「僕は荷物スペースに乗りますから、この子をタツミさんの隣に乗せてあげてください」
 ライアンが言った。ドア側に座っていた将人は、彼女を通すため、一度車を降りた。
 その若い娼婦はすぐには乗り込まず、将人に向けてにっこりと微笑んだ。
「ひさしぶりね」
 これは意図的な嫌がらせなのか――鳥肌の立つようなうしろめたさを感じて、将人は車に乗り込んでいく彼女にぎこちなく微笑みかけるのがやっとだった。
 ちょうど三週間前、将人は彼女に言った――次にカルバヨグに来るのはいつになるかわからないけど、もし機会があったら、必ず顔をだすから、僕のことをおぼえていて欲しい――。
 確かに顔を出した。しかしこれではまるで、彼女のことを金さえ払えば誰でも買える〈モノ〉と見なし、「上司のために娼婦を用意することになったから、君のことを推薦してあげたよ」と言っているも同然だ。おまけに、将人は旅行にティサイを連れていくのだ。弁解の余地はないに等しい。
 こんな仕打ちを思いつくなんて、ライアンの頭は本当にどうにかなってしまったんじゃないだろうか――。
 怒りというより、恐怖に近いものを、将人は感じた。
「おいショウ、とっとと乗らねぇとおいてくぞ」
 娼婦を隣にして、でれっとした顔になった辰三が言った。
「すみません」
 目を伏せたまま、将人は後部座席に乗り込んだ。
 昨夜、将人が語ったことが本心ではないと、ライアンは見抜いていたのだ――。


 午前三時半過ぎに、将人をモーテルまで迎えに来たパジェロには、思ったとおりライアンも乗っていた。ついさっきまでバネッサを抱いていた、といわんばかりに、服も髪型も乱れていたし、かすかに化粧品のようなにおいも漂わせていた。
「なんだ、ティサイは帰ったのか。送ってやろうと思って急いで来たのに」
 あっけらかんと言うライアンに、将人は何とか繕った笑みを返した。そしてティサイを守るために、あらん限りの演技力を駆使して、つくべき嘘をついた。
「今夜のことには感謝してるよ、ライアン。考えてみれば簡単にわかることだった。ティサイは僕のことなんか愛していないし、信じてもいなくて、ただ、彼女の体を求めるスケベな外国人、としか思ってなかったんだね。情けない話だけど、彼女を抱いてみて、それを思い知らされたよ。まさに仕事のようなセックスだった」
 将人は、事実とはまるで正反対のことを言った。
 汗で額に貼り付いた前髪をかき上げながら、ライアンは満足そうに微笑んだ。
「ようやくわかってくれたのか。まえにも言ったとおり、フィリピン人のことはフィリピン人が一番よく理解できるんだよ。娼婦を抱くのに愛情は必要ない。ティサイはね、金さえもらえばいつでも誰とでも寝る女だ。情けなく思うことなんてないさ、むしろ誇るべきだよ、一つ賢くなったんだからね」
 食い縛った歯が見えないよう、将人は口をぐっと結んで笑みを――そう見えて欲しいと願いながら――浮かべた。
「明日の旅行には、彼女も連れて行くつもりなんだろ?」
「そのつもりだよ、娼婦としてね」
 将人は答えた。
 ライアンが大きく頷いた。
 日本に帰ったあとも、彼女を守り続けるためには、まずライアンたちにこの嘘を信じこませることが必要だった。
 それが、住所も電話もないティサイを日本から支えられるよう、将人が寝ずに考えた〈ティサイ援助計画〉の第一歩になるはずだった――。


 パジェロはムーンライトの前でUターンして、アレンに向けて走り出した。
「みんな娼婦なんだ。モノとして扱えばいいんだよ」
 荷物スペースにいるライアンが将人の耳元に顔を寄せて小声で言った。
 こんな仕打ちを思いつくことからして、彼は将人とティサイを徹底的に裂くつもりでいるとしか考えられなかった。
 つまり、将人の〈ティサイ援助計画〉は出だしからつまずいたことになる。
「こんなつもりじゃなかったんだよ」
 将人はうつむいたまま、隣に座る小柄な娼婦につぶやきかけた。
「だいじょうぶ、わたし、あなたに、あいたかったから」
 彼女は、強い訛りのある英語でそうつぶやき返した。
「しかしこりゃ可愛いメイドさんだなぁおい! ちょっと肩組んじゃってもいいか?」
 辰三が目尻を下げて言った。ライアンが「どうぞどうぞ」と促す。辰三が彼女の肩に腕をまわすと、何日も体を洗っていない中年男の体臭がTシャツから押し出され、彼女を通りすぎて将人のところまで届いた。だが彼女は顔色一つ変えず、辰三の胸に深く頬をうずめる。彼女が純粋なメイドではないということに、辰三はうっすら気付いたようだった。
 将人は二人から顔を背け、ごめん、とつぶやいた。
 セシルの小さな顔が、辰三の胸元で小さく頷いたように見えた。

 カルバヨグを出て三十分もしないうちに、将人とクリスを除く全員が――セシルも含めて――居眠りを始めた。
 ライアンが荷物スペースで寝ているのを確かめたあと、将人は運転席へ身を乗り出し、クリスに、なぜライアンはセシルを連れてくるような真似をしたのか、と聞いてみたが、彼はライアンの方に目配せしながら、間違っても聞かれるわけにはいかない、とでもいうように、ただ黙って首を横に振るだけだった。
 二時間ほど走った後、見慣れたアレンの町はずれに到着した。ひとり、またひとりと目を覚ます。
 ブエナスエルテ社に寄り、荷物スペースにアルマンとイボンを乗せてから、パジェロはタタイ・アナックに向った。レックスいわく、セシルがいるから昼食は外で取る、ということだった。
 一瞬、将人はこの状況でティサイと鉢合わせしてしまうのではと焦ったが、幸い時間はまだ十一時を少し過ぎただけだった。ティサイがやって来るまで、あと三時間ほどあるとわかり、ほっとして、額に浮かんだ汗を拭った。

 昼前のタタイ・アナックはがらんとしていて、カラオケではなくラジオがフロアに響いていた。夜の洒落た雰囲気と違い、まるで定食屋のようなのんびりとした空気が漂っている。
 将人たちが十人掛けの長テーブルを選ぶと、ボティガードを務めるイボンは、二つ離れた見通しの良いテーブルに一人で座った。
 片側にレックス、辰三、セシルの順で座り、反対側に、ライアン、将人、アルマンの順で座る。
 アルマンは、セシルと向い合わせの席に腰を下ろしてようやく、彼女と初対面でないことに気付いたらしく、途端に顔をほころばせ、将人を何度も指差しながら、現地語でべらべらと話し始めた。ライアンも加わり、三人が大笑いを始める。
「こいついらはお前の何をそんなに面白がってんだ?」
 辰三はセシルの肩を抱きながら、将人に怪訝な顔を向けた。
「僕にもわかりません。彼らは英語でなく現地語で話してますから」
 将人はそう答えたが、彼らがここまで笑い転げる話題といえば、〈五百ペソのミルク〉以外にないことはわかっていた。
 レックスはうっすらと微笑みながら、やってきたウェイトレスに矢継ぎ早に注文を伝えた。他に客がいないからか、サンミゲルもカラマーレも、あっというまに運ばれてきた。
「さてショウ、今日はいったい何の日か、君なら知ってるよな?」
 レックスがいきなり大声で聞いた。
 まるで予想していなかった質問に、将人は目を瞬いた。
「アレンのお祭りですよね?」
「もっとおめでたいことだよ」
 横からライアンが言って、にんまりと微笑んだ。
「フィリピンでは、誕生日は盛大に祝うものなんです。タツミさん、お誕生日、おめでとうございます!」
 レックスが声高に言うと、ライアンとアルマンも続いて、「おめでとうございます!」と声を上げた。
「誕生日だって? そういや、確かにそうだけど――何でお前らが知ってんだ?」
 辰三は面食らったようにそう言うと、セシルの肩から腕を離し、彼女の太ももを撫で始めた。
 将人は小さくかぶりを振って目をそらした。
「パスポートですよ」
 レックスが言った。
「パスポートだって?」
 言って、辰三が手をポンとたたき鳴らした。
「ああ、なるほど、パスポートか。国内線の予約をするからって預けたときに、誕生日を見やがったんだな」
 目ざといやつだな、と続けて、辰三はレックスと開いた手の平をたたき合わせた。
「〈兄弟〉の誕生日なんです、知っておくのが当然だと思いましてね」
 レックスが言うと、それを乾杯の合図にするかのように、皆が飲み物を高く掲げて突き合わせた。

 酔ってすっかり上機嫌になった辰三がセシルを口説き――どうやら〈そういうこと〉も許すメイドだと思い込んでいるらしい――それを将人とアルマンが三点通訳してしばらくたったとき、異変は起きた。
 思いつめたような顔をした二人の男が客席フロアに入ってきた。彼らはウェイトレスを押しのけると、イボンのまうしろの席に座り、刺すような視線を彼の後頭部に向けた。不自然な形をした包みを、席に着いた後も小脇に抱えたままだ。
 見れば、レックスの顔からは笑みが完全に消えていた。
 何事かと将人がイボンの方に顔を向けようとすると、ライアンに「見るな」と止められた。
 何らかの異変が起きているのを感じ取ったのか、辰三も顔をこわばらせている。
「支払いを済ませたら、いつもどおり出て行く。絶対にイボンの方を見ないこと」
 有無を言わさぬ口調でレックスが言った。
 何が起きているのかわからないまま、将人も辰三も頷く。
 ウェイトレスを呼び、会計を済ませた。レックスとライアンは笑みを繕うと、あたかも世間話でもするかのように、セシルとアルマンに状況を伝えていた。
 まずはレックスが、辰三の脇にぴったりと貼り付いたまま席を立った。将人はライアンに、セシルはアルマンに付き添われて、「ああ、よく食ったな」などと言いながら、フロアを歩いていく。
 フロアを出る間際、イボンが席で微動だにせず、バタフライナイフをしのばせているだろうハーフパンツの腰ゴムの内側に手を入れ、いつでもうしろの男たちに飛びかかれる姿勢を保っているのを将人は見て取った。
 店から出ると、ライアンやアルマンばかりでなく、レックスまでが、心底ほっとしたような表情になった。
 車に乗り込むと、レックスはクリスに早口で指示を与えた。クリスがパジェロをタタイ・アナックの前まで進めたとき、イボンが全速力で店から駆け出してきた。ライアンがリアハッチを開け、アルマンが駆け寄ってくるイボンを捕まえて荷物スペースに引きずりこんだ。
 車輪を何周か空転させてから、パジェロはものすごい勢いで走り出した。
「いったいどうしたんです?」
 撒き上がった煙幕のような土ぼこりに目を丸くしながら、将人はレックスに聞いた。隣の辰三とセシルは、おびえた顔で手を握り合っている。
「あの男たちは殺し屋だ。イボンを狙っていた」
 将人が荷物スペースを振り返ると、イボンは険しい顔ですまなそうに頷いた。興奮からか、顔はうっ血し、唇が細かく震えている。
「これが、さいしょじゃない。わたし、むかし、たくさん、ひと、ころした。あいつらは、たぶん、そのかぞくが、ふくしゅうで、やとった、ころしやだ」
 イボンは、怒りと恥ずかしさと恐怖を混ぜ合わせたような、複雑な顔で言った。
 レックスが続いた。
「一人は腰のふくらみに手を当てていた。おそらく拳銃だろう。もう一人は不自然に長い包みを持っていた。大なたマシエトか、ひょっとするとライフルを隠しているのかもしれない。連中の狙いはあくまでイボンだから、タツミさんやショウには手を出さないだろうが、万が一、店の中で発砲されたりしたら、流れ弾が君たちに命中しないとも限らない。せっかくのタツミさんの誕生日祝いだったが、とてもあのまま店にいられる状況ではなかった」
 いくらフィリピンとはいえ、まさかそんな話が本当にあるんだろうか、レックスは少し神経質すぎるんじゃないか、もしかするとただの勘違いだったのではないか、と将人は思いながら、辰三にそのままを通訳した。テーブルの上には、また誰も口をつけていなかったサンミゲルが数本と、手付かずの料理が何皿も残っていた。将人は、サマールに来てからは特に、食べ物を残すことに強い罪悪感を覚えるようになっているから、本物かどうかもわからない殺し屋よりも、食べ残しの方が気になった。あまりに非現実的すぎるのだ。
「そんなこったろうと思った」言って、辰三は舌打ちした。「チャカ持ってるやつはな、歩き方でわかんだよ。あいつら、左右の歩幅がぜんぜん違ってた。店に入ってきたときから、どうも怪しいとは思ってたんだ」
 なぜそんなことを辰三が知っているのかと将人は不思議に思った。
「しばらくのあいだ、ボディガードにはノノイを使いましょう」
 レックスが言うと、車内に張り詰めていた緊張が、さらに強まった気がした。

 辰三とセシルのために用意した〈アンジェラズ・イン〉というモーテルは、闘鶏場を過ぎてすぐのところにあった。駐車場を兼ねている広い庭にどこか見覚えがあって、将人ははっと気付いた。そこは、辰三とアマリアを引き合わせようとして大失敗した、あのモーテルだった。
「鮮魚が到着したら呼びに来きますから、それまでここで休んでいてください」
 レックスが言うと、辰三はそれだけで全てを察したように、こくりと頷いた。
「お前も、旅行には彼女つれてくんだろ?」
 レックスから部屋の鍵を受け取ると、辰三が将人に聞いた。
「サンホセのときみたいにならないといいですけど」
 自虐的にそう答えてから、将人は自分の部屋もこのモーテルに用意されていること、旅行が中止になった場合はそのままここで週末を過ごす予定だということを伝えた。
「今度はすっぽかされませんようにって祈ってやるよ」言って、辰三は喉の奥を鳴らすように笑うと、セシルの手を引いてパジェロから降りた。「そうそう、またTシャツとパンツ、何枚か買ってきてくれよ。もう何日も替えてねぇんだ」
 辰三は、セシルの目の前でこれ見よがしに財布から三千ペソを抜き出し、将人に手渡した。
 昼間に何時間も辰三の通訳をしなくて良い機会は、これを逃せばないと思えた。
「買い物ついでに、祭りの露店を見てきたいんですが」
 将人は聞いた。昨日の夜はさんざん泣かせてしまったティサイに、何かプレゼントをしたいと、メインストリートに並ぶ露店を見ながら考えていたのだ。
「好きなだけ見てまわってこい。俺は今から脱ぐとこだから、Tシャツもパンツも急いじゃいねぇしな」
 辰三に肩を抱かれ、一階左隅の部屋のドアをくぐろうというとき、セシルが将人を振り返った。
 小さく手を振って、にっこりと微笑んでいる。
 将人は出来る限りの笑みを浮かべ、頷いて見せた。そして「頑張って」と何だが場違いに聞こえることをつぶやいていた。
 ドアが閉じられた。
「それにしてもいい子が見つかってよかったよ、タツミさんも彼女が気に入ったみたいだし」
 パジェロに乗り込むなり、ライアンが平然とそう言った。
「約束どおり戻ってきただけじゃなく、貸切りの仕事も与えてあげた。セシルもさぞかしショウに感謝してるよ」
 アルマンも遠慮なく続ける。
 将人はかぶりを振った。わざわざセシルを選んだライアンを思い切り罵りたい気分だったが、レックスの手前、そういうわけにもいかない。
 押し黙ったまま、将人は考えた――彼女は現役の娼婦なのだ。養わなければならない家族がいる。働かなければ当然家族は養えない。その点では、今の将人は彼女に何の貢献もできない。逆に辰三は、間接的とは言え、彼女に大いに貢献していることになる。
 彼女に対して、戻ってくる、と言った将人が、実際に戻ってきたうえに、上司のために彼女を雇ったことを、彼女は侮辱とは受け取ってはいないようだった。それに、聞いたわけではないし聞くつもりもないが、ティサイと違って、セシルは娼婦を続けることを望んでいるかもしれない。もしそうなら、ムーンライトの数ある娼婦の中から彼女を選んだことを、思いやりと受け止めてくれているということもありえる。
 しかし――将人は思い出した。彼女は言ったのだ――わたし、あなたに、あいたかったから――。
 あなたに会いたかったから、この仕事を請けた、と言いたかったのだろうか。だとすれば、そこにはどんな意味があるのだろう。
 彼女もティサイと同じように、人生を変えたいのだとしたら――。
 将人は、パジェロのリアガラスの向こうで遠ざかるモーテルから目を離すことができなかった。

 ブエナスエルテ社に戻ると、休みとあって加工場はがらりとしていた。壁際に立てかけて干してある加工テーブルの、塩素で落とし切れなかった汚れに、ハエが白い卵を産みつけていた。
 廃車のジープニーの窓からは、刺青の入ったトトの脚が突き出していた。イボンはパジェロから飛び降りると、昼寝しているトトの脚を手の平で強く引っぱたいた。
 トトが目をこすりながら体を起こすと、イボンは唾を飛ばしながら何やらまくし立て始めた。ナイフやピストルの形を指で模しているのを見て、タタイ・アナックで遭遇した殺し屋について話しているのだと将人は見当がついた。
 話を聞くにつれて、トトの顔は、いつもの貫禄のある現場責任者の顔から、荒っぽいギャングメンバーの顔に変わっていた。
 二人のようすを遠目で気にしながら、将人はレックスに、辰三から買い物を頼まれている、と言った。クリスか誰かに買ってこさせればいい、と彼は言ったが、将人は正直に「祭りの出店を見たいので、自分で行きたいんです」と答えた。
「君にとって、生きたアレンの町を知るいい経験になるだろうね。ボディガードにはノノイを連れていきなさい」
 言って、レックスが微笑んだ。
 将人はレックスに深々と頭を下げた。
「それにしても、君がミルク代に五百ペソあげたのがあのセシルという子だったとは驚いたよ。なあに、心配しなくても、今回はドラム缶どころか、タンクローリーいっぱいのミルクを買えるぞ。土曜から月曜までの三日間で六千ペソの契約だからね」
 そう聞かされて、将人は途端に複雑な気分になった。セシルは、ブエナスエルテ社の加工係たちの一ヶ月の給料より多い金を、たった三日で得ることになる。
 昨日の晩、記憶があいまいになるほど酔っ払ったティサイが、なぜハルディンにいたのか――そう思いたくはないが――わかったような気がした。娼婦をやっている以上、ティサイも過去に、三日で六千ペソ払うような客に出会わなかったとは――あれだけの美貌があればなおさら――言い切れない。それにひきかえ、将人が一週間分として彼女に渡した生活費はたった千ペソだ。一週間に千ペソが定期的に得られるが、三日でその六倍の額を稼いだと昔の商売仲間から聞かされたりしたら――ティサイは、そんな話は微塵もうらやましいと感じないのか、もしくは、感じてしまうのか――。
 将人は自分自身に問いかけた――通訳になるのが夢だったから、月給十万でもこの仕事を喜んで引き受けた。だが仮に、英語とはまるで関係のない月給百万の仕事と、月給十万だが通訳の仕事の、その両方を天秤にかけたとき、果たして自分はそれでも通訳への夢を取ると言い切れるのだろうか、と。
 レックスに不思議そうな顔で見つめられているのに気付いて、将人は慌ててかぶりを振った。
「あ、はい、セシルもきっと喜んでいると思いますよ、たくさんのミルクが買えますからね」
 言って、レックスにぎこちない笑みを返すと、将人はノノイのいる見張り小屋の方へ、逃げるように駆け出した。

 見張り小屋の近くに、何かを取り囲むような、ちょっとした人だかりができていた。ブノン、アルマン、ライアン、ノノイ、クリス、それにシャイメリーまでいる。
 ライアンが腹を抱えて笑いながら、将人に手招きした。
「ショウ、これを見てくれ、ああ最高だ!」
 彼らの輪の中に、アルバートがぽつりと立っていた。アイロンの効いた白いワイシャツにワインレッドのネクタイ、線の通った黒いスラックスに、磨きぬかれた艶のある茶色の革靴、といういでたちだった。そのどれもこれもサイズがまるで合っておらず、ふざけて父親の服を着た子供のように見えた。
「いやぁバート、素晴らしい、とても似合っているよ、何なら月曜からこの服装で仕事したらどうだ?」
 ライアンがアルバートの肩を叩きながら言った。
 だがアルバートはそれを褒め言葉と受け取ったようで、歯を見せて誇らしげに胸を張りながら、ネクタイとネクタイピンの位置を直した。
「ぜんぶ借り物なんだってさ」アルマンが苦笑いした。「アレンの見栄っ張りたちは、祭りになると借金してまで客に豪勢な料理を出すだろ、山岳民族のアルバートでさえ、そのアレン流儀に染まってしまったんだ。故郷に仕送りしながら貯めこんだわずかな小遣いを、洋服のレンタル代で使い果たしてしまうとはね」
 ライアンはカメラを持ち出してきて、アルバートと記念写真を撮った。アルバートは満面の笑みで、モデルのようなりりしいポーズを決めている。
 彼らがアルバートに気を取られている隙に、クリスがそっと将人に近づいてきた。
「ショウ、ちょっといいかな」
「僕も君には聞きたいことが山ほどある」
 クリスが頷いた。
「実は昨日のことなんだけど、ティサイはあのとき――」
「クリス、こっちに来いよ、一緒に写真を取ろう」
 それまでアルバートと肩を組んで、ブノンにカメラマンを務めさせて大はしゃぎしていたライアンが、触覚に触れた昆虫のように敏感に反応して、そう大声で言った。顔には笑みを浮かべているものの、目はねめつけるようにつり上がっている。
 クリスはライアンを無視して続けた。
「ライアンの通訳はめちゃくちゃだった、あれじゃ彼女があまりにも――」
「クリス!」
 怒鳴り声を上げたライアンは、もはや作り笑いさえ浮かべていなかった。
 クリスは聞こえないほど小さく舌打ちをすると、将人の脇を離れ、しぶしぶアルバートの隣に並んで、被写体に興じた。
 ライアンがクリスを開放しようとしないので、将人は続きを聞くのをあきらめて、見張り小屋の壁に寄りかかって即興の撮影会を眺めていたノノイに歩み寄った。
「町に買い物に行くんだ、よかったら付き合ってくれないか?」
 レックスの許可も受けている、と伝えると、ノノイは満面の笑みで頷いた。
「そいつはいいね、ちょうど退屈してたんだよ」
 将人とノノイが表の道路へ歩いていこうとすると、ライアンがまた声を上げた。
「どこへ行くんだい? 買い物だって? だったら僕が一緒に行くよ、イボンがあんな状態だから、ノノイにここを離れてもらっては困るからね」
「レックスがノノイを連れて行くように言ったんだよ」
 将人はうんざりして言った。明らかに、将人が従業員とどこか目の届かないところに行くのを警戒している。
「だったら三人で行けばいい――」
 そのとき、加工場の方からライアンを呼ぶレックスの声が響いた。レックスは、イボンとトトを目の前に立たせ、険しい顔で腕組みしている。殺し屋が現れたことについて詳しい事情を聞いているに違いなかった。
 くそっ、と小声で言ってから、ライアンはノノイに釘を刺すかのような厳しい一瞥を投げてから、加工場の方へ駆けていった。
「最近のライアンはどこか変だな。ノノイはそう感じたことないか?」
 将人は聞いた。
「ここじゃまずい。さあ、買い物にいこう、歩きながら話せばいい」
 言いながら、ノノイは将人の背中に手をあてがって表の道の方へ誘った。将人より十センチほど背は低いが、その太い二の腕は将人の二倍ほどある。
 将人はふと、ノノイの英語がいつの間にか、かなり流暢になっていることに気付いた。
「なんだか君は英語が急に上手くなった気がするけど、英会話教室にでも通い始めたの?」
 ノノイは笑った。
「きみのおかげだよ。空挺部隊にいたころは、アメリカ軍といっしょだったから、ぼくも英語がうまかったけど、こっちにきてから、ほとんど話さなくなって、ずいぶんとへたになってた。でも、きみがきて、また話すようになってね、ふだんから使うようになると、言葉の感覚がもどるのは、あっというまなんだなって、よくわかったよ」
 ちょっとした驚きをもって、将人はノノイの言葉に頷いた。彼の英語に、アメリカ人のような発音がはっきりと聞き取れたからだ。


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