Locker's Style

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『橋の下の彼女』(42)

1999年7月26日(月)

フィリピン・アレン


 土曜と日曜の二日間顔を合わせなかっただけなのに、加工場の従業員たちとはずいぶん久しぶりに会うような気がした。祭りを思う存分堪能したからか、彼らは一様にすがすがしい顔をしている。
 辰三は朝からトトにつきっきりだった。サンプルとして買い付けた、日本では見かけない奇妙な姿の魚をさばきながら、皮の硬さや身の具合、背骨の位置や小骨の多さなどを調べ、種類ごとにどのような加工法が最適かを、身振り手振りで熱心に説明しいている。一年を通して同じ魚種に頼ることの危険性を唱えたリンドンの意見を組んでということもあるだろうが、辰三いわく、あえて特異な魚種を使うことで、魚のどこをどう見て、どんな加工法が最適かを見極める応用力を鍛える練習、なのだという。
「あとは加工するやつのセンスだな」
 言って、辰三は楽しそうに微笑んだ。
 辰三のひと言ひと言に聞き入り、楽しそうに出刃を動かすトトは、つい昨日、バタフライナイフで人を刺したのと同じ人物にはとても見えなかった。
 加工場の従業員たちは、将人たちが水曜の早朝にアレンを発つことをすでに聞き知っているようで、時おり加工の合間に手を休めては、何か問いたげな笑みを向けてくる。ティナに至っては、朝から昼休みまでひっきりなしにタオルで目頭をぬぐっていて、クリスティやイザベラに励まされていた。
 彼女がもし自分のために泣いてくれているのなら、帰る前に一度、彼女に声をかけてみよう、と将人は思った。

 昼食は社宅でなく会社で取った。社宅が大家とその友人の集会場になっていることをライアンから聞かされたレックスが激怒して、午前中に社宅に乗り込んで、賃貸契約の即刻解除を申し入れてしまったからだ。
 セシルの昼食はクリスがモーテルまで届けた。アレンに来てからは一日中、部屋で缶詰状態の彼女を、せめて昼食の時くらい連れ出したいと辰三は頼んだが、レックスは、「部屋にいるのも彼女の仕事のうちですよ」と断った。大家とのひと悶着が効いているようで、あきらかに機嫌が悪い。
「レックスさん、ご立腹だな。昼飯のついでに、セシルに下着でも買ってやりたかったんだけどよ」
 昼食をつつきながら、辰三が将人に小声で漏らした。三日分の着替えしか持ってこなかったセシルは、着たものを洗面台で手洗いしているそうだ。
「ついでに俺の下着も洗ってくれんだよ、良い子だよまったく」
 言って、辰三は満足げに煙をふき出した。

 アンジェラズ・インから戻ってきたクリスは、トイレから出てきた将人を裏の納屋に引っ張り込んだ。もともとは何かの貯蔵庫だったらしいこの大きな納屋の一画で、彼は毎日寝起きしているのだ。
「さっきセシルにランチを届けたあと、ノーラのところに寄ったんだ。そうしたらティサイもそこにいてね」
 ティサイがいた――そう聞いた途端、将人の脈は大きく跳ね上がった。
「彼女はいつもどおりだった?」
「もちろんさ、ただ――」
「ただ?」
「気になる話を聞いたんだ」
「前置きはいいから」
 ごめん、とクリスは続けた。
「実は昨日、彼女はちょっとした事件に巻き込まれていたんだ」
「またアルフォンソがらみか?」
 クリスが頷いた。
 将人の頭の中に、いつかのイボンの言葉がよみがえった――だいじょうぶ、あんな、まやくちゅうどく、いなくなっても、だれも、きにしないし、さがさない、やしばやしに、うめれば、だいじょうぶ――。
 殺しはしないまでも、イボンなら、アルフォンソが二度とティサイに近づきたくなくなるような〈何か〉ができるだろう。例えば、喉ぼとけが折れるほど深く、口の中に銃を押し込むとか――。
 はっと我に返り、将人は慌ててかぶりを振って、その考えを頭から追い払った。
「それで、その麻薬中毒者が今度はいったい何をやったんだ?」
「昨日の昼間、ヤクをやり過ぎて頭が飛んで、どこかのチンピラと揉め事を起こしたあげくに、ひどくたたきのめされたというんだよ」
「自業自得だろ」
 将人は吐き捨てるように言った。
 苦笑いしながらクリスは続けた。
「ところが土曜日の時点では、そのチンピラたちとアルフォンソが、仲良く一緒に飲んでいるところを目撃されているんだ」
「どうせくだらない仲間うちの喧嘩だったんだろ」
 クリスが両手を大きく広げてかぶりを振った。
「それが違うんだよ。話を聞いているうちに、その二人のチンピラというのが、どうも君とも無縁じゃないらしいことがわかってね」
 二人、と聞いて将人はぴんときた。
「まさか、イボンを襲ったあの殺し屋たちなのか、その二人のチンピラってのは?」
 クリスが頷いた。
「イボンの話じゃ、連中はマフィアでもギャングでもない、ただの素人らしいけど」
「そうかもしれないけど、イボンの脳天めがけてためらいもなくマシエトを振り下ろしたんだぞ、素人かどうかなんて関係ないよ」
「言われてみればそのとおりだね」
 クリスが場違いな笑い声を漏らした。
「つまり、アルフォンソもあの襲撃に一役かっていた、ってことか」
 クリスがゆっくりと頷いた。
「私が思うに、土曜日のタタイ・アナックで、イボンと殺し屋たちが鉢合わせしたのは偶然だよ。でも昨日、連中がブエナスエルテ社のまえで待ち構えていたのは偶然じゃない。イボンがここで働いていることを、アルフォンソが殺し屋どもに教えたからなんだよ」
「なんてこった」
 だとすれば、アルフォンソの見返りは金か――いや、ひょっとすると、まだ完全に縁が切れたわけではない前妻のまわりをうろつく目ざわりな外国人の始末だったのかも――もしあのマシエトがイボンの頭蓋骨を割っていたら、それが次に振り下ろされたのは、将人の脳天だったのかもしれない――。
 さすがにそれは想像が過ぎると将人は思ったが、ねっとりした汗が流れる背筋に、ぞくっとする寒気を感じた。
 クリスはさらに続ける。
「昔からこの町に住んでる人間なら、イボンが完全にギャングから足を洗ったわけじゃないってことくらい知ってるよ。だからいくら金を積まれようと、彼を殺しにやってきたよそ者連中にいらぬことを話したりしない。密告したのがばれたら、元プロの殺し屋のイボンから命をねらわれる事になるんだからね。つまり、殺し屋たちに密告したのは、アレンの事情に詳しくて、おまけにイボンの報復を恐れないやつ、ってことになるけど、そういう人間は、この界隈では、頭のいかれたヤク中くらいしかいないんだ」
 まるで三流マフィア映画の脚本じゃないか、と将人はかぶりを振った。
「だったらなぜ、アルフォンソは殺し屋連中と揉めたりしたんだ?」
「欲が出たのさ」クリスが右手を顔の高さまで上げ、親指と人差し指をこすり合わせた。金を意味するジェスチャーだ。「おおかた、見返りに受け取った金でヤクを買って――もしくは、ヤクそのものが見返りだった可能性もあるけど、とにかく、使い切ってしまって、日曜の昼間に、またせびりに行ったんだろ。あれじゃ足りない、もっとよこせ、さもないと警察に垂れ込むぞ、とか何とか言ってね」
 もしあの殺し屋たちが、いとこを殺された恨みでやってきた素人でなく、金で雇われた本物のヒットマンだったなら、アルフォンソはそれこそ今ごろ、ヤシ林の奥深く、腐葉土の中で微生物の餌になっていたかもしれない。
「アルフォンソがどれだけ間抜けなやつかは十分にわかった。でも、そんなくだらない出来事のどこに、ティサイが関わったのかがわからない」
 クリスが苦笑いする。
「日曜の午後、町の一角で激しい言い争いをする男たちの声が聞こえた。しばらくして、通行人が道端の草むらでぐったりしているアルフォンソを見つけた。顔が倍くらいに腫れて、全身の皮膚で内出血してない部分がないほど殴られていたんだ。金を持ってないから病院にも連れて行けないし、町には彼の面倒をみてくれる家族も親戚も友人もいない。だからと言って、そのまま放っておくわけにもいかなくて、結局、前妻であるティサイのところに担ぎこまれたってわけ」
 血が上ってきた頭を冷やすように、将人は大きく息をはいた。
「つまり、彼女は昨晩、やつを看病してたから会いにこれなかった、ってことか?」
 クリスは頷かず、代わりに将人の両肩に手を置いた。
「どうか彼女を責めないで欲しい。ティサイは、『ショウに悪いことをした』って何度も言ってたんだ」
 将人は下唇を噛み締めた。ティサイは昨日、彼女が間借りしている家で、アルフォンソと一夜を過ごしたことになる。
「とにかく、今夜は君が彼女と必ず会えるよう手配してきた。仕事が終わって君がモーテルに戻ったときには、彼女はもう君の部屋にいる。ティサイがそうしたいと言ったんだ。アンジェラにも、彼女を君の部屋に入れるよう話を通してきた。今夜こそ必ず会えるよ、ショウ」
 ティサイと会える――震えるほどの嬉しさが、将人の全身を駆け巡った。会ったら、土曜に待ちぼうけさせてしまったことをまず謝ろう――。
「ありがとう、クリス」
 表情を緩め、将人は言った。
「でも、君が水曜の朝、サンパブロに発ってしうことはまだ彼女に告げてない――というか、とても僕の口からは言えなかった」
 クリスがかぶりを振った。
 いいんだ、と将人は答えた。
「彼女と二人きりになりたいのはやまやまだけど、とにかくもう時間がない。〈ティサイ援助計画〉の詳細を彼女に伝ないと。通訳は君にやって欲しい、頼むよ」
 クリスは頷いた。
「レックスから、今夜もモーテルの駐車場で待機するよう言われてる。通訳は任せてくれ」
「そういうことなら、ノーラにも同席してもらえないか? できれば彼女を交えた四人で話し合いたいんだ」
 ノーラは、この計画において、ティサイの精神的な面を支えるという、とても重要な役割を務めることになる。話し合いには欠かせない存在だった。
「実は私も、彼女を呼ぶべきだとは思ったんだけど――」クリスが苦笑いした。「――その時間、彼女はハルディンだろ、連れ出すにはペナルティが必要だよ」
「もちろん僕が払うよ」
 ぺナルティ、という言葉の響きが、何だか懐かしく感じる。喜ぶべきことだ。
 将人は財布から二百ペソを取り出してクリスに渡しながら、はっと思いついた。
「そうだ、タタイ・アナックに行こう! アレンを離れる前に、一度だけでいいから、あのタタイ・アナック号のデッキで飲みたかったんだよ。〈人生の新しい船出〉なんだ、それを話し合うのに、あそこより良い場所があるかい?」
「素晴らしいアイデアだよ」クリスは歯をむき出しにして微笑んだ。「ノーラもあのデッキで飲みたいとまえから言ってたんだ、きっと喜ぶぞ」
 将人は、掲げた手の平をクリスとたたき合わせた。

 午後の作業が、リンドンのけたたましいホイッスルで始まった。将人の鼓膜は、その甲高い音に揺さぶられることにすっかり慣れてしまっている。
 トニーは毎度のことながら、その大柄な体型ゆえに、ビニールエプロンの紐を背中で結ぶのに手こずっていた。リンドンが彼女に近づいて、急かすのかと思いきや、ひもを結ぶのを手伝った。真っ黒な顔に白い歯を見せて彼女が礼を言うと、リンドンはいつになく穏やかな顔で微笑み返していた。
 辰三が帰国しても、加工場は必ず上手くいく――それを見て、将人は確信した。

 日が傾き、蚊と蚋が飛びまわる頃合いになって、今日の作業も終わった。加工場の清掃を終えると、男の加工係たちは、どこから持ってきたのか、二組のボクシンググローブをはめて、加工場の前でボクシングの試合を始めた。
「ショウもやりますか?」
 一度も口を聞いたことがなかった、坊主頭の加工係が、たどたどしい英語で将人に話しかけてきた。
「でも、僕は空手の癖があるから、蹴ってしまうかもしれないよ」
「だったら、僕が相手しようじゃないか」
 言いながら、ノノイがやってきた。
「どうなっても知らないぞ」
 彼に向けて、将人は首を掻き切るしぐさをして見せた。
 ノノイは大笑いしながら、加工係からグローブを受け取ると、それを着けしようとして――熱いものでもさわったかのように地面に放り投げた。
「ショウ、残念だけど、きみとの戦いはおあずけだ」
「どうしたの?」
 将人は、グローブをはめようとしていた手を止めた。
「こいつら、仕事のあと、手を洗わなかったらしい」
 言われて、将人もグローブの臭いをかいでみた。次の瞬間、体が勝手にグローブを地面に投げ捨てていた。腐った垢と汗と魚の生臭さが混ざり合った悪臭は、あともう少しで胃の中のものを戻しそうになるほどだった。
 まったく大げさだな、と辰三は諭すように言って、グローブを拾い上げたが、においを嗅ぐなり、同じように地面に投げ捨てた。
「お前ら、あんなグローブはめやがると、明日から魚を触らせねからな!」
 半ば本気で怒鳴った辰三だったが、従業員たちは腹を抱えて笑っていた。

 社宅を引き払ったので、夕食は加工場で取った。社宅で作り置いてあった、冷めた食事だった。料理と一緒に、大きなビニール袋に詰められた半乾きの洗濯物が戻ってきた。明日からは、朝食はアンジェラズ・インで、昼食と夕食はタタイ・アナックで取ることになった。レックス、ライアン、アルマンの三人は、今夜からブエナスエルテ社で寝泊りすることになるので、カローラの止めてあるガレージの一部に、急ごしらえで宿泊所を作ることになった。
 さっそく駆りだされたブノンが操るチェーンソーの音は、将人たちがモーテルに戻る時間になってもなお、止むことがなかった。

 パジェロがモーテルの駐車場に乗り入れると、待ちかねていたといわんばかりに、セシルがドアを開けて顔をのぞかせた。辰三は、将人たちには決して向けない、だらしない笑みを浮かべて彼女に手を振ると、跳ね飛ぶ勢いでパジェロを降り、彼女のことろに駆けていった。
 彼女を抱きしめるなり、辰三はひと目もはばからず長いキスをした。
 辰三に肩を抱かれて部屋に入るセシルの小さな背中を見つめながら、「結果的には、これはこれでよかったんだな」と将人はひとり頷いた。
「さあ、今度は君の番だよ」
 クリスが微笑んだ。
 将人は頷いてパジェロを降りると、階段を駆け上がり、自分の部屋のドアを開けた。
 しかしティサイはいなかった。奥のシャワールームにもいない。クリスのところに駆け戻ろうとしたとき、机の上にメモが置かれているのに気付いた。
〈お腹がすいたので、アンジェラとスナックを買いに行きます。すぐ戻ります――ティサイ〉
 アンジェラの代筆とわかる字で書かれていた。ほっとしたのものつかのま、ならば彼女が戻ってくる前に汗と魚のにおいを洗い落としてしまおうと、将人は慌ててシャワー室に駆け込んだ。
 シャワーを終えて、壁にネジ止めされている扇風機の風を浴びながら、ここ数年でいちばん伸びたに違いない坊主頭の髪を乾かしていると、小さなノックに続いてドアが開いた。
 ティサイだった。
 小さい窓がひとつあるだけの部屋は薄暗かったが、彼女の笑顔は、まるでスポットライドで照らしたかのように明るく輝いて見えた。
 ネイビーブルーのタイトなナイキのTシャツに、小ぶりな乳房がふたつ、控えめに突き出している。まだ新しいカーキ色のホットパンツから伸びた二本の長い脚の先には、エメラルドグリーンのパンプスが艶やかに光っていた。
「グッドイブニン!」
 言って、彼女は額に落ちた髪をかき上げた。二つの大きな瞳があらわになる。
「ひさしぶりだね、ティサイ」将人は、自分が辰三に負けず劣らずのだらしない笑みを浮かべたのがわかった。「土曜日のこと、パタワリン・アコ」
 このときのためにノノイから教えてもらった現地語で、将人は〈ごめんね〉と言った。
「オーケー、オーケー」
 ティサイはタオル一枚を腰に巻いているだけの将人に飛びついてきた。
 彼女は将人の胸に深く顔をうずめ、そこにある敏感な部分に小さく舌を這わせた。
 将人がびくりと飛び上がると、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
 思う前に、将人は彼女の唇に吸い付いていた。あまりにいきなりで、微笑んだままの彼女は口を閉じる暇もなく、二人の歯がカチリと音を立ててぶつかる。
 そんな音すら、心地よかった。
 彼女はいちど顔を離し、将人をまじまじと見つめてから、両手で将人の頬を挟むと、思い切り引き寄せて、吸い付くようなキスを浴びせてきた。
 腰に巻かれたタオルが床に落ちた。
 そのとき、ドアが開いた。
「ショウ、私は今からノーラを迎えに行ってくるから――」
 ノックもせずに部屋に入ってきたクリスは、そこまで言って、あんぐりと口を開けて固まった。
 全裸の将人は、ティサイを抱きしめたまま、片手をテーブルの上に伸ばした。部屋の鍵を取ると、クリスに向けて放った。
 クリスは口を開けたまま、両手で鍵を受け止めた。
「すまないけど、外から鍵をかけてくれない? あと、タタイ・アナックへの出発を三十分ほど遅らせて欲しいんだ」
「まったく、こういうことを始めるなら、先に鍵を掛けるべきだよ」
「パタワリン・アコ」
 将人が言うと、ティサイとクリスが同時に声を上げて笑った。
 クリスはかぶりを振りながら、「三十分で終われば良いけどね」と言って出て行った。
 ドアが閉じられ、カチリ、と鍵のかかる音がした。
 その音を合図にするかのように、ティサイは将人の首に両腕を絡ませ、お互いの体を預けながらベッドに倒れ込んだ。


 それから一時間後。
 将人たちは〈タタイ・アナック号〉の甲板にいた。
 揺れこそしないものの、数メートル先の船首に打ち寄せる波の砕ける音と、それに続いて舞い上がる塩辛い水しぶき、そしてときおりフェンスを乗り越えて足元まで流れ込んでくる海水のおかげで、本当に船の甲板の上にいるのだという錯覚を起こすのに、サンミゲルの助けは必要なかった。
「そうやって口元に手を当てていると、あなたって、どこかの俳優みたい」
 ノーラが、サンミゲルでほんのり赤くなった頬を隠そうと頬杖をついていた将人の横顔を、まじまじと見ながら言った。
「ちょっとノーラ、いくらなんでもそれはお世辞がすぎるよ」
 将人は慌てて頬杖を外した。
「ティサイだってきっとそう思ってるわよ」
 ノーラがティサイに首を傾げて見せる。
 オーオ、と頷きながら、ティサイは将人の腰にまわした腕にぐっと力を込めた。じっとしているだけで額から汗が流れ落ちるほど蒸し暑いというのに、彼女のぬくもりが、将人には真冬のコタツのように心地よく感じられる。
「ここにきみを連れてきたいと、ずっと思ってたんだ」
 言って、将人は胸元のティサイに微笑んだ。
「本当に素敵なところだわ」
 ティサイより先に、ノーラが答えた。
「このデッキはね、この店のファーストクラス客専用なんだ。日本人のショウが頼んだからこそ、通してもらえたんだよ。私たちだけだったらまず無理だろうね」
 言いながら、クリスは船縁のフェンスにくくりつけられている、〈タタイ・アナック〉と白文字で書かれた、こげ茶色の厚い板に手を伸ばした。
「もしここが〈タタイ・アナック号〉のファーストクラスシートだとすれば、僕はさしずめ、ギャンブルで乗船券を手に入れて、場違いなところに迷い込んだジャック、というところかな」
 将人が言うと、幸いなことに三人とも声を上げて笑った。〈タイタニック〉の映画を見たことがあるのだ。
 ウェイトレスが三本のサンミゲルを運んできた。ティサイは将人の前に置かれたサンミゲルを取り上げると、まるでハルディンで初めて会ったあの晩のように、ビンの口をナプキンで丁寧に拭いて、コースターの上に戻す――のかと思いきや、自分でごくごくと飲み干した。
 半分ほどまで減ったサンミゲルを将人のコースターに戻すと、ティサイは将人の呆気に取られた顔をしばし見つめてから、腹を抱えて笑い出した。
 将人も笑い、クリスもノーラも笑った。
 そのとき将人は、少し離れたデッキ席にいる、身なりのいい中華系のカップルが、横目でこちらを見ながら、顔を寄せてこそこそ話しているのに気付いた。
 住民の誰が誰なのかを知り尽くしているアレンの人たちだけに、彼らが何をこそこそ話しているのか、おおかたの予想はつく。
 将人は彼らに向けて、まるで昔からの知り合いかのように手を振った。きょとんとした顔で手を振り返してきた彼らの顔がおかしくて、将人はひとり大笑いした。なぜか彼らも笑い返してきた。
「それでジャック、そろそろ本題に入るとしようか、酔っ払ってあたまが回らなくなるまえに」
 クリスが言った。
 将人は頷いて、サンミゲルをコースターの上に戻した。
「そうだったね。実は、今夜はとても大切な話があって君たちに集まってもらったんだ。これから先、こんな楽しい日を何度も迎えるためにね」
「オーオ」
 ティサイとノーラが同時に答えた。
 将人はティサイに向き直り、その両手をぐっと握り締めた。
「でも、その前に言わなきゃいけないことがある。僕は、水曜日にサンパブロに戻ることになった」
「水曜――」
 そうつぶやいたティサイの顔が、微笑んだまま固まった。
「次に僕が戻ってくるのは――」迷ったが、将人は事実を率直に伝えるべきだと思った。「――正直、いつになるかわからない。実質的に僕の雇い主である辰三さんは十月に戻ってくる予定だけど、そのとき、僕が一緒だとは限らない」
 クリスはティサイに通訳しながら、「いったいなぜ?」と何度も聞いた。
「わけはあとで説明するから」
 将人は答えた。
 レックスが関内の資金不正流用をミナモト水産に告発しようとしていることは、いくらクリスが相手でも話すことはできないし、たとえ話したところで、なぜそれによって将人が辰三の通訳を外されることになるのかという理由を、短い時間で上手く説明できるとも思えなかった。
「今夜話すべきことは、僕がいつアレンに戻ってくるかじゃない。僕がどうやって日本からティサイを支え続けるか、その方法なんだよ」
 ティサイが、ぎこちない笑みを浮かべた。
「〈ティサイ援助計画〉って勝手に名付けたんだけど、それを実現するためには、ここにいる四人全員が、それぞれの役割を自覚して、仲間を信頼して、努力して、助け合わなければならないんだ」
 将人以外の三人が、深く大きく頷いた。
 質問にはあとで答えるから、と前置きして、将人は計画の全てを語った。内容は、昨日アルマンに話したものとほとんど同じだったが、不測の事態に備えて、ティサイにもカルバヨグの銀行で自分名義の銀行口座を開設させることにした。将人名義のキャッシュカードがクリスに渡らなかった場合は、仕送りは現金で、ブエナスエルテ社のアルマン宛に毎月郵送――橋の下に住むティサイには住所がないので――するつもりだが、AMPミナモトからの出向の身であるアルマンはいずれサンパブロに呼び戻されることになる。そうなると仕送りはクリス宛に送るしかなくなるが、まず間違いなくライアンやリンドンの検閲に引っかかり、取り上げられてしまうだろう。だからこそ、ティサイに自分名義の口座を開かせて、彼女に直接送金できるような環境も整えておきたかった。彼女名義の口座に直接振り込めば、後見人であるクリスを経由しないため、彼のつける家計簿の信頼度は落ちることになるが、人生を変えたい、と言ったティサイの言葉が本物ならば、結果は良いほうにしか転ばないはずだ。
 将人はティサイの髪をなでた。
「この計画はね、週に千ペソを渡す代わりに、ハルディンで働くのを辞めてくれ、と頼んだときとはわけがちがうんだ。僕の仕送りを足がかりにして、君とノーラの二人が、力を合わせて、サリサリを営んで、売春とは無縁の、普通の暮らしを手に入れることを目標にしてるんだよ」将人は、ティサイからノーラへ、ノーラからクリス、そしてティサイへと視線を移した。「目標を達成するまでには、長く地道な努力が必要になるだろうけど、僕は四年も五年も仕送りを続けるつもりはない。それはね、君たちなら、二、三年のうちに、必ず目標を達成してくれると信じてるからだよ」
 ティサイがぐっと唇を結んで、将人の目を見据え――こくり、と頷いた。
 ノーラも、クリスも、続いて頷いた。
「サンパブロに戻る前に、ティサイが当面のあいだ生活できるだけの金を置いていくよ。クリスには、彼女がその金をどう使ったかについて、練習も兼ねて、家計簿をつけてほしいんだ。会計報告書みたいなものかな。何週間かしたら、それをファックスで日本にいる僕のところへ送って欲しい。本格的な仕送りを始めるのは、それからになると思う。クリスが無事にキャッシュカードを受け取れるかどうかっていう不確定要素もあるからね」
 毎月の仕送り額をいくらにするか――クリス、ノノイ、アルマンの三人から聞いたアレンでの平均的な衣食住にかかる費用から、おそらく八千ペソから一万ペソが適当だろうと将人は見積もっていた。ティサイとノーラ、そして彼女たちの子供が一緒に住むのに――将人がいつか訪れた場合にも――十分な広さのある、しっかりした作りのニッパハウスの家賃と、サリサリを開くための貯蓄も含めた額だ。
「サリサリは、君たちが娼婦だったと知る者がいない、どこか遠くの町で開いて欲しいと思ってるんだ」
 アルフォンソが二度とやってこないほど遠くのね、と将人は頭の中だけで続けた。
 ティサイが、クリスの通訳を通して話し始めた。
「わたし、ずっと願ってたの。娘がね、自分の母親が何の仕事をしているのかわかるようになるまえに、娼婦を辞めたいって。だから、それまでにお金を貯めて、普通の仕事を見つけて、娘を私立の学校に行かせたいって。でも、現実はそんなに簡単にはいかなくて。きっとわたしはこれからも娼婦を続けて、娘も息子みたいに、母に預けることになっちゃうんだろうなって思ってた」
 裸電球の明かりでオレンジ色に染まったティサイの横顔を見つめながら、将人はため息をもらした。ほんの少しメイクするだけで、三津丘の新聞に入る折り込みチラシのモデルなら、簡単に打ち負かすことができると思えた。
「奇跡は起きるものさ」クリスが言った。「まだ十分に間に合う。そうだとも、ノーラの娘と一緒に私立へ行かせよう。二人一緒なら励みになるぞ、どっちがいい成績を取れるか競争だ」
 ノーラへの気遣いを露骨に会話に織り込むクリスの話術が滑稽で、将人は思わず笑った。
「子供たちだけじゃなく、僕たちも勉強しないとね」ティサイに向き直り、将人は微笑んだ。「日本でワライ語の教材が手に入るかわからないけど、タガログ語のものならあるかもしれない。いずれにしても、僕はこの国の言葉を勉強するよ。だから君にも、英語を勉強してほしいんだ」
「日本語はいいの?」
 頷きながら、ティサイが言った。
「もちろん、君が頑張れるなら――」
 僕は将来、君を日本に呼んで一緒に暮らしたいと思ってるからね――と将人がためらわず言うためには、まだサンミゲルが十本ほど足りなかった。
「――勉強してほしい。でも、こっちには日本語の教材があるの?」
 あるよ、マニラやダバオにはね、とクリスが答えた。
 将人は、サンパブロに戻ったら、カルロかエミリーに聞いてみようと思った。UP卒で日系企業に勤める二人なら、おそらく持っているだろう。
「マイコも言ってたけど、日本って、すごいところなんでしょ?」
 ティサイが聞いた。ノーラとクリスも、身を乗り出して、将人が答えるのを待っている。
 確かにね、と将人は微笑んだ。
「でも、僕の住んでいる〈ミツオカ〉ってとこは、田舎の港町なんだよ。港町とはいっても、アレンとはだいぶ違うけど」
「どう違うの?」
 ノーラが聞いた。
「そうだな、例えば停電は、落雷とか台風とか地震とか、よっぽどのことがなければ起きない。ほとんどの道路はアスファルトで舗装されていて滑走路のように平らだし、そこらじゅうに二十四時間営業のコンビニエンスストアがある。だいたいどこの家にも電気ガス水道が通っていて、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、エアコン、それに固定電話も水洗便所も当然ある。若者に限らずかなりの人たちが携帯電話を持ってる。アレンの人たちから見ればすごいことだと思うかもしれないけど、僕たちにとっては、ごくごく普通のことなんだよ」
「とても田舎の話をしているとは思えないね」
 クリスが笑った。ティサイもノーラも、そこに日本の映像が映し出されているかのように、星いっぱいの夜空を眺めている。
「日本に来てみたい?」
 将人はティサイに聞いた。
「オーオ」ティサイは目を見開いて頷いた。「連れて行ってくれるの?」
「パスポート、持ってるの?」
 ないわ、と即答した彼女の困ったような顔がおかしくて、将人は笑った。
 ティサイは微笑んで、将人の肩に頭をもたせかけた。

 それから一時間ほど、計画の内容をおさらいした。何度も繰り返すうちに、全員がほぼ完璧に、計画の内容と、各自の役割を空で言えるようになっていた。
 十時過ぎ、将人たちは惜しみながら〈タタイ・アナック号〉を下船した。
 帰り際、将人はすっかり顔なじみになったウェイトレスに、少し多めのチップを手渡した。
「明後日、ルソン島に戻るんだ。いままでいろいろとありがとう」
 旅行が中止になったあの土曜、ティサイの飲食代の前払いと伝言を受けてくれたウェイトレスだった。
「フィリピンに来たら、また寄ってくださいね。そのときを楽しみにしてますよ」
 僕もね、と将人はウェイトレスに別れを告げ、ティサイと手を取り合って、真っ暗闇のメインストリートで唯一、煌々とした照明で浮かび上がっている白い建物をあとにした。

 パジェロがモーテルの駐車場に入った。
 ヘッドライトで浮かび上がったイボンは、リボルバーの入ったホルスターを腰に巻き、辰三の部屋の向かいに置いた椅子に、腕組みして座っていた。
 将人がティサイと手をつないで歩み寄っていくと、彼は眠そうな目をこすりながら、「おにあいのカップルだね」と微笑んできた。
「それにしても、タツミさんはげんきだよ。なんかいも、なんかいも、すごいよ、セシルがこわれてしまうね。ついさっき、ようやく、しずかになったんだ」
 将人はあやうく大声を出して笑うところだった。
 アンジェラがまだカフェテリアにいたので、クリスとノーラのために、空いていた二階の隅の部屋を、八十ペソで借りることにした。
「今夜は夜空の下で愛し合うつもりだったんだよ、ありがとう」
 言って、クリスはノーラにキスすると、べったりと体を寄せたまま、部屋の中に消えていった。
 娘をサンタ・マグダレナの母親のところに預けているティサイは、間借りしている家に戻る必要もなく――満身創痍の前夫が寝ているだろうことは別にして――将人の部屋に泊まった。

 何度も何度も愛を交した。全身のさまざまな部分からあふれだした液体が、マットレスの模様が透けて見えるほどシーツを濡らした。
 将人の胸で寝息をたてているティサイの体は、汗で湿り、壁の扇風機の風で心地よく冷やされながらも、もう何度も果てた将人をもう一度奮い立たせそうな、扇情的な香りを漂わせていた。
 三津丘に来れば、君の過去を知る人は誰もいないんだよ――。
 小さな寝息を立てている彼女の髪を、いつかのようにそっと撫でながら、将人はそうつぶやいた。


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