Locker's Style

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『橋の下の彼女』(44)-1

1999年7月28日(水)

フィリピン・アレン――カルバヨグ――マニラ

 日付が変わって午前一時。
 アンジェラズ・インの一階のベンチで、将人はティサイと寄り添って座り、星がひしめき合って輝いている夜空を見上げていた。
 最後の愛を交わしたあと、将人は当面の生活費として、彼女に五千ペソ渡した。日本に帰ってから実際に仕送りを始めるまではいろいろと時間がかかるだろうし、手渡しか郵送かに限らずクリスへのキャッシュカードの受け渡しで何か問題が起きればアメリカドルの現金を郵送することになるが、そうなればさらに数週間、ひょっとすると一、二ヵ月はかかってしまうだろう。それを見越しての額だった。
 最初、彼女は手を突き出して受け取りを拒んだ。しかし将人が「人生を変えたいんだろ」と強く言うと、ありがとう、と噛み締めるように言って、それでも何度かためらってから、ようやく受け取った。
 もたれかかる彼女の体から伝わる暖かさと、髪を撫でるたびに漂うシャンプーの香り――ときおり重ね合わせる唇と舌の柔らかさ――絶対に忘れるものかと、鋼鉄の蚤で石に刻印を掘るように、将人はその感触を心に深く刻み付けていた。
 レックスたちが明け方に迎えに来るそのときまで、ずっとこのままでいたい――辰三やライアンにどんな目を向けられようともかまわない――できればカルバヨグまで一緒に連れて行きたい、そして空港で見送ってほしい――。
 そう将人は本気で思ったが、しかしそんなことができるはずもなかった。

 午前二時を過ぎた。モーテルの部屋で過ごしたあと、ノーラをパジェロで家まで送り届けたクリスが、ぐったり疲れたような笑みを浮かべて戻ってきた。
 それから三十分ほどして、イボンも上機嫌で戻ってきて、三百ペソで見事に娼婦を抱いてきたと自慢げに語った。将人は半信半疑でその話を聞きながら、腰に巻いていたホルスターを外して彼に返した。
 将人とティサイの邪魔をしては悪いと思ったのか、クリスとイボンは、その後は二人でパジェロの中にこもり、楽しそうに話していた。

 三時を過ぎた。そろそろ辰三を起さなければならない時間だ。将人が時計に目をやったとき、ティサイがつぶやくように言った。
「みおくるより、みおくられたい――」
 彼女は、将人の額に浮かんだ汗を指でそっとぬぐい、やさしく微笑んだ。
 見送るより、見送られたい――。
 それは将人も同じ気持ちだた。
 彼女の手を取り、将人はゆっくりと立ち上がった。パジェロに歩み寄り、窓をノックする。話し疲れてうたた寝をしていたクリスとイボンがはっと飛び起きた。
 ティサイを家まで送ってほしい、と将人は頼んだ。
「いいのかい?」
 クリスが首を傾げる。
 いいんだ、と将人は答えた。
 ティサイも頷く。
 車に乗り込もうとするティサイを引き寄せ、将人は彼女を思い切り抱きしめた。
 そして、強く、長い口づけをした。
 ゆっくりと体を離す。握り締めた手だけは、しかし、なかなか離すことができなかった。手を離したら、彼女がまたハルディンに戻ってしまうような気がしたのだ。
「わたし、だいじょうぶ。しんぱい、いらないよ」
 将人の心を見透かしたように、ティサイは言った。
「わかってる、もちろんわかってるよ」
 将人は微笑み返した。
 彼女の手を握り締めたまま、将人はなかなか次の言葉が言えずにいた。
 クリスが、そろそろレックスたちを会社に迎えに行かないと、と言った。
 握り締めていた彼女の手を離すと、将人はパジェロの助手席のドアを開け、乗り込む彼女の背中にそっと手をあてがった。
 ティサイは助手席の窓から両手を突き出して将人を抱き寄せると、唇の端に口づけをした。
 パジェロが駐車場からゆっくりと走り出した。
 その横を、将人は追っていく。
「あなたのこと、まいにち、おもうから、まいにちね」
 輝くような笑みを浮かべて、開いた窓越しに彼女は言った。
 ずっと言うつもりだったことを言おうとしたが、声が出てくれない。
 そのとき、将人は自分が泣いていることにようやく気付いた。
 言葉の代わりに、できる最高の笑みを浮かべて、将人は彼女に何度も頷きかけた。彼女のきれいな顔を目に焼き付けたいのに、あふれ出す涙が容赦なく視界をゆがめる。
「またね――」
 ティサイが手を振った。
 パジェロが道路に出た。腕がちぎれそうになるほど手を振ったが、車は追わなかった。くしゃくしゃに泣いている顔を、これ以上彼女に見られたくない――。
 短くクラクションを鳴らし、パジェロは南に向って速度を上げた。
 やがて赤いテールライトが、街灯ひとつないアジアンハイウェイの先に見えなくなった。
 将人は手を振り続けた。
 君の人生は僕が必ず変えてみせる――そしていつか、日本で一緒に暮らそう――。
 ついに言えなかったその言葉を、心の中で叫びながら。

「いってしまったね」
 道端で立ち尽くしていた将人の肩に手をかけながら、イボンが言った。
「でも、またすぐに、あえる。そんなに、なかなくて、いいよ」
 言いながら、彼も目尻を拭っていた。
「君まで泣かなくたっていいのに」
 将人は微笑んだ。笑ったせいで、さらに数滴の涙が頬を伝った。
「だって、ティサイ、がんばってたよ、ショウのまえで、なかないように。わたしには、わかった。すごく、せつなくなった」
 将人もイボンの肩に手をかけた。
「血なまぐさいことは好きじゃない。でも、もしアルフォンソがティサイを娼婦に戻すような真似をしたら、僕は君を雇うと思う」
 イボンが嬉しそうに微笑んだ。
「だいじょうぶ。アルフォンソ、アレンには、もうにどと、もどってくること、できないよ」
 頷きながら、将人はティサイの右手だけでなく、左手にもあった、小さな三文字の刺青のことを考えていた。
 〈A&J〉――それが何を意味しているのかは、あまりにも明らかだった。
 アルフォンソ(Alphonso)とジャニース(Janeath)――。
 麻薬中毒の前夫は、彼女が間借りしている家で、今も彼女の看病を受けている。フィリピンでは実質的な離婚に相当する合法的別居が成立しているとはいえ、彼らには、十代のころから一緒に過ごした長い時間と思い出、そして二人の子供がいる。それだけに、何があっても決して断ち切れない硬い絆が――それが愛情と呼べるものなのかまでは、将人にはわからないが――二人のあいだには、今も存在しているに違いないと思えた。
「ショウ、どうかしたか?」
「いや、なんでもない。ただ――」将人は、目尻に溜まった涙を乱暴に拭った。「アレンの人たちって、同じ年齢の日本人よりも、何倍も大人なんだなって思ってね。僕なんか、逆立ちしてもかなわないよ」
 二十歳前後の日本人の若者が、コンパやゲームや車やファッションやスポーツに夢中になり、衣食住を親に頼って気ままな生活を送るのに、同じ年齢のアレンの若者たちは、すでに結婚して子供もいて、擦り切れるまで着古した服を着て、明日の飯どころか、今日の飯を買う金もやっとの稼ぎで、それでもなお、笑顔を絶やすことなく生きている。
「おとなじゃない、ただのびんぼうだ、なまけものだよ」イボンが笑った。「それに、ショウはさかだちしても、せがたかいだろ、かなわないよ」
 将人も笑った。
「君たちは、きっと僕の何倍も何十倍も、友情や愛情を知ってる。うらやましいよ」
 電車やバスに乗った途端に携帯電話をいじくりだす日本の若者たちと、ジープニーで目的地に着くまでのあいだ、乗り合わせたほかの客と、気さくな会話を楽しむフィリピン人たちの、いったいどちらが人間らしく先進しているといえるだろうか。
「そうかもしれない」イボンは答えた。「おとことおんな、かぞく、ともだち。ほかに、やること、ないからね」
 家族や、友人や、恋人よりもほかに、やることをいくらでも見つけられる日本人は、果たして彼らより恵まれていると言えるのだろうか――イボンは冗談のつもりで言ったようだが、その言葉は、将人の胸に突き刺さるように響いた。

 十分ほどして、ティサイを送り届けたパジェロが戻ってきた。Gショックを見ると、三時三十分になろうとしていた。目覚ましで起きられたのか、セシルが起こしてくれたのか、辰三の部屋には少し前から明かりがともっている。
 クリスが将人の座るベンチの方へやってきて、隣に腰掛けた。
「彼女、だいじょうぶだった?」
 将人が聞くと、クリスは小さく頷いた。見れば、彼まで涙を流している。
「ティサイのやつ、ショウが見えなくなった途端に、『ショウが帰っちゃう、ショウがいなくなっちゃう』って、声を上げて泣き始めたんだ。なぐさめようとしたんだけど、ぜんせん泣き止まなくてね。結局、私まで一緒になって泣いてしまったよ」
 クリスらしいな、と将人は彼の肩に手をかけた。そして、聞こうと思っていたことを聞いた。
「一つだけ、君に聞きたいことがあるんだ。正直に答えて欲しい」
「なんだい?」
「ティサイは、アルフォンソのことを、まだ愛しているんじゃないか?」
 鼻水をすすりあげると、クリスは将人に厳しい顔を向けた。
「とにかく、彼女を信じてあげてくれよ。フィリピン人は、困った人を見過ごせないんだ。それに、合法的別居をしているとはいえ、アルフォンソは彼女の子供たちの父親なんだ。こればっかりは何があっても変わらない。だけど、これだけははっきり言える。ティサイは、ショウのことを心から愛してるよ。昔から彼女のことを知っている私だから、彼女のしぐさや態度や言葉使いを見れば、はっきりとそうだってわかるんだ」
「でも、愛にもいろんな形があるから――」
「ショウ、いまさら君がそんなことを言い出したら、君を信じて人生を本当に一からやり直そうとしている彼女はいったいどうなるんだ? 彼女がまたハルディンで働くよなことになってもかまわないのか?」
「いいわけないだろ!」将人は声を荒げた。「ただ、僕はただ――」
 ティサイと結婚し、二人の子供ももうけ、そしてその名前のイニシャルが今でも彼女の手に刻まれている男に対して、嫉妬しているだけなんだ――。
 しかしそんなことを口に出して言えるわけもなく、ごめん、と将人はクリスに詫びた。
「心配なんだよ、ティサイの心からアルフォンソがいなくならない限り、彼女の心も娼婦から抜け出せないような気がしてさ」
 クリスは将人に向き直り、Tシャツの袖をまくりあげて右腕を肩まであらわにした。
「私は君に誓う。もしティサイがまたハルディンに戻るようなことになったら、私はこの右腕を切り落とす」
 クリスの顔には、本気でそうする、という覚悟がにじみ出ていた。
 イボンに、クリスはつり銭をごまかす、と聞かされてから、もしかしたらティサイとクリスがグルなのではないかと、頭の片隅で、わずかながらにも疑問を抱いていてしまったことを将人は心から恥じた。
「疑ってすまなかった」
 二つの意味で詫びると、将人はクリスと両手を組み合わせ、深く頷き合った。

 レックスたちを迎えにパジェロが走り去ってから一分ほどして、辰三が、ポロシャツとスラックスに革靴という、サマールにやってきた日と同じいでたちで部屋から出てきた。しかし髪型だけはいつも通り、寝ぐせで後頭部がぺったりと潰れたひまわりになっていた。
「このままサンパブロに寄らねぇで日本に直行できたら最高なのにな」
 将人に歩み寄ってくると、辰三はタバコに火をつけながら、そう言って苦笑いした。
「なんだか、今からまた別の外国に行くような、変な気分ですね」
 将人が言うと、辰三が、そのとおりだな、と笑った。
「飛行機は何時だっけ?」
「十一時四十分って聞いてます。あくまで予定でしょうけど」
「マニラまでは二時間もかからねぇから、サンパブロには、夕方には着いちまうな」
「晩酌の時間はたっぷりありますね」
 辰三がうんざりしたように首を振った。

 それから二十分ほどして、レックスたちを乗せたパジェロが戻ってきた。
「おいおい、めずらしく時間ぴったりじゃねぇか」
 辰三が言った。Gショックを見ると、確かに四時きっかりだった。
 レックスが降りてきて、将人と辰三に手を上げた。
「準備はいいですか? セキウチさんが、首を長くして二人の到着を待っていることでしょう」
「もうマニラ空港で待ってるかもしれねぇぜ、なんてったってあの人は異様な朝型だからな」
 辰三が言うと、レックスが、それはおおいにありえる、と手をたたいて大笑いした。
 将人の脳裏に、マニラ空港の到着ロビーで、ラウルの脇でむすっと立っている関内の姿が浮かんだ。
 背筋がぞくっとする。
 サンパブロでは、資金不正流用疑惑の証拠書類をデットドロップで受け取るという、重大任務が待っている。出資者たちに対する告発が上手くいけば、GFCに不正流用された資金がブエナスエルテ社に返還され、本来なされるべきだった設備投資や従業員の増員が可能になると同時に、ブエナスエルテ社をAMPミナモトの植民地にしようという関内の目論みも崩れ去る。
 ただ、関内の資金不正流用が明るみに出たとしても、ミナモト水産やその他の出資者たちは、おそらく彼を刑事でも民事でも告訴しないだろうし、プロジェクトから外すこともないと思えた。理由は考えるまでもない、関内の代わりを果たせる人間が他にいないからだ。関内の排除は〈ミツオカプロジェクト〉の中止を意味する。レックスの言葉ではないが、リスクとゲインを考えれば、数千万円が未回収で終わるやもしれぬ事態を出資者が望まないのは明らかだ。
 そんな諸刃の刃ともいえる状況を、あの狡猾な関内が利用しないはずはない。資金不正流用の発覚などもともと予定に織り込み済みで、発覚したとしても出資者たちが何も行動を起こさないのを見抜いているのか、はたまた告発に対する対抗策、防御策をすでに万全に整え余裕で構えている、などということも大いに考えられる。
 笑顔で肩をたたき合うレックスと辰三を見つめながら、将人は内に広がった重い不安を鎮めようと、何度も深呼吸した。

 パジェロは、明かりひとつないアジアンハイウェイを南へ走り出した。助手席にレックス、後部座席の真ん中には白いワンピースのセシル、彼女を挟んで辰三と将人が座り、荷物スペースにはライアンとアルマンが寝そべっている。リンドンは、昨日の晩にジープニーをつかまえて、単独でカルバヨグに向ったという。
 振り返ったリアウィンドウの向こうはただの闇で、遠ざかっていくアレンの町を見ることはできなかった。
 車はやがて町外れの橋にさしかかった。ティサイの家は、この橋の下のどこかにある。ふと、ティサイが道端で見送っているかもしれないと、窓に顔を押し当てて外の暗闇に目を凝らしてみたが、人影は皆無だった。
 橋を通り過ぎた。その景色と一緒に、まだ胸元に残る彼女のぬくもりまで消えてしまいそうな気がして、将人は自分の胸をかばうように両手で抱いた。
「どうした? 酔ったのか?」
 辰三が心配そうな顔を向けてくる。
 大丈夫です、と将人は答えた。
 リアウィンドウの向こうで、橋が暗闇に飲まれた。
 パジェロは走り続ける。
 ティサイがどんどん遠ざかっていく――。
 気付くと、将人は音がするほど歯を食い縛っていた。
「吐きそうなら言えよ、子供じゃねぇんだから」
 本当に大丈夫ですから、と将人は怪訝な顔を向けている辰三に答えた。
 元気でね、ティサイ――心の中で、将人はつぶやいた。

 二つほど町を通り過ぎるころには、木々の合間からときおり見える水平線が、わずかに明るみを帯び始めた。
 将人とクリス以外の全員が、寝息を立てている。
 隣のセシルも、辰三の胸に抱かれて気持ちよさそうに寝ている。助手席のレックスの口を開けた寝顔が、フロントガラスに反射して見える。荷物スペースでは、アルマンの伸ばした足を、ライアンが枕にして寝ていた。
 〈マラガ〉という町名が書かれた標識を目にして少しして、将人も眠りに落ちた。

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