Locker's Style

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『橋の下の彼女』(51)

2009年6月5日(金)午後8時40分頃

日本・三津丘市近衛町・みなとや

 久保山が大あくびをした。
「そういや、あの年の九月下旬ころ、私が君に電話したの、覚えてる?」
 よく覚えています、と将人は頷いた。
「フィリピンから僕のところに何か連絡が来なかったか、という電話でしたね。てっきり辰三さんの次の訪問が決まった、また通訳をやってくれと頼まれるんだと思ったから、かなりがっかりしましたよ」
「悪気はなかったんだよ」久保山が言った。酔ったせいか、目のまわりだけが異様に赤くなっている。「社内秘だから詳しいことは話すな、と社長から言われてたものだからさ」
 あの電話で、何の連絡もありません、と答えたあと、将人は久保山から、辰三の次回の出張予定が最近は話題にも上らなくなり、本人も今年中の再訪問は無理だとあきらめかけていると聞かされた。受話器を置いたあと、アレンと自分をつないでいた最後の細い糸も、ミナモト水産正社員登用の話もなくなってしまったのだと確信したときの、胸を切り裂かれるような思いを、将人はありありと思い出した。
「つまりあのときだったんですね、ライアンがブエナスエルテ社からいなくなったのは」
 久保山は頷いた。
「ライアンが失踪してから、平日もゴルフばっかりやってたあの〈商社の人〉が、手のひらを返したように積極的に動き出したんだ。まるで、こういう事態になるのを初めから予測していて、準備周到に待ち構えてたかのようだった。社内でも、何かがおかしいぞ、という話にはなったんだけどさ、結局、うちの社長はそのときも、事態の収拾をあの〈商社の人〉に一任してしまったんだよ」
 ライアンを失ったブエナスエルテ社の頭脳となったのが、アルマンの代わりに派遣されたカルロだったのだろう。他人の干渉を嫌うリンドンがカルロと仲良くやったとは思えないが、ブエナスエルテ社は結局、UP卒のカルロなしでは立ち行かなくなったはずだ。調理責任者から一躍ブエナスエルテ社の常駐顧問とでも言うべき地位に昇格したカルロは、水を得た魚のようにその能力を発揮したに違いない。
 つまるところ、ブエナスエルテ社は、一ペソも出資していない関内の手中に、見事に堕ちてしまったというわけだ。
 将人も、久保山も、しばらく黙って酒をすすった。
「僕はあの証拠書類を、何が何でも源社長に渡すべきだったんですよね」
 将人はうなだれたままそう言ったが、久保山はもう一度、大きなあくびをしてから、首を大きく横に振った。
「証拠書類が渡ったところで、きっと何も変わりはしなかったさ。それ以前に、〈ミツオカプロジェクト〉の全てが茶番みたいなもんだったんだからね。金持ちの道楽に、君も、レックスも、ライアンも、ブエナスエルテ社の従業員たちも、運悪く巻き込まれただけってこと。悪いけどね、そんな話は古今東西、どこにでもあふれてる。それこそ、資本主義経済の国ならどこにでもね。私たち末端の人間が一生懸命働いて、会社にたっぷりと利益もたらしても、給料を日割り計算すれば一日に一万円ちょっとだよ。そのくせ、ろくに会社にも来ないような役員どもが、その何倍も何十倍もの金をかっぱらっていくんだ。あの数千万の投資だってさ、どうせ捨てるつもりでフィリピンに突っ込んだに決まってんだ。言い方を変えればね、数千万の金で、たっちゃんの実績を買おうとしたのさ」久保山がカウンターを拳でたたいた。「あのときはまだ二十五歳の若造だった君が、証拠書類を手に、うちの社長に直談判したところでさ、世間知らずの小僧が知ったようなことを言うんじゃない、って突っ返されたに決まってんだ。そういうもんなんだよ、日本の社会ってのはさ」
 慰めになっているようにも、なっていないようにも聞こえる久保山の言葉に、将人はこくりと頷いた。
 メールの着信音が鳴った。携帯を取り出す。妻からだった。
「なんだ、奥さんが早く帰って来いって?」
「逆ですよ。九時に三津丘駅まで迎えに来るんです」
 久保山が、将人の携帯の画面を横目でうかがっているので、見えるように差し出してやった。
「お熱いんだな、うちと違って」言って、久保山ははっと思いついたように手をたたき合わせた。「まさか、君の奥さんが、実はその〈ティサイ〉です、なんてオチがある?」
 そんな可能性もありえたんだよな、と将人はしばし空想にとらわれた。
「ちょっと、どうなの? じらしてないで、答えてよ」
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」
 将人が頭を下げると、なーんだ、と久保山はふてくされたような顔になった。
「クリスから電話があったのは、あとにも先にも、あれっきりでした。ティサイからは結局、一度も連絡がありませんでしたよ。電話だけじゃなく、手紙も――」
 ティサイは恐らく、将人の彼女に対する恋心が、永続的なものではなく、旅先で燃え上がった一時的なものだと見抜いていたのだろう。
 そして、もしかすると彼女自身の、将人に対する気持ちも同じだということに――。
 結婚して、娘ができた今だからこそ、あのときの彼女の気持ちを、将人はわが身のように感じることができる。ティサイは、アルフォンソのことをずっと愛していたのだ。そして、いつか彼が薬物中毒から立ち直り、また家族一緒に仲良く暮らせる日を夢見ていたに違いない。その夢への足がかりを与えようとしていたのが、将人だったのだ。
 久保山が会計を頼んだ。主人が出てきて「今日はずいぶん飲んだね」と言って奥に引っ込んでいった。
「そのティサイって子、今もフィリピンのどこかで、きっと元気に生きてるよ。私だって、君だって、こうして生きてる。だから難しいこと考えないでさ、これで良しとしようじゃないか。レックスや、あの〈商社の人〉みたいに、死んじまったら、何もかも終わりなんだから」
 将人は顔を上げ、目を瞬いた。
「関内さん、亡くなられたんですか?」
 久保山は答えようと口を開いて、代わりにまた大あくびをした。
 店主が戻ってきて、伝票を差し出した。将人が受け取ろうと手を伸ばすと、久保山が乱暴に払いのけた。
「ここは私が払うから」
 久保山は伝票を見もせずに、一万円札を二枚、ブランド物の財布から抜き出して、主人に放り投げた。
「いつもこうなんだ、もう慣れたけどさ」
 主人は苦笑いしながら、床に落ちた札を取り上げて、レジの方へ歩いていった。
「死んだよ、あの〈商社の人〉」
「病気ですか?」
「殺されたんだ」
「殺された?」
 将人が身を乗り出すと、久保山は薄ら笑いを浮かべた。
「あの人の会社が倒産してから一年くらいたったころかな。マニラでね、日本人が銃殺されたんだよ。犯人はね、走行中の車の助手席から、歩道を歩いていた日本人に向けてピストルを発砲したんだ。何でも、六発発射して全弾命中だったらしいよ。間違いなくプロの仕業だって、新聞は書いてたね」
「その日本人が、関内さんだったと?」
「おっと、そこまではわからない。新聞には、殺されたのが〈セキウチ・ユキヒロ〉という、六十歳前後の日本人、としか書かれていなかったからね。ただ――」
 そこで、主人がつり銭を持って戻ってきた。久保山が、追い払うように手を振った。
「――目撃者の証言によると、助手席から突き出された二本の腕には、刺青がびっしり入っていたそうだよ」
 イボンだ――。
 だとすれば、雇ったのは、レックスの死の復讐に燃えたライアンか?
 そう考えるのは、空想が過ぎるだろうか?
 だが、彼ら以外の誰が、殺し屋を雇ってまで、関内の死を望むだろう――。
「なんだか、気分が悪くなってきました」
 血まみれで路上に倒れている関内の死体を想像して、将人は本当に戻しそうになった。
 久保山は神妙な面持ちで立ち上がった――が、将人の顔をのぞきこむなり、いきなり腹を抱えて笑い出した。
「勧善懲悪とはまさにこのことだよ。君もこれですっきりしただろ?」
「笑える話じゃありませんよ」
「こりゃ意外だね、てっきり君はこのニュースに喜んでくれるとばかり思ってたのに」
 将人はかぶりをふって、久保山より先に店を出た。慌てて後から出てきた久保山は、暖簾をくぐるなりぐらついて、皮一枚でつながっていた赤提灯にもたれかかり、見事に引きちぎってしまった。
「ごめんごめん、柏葉君、僕が悪かった、謝るよ」むき出しになった提灯の裸電球のまぶしさに悪態をついてから、久保山は将人の肩に手をかけた。「それよりさ、君の奥さん、どんな人なの? なれそめは?」
 将人は、反対車線の道端に止まっていたタクシーに手を上げた。
 タクシーが方向転換してやってくると、久保山を後部座席に押し込んで、運転手にだいたいの行き先を告げ、つりはとっておいて、と五千円札を渡した。
「悪いね、柏葉君。またさ、ときどき一緒に飲もうよ」
「よろしくお願いします。あと、辰三さんにも、お体の具合がよくなったら、ぜひお会いしたいと伝えてください」
 だが久保山はすでに将人の言葉を聞いておらず、運転手に、その足取りからは想像もつかないほどしっかりした口調で、自宅の場所を詳しく説明していた。
 ドアが閉じられ、タクシーが走り去った。
 携帯が鳴った。妻からだった。
『駅に着いたけど』
「ああ、今からそっちに向うとこ。千夏はどうした?」
『助手席でぐっすり。家出るまえは、はやくパパ迎えにいこうよっておおはしゃぎしてたのに』
 今年で三歳になる娘の寝顔を思い浮かべて将人は微笑んだ。
『それより、あんた今、どのへんなの?』
「近衛町」
『じゃあ、そっちまで行こうか?』
 頼むよ、と言いかけて、将人はやめた。
「少し歩きたい気分なんだ」
『ちょっと、待たされるほうの身にもなってよね』
 まともに歩いたら、ここから三津丘駅まで三十分はかかる。
「じゃあさ、途中で落ち合おうか?」
『途中?』
「そう、お前が車でこっちに走って、俺がそっちに向かって歩いて、ちょうどすれ違うあたり」
『じゃあ、夕陽町のへんだね』
「昔、お前が店やってたとことか、どう?」
 電話の向こうに、甲高い笑い声が響いた。
『あんたどんだけ飲んだの? 声もしゃべり方も、なんだか若々しくなっちゃってさ』
 〈ラ・サラ〉とスナック〈さちこ〉のあったあの一角は、今では巨大なパチンコ店の駐車場になっている。
「なあ――」
『なに?』
「このまえの話だけど――」
『ああ、あれならもういいよ。あんたの仕事のこと、あんまわかってなかった私も悪かったし』
 三日前、将人は妻と、もう一人子供をつくるか否かで大喧嘩していた。妻は、産むなら年齢的にも今年しかないと言い張り、娘は娘で、クリスマスまでに妹が欲しいと泣きじゃくった。将人とて、息子が欲しいと常々思ってはいるのだが、今勤めている会社では、昨年、多額の外国資本が流入したをきっかけに、旧経営陣が一掃され、社外から送り込まれた新経営陣によって、情け容赦ないリストラが進行中だった。万が一、自分が解雇された場合のことを考えると、将人は妻の言葉に、どうしても首を縦に振ることができなかった。つい先月も、五十を過ぎた部長職三人の解雇に加え、将人と同じ通関部の二十八歳の若者が、通関士試験に合格していないという理由で、いきなり隣町にある系列の精肉工場へ無期限の出向を命じられたばかりなのだ。おまけに、通関部を廃止して業務をまるごと外部委託するという案が重役会議の議題に上ったという、背筋の凍るようなうわさも幾度となく耳にしている。
「――作ってみるか」
 電話越しでも、妻の息を飲む音が聞こえた。
『冗談だったら承知しないよ』
「俺がこういう冗談を言わないってこと、お前は知ってるだろ。もう十年も一緒にいるんだから」
『だけどあんた、あれだけ熱弁してたじゃない、生まれてくる子供が不幸になるかもしれないのに、なぜ産む気になれるんだ、それでも一児の母親か、ってさ』
 ひとみは、将人の口調を真似て言った。
「ずいぶんひどいことを言ったな。悪かったよ、撤回させてくれ」
『ちょっとあんた、本当に頭がどうかしちゃったんじゃないの?』そう言うひとみの口調は、しかし明るかった。『でも、もし子供できたあとで、本当に会社クビになっちゃっても、後悔しない? こづかい減っても、子供にやつあたりとかしない?』
 昨日までの自分だったら、これ以上、話に付き合おうとはしなかっただろう。
 だが将人は、代わりにこう答えた。
「バハラ・ナ――」
 うまく使えたじゃないか――そう言うノノイの声が聞こえたような気がした。
『なに?』
「バハラ――いや、なんでもない。なんとかなるさ。クビになったら、そうだな、いっそのこと、独立開業でもするか」
『下着のセールスでもやんの?』
 言って、ひとみは大笑いした。
「勘弁してくれよ」将人も笑った。「近所で駄菓子屋でも始めるさ。そうだ、船の形した、子供が喜ぶような店にするよ」
『いいじゃない、時代にそぐわなくて逆にウケるかもね。店の名前はどうすんの?』
「〈タタイ・アナック〉」
『なにそれ、変な名前。あ、千夏が起きちゃった。じゃあ、そろそろ出るから。またあとでね』
 電話が切れた。
 ありがとう、と将人はつぶやいた。
 あのとき、待っていてくれて――。
 こんなに幸せな毎日を当たり前だと思わせてくれて――。
 そして、千夏を授けてくれて――。
 今、夕陽町を歩いたら、〈ラ・サラ〉と〈すなっく・さちこ〉が、まだそこにあるような気がする――。
 とめどなく流れ始めた涙をぬぐいながら、将人はゆっくりと歩き出した。



       完


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