ひなたぼっこルーム

塩とこしょうと愛情と。

2004-01-01

新年、もうすぐ明けようとしております。昨年はお世話になりました。今年もどうぞ、よろしくお願いします。。。。

コロラドは今、12月31日の夜9時をまわったところ。あと3時間で今年も終わり。だんなの作ってくれたおいしい夕食とワインでほろ酔いになりながらカウントダウンをするのを待っている。。。。今年はお節料理に挑戦したいなぁ、とだんなにこぼしていたのだが、31日、1日、と仕事に行かなければいけないので仕事がお休みのだんなが夕食係りになってくれた。

私のだんなはとにかくお料理が上手だ。何か特別な日があると、張り切って腕をふるってくれる。3コースなんて序の口でたいていこんな夜はお腹がいっぱいなのとワインが進むような食べ物なのでほろ酔いなのとが一緒になって私を陽気にしてくれる。たくさんのお友達が今日も‘どうやってカウントダウンを過ごすの?’と聞いてきたので‘私の専用シェフが夕食を用意してくれるの。’と得意げに答えて家路についた。

家に帰ると台所でいそいそと夕食の支度をしている彼を見ると、本当に料理が好きなんだなぁ、と思う。そして、食べ物の事をとてもよく知っている。‘手伝おうか?’と聞いたのだが、‘すぐできるよ。’という返事が返ってきただけだった。-相変わらずだなぁ-そうつぶやきながら、支度ができるまで、私はこうしてコンピューターと遊ぶことにしたのだった。

日本にいた頃から、料理はあんまり得意ではなかった。台所は暑い、指を切る、やけどをする、という理由から始まって、面倒くさい、包丁を上手く使えない、おいしく作ろうと調味料を加えれば加えるほど自分の思っていた味から遠のく一方だったからだ。それでも、嫌々ながらいつのまにやら‘慣れる’ということを覚えた。

そんな時、たまたま彼の働いていたレストランで手伝うことになった。私は友達を通じて‘特別手当てがでる。’ということと、滅多に入れない高級レストランだという理由だけで参加した。それまであまり彼の仕事に興味を持たなかったのだが、さすがに一緒に仕事をするとなると少し興奮(?)していたのか、高級レストランの雰囲気に圧倒されていたのか、‘上手な料理のコツは?’と彼に聞いてみた。しばらく間をおいて、彼は‘塩と、こしょうと...愛情、かな?’とつぶやいた。その他のものはみんな付録だ、というのだ。私は少し不満だった。‘ちょっといい店で働いてるからって、生意気な事、いうなぁー、愛情、なんて、当然の事じゃない。’と胸の中で反発していた。その時、私は彼の言う‘愛情’とはフライパンに対して‘愛着’を感じるようなもの、と受け止めていたのだ。

そんな事を語りながらも着々と準備は進んだ。彼の手はまるで、何かに取り憑かれたように一心に働き続けている。彼の頭の中はめまぐるしく計画を練っている。下ごしらえは順序良くすすんでいたが、その合間にはくだらない冗談を言ったりして真剣に打ち込んでいる自分自身や、必死になって後を追っている周りのものをなごませる空気さえ作っていた。盛り付ける時、彼はまるで自分の子供に服を着せるような、優しい、丁寧な指使いで一品、一品を完成させて行った。食事はもちろん、素晴らしい出来栄えであった。。。

全てを終え、彼は何事もなかったかのように後片付けを始めていた。その背中から、彼の自信と芸術に対する誇り、そして情熱と貪欲さを私は見逃さなかった。同じように仕事をしているのに、これほどの違いをもたらすのは一体なんだろう?私は劣等感を感じた。経験からだけではない、他の、もっと何か別のものが彼を包んでいる。それは何か.....?

それからしばらくして、多分、私達は最近読んだ本の事を語り合っていたと思うのだが、彼がこう言った。

‘ネイティブアメリカン(インディアン)達が狩りをして生活をしていた頃、自分達が狩猟で得た獲物は残さず全て使い切っていたんだよ。毛皮は寒さから家族を守るために衣服や、寝床に、肉はもちろん、生きていくための食事に、骨は身を守るためのナイフや、パイプに、そして、内臓はスープや儀式のために。彼らは調理をはじめる前に獲物を囲んで儀式を行うんだ。獲物に対する、感謝と、敬意を持ってね。’

その時だった。彼が言っていた‘愛情’は‘愛着’とは違う事だと、はっきり、理解できたのは。これは以前からパトリックワーが引退表明した時などにも書いたことだが、-感謝と敬意-、それが彼のいう料理に対する愛情だったのだ。アメリカにいると時々、嫌になる時がある。マクドナルドや、KFC、食べ放題がどこにでもあり、食べ物が生き物から与えられた命だ、と言うことをすっかり忘れた商売が幅を聞かせていて、また、それを謳歌するかのように無駄な食べかたをする人間のあまりに多い事か。時間がないんだ、家族が多いんだ、収入がないんだ、と、理由は様々であろうけれど、自分が生きるために、犠牲になった命をこんな風に扱っていいんだろうか?と疑問に思う私はまだ、ナイーブなんだろうか?

でも、それからだった。私の料理に接する態度が少し変ったのは。市販されているチキンスープを使う前に骨付きのチキンを買って、そこからスープを作る。野菜のストックも、人参やセロリ、玉ねぎなどの端や皮を捨てずにそこから‘だし’を取る。缶詰や冷凍のものに比べてずっと手間もかかるし、面倒臭いけれど、良質なのは確かである。今の風潮として、いかに手軽で、便利に早く料理ができるかが基本になっているようだが、(そして、その風潮に乗り遅れまい、としていたのは何を隠そう、この私なのだが。)あの日、私は下準備から、出来上がるまでの過程全てが料理に対する愛情なのだ、と学ぶことができた。そして、今以上に私は日本人でいて、よかったな、と思うことが食卓でよくある。それは‘いただきます。’‘ごちそうさまでした。’と声を出して、感謝する、という習慣があるからだ。私は幼い頃からずっと、この‘いただきます。’‘ごちそうさまでした。’は食事を用意してくれた祖母や、母に対しての言葉だと思っていた。でも、今はもちろん、作ってくれた人に敬意を払うためではあるが、その向うの命にも.....‘私を生かせてくれてありがとう。’ほんの一言だけど、彼らにも‘感謝と敬意’を示すことができるようになった。

最近になって、‘あんたが作る料理はおいしいね。’とお褒めの言葉を聞くようになった。‘何を使っているの?’と聞かれることも少しずつ増え始め、私は少し戸惑いながら一応使った調味料を教えるのだが、たいがいの場合、‘え?それだけ?’と疑われる。私は苦笑いしながらも、それでもちょっぴり自信を持って、‘そうよ、塩と、こしょうと、愛情だけ。後はみぃんな付録だもの。’

だんなが台所から私の名を呼ぶ声がする。私は大きな声で

‘いただきまぁすっ!’


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