!!?

日本酒の薫る風景 1




  夏の終わり、蜩声を心待ちにするような時期になるときまって私は縁側にやってくる。そして冷酒をちびりちびりとやりながら夕暮れを待つ。子供の時からかわらない自宅の庭のそこかしこを眺めながら、昔のことを思い出す。夏の暑い記憶と秋の涼しさが首筋を通り抜けるひととき。私の何よりの愉しみな時間である。
  都会から祖父母のいる此の家に遊びに来ていた小学校の夏休み。もう30年も昔になる。当時の私にとっては古い旧家の佇まいは珍しかった。入り口にでーんとかまえた大きな門はめったに開いたのを見たことがなかったが、その横に作り付けてあった小さなくぐり木戸がどこか秘密めいていて私のお気に入りであった。家の者はその木戸くぐって出入りするのであるが、小さくて不便なのにも関わらずなにか心地よさを感じていたことを思い出す。
  そんなある夏のこと、例年のように祖父母のうちに遊びにくると、そのくぐり木戸に大きな閂がつけて有った。何事かと思って祖母に尋ねると「おじいさんが呆けてしまって夜中にその木戸を開けるから」だと言う。これにはさらに驚いた。祖父は町人気質で気っ風の好い、町では知られた人物であった。わたしにとっては威厳の有るこわいお祖父さん。にわかには信じがたかった。
  しかし数日後の真夜中の事であった。じっとりと暑い夜でわたしはなかなか寝つけず起きだし、涼しい風に当たろうと外へ出た。その時庭先に人影が見えた。その影はくぐり木戸にかかった閂を外すと、また庭先へ戻り縁側にぽつりと座った。祖父であった。息を潜めしばらく様子をうかがっていると突然くぐり木戸が音もなく開き、見知らぬお婆さんがゆっくり入ってきた。腰は曲がり、総白髪のかみの毛からは大分年をとっているだろうと思えた。しかし静々と歩いてくるその物腰からは老人らしくない艶やかさを感じさせた。厚化粧で顔には白粉を塗り、品の好い着物を着て居た。丁寧に挨拶をすると祖父のいる縁側に座り、小脇に抱えていたふろしき包みを解きはじめた。中から出てきたのは漆器づくりの洒落た晩酌用具。手際よく用意を整えるとお婆さんは銚子からお酒を注ぎはじめる。しかし酒は出てこない。中身は空なのだ。しかし祖父はお婆さんにすすめられるまま盃を重ね、空のお酒をなんともうまそうに啜るのであった。真夜中の縁側で老人2人の宴会。祖父は空の盃ですっかり好い気分になったようだ。「大分酔った」と言う祖父の一言を合図のようにお婆さんは帰り支度をはじめた。丁寧な物腰で挨拶をすますとくぐり木戸からゆっくりと真夜中の小路へと消えていった。しばらく祖父は彼女の行くのを見守っていたが、やがて木戸の閂をもとに戻し何ごともなかったかのように言えの中に引きかえしたのだった。
  このお婆さんはお千代さんという。この辺りはむかし芸妓や舞妓さんたちが行き交う活気の有る花街であった。お千代さんも当時一流の芸妓として華やかな時代のまっただ中に居た。しかし時代が流れ芸者屋敷の灯が消えていくとともに、艶やかな着物姿の女性をすっかり見かけなくなった。お千代さんの存在も何時しか人に忘れられ、町の片隅でひっそりと一人暮らしをしていたのだとあとになって知った。年を重ね、痴呆が進みここ何年かは夜の町を徘徊する姿も見られたと云う。そんな彼女がなぜ祖父のところにくるようになったのかは定かではない。当時本当に祖父がぼけていたのか、それとも不遇なお千代さんのためにぼけを装っていたのか、今となっては分からない。ただ程なくしてお千代さんがなくなると祖父はめっきり老け込んだ。そして時々ひとりで此の縁側に座りお酒を飲むようになった。秋がちかづく頃の、とりわけ夕暮れ時が祖父のお気に入りの時間であった。大きめの器に冷えた日本酒をたっぷりと注ぎ、庭の松にとまる蜩の声に耳を傾け、ひとくち又ひとくちと日本酒を啜っていた。
  今ではわたしも祖父母の住んでいた此の家に移り住んだ。旧い佇まいもそのまま、くぐり木戸には使い道のない閂がまだついている。祖父の真似をしてこうして縁側で冷酒をやると昔の事を思い出す。秋の夕暮れがちかづくと決まって、空の盃で酔っていたあの夜の祖父の姿がふと懐かしく目に浮かんでくる。●


(1999年夏に更埴戸倉にある「天法酒造」のために書き下ろした短編。結局使われなかったが、友人などに読んでもらっていた。データの所在が分からなくなっていたのが、この間掃除をしていたらプリントアウトしたものが一枚だけ出てきた。最終版ではないようだったし、今となってはやっぱり恥ずかしいので少し加筆した。)

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: