夢みるきのこ

夢みるきのこ

PR

×
2010年07月27日
XML
 へくそかづらという植物がある。山道で出会うとずいぶんと気の毒な名前をつけられたものだといつも思ってしまう。
 川西自然教室の『こげらだより』が200号を迎えるに際してエッセーを頼まれたので、このへくそかづらから着想した「屁糞きのこの弁証法」を編集部あてに送っておいた。きのこをつくる本体の、目には見えない菌糸体は屁、その糸状体が胞子を飛ばすためにつくるエアターミナルがきのこだが、このとき初めて目に触れるので糞。かくして屁の凝り固まったものが糞と考えるときのこのあべこべ生物たるゆえんが難なく理解できる。なんでも目にみえるものが本質であると考えるのは人間のあさはかさだ。普通は目にみえない世界こそが真実で目に見える世界はその仮の実体であることのほうが多い。それはなによりもきのこがその通りだから。
 したがってきのこの研究は「糞」の研究ということになる。菌糸や胞子の研究。これがいわゆる微生物学でこれは、私から言わせれば「屁」の研究ということになる。
 一方、実存哲学では意識をもった人間は、あくなき未来へ自身を投企(こうありたい自分をイメージしてそれに自己を投げかけていく)するきわめて特殊な存在で「心ここにあらず」という言葉があるが、人間の本質はその「心ここにあらず」が常態でそのあちらにある心に肉体を投げ出していくことで人間なのだ。
 だから、人間も屁糞きのこの弁証法では身体は「糞」で心は「屁」と考えれば非常にすっきりする。この屁と糞との弁証法。すなわち屁と糞をたえまなくアウフ屁ーベン(止揚)することこそがぼくらにとっての現実なのであーる。仏教の無常観もそんな人間の洞察から成り立っている。過渡的、あるいは過程にこそ人間存在の本質があるということか。
 屁(みえない世界)と糞(みえる世界)の2項を対立させそれを統合することで新しいステージへ参入するという弁証法はとても便利な発想で、コンピューターのゼロ・ワン思考もそこに根源がある。かれらは有るか無いかの2項で世界は記述できると考えている。彼らの記述世界とは一体どんなものか私には想像がつく。
 こうしたさまざまな利害をむりやり対立する2項に封じ込めてエィヤ―式に解消することに異議を唱えるのはいつも生物学者である。「そんな2項には絶対おさまりきらないぞ」と身体を張って異議をとなえる生物もものすごい数存在するのでサンプルには事欠かない。
 輝かしい進化の道筋に乗り遅れる生き物はいなくなってもかまわんという発想が一世を風靡するのは優生種のみが生き残る権利があるという発想である。「利己的な遺伝子」「弱肉強食の世界」「階級闘争」「進化論」・・・、これらの仮説はその時々の世の指導者たちにとって非常に都合のよい理論であったために、世の公理のように喧伝されているが、これは危険きわまりない。ここには他をぬきんでることでしか計ることのできないきわめて貧弱な上昇志向が下敷きとなっており、個性をみとめられない統計的数字でしか表現されない競争の論理からいち抜けたうつけものやのんびり物は虫けらにひとしい存在としてつぶされてきた。
 そんな、世の中を生態系のトップに位置する者たちの利益のみに奉仕する理論で押し切ろうとすることへの抗議のひとつの形が私にとってはきのこであり、屁糞きのこの弁証法なのだ。わが晩年はこの理論の体系化のためにこそ生きたいとさえ思えてくる。とはいっても私のように年中何かに心奪われて生きている屁のような存在にとっては(それを自称ではあるが通年性発情型人間と呼んでいる)、屁を実体化し体系化せずにはいられない、ストイックで、なにがなんでもすっきりしないと気がすまない「くそ」的存在の土俵で物言うことは、相手の思う壺になるので全く異なる方法を編み出さなければならない。いよいよハイパーきのこの時代を直前に控えて見事な「屁」をかましていかねばならない時代が到来したことをひしひしと感じている。さてひとつ屁でもかましてから考えよう。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2010年07月27日 21時49分48秒
コメント(0) | コメントを書く
[マダラーノフの独り言] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: