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小説 こにゃん日記
お弁当
木村は机の下でこっそりと、かじかんでいる脚をズボンの上からさすった。
隣の睦美がそれに気がつき、
『少し温度上げましょうか?』と、小さな声で話しかけてきた。
そういう睦美のひざの上には、温かそうなピンクのブランケット。
オフィースの室温設定は、22度あまり。
省エネが叫ばれている昨今には珍しいほど低い。
『なんだなんだ・・・木村君は男の癖に冷症か?』
部長が嬉しそうに言う。
『最近の男は、ちゃらちゃらして、女みたいだと思ってたら、中身も軟弱だな。』
日頃会社近くの事務でトレーニングをし、プロテインを愛用している部長は、分厚い胸を誇示するように大きくそらせた。
周囲の反応は、薄ら笑いを浮かべている者。
首をすくめて、必死に書類を見るふりをする者。
自分の膝に乗せたブランケットや上着を、こっそりどうにか隠そうとする者。
さまざまだ。
睦美が、気の毒そうに自分を見ているのを意識して、木村の顔に血が上った。
汗かきで暑がりの部長の嗜好にあわせた室温は、木村にとっては、都会のミステリーだ。
田舎から都心に出て、商社に就職できたのはいいが、まさか真夏の盛りに凍えそうな目にあうとは思わなかった。
『お茶をどうぞ。』
いつの間にか席をはずした睦美が、大きな萩焼の茶碗を部長の机にのせた。
『お・・・。』
部長の口が止まる。
睦美はそれぞれの机に、茶碗を置いていく。
『どうぞ。』
にっこりと茶碗を差し出されて、思わず木村は手で受け取った。
厚い焼き物の茶碗からじんわりとぬくもりが届く。
『ありがとう。』
『中身は熱いですから、舌をやけどしないようにしてくださいね。』
睦美はにっこりと微笑みかけて、何事もなかったかのように、残りの茶碗を配って歩いた。
薫り高いほうじ茶を口に含むと、冷えた体が温まり、ささくれた気持ちも癒されるような気がする。
部長も皆も同じなのだろうか、職場の澱んだムードは一転し、書類をめくる音、ファックスの音、電話で商談する声も活気を取り戻した。
いい子だよな。
木村はちらりと睦美を横目で見た。
垢抜けたOLの中で、ほとんど化粧っけのないどこか幼い顔立ち。
特別美人というわけではないが、笑顔とくりくりとした瞳が愛らしかった。
前が見えないほどの書類を抱えて、きびきびと一日中飛び回る姿は、どこか野生の小鹿を思わせた。
睦美は誰に対しても優しいが、自分に対して、その優しさは他より多いのではないか。
木村はそう考えて、今日こそは食事に誘ってみようと何度目かの決心をした。
昼休みの少し前、木村はエレベーターの中で、睦美と2人っきりになることが出来た。
『あの・・・深山さん。その・・・さっきはありがとう。』
木村の言葉に、睦美は驚いたように大きな瞳を見開いた。
暑くもないのに、木村の額には汗が浮かんだ。
『迷惑じゃなかったら、その・・・今夜一緒に食事でも。』
木村の言葉に、睦美は困った顔をする。
しまった・・・木村は思った。
やはり自惚れだったのだ。
『ごめんなさい。今日は同期の人たちとの食事会なんです。』
睦美はすまなさそうに、木村を見上げた。
『あの・・・もし良かったら、お昼をご一緒にしませんか?』
睦美は可愛らしくぺろっと舌を出した。
『お弁当作りすぎちゃったんです。』
睦美の手作り弁当?
木村の気分は一気に浮上した。
昼休みになると、部長はう~んと伸びをして、
『よ~し、今日はうなぎだ!』とでかい声で、嬉しそうに宣言した。
とたんに女の子達が、
『いいな~部長。美味しそうですね。』と声を上げる。
『よし、たまにはおごってやるか。』
部長の一声に女の子達は、きゃあきゃあと喜びの声を上げた。
『睦美。行こうよ。』
睦美と仲のよい同僚が声をかけた。
『ううん。私はいいよ。』
睦美の声に、部長はぴりぴりとした視線を投げかけた。
『なんだ、深山君はダイエット中か?』
不機嫌そうな声。
『いえ・・・すみません。その、おなかの調子が。』
それを聞いて、部長の関心は睦美を離れた。
部長とOLたちに続いて、男性社員も、次々とデスクを離れだした。
『まったく部長の奴。男にはおごった事など一度もないってのにな。』
『俺なんか、外回りのついでに、タバコを頼まれたことは何回もあるが、金を貰った事は一度もないぞ。』
やがて、ほとんどの社員は部屋から出て行った。
それでも数人が残っている。
睦美はこっそりと深山にささやいた。
『いいところ知っているんです。』
睦美は木村を連れて、エレベーターを地下1階まで降りた。
そこはダンボールが、頭上まで積み上げられた倉庫になっている。
ダンボールの壁が迫る狭い通路を通って、先に進むと、『管理室』とプレートのついた鉄製のドアがあった。
ドアを睦美がトントンと叩く、
『はいよ。』
男の声がして、木村はがっかりした。
別に倉庫だろうが、かまわないが、ふたりきりの食事ではないらしい。
ドアの向こうは、スチール製の机が3つほどくっついて並んだ狭い小部屋だ。
髪が薄く影はもっと薄い、年配の男性が1人。
それが声の主だった。
『おじさん。はいお弁当。』
睦美が赤いチェックの布の包みをあげて見せると、男は顔中しわしわにして喜んだ。
『おじさんの退職祝いに、今日は豪華にしたからね。』
『睦美ちゃんには、世話になったなぁ。』
木村には話が見えなかった。
この男は、睦美の親戚か何かなのだろうか?
『木村さんも、座って、座って。』
睦美はさっさと、お弁当を机の上に広げだし、部屋の隅の小さな戸棚から、急須と湯飲みを人数分出して、かいがいしくお茶も入れだした。
木村はおとなしく、椅子のひとつに腰掛けた。
お弁当箱の蓋が取られる。
海苔を巻いたおにぎり、野菜の煮付け、玉子焼き、鶏肉の付け焼き、小魚の甘辛。
なんだか懐かしいメニューだ。
自宅のアパートで、レトルトやラーメンばかり食べている身には、黄金の弁当にも思える。
『お口にあうといいんだけど。』
睦美は、酷くまじめな顔をしていう。
可愛いな。
そんな睦美の生真面目な一生懸命さが愛しい。
『いただきます。』
木村は、おにぎりに手を伸ばし、口いっぱいに頬張った。
『あっ?!』
口がふさがっていた木村は、頭の中で大きな声を上げた。
いったいこれは?・・・夢だろうか?
おにぎりを頬張ったとたん、なんだか木村の視界がにじんで、くらりと揺れたような気がした。
ぼんやりとした視界の中で、狭い倉庫管理室が広がっていくように見える。
壁がどんどんと遠ざかって行く。
天井も高く高くなっていって、まるで蓋を開けたように、まぶしい青が飛び込んできた。
リノリウムの床からは、にょきにょきと青草が伸び、木村はあわてて足を床から持ち上げると、机の上に飛び乗った。
覗き込むと、椅子の足の辺りを、さらさらと澄んだ水が流れていくのが見える。
ぴしゃんと跳ねる銀色の小さなもの。
青草は見る見るうちに、背高く育ち、やがて葉の間から、穂が見え出した。
これは稲だ。
穂はだんだんと太さをまし、やがて、重たげにその頭を垂れる。
『なんだ、これは・・・?』
木村があたりを見渡すと、いつの間にか、コンクリートの天井も壁も溶けた様に消え去って、空は染み入るような青、青、青。
広がる稲畑の向こうには、霞んで見える灰緑色のなだらかな山。
ああ・・・ここは?
気がつくと、木村の座っているのは、田畑の間にある低い土手の上だ。
ほっそりとした緑の木が、優しげな木陰をさしかけている。
『ほう。これは見事だね。』
傍らから声がして、木村はあわてて振り返る。
『今日は特別がんばったから。』
にこにこと睦美と管理人が、いつの間にか木村の横に座っていた。
『どうですか?』
睦美がキラキラと見上げてきて、木村はうろたえた。
『その・・・どうって言われても・・・。』
『お口に合わなかったかしら?』
睦美がとたんに顔を曇らせる。
睦美は木村が握り締めたままのおにぎりをじっと見た。
尋ねられたのが、おにぎりの味のことだと気がついて、木村は脱力する。
やけくそのように、もう一度かぶりついた。
『美味い。』
ぽろりと声が出る。
口の中で、ほろりと崩れる少し塩味のある飯粒。
うめぼしのまろやかな酸味と旨みで、口中に唾が溢れる。
くるりと巻いてある海苔は、潮の香りと風味がする。
ただのおにぎりが、これほど美味しかっただろうか。
コンビニおにぎりとはぜんぜん違う。
睦美は嬉しそうに、そんな木村を見つめていた。
『その梅干、実家でつけた梅なんです。』
『ほら。』と、睦美は田畑の向こうにある、小さな民家を指差して見せた。
なるほど家の周りをたくさんの木々が囲んでいる。
『梅、杏、桃、栗、梨・・・花が咲いて、実のなる木ばっかり。』
睦美がおかしそうに笑う。
『おかずもどうぞ。』
木村は手渡された箸を、おずおずと伸ばした。
どれもこれも美味い。
木村は夢中で食べる。
管理人は黙って、ゆっくりゆっくり箸を動かしている。
睦美が淹れてくれたお茶を飲んで、木村はほっと息をついた。
『ここはどこなんだ?』
木村はようやく少し落ち着いて、尋ねたかった言葉が出せた。
『ここは、梅の木村。私の故郷です。』
睦美が、食事を終えた管理人に茶を淹れながら答えた。
『いいところだよねぇ。』
管理人は、満足げにお茶をすすった。
『何にもないところなんですよ。』
睦美は木村を、ちょっぴり上目遣いで見た。
『もう、毎日毎日、退屈で退屈で。早く大人になって、都会に出てみたいと、そればっかり考えてました。』
自分と同じだ。
木村は思った。
『それなのに大人になったら、今度は村の人とお見合い。
私一人っ子なんです。だから、婿をとれって。冗談じゃないって、さっさと逃げ出して都会で就職したんです。』
睦美は唇を突き出してみせる。
ぷっくりとした小さな唇は、そうすると、すねた子供のように可愛らしい。
『私の家って、普段は普通の農家なんですけどね。
もともとは、村のお守りの家系だったんですって。』
木村は、混乱する頭で必死に考えた。
『お守り?それって、神主さんとか?』
この超常現象もそのせいなのか?
睦美はフルフルと首を振った。
『そういうのとは、ちょっと違うのかな。
たとえて言うなら、村に捧げたいけにえ?』
『い、いけにえ?!』
木村の脳裏を、戸板に乗せられ沼に沈められる乙女の図が浮かんだ。
そんな木村の思考を読んだかのように、睦美がけたけたと笑う。
『もしくは、とんでもないペットに懐かれた、哀れな飼い主。』
『は?』
目の前の明るい睦美は、哀れさとは縁がないように見える。
『つまりですねぇ。ペットが主人のあとをどこまでも付いて来るがごとく、この村が、私についてきちゃうんですよ。』
村が人間についてくる?
いや、村はもともと人間が作るもので・・・村の人間が移住すれば、村も必然的に人間について行ってしまう訳で・・・でも、たった一人の人間についていく村?
しかも、移住するままの姿で?空間移動でもしたみたいに?
『でも、ここは倉庫の管理室のはずだったよね。』
木村の声は、情けないほど霞んだ。
『ええ・・・そうです。私の中にある村の中に入っているだけ。本当はここは管理室です。』
睦美の中にある村の中にいる睦美?
木村の頭はぐちゃぐちゃになった。
震える声で尋ねてみた。
『それで、どうして僕まで?』
『あら。』
睦美はにっこりして見せた。
『だって、お弁当は、やっぱり空気の美味しいところで、食べたいじゃないですか。』
『そうだよねえ。』
管理人までが、睦美に賛同して見せた。
『私は、根っからの都会育ちだけど、やっぱり田舎は空気が違う。』
確かに、稲穂を渡ってくる風は、ほのかに甘く、空気は澄んでいる。
体が透き通ってしまいそうな清浄さ。
木村にもなじみのある空気だ。
『ここへつれてきたのは、木村さんが二番目です。』
睦美の言葉に、木村は、どうせなら一番目にして欲しかったと思って、そんな自分にびっくりした。
『女房に先立たれちゃってねえ。子供もなかったし、落ち込んでいたんですよ。
早く死にたいとそればかりでねえ。』
管理人は、ふらふらと電車に飛び込もうとしたところを、睦美に助けてもらったと言った。
それ以来、睦美は足しげく、この管理室を訪れているらしい。
『都会の暮らしも楽しかったけど、やっぱり私は村が好きなんだなあって、最近思ってて、でも、お見合いなんていや。
結婚相手は、自分が好きになった人じゃなきゃ。』
睦美は木村を見上げて、赤くなった。
『木村さんは、やっぱり都会暮らしのほうがいい?』
季節のない都会。
夏にも底冷えのするオフィース。
いばり散らす嫌味な上司。
そんな職場に嫌気が差していたのは確かだ。
睦美の瞳が零れ落ちそうだ。
『私と結婚してくれる?』
揺れる視線に絡まって、木村は、照りつける明るい日差しの中で、甘い眩暈を感じていた。
夏の朝は、早い。
まだ夜もあけ切らぬ時刻に起き、ごそごそと支度をする。
家の外に出ると、空気はまだひんやりと涼しい。
どこからか、炭を焼く匂いが漂ってくる。
空は、ほんのりと白みを帯びてきているが、まだ星が淡くたくさん浮かんでいる。
『おい。出るぞ。』
家の中に向って声をかけると、若い女性が、白い割烹着をはずしながら現れた。
『はいはい。』
ふたりで軽トラに乗り込む。
『行ってらっしゃい。』
二人に先駆けて起きていた初老の男が、庭先から植木バサミを持って顔を出す。
『桃を冷やしとくからね。』
男は、管理人時代のしょぼくれた風情は微塵もなく、元気そうに日焼けしている。
今日は西の畑だ。
睦美の膝には、赤いチェックの包みと水筒。
『今日は何かな?』
木村・・・いや、深山豊は、チェックの包みに手を伸ばした。
『もう。さっき、朝ごはん食べたばかりでしょ。』
睦美は笑いながら、その手をぴしゃりと叩いた。
『睦美の弁当は最高だからなあ。』
豊はくすぐったそうに笑う。
風が、さやさやと開いた窓から頬をなぶる。
東の空は光でいっぱいだ。
あたりには、雨を請うかえるの鳴き声。
今日も暑くなりそうだった。
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