LAUNDRY ROOM

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闘病記5~8

  • ここは、私の、ごく個人的な「闘病記」で、■I の続きです。 縁あって私のブログサイトへ辿りついてくださった方々の、お知り合い、お身内、またはご本人、どなたであっても、 一人でも多くの方にお読みいただいて、皆様のバーチャル世界ではなく「現実世界」で、ぜひお役に立てていただきたく、公開することにしました。
  • 同じ病気ではなくとも、様々な場面での「検診」の必要性を、特に女性に、とりわけ、子育てで忙しい方にこそ知っていただきたく思います。 この手記をお読みになることで、そのことに思い至ってくださるのであれば、なによりです。
  • インターネットの公開性を考慮し、全て仮名で記述致しました。また、約10年前の出来事ですので、情報的には古い部分が多々あると思います。ご承知おきください。
  • かたいことを言って申し訳ありませんが、写真を含む画像も文章も全ての版権及び著作権は私にあります。万一御使用になる際には管理人へご一報下さい。特に無断での商用引用等、かたくお断りします。

■  闘病記目次  ■

* §[ 闘病記]癌との闘い
*   ▼1.闘い終えて春
*   ▼2.三年前の暑い夏
*   ▼3.N病院との出逢い
*   ▼4.産婦人科への迷い
*   ▼5.インフォームドコンセント
*   ▼6.深夜の対話
*   ▼7.喪失、そして
*   ▼8.産婦人科病棟の女達
*   ▼9."乗り切る"という事
*   ▼10.それぞれの春
(了)     ◆「あとがき」に かえて◆( 2005/10/18 日記 )



■    ベイビーピンクのブラインド(5~)    ■






「おなかの中は、五カ月の妊婦さんと同じです。」
と言われてしまっては、手術は避けられないと感じた。
しかし、片側の卵巣と卵管の切除をすると聞かされても、それが何を意味するのかまるで分からない。
卵巣嚢腫とは何物か、大きいというが、そもそも卵巣とは普通どれ位の大きさなのか、子宮は今どうなっているのか、 とどんどん考えてゆくと、病気そのものよりも、自分自身の女性についての無知さ加減に唖然としてしまった。

    ある宗教団体の家庭聖書研究を通して、輸血にまつわる最良の医療の選択について学んだ際に、 インフォームド・チョイス(十分な情報を与えられた上での選択)という言葉が何度も出てきたのを、私は思い出した。
医師の話を理解し、治療について納得のゆくチョイスができるよう、ほんの少しの予備知識を求めて、本屋へ行った。
そこで再び驚かされたのだが、女性器の病気の本のほとんどが「子宮」一点張りである。
ならば女性器を臓器として解説しているものは、と探しても、これは皆無で、 どうしてもとなると専門家向けの医術書の類しか無い。
家庭性教育をうたった素人本は、崇高なる倫理感とあいまいな知識を披露するにとどまっている。
少なくともその頃の札幌の書店の現状はそうだったのだ。
何件もの書店をたずねて、やっと一冊、
「主婦の友社」から出されている[坂本正一教授の子宮筋腫と卵巣嚢腫]が、
最後の一冊といった面もちで、隠すように並べられてあるのを見つけた。

    その本の、心理面への温かい配慮を伴った具体性は、その後今に至るまで、私を勇気付けてくれているのだが、 とにもかくにも、私が自分自身の体について、病気について、少しづつ知識を蓄えてゆく、 そんな中で、血液検査やCTスキャンなどの術前検査は進められていった。

    血液検査というものは、手術前の貧血検査にとどまらず、血液中の腫瘍マーカーと呼ばれる物質の値を測定するなどして、 腫瘍に対する生化学的診断を行なったりもする、と前述の本で読み、また、大塚医師からも聞かされた。
その頃には既に、森田部長先生の技量的名声と名声に恥じぬ温かいお人柄について、 私の耳にも聞こえてくるようになっていたし、また、大塚医師の説明はたいへん丁寧なもので、 『危険性と受益性の分析の徹底により、患者のインフォームド・コンセント(十分情報を与えられた上での同意)を得る』 というやり方にも、"新しい医療" が見えていた。
このことは、入院してからも、森田部長指揮のもと、申し送りのきめ細かさと共に、 スタッフ全員に共通した態度として表れていて、有り難かった。
私は、自分の病気に関して、あるいはその治療方法に付いて、なにひとつ隠されていないと信ずることができた。
良質のスタッフと良い "教科書" との出逢いのおかげで、最新の治療を、もっとも望ましい形で受けることができた幸運に、 私は今、感謝してもしきれないほどのものを感じている。

    以前、私は、医療現場のコンピューター利用に非常に大きな興味を持ったことがある。
その時に見たさまざまな写真、エコーやCTスキャンによる断層写真や内視鏡によるものなどは、 良性・悪性を問わず腫瘍を撮影したものが、やはり圧倒的に多かった。
そして、ごつごつとしたイメージの癌病巣は、ツルリとした良性のポリープなどに比べていかにも悪者くさく、
(悪性腫瘍はやはり悪そうな顔をしているな)
と、感心した覚えがある。
私の卵巣嚢腫は、例えて云うなら、善人の衣を着けた悪人のようだった。
CTスキャンの写真を見ながら大塚医師は、慎重に言葉を選んで言った。
「ここね、大きな嚢腫がありますね。その中に、すごいね、これ、もう一つ袋が あって、二重のカプセル状になってますね。この二つは問題ないですよ多分。中 身は、まあ水の様な物とでも思ってください。ただ、問題は更にその中に、ほら、 充実性のものが写っていますね。これがね・・・やはり、開けて見ないと判断 がつきませんね。」
気持ちが、キシリと音を立てて冷えた。
私の "教科書" には、卵巣癌は極端に予後が悪いとあった。

    これも自分が当事者になって初めて分かったことだが、袋臓器の子宮と、むき出しでぶら下がっている卵巣とでは、 大きな違いがある。
卵巣特有の細胞組織のため、卵巣癌に0期はなく、いきなり1期で、しかも悪性細胞の種類だけでも十三種類もある。
片側の卵巣だけに限局した場合の1期の早期癌であっても、五年後生存率は七十%。
ということは、確率だけで云うと三人に一人は危ないとも考えられる。
現代医学において、早期発見の子宮癌が、百%に近い治癒率であるという事実と併せ考えると、嘘の様に悪い数字だ。
(グウ・チョキ・パーの確率か。私、じゃんけんは強かったっけ?)
と自分を茶化して、取りあえずは、覚悟を口にするしか思いつかない。

「先生、私、作ったばかりの会社と、何よりも、私一人を頼りにしている二人の子供がいます。 どんな結果でも、前向きに受け入れるしかありません。それに、全て自分で決めなくてはなりませんし、 先生が相談できる家族は、私にはいないと思って下さいますか?私、抱えているものがたくさんあります。 必ず前向きに考えますから、ひとつも隠さずに教えていただきたいのです。」
と、まるで用意してあったかのようにスラスラと言えたのは、冷静だったからではなく、 まだ他人事のように思えたからだ。
大塚医師は、少しあわてたように見えた。
「もちろん、もし悪いものだったら、これはどうあっても、積極的な姿勢で、全力を尽くして治療するしかありません。 その時は、患者さんの、貴女の、前向きな気持ちが何よりもの治療効果を生みますから、きちんとお話します。ただ、・・・」

大塚医師は、ちょっと考えて、話を続けた。
本当は、そちらの話を、どう切り出そうかと思案していたらしい。
それなのに、いきなり私に睨みつけられて、とうとうと、"壮絶な覚悟" らしきものを聞かされたので、
(ちょっと待てよ、そこまでいきなり飛躍しなくてもいいのに。)
とでも思って下さったのか、慈愛に満ちた表情になって、
「卵巣の場合は、開けてみるまで診断がつかない、というのは本当です。でも、 判断がつかないということは、悪いものかも知れないし良いものかも知れないと いうことですからね。診て、良いものであれば、片側の卵巣と卵管とを取るだけ で済みますよ。」
と言い、私の言葉を待った。

    張りつめた思いが、幾分楽になって、私はさっきの大言壮語が少し気恥ずかしくなった。
だが、先生の経験上の勘が(診立てが違えば良いが、多分これは・・・)
と悪性の方に傾いているのを、私は心の裡で聞いたような気も、していた。
今度は、おそるおそる訊ねた。
「もし、悪いものだったら、どんな治療になりますか?」
大塚医師は、やっと本題に入れたとでもいうように、身を乗り出した。

「そこです、問題は。最悪のことを考えて、手術に臨まなくてはなりませんから ね。貴女の場合、幸い、嚢腫がカプセル状になって充実性のものを包んでいます から、そのカプセルを傷つけないように取って、そっくり病理検査に回します。 二~三十分で、結果が出ますから、良性なら片側だけ切って、開けたついでにそ の他を診て、問題がなければ、あとは縫合するだけで済みますからね。ただし、 悪性なら、内性器全摘術に踏み切らざるを得ません。・・・だから、その準備が、 貴女の方にも、僕たちの方にも必要です。」

「悪性なら、子宮も全部取ってしまうかも知れないということですね。」

    卵巣癌の予後の悪さを考えると、例え病巣が片側の卵巣だけでも、全摘が卵巣癌の治療の原則だと、本にもあった。
例外は、どうしても出産したい人で医者から見て病気の状態が許す人だけとのこと。
「おなかを開いたまま細胞検査に出すんですか?その間、待っていなくちゃならないんですか?」
「そうそう、すぐ分かるからね。三十分もかからないよ。それに、ほら、貴女は 麻酔がかかってるから、待つ感じはしないよ。僕たちは待つけどね。」
そう言って、にこりと、大塚医師は微笑んだ。
私も、何だかおかしくなって笑った。

「全摘については、何のこだわりもありません。大丈夫です。手術はおまかせし ます。でも、仕事の方がまだ片づかないので、少し、手術、延ばせませんか?」
医者の云う意味が、現実的には分かっていない証拠である。
だが、医者は患者を知っている。
坂本正一教授のいう『森を見る者と一本の木だけしか見ていない者』の差が、こんなところにも現れる。
万一の時には全摘しても良いと答えることだけが、森を見ていることだと勘違いしている私に対し、 大塚医師は身を正して、説明を始めた。

    充実性の腫瘍が悪性だった場合、カプセル状の嚢腫がどれほど幸運であるかということや、 その嚢腫表面の膜の緊張が高まって割れる可能性もあり、そのときは癌細胞がおなかの中にばらまかれて危険である等、 分かりやすく説明し、これ以上延ばすべきではないと言う。
そして、もしもの時には『僕たちと一緒に』闘おうとも言う。

    医学書を読んでも断層写真を見ても伝わってこなかった癌の実態。
進行して死にも至る病というが、それまでの私には『死』さえも、現実感に乏しい感覚だった。
確率の数字に『死』の実態は見えてこない。
だが、大塚医師の、医学的な立場からの説明が淡々としたものだったにも拘らず、 『僕たちと一緒に』と言ったときの語気の強さが、病気に対する医者の決意のようなものを感じさせ、 私を『癌』に正しく対峙させた。

「先生、私、脚のせいで、子供を産むこと反対されたんです。子供を一人産む度 に悪くなるって。整形の先生でも、脚だけを診る先生の中には妊娠反対派が結構 多いんですよね。でも私の主治医の内藤先生は、自分の全人生を考えろって、大 賛成してくれて。二人目の子は特に、産んだものが勝ちと思って・・・切迫流産 ・切迫早産とヒヤヒヤさせられましたけど、今、その子が四才です。二人とも、 二度の流産の間をぬって産まれた子なんですよ。もったいないくらい良い子です。 産んでよかったと思います。」
そう言葉に出した順に、気持ちの整理がついて行き、自分のおかれた立場も見えてきた。

「悪性だとして、全部切っても、私にはあの子たちがいます。私、あの子どもたちを産んだことで充分満足しています。 出来るだけ早く状況を整えますから、宜しくお願いします。」
私は、深く頭を下げた。




    コンピューターソフトの会社は、私の"顔"だけを頼りに発足させたもので、しかも、まだ足元が固まっていなかった。
だから、それからの数日間はひたすら入院に向けて、
(私がいなくても済むように。)
と、それだけを考えて営業に奔走した。
資金面での不安定さも、もどかしかった。
一番気にかかる子ども達のことは、入院期間中、私の母が面倒を見に来てくれることになった。
小学校二年生の優(ユウ)の生活を変えずに済むので、母の健在とその協力という、恵まれた環境に感謝した。
日中は、入院の手筈を整えることにばかり夢中になり、ろくに子どもの顔も見ていなかったのだろう。
あの頃の子どもの表情を、私は、何ひとつ覚えていない。

だが深夜、毎晩、寝入った子ども達の顔をじっと見ていた。

    何を考えるというのでもなく、ただただ見つめるだけの、重く苦しい夜が続いた。涙は、出ない。
豆電球の薄明かりに座り子どもの寝顔を見つめていると、自分は今、夢の中の自分を見ていると思えて、 眼を覚ましてみようかと試みたりしたが、いつも同じように、夜は朝になって行った。

そんなふうに沈黙の夜を過ごし、あわただしく昼を消化する私のもとへ、高校の同期会の案内状が届いた。
切迫した思いに捕らわれていた私は、一も二もなく出席を決めた。
皆が公平に年令を積んでいる仲間たちとの再会は優しさに満ちたものだったが、訃報がひとつ、伝えられた。
その人の少女の頃の姿は、夏休みの私のスケッチブックにとどめられている。
惹かれていた人だった。ニューヨークで、写真家としてやっと認められたばかりだったが、肺癌が彼女の人生を終わらせた。

    その夜、それまでの夜と同じように子ども達の寝顔を見ながら、無念さに涙が出そうになって、思わず顔をそむけた。
やがて、彼女の死が無念だったのか自分が癌におびえることが無念なのかわからなくなって、子ども達の健やかな寝顔に再び視線を戻す。
持って生まれたものか、それとも育て方のせいか、ひどく"個性的な"二人の子ども達。
どんな大人になるのか、まだまだ、見当さえつけられない。
別れた、この子達の父親は、近く再婚すると聞いていた。
もしもの時は、やはり父親に託すことになるのか、いや、その再婚相手の女性か?
もし拒まれたら、私の母か姉か弟夫婦が、引き取るのだろうか。
子ども達は、母親に何かを訊ねたくなったら、どうするのだろう。
八才の上の子はともかく、四才の下の子は、母親のことを思い出せない大人になるに違いない。
まだ、たくさんの事を、伝え残しているというのに。

    成人するまでの誕生日ごとに開封する遺書を子どもに残した、ある母親のことを何かで読んだことがある。
あの母親は深い愛が動機であったが、私がそれをするとしたら、執念からになってしまう、と考えて苦笑した。
(私、やっぱり、今は死ねない。)
突然、そんな思いがひらめいた。
(こんな当たり前のことに、何故気がつかなかったのか。)
と、思った。 病気が見つかった経緯のひとつひとつを考えて見ても、今死ぬようには、なっていないではないかと、何やら宗教じみてきて、ついには、
(死ねない私が、死ぬはずがない。)
という、思い込みに至った。
それに、
(まだ癌と決まった訳ではない。)
と考えることは、気休め以上の意味を持って、私の入院準備を楽に進ませた。

    保育園仲間の小野さんは、私と同じ年令で、全介護の必要な人たちの病院で十数年、看護婦をしてきた人だ。
彼女が持っているのは準看護婦の資格なので、三人めの子の出産を機に、夜勤のない一般職に転職し、 三人の子を保育園に通わせながらも、いずれは正看護婦の資格を得て復職したいと勉強中である。
太りたくても太れる訳がない、という忙しさの中で、笑顔と、人に対する思いやりの絶えた事のない、ミステリアスに素敵な女性だ。

    その小野さんが、私の入院日の直前に、
「ほら、母さんが入院するだけでも、子どもはたいへんでしょう?だから、圭君の生活は、出来るだけ変えないほうがいいと思うの。 それでね、ごめんね、余計な事かも知れないけど、保育園、今まで通りに行かせてあげれないかなと思うの。」
と持ちかけてきた。
本当は、私もそうしてやりたかった。
が、バスを乗り継いでの毎日の送り迎えは、足腰の弱い母に頼めるようなことではないとあきらめていたのだ。

「それでね、万一、交通事故でも起こしたら目も当てられないから、迷ったのよ。 でも、この際だから、事故は起こさないということで、まっ、いいか、と思って、私に送り迎えさせてくれない?」
小野さんはそんなことを言って、手術が決まってから初めての涙を、私に流させた。

    そうこうするうちに、平成三年八月二十九日、最初の手術日を迎えて、いやが応でも、私の悪あがきは打止めとなった。




 「何も分からない方がいいかな?まるっきり寝てしまうことも出来るし、意識をぼんやりさせておく方法もあるのよ。」
麻酔の時の方法を私に説明して、病棟の上野助産婦は、私にたずねた。

    N病院産婦人科の病棟看護婦は、全員が助産婦である。
入院時には、カルテとは別に、患者の既往症や個別生活環境などの聞き取りを、その助産婦さんたちが、ナース・ステーションで行なう。
上野さんは、細いというより、子どものようなと言った方がよいほど小柄な女性で、入院時の聞き取りの際の、ひとつも聞きのがすまいという表情が印象的だった。
その上野さんに、手術時には少しの意識がある方が良いかと訊ねられて、私は、ぜひそうして欲しい、と答えた。
まだ女性の生殖器系について理解の浅かった私は、多くの女性がそうであるように、子宮に、やはり少しばかりの思い入れがあった。
その子宮が無くなるかどうかの瞬間を見届けなくては気が済まぬとの思いから、ある程度の覚睡を、私は希望した。

    手術は午後一時からで、病室を出るのは十二時十五分と聞いていた。
当日の午前中は持て余すと考えていたが、朝九時からの準備は、なかなかあわただしく、手術前の感傷にふける間もなかった。
ストレッチャーで手術室へ運ばれ、手術台の上で、天井の手術用ライトがパッと眩しく点くのを見たとき、私の目はテレビの視聴者の目になったようだ。
あるいは、手術を受ける役を演じる、役者の目だったかも知れない。
恐くもなく、実感もない、むしろ妙にはしゃいだ気分のままスーッと意識は失せて行く。

    ほんの一瞬、目を閉じただけの思い、呼びかける声、薄く目を開けるが身体は動かない。
横たわる私の頭の横に、光るステンレスの嚢盆(のうぼん)。
(小さな赤ん坊の頭位かな、ソフトボールの球よりは少し大きめかな。)
と、嚢盆にのった物の大きさを計る程度の意識はあり、覚えのある大塚医師の声が私の気持ちを落ちつかせる。
「傷つけずに取れましたからね。これから検査に出しますよ、すぐわかるからね、ちょっと待とうね。」

    再び遠のいてゆく意識にまかせて目を閉じながら、私は、何度も小さくうなずきながら、
『ハイ、ヨロシクオネガイシマス』と言おうとしていた。

    再度の闇と沈黙。やがてボンヤリと、器具のすれ違う小さな金属音、清潔な衣擦れの乾いた囁き、そして柔らかな薄明かりと低い声。

「聞いてますか?あのね、良くない物だったので、これから、全摘に入りますからね。いいですね。大丈夫ですよ。」
私はうなずきながら、ショックのなさに不思議さを感じていた。
大塚医師の言葉の前半の内容と、最後の『大丈夫ですよ』の、矛盾をからかおうとさえしていた。

    一眠りしたような時間の経過を感じて薄目を開けたが、まだ身体は動かない。話しかけられているらしいと気付き、耳を傾け、言葉をさぐる。

「ホラッ、綺麗に取れましたよ。あとは少し中を見させてもらって、縫うだけだからね。もう大丈夫だよ。」
頭の横に置かれた嚢盆の上に載っていたのは、透明のポリ袋に入った小さな臓器だった。

"西洋梨くらいの小さな宇宙"という言葉と、目の前にある、哀れな、ポリ袋入りの内蔵のギャップに、小さな失望を感じながらも、『アリガトウ』と心が呟いた。
手術のスタッフに言いたかったのか、二人の子供達に言いたかったのか、内にあって役目をこなしてくれた時の"子宮"に言いたかったのか、あの時の心にたずねなければ、今となっては分からない。




「おっ、腰がのびてきたわね。」
片手にタオルを抱え込み、もう一方の片手で生後三~四日の赤ん坊を器用に縦に抱きながら、助産婦の克巳さんは、廊下中に良く通る声でそう言った。
術後の癒着をふせぐには出来るだけ早く動き始めた方が良いと聞いて、私は二日目からゆっくりと廊下を歩き始めていたので、四日目のその日には足どりも随分しっかりとしていた。
また、傷跡を気遣いながらの前こごみが、日一日とマシになってゆくのも感じていたので、大きくうなずきながら、
「見せて、見せて。あー、女の子だぁ。何日目?」
と、克巳さんの抱いている赤ん坊を、私はのぞき込んだ。
克巳さんは、四日目だと言いながら、
「ちょうど、貴女が手術室からお部屋へ戻ったくらいに分娩室に入ったの。麻酔から醒める頃に産まれたから、廊下が騒がしくないかって、みんなで心配していたのよ。」
と、本当に心配そうに私の目をのぞき込んだ。

    あの、麻酔から目を覚ました時、周りには誰もいなくて、まるで霊安室のベッドに一人置かれたように心細く感じた。
が、察したようにタイミングよく、姉が病室へ入ってきた。
姉は、疲れるからと私に話をさせぬように気遣ったり、廊下のざわめきを気にしたりしてくれたが、私は軽い興奮状態だったのか、周囲の活気を感じとれることがむしろ嬉しかった。

「そうか、あの時ね。全然、うるさくなんてなかったですよ。」
そう言いながらもう一度のぞき込んだ赤ん坊の顔は、湯浴みの香りに包まれて、高貴な輝きをたたえているように見えた。
「助産婦さんって、素晴らしいお仕事ですよね。でも、あまりにもたいへんそうで、私なら、研修期間中にギブアップしてしまいそう。」
事実、看護婦という大変な仕事を選ぶだけでも尊敬に値するのに、そのうえ更に、助産婦の為の勉強を上積みして資格をとってまで、よりたいへんな職を選び取った彼女達に、尊敬をこえて、その心根の資質に崇高さを感じずにはいられない心境の私であった。
だが、
「ホント、あの研修期間に、気がついていたらねぇ。今ごろ、もう少し楽ができていたかもしれないわね。」
と嬉しそうに、赤ん坊の輝く顔に目を移して微笑む克巳さんを見たとき、えも言われぬ程のうらやましさを感じた。
「なんだか、少しだけ分かるような気がする、克巳さんの顔を見ていたら。『やみつき』ってかいてあるもの。」
「ヤミツキ?うん、そうかもしれない。」
克巳さんは、軽やかに笑った。

    N病院では、『長期患者を6人部屋に長く置かない』、『二人部屋でも治療によっては一人に使用させてくれる』、『二人で使用するときは相方の相性を考慮する』など、いたるところに病棟スタッフの気遣いがあった。 全てを治療の一貫とみなして取り組んでいるのが、患者にも良く分かった。 趣味の持ち込みについても、見舞い客の時間帯にしても、患者同志のそれぞれの都合や思惑があるので調整が大変だろうと思えるが、時には片目をつぶりなどしながら、相当な労力と費用と思いを傾けてくれた。 おかげで患者は、二人部屋で隣あって『同病相哀れむ』をやり、2週間のつきあいで親友同様の信頼を生むということにもなる。 私などは、入院で親友を大量生産したクチだ。

    術後の仮の病室から他の病室へ移り、何人かの同室者も入れ替わり、その二人部屋へ落ちついて一週間。
隣あうよしみで、切迫早産で入院中の増川さんとは、かなり立ち入った会話もできるようになっていた。
「その点滴、もう、身体の一部ね。産むまで取れないの?」
「うーん、分からない。前の子が七カ月で死産だったから、今度は産むまでとれなくてもかまわないわ。先生におまかせ。」
増川さんの前回の妊娠は死産だったそうだが、そのことよりも、まだ気持ちが立ち直っていないうちに『たいへん珍しい症例なので解剖させて欲しい』と言われたことがショックで、今回の妊娠の際は、事前に夫婦で病院選びをしたという。
「森田先生はね、妊娠は一つひとつ違う命を産み出すんだから心配いらないって・・前の妊娠は、それがその子の命だったんだって。気持ちのふんぎりがつくまで次の妊娠を控えるのはいいけど、あまりにも間を開けすぎない方がいいって。ちょうど、丸一年前のことよ。」 増川さんはそう言って、二冊の母子手帳を私にかざして見せた。
「医者は選んでかかれ、ってね。」
大きな声で出来るだけ明るく、私が応えたとき、
「ハイ、点滴ですよ。覚悟はできていますか?」
と、これ又大きな声を出しながら、太田助産婦が部屋へ入ってきた。
「残念ながら今日の注射は私でーす、もう選べませんよ。当たりでしょうか?はずれでしょうか?返事によっては痛くなりますよ。」
茶目っ気たっぷりに私に目配せしながら、ベテラン助産婦の太田さんは、慣れた手付きで器具をセットした。

    私が歳がいもなく、キャッキャとした言い訳をしていると、大塚医師も部屋へ入ってきた。
見慣れた白衣ではなく背広姿で、髪の毛も、やけに丁寧になでつけられてある。
いつもと違ういでたちをひやかす私たちに向かい、これから北日本産婦人科学会へ出席するので、と言い訳しながら大塚医師は、
「楽しそうですね。これなら、大丈夫かな?」 と心配そうに、主治医の眼差しで私をうかがった。
今日の点滴は私の初めての化学治療であることから、外出の前に立ち寄って下さったのだ。
「取りあえず、点滴の最中は大丈夫なんですよね?夕方からが辛くなるって聞いていますけど。」
と答える私に、
「うん、そう。でも、人によっても反応は少しずつ違うからね。辛くなったら、いつでもナースコールして、少しでも楽に乗り切ることを考えようね。」
と言い、背広の袖の中で遊んでいる痩せた腕をグッと曲げて、力コブを作るそぶりを見せながら、
「じゃぁ、がんばろうね!」
と力強く言って、部屋を出て行った。

「まるで、青春映画ね。」
「そう、そう。ホラッ、夕日に向かって砂浜を走る、あのノリよね。」
「うん、わざとらしいこともさりげなくこなす、あの優しさは超一流ってとこね。」
そんなふうに大塚医師の態度をひとしきりからかうことで、それぞれが胸に迫るツゥーンとした想いを牽制しあった。
私の、予定されていた三クールの化学治療の、一クール目はこうして始まった。
また、この時大塚医師の出席した学会で、予後の悪い、ある種の卵巣癌に対しての、更なる施術の必要が話し合われもした。
だからこれが、真の『闘病』のはじまりであった。

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