イエボーの島(タートル・ベイ)

宿り木

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象徴連鎖【宿り木】
ハルがきてしまった
コオロギ事件
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象徴連鎖『宿り木』

からからと日が照り、風なく、暑い日だった。
小学校の校庭の隅に涼気を誘う柳がある。
隣の百葉箱に影を落とし、ゆるやかに葉を揺らしていた。

柳の上に、何かがとまっていた。
ぱっと見には大きな鳥のように見えるが、
よくよく見てみればそうではないことがわかる。
それは人だった。
柳の上の男は、座って、じっ、と俯き、
長い髪の毛が垂れ幕のように体中を隠していた。
その日はまだ夏休みにはなっていなかったので学校にはたくさんの生徒がいる。
勿論教師もだ。
やがて昼休みに生徒達の一人が柳の上に異変に気付いた。

「なんだ?あれ。」
「なに?」
「あれ、柳の上。」

 5、6人の生徒達が、ざわめきながら柳の木に集まってくる。

「あれ、人?」
「多分そうだ。」
「動かないなあ。」
「ボールぶつけてみようか。」

生徒達が勝手な事を言っていると、突然木の上の人間が立った。
うずくまっていた時には分からなかったが、
彼は両手に一本ずつ一升瓶を掴んでいた。
彼は、ゆっくりと視線を下の子供達に向けた。
思わず子供達は、恐怖を覚え後ずさる。
しかしすぐに足を止めた。
男の視線に感情の色は全くちらつかないが、
どこか子供等を憐れむような、熱を含んでいるように思えたからである。

「さばえなす・・・風の声を聞くか。」

男は呟くと、一升瓶をがんがんと頭の上で打ち鳴らした。
子供達は、樹上を見上げる。

「我は陽木。樹木の王なりき。」

男は又、一升瓶をがきがき鳴らした。

「集まれ!宿命の子等よ!」

子供達は、後ろを向いて一目散に走り出した。
それは、逃げ出したわけではなく仲間を連れてくる為である。

「集まれ!」

男の声が、一際高く響く。
始めに男のもとに集まった五、六人の子供等は伝道師となり学校内を駆ける。
勅令を受けた子供等は続々と男のもとに馳せ参じた。

「集まれ!」

男は、一升瓶を打ち打ち叫ぶ。
男が一升瓶を打つたびに、体に巻きつけられた布切れがガサガサ動いた。
百人ぐらい集まったところで男は一升瓶を下ろした。

「子供等よ、スガタを見せよう。心の奥に刻むがいい。」

男は再び両手を上げた。
一升瓶の中にはまだ酒が入っている。
陽の光をあびた中の酒は、揺れるたびに幾層も相を変え、
ちらちらと幻を映したように見えた。
その時異変を察知した教師達が、駆け寄ってきた。

「何をしているんだ!」

子供達の視線が教師に集まる。

「早く教室に戻りなさい!」

柳の上でかあん!と鋭い音がした。
皆の視線が柳の上に向く。
しかしそこに男の姿は無かった。
代わりに青みがかった透明な欠片が空から降ってきた。
一升瓶が割れたのだ。
澄明るい香気がたちこめる。
酒気だった。
皆、後ろを振り向いて校庭を眺めた。
男が校庭をすべっている。
校庭には酒の匂いがふりまかれていた。
雨が降っている。
酒の雨だ。
その上を男が銀のしぶきを上 げ、すべっている。
踵を上げ爪先で立っている。
その爪先で男は縦横無尽、自由自在に校庭をすべっていた。
男の手には割れた酒瓶の口の部分のかけらが握られている。
たいまつのように掲げられたそれから、酒が吹き出ているのだ。

「乾杯!」

男は空に向かって笑顔で叫んだ。

                     了

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『ハルがきてしまった。』

二三夫は、ゆっくりと静かな坂を登って行った。
坂の途中の公園で、子供達の遊んでいる声が小さく聞こえる。
ブロック塀の内側から、紅梅が突き出している。
二三夫がそれを見上げると、深く、
尽きることのない紺色の空に、それはよく映えていた。
見事に咲いているあちこちの庭の椿も、そろそろ終わるだろう。

 もう、春がきてしまったのだ。

二三夫は、今年で学校も卒業だが何にも決まっていない。
これから自分がどうなるのか、考えたら笑えてくる。
全く、見事に真っさらだからだ。
なにか、やりのこしたことがあるような気がするのだが、
それが何かわからない。
なにかか、精神が安定を欠いているのはわかるのだが、
それが楽しいような、どうでもいいような、不思議な気分だった。
心がいくつかに分かれて、
それら同士がそれぞれ思い思いに自己主張しているように感じた。
軽い部分と重い部分が、浮き沈みを繰り返しているようだった。

二三夫は、これからある友人に会いにいくところだった。
その友人も自分と同じ境遇のはずだった。
そんなに会いたくもないのだが、友人だけあって、
自分に似たところがある彼と会えば何かあるかもしれないと思ったのだ。
二三夫にはその気持ちを上手く説明出来ない。
何かあるかもしれない、と感じていたことだけがわかっていることだ。
坂の途中の、彼の住居に着いた。
二階建て、木造白塗りのアパートだ。
彼の部屋は二階だった。
外から見てみると、部屋のカーテンが閉まっている。
明かりも点いていないようだ。
留守かもしれない、と思ったが二三夫は一応訪ねてみることにした。
「二三夫か?」

チャイムを鳴らすと、中から大きな、吼えるような声が聞こえてきた。
在宅らしい。
「入ってもいいぞ。」

二三夫は、友人の声に違和感を感じた。
どちらかといえば、おとなしい万事がひかえめな男だった。
それほど人と話すのが好きな性格でもなかったのだ。
二三夫は、ドアノブを手にとったが、回らない。
鍵がかかっている。
「清源、開けてくれよ。」

ドアを叩く。

「待っていろ。」

鍵が回転する音がした。

「開いたぞ。」

今度はまわる。
ドアを開けると、部屋の内部が二三夫の目に映った。
雑多な装飾物や、 何かわけのわからない色とりどりの道具が玄関中に散らばっている。
よく観察してみると、 一応なんらかの秩序に従って配置されているらしいことはわかるのだが、
如何せん数が多すぎるのだ。
狂人の住居のように見える。
二三夫は困惑していた。
何でもきちんと整理しなければ気のすまない男だったのに。
神経質で、細かいことをいつまでも気にするような男だった。
部屋の中も物自体がそんなになかったし、いつも綺麗に片付いていた。
何が彼を変えたのか?
二三夫は、次第に好奇心が湧いてきた。
奥に進むと、廊下の壁に金属製の半円形の平べったいものが掛かっている。
二三夫が、ちょっと上部を触ってみると、指が切れた。

「痛っ!」

慌てて指を引っ込める。

「触るな!」

奥から声が聞こえてきた。

「ああ、ごめんごめん。あれ、何なんだ?」

二三夫は、歩を進めながら聞いてみた。
部屋の中央に、彼は胡坐をかいて座っていた。
尻の下には何かの図形が絵描かれている。
部屋の中は、それまでの場所よりもさらに、
圧倒的に物に溢れていた。
壁にも天井にも、色とりどりの紙切れや、
布や、着色された石が曼荼羅のようにめぐっていた。
紙切れには、汚い文字で何か漢字や図のようなものがかき殴ってある。

「あれは、日月弧形剣だ。」

清源は、目を閉じたまま答えた。
背筋をピンと伸ばし、両掌を膝の上に置いている。
なにか、瑜伽の行者のような只者ではない雰囲気を漂わせていた。

「に、日月・・・?固有名詞を言われてもわからないよ。」
二三夫は、戸惑いながら聞く。

「本来は武器だ。手に持って使う・・・
おい、床に血を垂らさないよう気をつけろ。
バランスが崩れる。」


二三夫は、慌ててハンカチで指を押さえる。
「わかったわかった。
本来は武器って、あれは違うのか?
指、簡単に切れたぞ。」


「ここでは、武器の用途で使っていない。
内功を練る為の道具にしている。
体の動きと合わせてやるので、動功とも言う。
あれは、主に八卦掌で使う物だが、
優れた道具なので取り入れたのだ。」

「あ、ああ、そうなんだ。」

二三夫は、適当に頷いた。

「ええーっと・・・今何やってんの?しゅ、就職活動とかしてる?」
一分たりとも、そんなことをしているようには見えなかったが一応聞いてみた。

「今やっていることは、見ての通りだ。就職活動はしていない。」

清源は、口以外どこも動かさない。
かといって、無生物的な感じではなく、
身体が無くなり、炎が静かにそこにゆらめいているような感じだった。
二三夫は、わけがわからず、猶も聞いた。
「これからどうすんの?
あ、いや、俺も何に も決まってないから、人のこと言えないんだけど。
あと、今清源が何やってんのか見てもわかんないよ。
・・・どうしたんだよ?一体。」


二三夫は、やっと自分が混乱している事に気付いてきた。

「これからは、どうするか?これからも今やっていることを続ける。
今俺が何をやっているのか?それを説明するのは難しい。
だがやってみよう。一言で言えば、修練を積んでいるのだ。」


「何で?」
 根源的な問いだった。

「修練を積み、功が成り、道を悟れば、神人合一に至る。
俺はそれを目指している。人間は本来、皆そうするように出来ている。
最近それに気付いたのだ。」

「あ、ああそう。気付いちゃったんだ。」

二三夫は、生返事をしながら何とか理解しようと努めてみた。

「ええと、要するに修行してるの?」

清源は、目を開いた。瞳は真っ直ぐだが、どこか焦点があっていない。

「『行を修める』か、なるほど。なかなか適切な言葉だ。」

少し唇が歪む。笑っているらしい。

「ええ、えーと、その、修行して、それが終わったらその後どうするの?」
二三夫は、妙な圧迫感を覚えながら、質問を続けた。
会話が途切れるのが嫌なだけなのだが、
何となく相手に言わされている気になった。

「その後の事は俺にもわからない。
俺は天命に従うのみだ。
ただ、功が成るのももうすぐだろうという実感はある。
最近は色々なことが出来るようになった。
それは、様々な束縛から解放されているということでもある。」

「へえ。」

呆れているのか感心しているのか、二三夫は自分でもよくわからない。


「そうだな、例えば・・・お前はさっき、
外で扉を開けてくれと言っていただろう?」


二三夫は、さっきのことを思い出した。

「え、ああ、うん。」
「俺はこの場所を一歩も動いていない。
でも、戸の鍵を開けることができた。」


戸が開くまでの時間がやけに短かった、ということに、二三夫は気付いた。
「ああ、そういえば。凄いな。念力?」

「念力とは少し違う。あの扉の錠は金属で出来ている。
簡単に言えば、金気を開門に導いたのだ。
正しい道理を知って、それが身と心に染み込めば誰でも出来ることだ。
何かに執着している人間にはなかなか道理がわからない。」

「はあ・・・なんか、変わったなあ。お前。」

「俺もそう感じる。まあ、最も鍵を開けたのは、

太極の力も借りたから、俺一人の力ではないがな。」

「太極・・・ってあの、太極拳とかの?」

「そうだ。俺の下の図形がそうだ。」


二三夫は、改めて清源の下の床を仔細に見てみた。
丸が二つ少し中心をずらして描いてある。
一方の丸は破線だ。

「へえ・・・なんか、太極ってこんなのだっけ?
よくわかんないんだけど、韓国の旗みたいなのじゃないの?」

「あれは正式図。これは略図だ。
原理が同じだから、略図でも構わない。
太極の意味はわかるか?」

 始めて清源から質問してきた。

「い、意味って言われても。」

「意味がわからなければ、真の効果は得られない。
この、実線の丸が、存在。この破線の丸はその影だ。
光を当てれば影が出来る。この図は、この世の理を表している。
神は、自分に似せて人を作った。
それは、自分の姿を知る為だ。神とは存在そのものだ。
その意味で、我々は神の影だと言える。
自分の姿を見ることは、神でもむずかしい。我々 には不可能だ。
我々は、自分の影を見ることによって、自分の姿を知るのだ。
神は動かない。影は、光の当て方をかえれば様々に動く。
だから、神は変わらないが我々は変わる。
この世に満ちている『気』とは神の息のことだ。
それに身をゆだねることにより、我々は存在の理を知る。
太極は、存在とその影、我々とその影の関係を表現しているのだ。」


二三夫はますます頭が混乱してきたように感じていた。

「どうだ?お前もやってみるか?」

ぼうっとしている二三夫に、清源が語りかける。
一瞬頷きかけて、二三夫は危うく自制した。
「いや、やらないよ。
その、俺が言うのもなんだけど、
お前ちょっとおかしくなってんじゃないのか?
お前別にオカルトとか興味なかっただろ。
何でこんなことになったんだよ。
俺にもわかるように説明してくれよ。」


清源の、目が変化した。
どこか焦点の定まっていない、死んだような瞳だったのが、
その一瞬だけ、活きた眼になった。

「かなりやの歌を知っているか?」

「か、かなりや?唄を忘れたかなりやは、ってやつか?
西条八十だっけ。」

「そうだ。唄を忘れたかなりやは、
どうやれ ば唄を思い出すんだか覚えているか?」

「いや、そんなに昭和歌謡に詳しくないから・・・。」

「『唄を忘れたかなりやは
 後の山に棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れたかなりやは
背戸の小薮に埋めましょか
いえ いえ それはなりませぬ

  唄を忘れたかなりやは
柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう』」

「・・・。」

二三夫は、おとなしく聞いている。

「『唄を忘れたかなりやは
象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄をおもいだす』
だ、二三夫。つまりはこういうことだ。
我々は、皆本当は答えを知っているのだ。
しかし、生まれた時から、歳を重ねるに従いそれを忘れていく。
学べば学ぶほど、答えから遠くなる。多くのものに囚われるようになる。
余っているのは足りないのと同じことだ・・・
悪いがこれ以上わかりやすくは言えない。お前にもいずれわかる時がくる。」

「そんなこと考えてその歌詞つくってないと思うけどなあ・・・。」

二三夫は憮然としている。

「無意識に作ったものの中にこそ、真実は含まれている。」

「もう帰るよ。清源、俺はこんなこともうやめたほうがいいと思うぞ。」

 二三夫は、踵を返しさっさと出口に向かった。
また何か言い出したら、どうしようもないからだ。

「二三夫、来てくれて嬉しかったよ。ありがとう。」

 清源の声を後ろに聞きながら、二三夫はドアを開けた。


「なるほど、そりゃあ重症だね。」

翌日、二三夫はまたあの坂を登っていた。
今度は一人ではない。占い師をやっている先輩と一緒だ。
先輩は快活によく喋る人だった。

「すいません、先輩。こんなことで・・・。」

「気にするこたあないよ。僕も興味があるしね。」


 先輩は、やけに楽しそうだ。

「しかし、気をつけてくださいよ。
あいつ本当におかしくなってますから。」

 二三夫は、心配そうに話す。
昨日の清源のことを話したら、先輩が見にいくと言い出したのだ。
「心配ないって、僕が更正してやるよ。別に噛みつきゃしないんだろう?」

「それは・・・噛みつきはしませんけど、
でも武器とか部屋の中にありましたよ。」


 先輩は少し驚いた。

「武器ぃ?どんなのだい?」

「ええと、なんか刃物でしたけど・・・。」

「ああ、そんくらいなら平気だ。君ん家にも包丁くらいあるだろ?」

先輩は軽く言う。

「そりゃあそうですが。」

「まあ、まかせときなって。」


 何となく不安な二三夫を尻目に、先輩は愉快そうにずんずん進む。
やがて二人は清源の部屋の前についた。

「僕はここで待ってますよ。」
二三夫はドアの前で言った。 
先輩は、チャイムを鳴らした。
鍵が外れ、扉が音も無く開く。

「お、本当だ。こりゃ凄い。自動ドアだ。」

「パワーアップしてますよ。」


先輩は中に入っていく。

「うわあ、随分派手になってるね・・・。」

先輩の声が聞こえる。
やがて扉はひとりでに閉まった。
五分くらい経って、先輩が出てきた。

「ど、どうでした?」

 先輩は、いつになく真面目な顔つきになっている。

「うん、ありゃあもうダメだね。」

「ダメですか。」


二三夫は、予期していたことではあったが、はっきり聞くと落胆した。

「もう、住んでる世界が違うみたいだ。
僕は君の話しを聞いて、てっきり清源は世捨て人みたいになったのかと
思ったけど、あれはもう世捨て人を通り越して仙人みたいになっちまってる。
どうしようもないよ。」

「そうですか・・・。」

二三夫は、ため息をついた。
なにか、遣り切れない思いがしたのだ。

「なに、気にすることはないさ。
人にはそれ ぞれ生きる道がある。」

先輩は、二三夫の肩を叩いた。

それから数十日後、清源が死んだという連絡が、二三夫の元に届いた。
死後何日かたっていたのに死体は不思議と綺麗で、
鼻水を大量に流していたそうだ。
二三夫は、その旨を先輩に報告した。

「ああ、ついに逝っちまったか。まあしょうがないね。」

「鼻水ってなんなんでしょう?」

「うん、道教か何かで、
修行が成功した人間は透明な鼻水を流して死ぬと聞いたことがある。
彼は尸解したのかもしれない・・・死体を火葬したら、
骨まで煙みたいに消えていた、なんてオチがつくかもね。ハハハ。」


先輩はいつも通り明るかったが、二三夫はそういうわけにいかなかった。
二三夫はまだ、何も決まっていない。
これから自分がどうなるのか、明日のことさえわからない。
時々、あの時のことを考える。
あの時、清源を無理やりにでも、あの部屋から引っ張り出せば、
助けることが出来たのだろうか?
それとも、自分もあの部屋で清源に誘われるまま、
仙人にでもなんでもなって別世界に行ってしまっていたほうが
良かったのだろうか?

『いえいえ、それは、なりませぬ。』

 了

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コオロギ事件

1、緑の錬金術師

東の山の端が薄く光を帯び始めた。
青年は先を急いだ。
ぼんやりと暗い、丈の高い草で覆われた細い道を早足で歩く。
時々、冷々とした乾いた風が青年に吹きつける。
青年は大分早く部屋を出たつもりだったが、
それでも夜通し歩くはめになった。
羽ばたきが聞こえる。山の鳥達が起き始めたのだ。
もしかしたら迷ったのかもな、と青年は思った。
大体が雲を掴むような噂だったのだ。
ひゅうひゅう鳴る遠鳴りの風と、
鳥達のざわめきに混じり、水音が聞こえてきた。
小さく、川の流れが響いている。
川・・・もしかしたら、もうすぐだ。
青年は元気を取り戻し、さらに急ぎ進んだ。
夜が明ける。たちまち真っ赤なリボンが空に現れる。
川べりの道に出た。深い谷川だ。水の音が湧き上がってくる。
少し先に、石造りの橋が架かっていた。
橋は途中で終わり、その先には小さな石の家がある。
まだ住人は起きているらしく、やわらかい、オレンジ色の光りが、
開いた戸口から漂い出していた。

「あれか。」
青年は音を密め、ゆっくりと石橋に近づく。
橋のたもとに立った。戸は完全に開け放たれている。

「だれですか?」
家の中から若い女の顔がのぞいた。

「いえ、近所の者ですが。」
咄嗟に、口をついて言葉がでる。

「こっちへ、いらっしゃい」
そう言って女の顔は引っ込んだ。
別に来なくても良さそうな言い方だった。
青年は少し迷った後、橋を渡り始めた。 がっしりとした橋だ。
頑丈に組み上げられた手摺りを持って、青年は身を乗り出してみた。
川の波を裂いて建っている、真ん中が細い石の柱が橋を支えている。
一番太い柱が橋の先端の下にある。その上が家だ。
橋を渡りきった。
青年は開いた戸口から建物の中をそっと窺った。
女と眼があった。

「あの・・・。」

女は、所々白くふちどられた、深い緑色の服を着ていた。

「私は、錬金術師です。名はラノオス。」
青年の言葉を遮るように女は言った。
女は大きな木のスプーンを両手で持って、
とろとろと燃える炎の上の大甕の中をかきまわしている。
甕の中には牛肉と玉葱が浮かんだ茶色いスープが湯気を立てていた。

「おいしそうですね、朝ご飯ですか?」
青年は、甕に目をやりながら言った。
ラノオスは一瞬、手を止めた。
そして顔を上げ青年を見つめながら答える。
「これはモクセイドリの材料です。」

「モクセイドリ?」

聞きなれない言葉だった。

「木でできた、鳥です。」
ラノオスはまた、スープをかきまぜ始める。
「いかがです?」
女はそばの机の上から木椀をとり、
甕の中身をスプーン一杯ついで青年に渡した。

「いただきます。」
青年は、油が浮いてきらきらしているスープをすすった。
「・・・ビーフシチューの味がする。」
熱いスープが青年ののどを経由し、胃袋におさまる。

「食べることも、できます。」
ラノオスは無心に手を動かしながら言った。
戸の反対側には小さい窓がついている。
窓の上には古い絵が掛けられていた。
何回も絵の具を塗り重ねた、暗い感じの油絵だった。
甕の下の火と、壁のランプのオレンジの明かりが部屋を照らしていた。
天井には換気口がある。
青年は時間をかけて部屋を一通り見渡した。

「ごちそうになりました。もうそろそろ帰ります。」
青年はそうあいさつして、女錬金術師の部屋を後にした。
外に出て、橋の中頃まで来た時後ろから呼びかけられた。

「町の、人ですか?」

「そうです。」
反射的に答えてしまい青年は、しまった!と思った。

「近所では、ありませんね。」
青年は振り向いた。
ラノオスは戸口の外に出ている。
朝の、刺すようなピリピリした外気の中のラノオスは、
部屋の中とは違ってみえた。
風に揺れる緑の長い服が、触れれば切れるように鋭く見えた。
暗くて、重い感じのする石畳の上の彼女を見ているうちに
青年の中に妙な想念が浮かんで来た。
あの緑の服は、ラノオスの礼服だ。
象徴だ。あの緑は冷たい緑だ。
寒気の緑。北の緑だ。雪をかぶった針葉樹の緑だ。

彼女は、緑の錬金術師だ。

ラノオスは、
「また、いらっしゃい。」
と言うと、身をひるがえし家に戻っていった。

2、町の噂

青年はニ、三日前にその噂を聞いた。

『峠を一つ越した川のほとりに錬金術師が住み着いた。』

町の人間は、ほとんど皆その話しをしているように思えた。
ひそひそと、一人から一人へその噂は伝えられた。
青年はその話しを聞いた後、すぐに自分の部屋に帰った。
骨董屋の二階の埃っぽい部屋だ。
しばらく部屋の中のガラクタを触りながら考えたあと、
その錬金術師に会いに行く事を決めた。
青年がラノオスに会って帰ってきてからも、
相変わらず町の噂話は続いていた。
こそこそと、皆、人目をはばかるように話している。
町のあちこちに二人組ができていた。
青年は骨董屋の二階の窓からその様子を見ていた。
一日、二日、と町を眺め再び青年はラノオスの家に行った。

3、木製鳥とコオロギ

良く晴れた昼。小春日和だ。
気だるい暖かさが道の草をゆり動かしていた。
あの橋が見える。戸は外に開け放たれている。
青年は石の橋を渡り、家の中を覗いた。
ラノオスが甕をかきまぜている。
橋の向こうが騒がしい。青年は振り向いた。
町の人々だった。
皆、十字軍の格好をして手に思い思いの武器を持っている。

「つけられた!」
青年は、そう叫んで前に出た。
やわらかい陽光が、町の人々に注がれている。
剣や斧が陽射しを受けて時々光った。
町の人々が甲高い声を上げて突進してきた。
殺気を振り撒いている。
ラノオスがスプーンでスープをすくって出てきた。
人々は一瞬怯んで立ち竦む。
ラノオスはスープをぶちまけた。
町の人々にかかる。人々は恐怖し橋の向こうに逃げた。
人がいなくなってもラノオスはスープを橋に撒き続けている。
しかし青年は、スープをかけたぐらいでは
町の人間はあきらめないだろうと思った。

「これじゃあ、持たないですよ!」

「木製鳥を呼びなさい!」
ラノオスが言った。

「木製鳥?」

町の人々がまた向かってくる。

「木製鳥の名前です。あなたはそれを知っています。」

木製鳥の・・・名前。
青年は殺到する町の人々から身を隠すように
橋の外側に両手でぶら下がった。
そして、足を橋の外壁にかけると同時に、
弾けるように頭に浮かんだ言葉を叫んだ。

「コオロギ!」

  スープがかかっている場所を中心に橋が崩れ始める。
町の人が五、六人谷底に落ちた。
バラバラに分解された橋を組み立てていた石の塊が、
空中で集まって形をとる。
大きなエイのような形だった。青年はその上に乗っている。
青年は必死で掴まった。表面はザラザラしている。
虹色に光っていたそれは、段々落ち着くようにこげ茶色に変化した。
木製鳥はすべるようになめらかに、谷の合間を飛んでいく。
ラノオスもいつの間にか青年の横に座っていた。

「コオロギ・・・コオロギ・・・?」
青年は呟いている。
何故自分がそんな言葉を知っていたのか分からなかった。

「それは、木製鳥の名前。そして。」
 ラノオスは青年の胸を指さした。
「あなたの心の、奥の奥にある、あなたの本統の名前。」

青年はびっくりして目を丸くしてラノオスを見た。

「冗談、です。」
ラノオスはにっこり笑った。
風を切り裂き、バタバタとはためく緑の服。

                        (了)

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