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私的記録 弐



仏壇の前に
たくさんの花が並んでいます。
明日は祖母の一周忌。
祖父の遺影はもうお稽古場に飾ってありますが
祖母の遺影はまだお仏壇の前にあります。

母は未だ泣いています。毎日のように。
その遺影をお稽古場に飾れるようになれば
母も少しは立ち直ったことになるのでしょうか。

それでも確実に変化したと思う日々。
彼女を支えるのは私しかいないのです。
物心ついた頃から祖母に言われていました。
私が祖母の代わりをしなければならない、と。
母を守らなければならない、と。
実際は守られているのは私であっても
祖母の死は私の人生で一番の恐怖でした。

2003年1月3日。

すでにもう何度も呼吸停止が起きていると聞きながら
今日も、生きてくれたのだと思う。
2交代制では母の体も神経ももたないので
かつて祖母がひいきにしていた旅館の仲居さんに
住み込みで手伝いにきてもらっていた。
母より少し年上の幸子さん。

幸子さんが朝食の前後、朝9時くらいに病院に着いて
私は病院を後にする。
結局私は一度も幸子さんに夜の付き添いを頼まなかった。
自分の体などどうにでもなると思った。
母が病院につくのはお昼前。早くて11時。
その間に亡くなる可能性もあった。
それでも母は私に眠りなさい、
私が体を壊すといけないから、と
立派に葬儀を終らせることが一番祖母の望んでいることだと
私が自宅にいる間に亡くなっても
絶対に知らせないときかなかった。
母も健康な体ではない。
精神的にも身体的にもぎりぎりの状態だった。

私は当然眠れるわけがない。
この頃には睡眠薬などなんの効果もなかった。
何度かナースステーションに電話して
祖母と母の状態を教えてもらう。

3日の朝、
舞い降りてきた雪が
とても切なくて哀しくて
ずっと空を見上げていた。
涙がとめどなく溢れた。

あの時ほど心が透明になったことはないと
今でも思う。

2002年12月に私も極度の不安から
過呼吸発作を起こして以来、
薬でなんとか発作を抑え、歩くのもやっとだった。
震撼症状も続いていた。
家では横になったまま
眠るわけでもなく、苦しい時間をすごした。

2003年1月3日
22時前にいつものように病院に到着する。
母は、今日あたり危ないかもしれない、と言う。
呼吸停止の回数が多くなった。

祖母はもう1ヶ月、
点滴も注射もしていない。
投入しているのはモルヒネの手前のレペタン座薬だけだ。
少しのメロンと、氷だけで命を繋いできた。

祖母は昏睡状態でも確実に生きていた。
6時間おきにレペタン座薬を投入、
数時間おきに看護婦さんが体位の交代に来てくれる。
話すことはできないけれど
目は確実に開く。私を見つめる。

10時間以上体をさすることが続いた2か月。
私の体も、限界に近かった。
12月の半ばに一度正常な意識に戻ってから
祖母は二度と話せなくなった。
わずかな変化でも気がつけるように
私は簡易ベットに横にならず祖母の体をさすったり
祖母の手を握ったままベットにもたれていた。

祖母が目を開くと氷で口を濡らした。
看護婦さんには水も飲み込めない状態だからと
反対されていたけれど。
ばーちゃま、氷ですよ、ごっくんしてください、
そう話しかけると祖母は水分を上手に飲み込んだ。

そんなことを繰り返しながら夜が過ぎていく。

私は祖母の手を握ったまま
30分ほどうとうとしていた。
心拍計をつけているのだから
脈に異常が出れば看護婦さんが飛んできてくれるのだけれど
この夜だけは絶対に横になる気がしなかった。

朝6時ごろだったと思う。
祖母が目を開いた。同時に私も少し眠っていたことに
気がつく。

おはようございます。
朝ですよ。
もうお正月三日間も終りましたね。
家族3人で新しい年が迎えられましたね。

そう話しかけていつもとおり
熱いタオルで祖母の顔をふいてあげる。

そして祖母の大好きな氷で口の中を湿らせる。
安心したように
祖母は眠りに着いた。

このときが「末期の水」だったのだと
後に母は言う。

祖母の心臓の音が聞こえそうなくらいの静けさの中で
私も意識朦朧としていた。

おだやかな、おだやかな時間が流れた。




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