シュタイナー




◆ルドルフ・シュタイナーについて書きたくて 1◆

でも、自分の言葉で書くのは大変なことなので、
とりあえず、このページでは、シュタイナーの本から引用します。
シュタイナーが何を語ったか、どう生きたか、知って欲しいです。
2005/07/14


ちくま新書「シュタイナー入門」(小杉英了著) では、ルドルフ・シュタイナーがどんな人だったのか、
シュタイナーが生きていた頃の時代背景や思想の流れなどもとっても素敵に著していると私は感じてます。
「シュタイナーってどんな人?」と、「カッコイイ文章」を同時に味わえる、オススメ本です。
ほんのごく一部を抜粋して、びっしり引用しますが、興味のある方は読んでみてください。



このページでご紹介するのは、シュタイナーそのものというより、宗教の歴史のごく一部についてと、
その中で「オカルト」の意味と存在理由など、小杉氏が書かれたページからの物です。




9世紀の教会会議 060~062

そもそも「オカルト」とは、語源で言えば、「視界から覆い隠して見えなくする」という意味のラテン語 occulere の
過去分詞である occultus に由来する。つまり、「隠された、見えなくされた」もの、という意味である。
となれば、いったい 誰が、何を、誰に対して、覆い隠したか が問題となり、
それはすなわち、シュタイナーが 何を、誰に対して、開示しようとしたか ということに通じる。

シュタイナーが、いくつもの講演の中で、繰り返し言及した教会会議がある。西暦869年から翌年にかけて、
コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)で開催された教会会議である。

普通、教会史の中でこの会議は、最終的には東方教会(ビザンティン帝国)と西方のローマ教会とが分裂するにいたる
教会論争の流れの中に位置づけられているが、シュタイナーがこの会議を繰り返し取り上げたのは、会議における
三位一体論をめぐる聖霊論争の中で、個々の人間と霊的なものとの直接的な結びつきが拒否され、人間はただ、
使徒の系譜に立つ教会を通して聖霊を受けるときにのみ霊的なものと結びつく、という教義が確立されてしまったから
であった。

それによって人間は、肉体と、個人的な内面生活の場である魂との、2つの要素から成る存在とされたのである。
肉体は動物的本能と感覚とに支配されており、魂は悪魔の誘惑に弱い。これだけでは救済はかなわない。
肉体と魂という二元的要素からなる人間は、霊がそこから恩寵として下される教会組織に属してはじめて、
永遠なる神との契約に入る、とされたのである。
裏を返せば、教会の外では、霊的なものとの直接な結びつきなど生じるはずがない。もしそのようなことが可能で
あると主張する者がいたならば、それは悪魔のささやきにほかならず、悪しき異端である、ということになるのだ。

このドグマは、早くもキリスト教に対する迫害気に発生し、4世紀のコンスタンティヌス帝による公認、そして
ローマ帝国の国教へという一連の出来事を通して、不動の地位を獲得していった。
それを神の勝利の歴史と呼び、神の栄光の顕現と呼ぶのは、しかし、ローマ化された正統キリスト教のドグマである。

キリスト教の歴史は、異教と異端に対する徹底した論争の歴史である。
異教とは、イエス出現以前の伝統的諸宗教のことであり、異端とは、イエス・キリストをめぐる言説の中で、
正統でない、と正統派が決めた一切のものである。
教会教義や神学大系は、何世紀にも及ぶ熾烈な論争の中で構築された。
自他の可能な限りの峻別こそ、正統教会の論理であった。

ことにローマ政治権力と教会とが結びついた4世紀以降、その論争形態は、口頭・文書・会議の範疇を超えて、
軍事警察力も含めた実力行使をともなう、非寛容的かつ徹底したものになっていった。
4世紀の最初の公会議で勝利をおさめた正統派の司教アタナシオス(296頃-373年)は、367年に出した書簡を通じて
イエスと使徒の言行録のうちどれが正統であるかを明示し、これに属さない一切の文書の破棄を厳命している。
これが現行の新約聖書におさめられている27篇の文書の確定である。



このあと、062ページ~069ぺージで
「ナグ・マハディ文書」の発見
大乗仏教の如来蔵思想

と続くのですが、管理人の好み優先でカットします。



般若とグノーシス  069~

釈迦の滅後じゃらおよそ千数百年にわたる大乗仏教の東アジア的展開を大急ぎで述べたのは、シュタイナー入門に
ふさわしからぬ所行かもしれない。
けれども私が、あえて大乗仏教の思想的展開を紹介したのは、繰り返すが、シュタイナーのオカルティズムと
キリスト論に接近する筋道を、可能な限り広く、明るく、ととのえておきたいと思ったからである。

むろん、私の意図するところは、キリスト教と仏教とを単純に比較して見せて、どちらがすぐれているか、などという
愚にもつかないことを言いたいからではないし、シュタイナーを仏教的視点から理解すべきだと言うものでもない。

私が言いたいのは、初期キリスト教におけるグノーシス諸派のヴィジョンと、空観という独自の直感から如来蔵へ
いたった大乗仏教の思想と照らし合わせてみるとき、奇しくもそれが、ほぼ同時に発生した聖なる智慧の放射である、
という一点なのだ。

この聖なる智慧の放射は、東方においては「般若」によって現され、西方においては「グノーシス」という言葉に
よって表された。
「グノーシス」とは、ギリシア語で「知識」とか「認識」を意味するが、ヘレニズム末期からキリスト教初期の
時代においてグノーシスちは、合理的な知性によって獲得する知識や認識のことではない。

2世紀中頃、アナトリア(現在のトルコ地域)で教えを説いたグノーシスの導師テオドトスの言葉を借りるなら、
グノーシスとは、------自分がいったいなにものであり、どこから来て、どこへ行くのか、何から解き放たれる
べきなのかを知ること-----、それがグノーシスなのである。
すなわち、グノーシスとは、根源的にして直感的な智慧によって、 みずからの本質に神が宿っていると認識
すること
にほかならない。
透徹した自己認識を通して、本来的自己の神性を直感することがグノーシスである。
これは、グノーシスとして現れた西方の如来蔵思想である。

この問題に詳しい方々のために、ここで急いで、手短に付け加えておかなければならないことがある。
それは東方における如来蔵・本覚思想は、東北アジアへ伝承され、日本に到達するにいたって、この世のあるが
ままな肯定へとたどり着いたのに対し、西方におけるグノーシス的展開の1つの帰結が、この物質世界を、
デミウルゴスあるいはヤルダバオトと呼ばれる無知なる神の所産と見なし、これを絶対否定して、性急なまでの
解脱願望にいたったのは、興味深いコントラストであり、刺激的な問題を含んでいて考察を促されるが、
ここでは、これ以上の深入りを許されていない。

一言だけ言うなら、この対比の根源には、おそらくこれに先立つ霊性の展開史がある。

東方が、ヒンドゥー教や日本の神道に代表されるような、万有神論的なシャマニズムの伝統を多様かつ強固に
保持し続けてきたおに対して、西方が、同様のシャマニズム的伝統を神懸かりの密儀宗教の内部に保持しながらも、
そこに、妬む神を対ヲ唯一神として崇拝するへブラウズムの伝統と、光と闇の二元対立を基軸とするゾロアスター教
の伝統とが、いわば切っ先鋭い匕首(あいくち)を刺しているのである。
そして、この刺し傷から流れ出たものが西洋なのであり、それ以前には、東西の別はなかったと思われる。

強いられた秘密の伝承  071~

正統キリスト教界がローマの権力と1つになったとき、キリスト教徒への迫害は永遠にやんで、
神の平和が訪れたかに見えた。
が、しかし、そこから新たに、非正統的言説を弄する輩への長期にわたる、容赦のない、
執拗きわまる迫害が始まったのである。
そしてこの方のの迫害は、誰も「迫害」とは呼ばなかった。
それは、「審問」、「断罪」、「破門」、そして「撲滅」と呼ばれたのである。

なぜなら、迫害したほうが正統であり、された方が異端だからだ。
正しきものが、間違ったものを迫害しても、それは迫害ではなく、神の意志の顕れである!

詳細は省き、こころみに思いつくまま列挙しよう。
初期の段階で、異教はすべて禁じられ、最大の思想潮流だったグノーシス諸派も、ローマの力をもってほぼ根絶やし
にされて、その教えはいずれも東方へ逃れていった。


ゲルマン諸族の大移動期をはさんで、中世に入ると、異端狩りは東方伝来の思想的刺激を受けた宗派に向けられて
いく。
異端は常に、東方からひそかに持ち込まれた毒であると信じられたのだ。

11世紀から13世紀にかけて、南フランスのラングドック地方で徹底弾圧され、虐殺をもって消滅させられた
カタリ派およびアルビジョア派は、東方のマニ教的あるいはグノーシス的説教を信じた人々が、地中海経由あるいは
北アフリカ経由で南仏に住みついたその末裔であると信じられた。

14世紀初頭には、かつて十字軍遠征の際に、聖都エルサレムを守護した聖堂騎士団が異端宣告を受けて壊滅
させられ、指導者が火刑にふされている。

カタリ派や聖堂騎士団への弾圧を通して、正統キリスト教会は、異端狩りの組織化をはかった。
異端審問制度がそれである。
13世紀におけるその創設から、近代の令名期にいたるまで、この裁判によって処刑された人々は数知れない。

とりわけて、15世紀から近世を通じて処刑され続けたいわゆる魔女の悲劇を、ここで繰り返すまでもないだろうし、
異端宣告によって運命を翻弄されたルネサンス期の天才たちの名を、逐一挙げる必要もあるまい。
宗教改革期の前後において、教会の根本的変革を唱えて焼(く)べられた、諸々の先駆者たちについても、同様である。

正統キリスト教会による、ことほどさような恐怖政治的一元支配と抑圧的体制下にあって、それでもなお、
かろうじて伝承されてきた教えを、あるいはまたみずからが瞑想の中で感受したヴィジョンを、なんとか人に語り
伝えようとするならば、秘密の結社を作って人知れず教えを伝授するほか、すべがあろうか。

ヨーロッパに派生したオカルト的なもの、すなわち隠され、秘密にされた、霊的なるものに関する知と技の伝承とは、
このように強いられた地下水脈の歴史をもつのである。
正統キリスト教会の勝利と栄光、すなわちヨーロッパの昼と夜の歴史は、強いられたオカルト的なるものの
夜の伝承と対をなして、ヨーロッパの濃密な陰影を構成している。
この鮮烈なコントラストを西洋の歴史の中に見なければならない。

だからオカルトとは、好事家たちの悪趣味でもなければ、非科学的絵空事でもなく、ましてや安手の
エンタテインメントでもない。
それは、隠さなければ、すなわちオカルティックでなければ、生き残ることなどできようはずもなかった
教えの法統なのである。

近代におけるオカルト復興

時間がなくなったので、続きは、またの機会に書きます。



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