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結城秀康は慶長6年(1601)、越前に入国すると早速、北庄城(のちの福井城)の改築工事に取り掛かり、本丸は、かつての越前領主・柴田勝家が築いた北庄城本丸(足羽川北岸の柴田神社付近)より1千mほど北へ築城、しかし全体としては、勝家の北庄城を基盤に拡充・整備したようです。縄張(城郭の設計)は本丸を取り囲むように二の丸、三の丸、さらには二重に外郭を配した五重の環郭式城郭だったといわれ、68万石大藩の居城にふさわしい規模であったようです。
このうち、本丸と二の丸の縄張(城郭の設計)は徳川家康が担当したといわれています。本丸の北西隅に築かれた天守は、外観四重内部五階、2段構成の天守台を含めた高さが37mに達し、姫路城にも匹敵する威容を誇っていたという。北庄城(のちの福井城)は着工から6年後の慶長11年(1606年)に完成したようです。初期の福井藩は加賀・前田氏に次ぐ大藩といわれ、城下人口は4万人を超え、全国屈指の城下町だったとみられています。今でも市役所横から裁判所にかけての国道を大名町通りと呼ばれていますが、この名称は藩政時代に大名小路と呼ばれていたことに由来、かつてその当たりは万石以上の家臣が屋敷を構えていたようです。
しかし、このように立派な北庄城(のちの福井城)も、江戸時代で最も大きかったといわれる寛文9年(1669)年の大火でほとんど全焼、豪華を誇った天守閣も灰になってしまったのですが、それ以来天守閣は再建されていない。徳川幕府の方針で再建が
許可されなかったという。
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