趣味の漢詩と日本文学

趣味の漢詩と日本文学

August 31, 2016
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カテゴリ: 学習・教育
【本文】深草の帝とまうしける御時、良少将といふ人いみじき時にてありけり。
【訳】時の帝を深草の帝と申し上げた御代に、良少将という人がいて帝の信任が非常に厚い時だったとさ。
【注】
「深草の帝」=仁明天皇(八一〇~八五〇、在位は八三三~八五〇)。嵯峨天皇の第一皇子。諱は正良(まさら)。母は橘の清友のむすめ嘉智子(かちこ)。八三三年、淳和天皇の譲位により即位。八五〇年三月、病を得て出家するも、数日後に崩御なされ、今の京都市伏見区深草東伊達町の深草の陵(みささぎ)に葬られた。
「良少将」=僧正遍昭。俗名は良峯宗貞(八一五~八九〇)。承和十三年(八四六)に左近衛少将、嘉祥二年(八四九)に蔵人頭に任じ、帝の崩御せられたときに出家した。六歌仙の一。

【本文】いと色好みになむありける。
【訳】非常に多情なひとであったとさ。
【注】
「色好み」=粋人。多情な人。


【訳】人目を忍んで時々密会していた女が、同じ宮中にいたとさ。
【注】
「内裏」=宮中。

【本文】「こよひかならずあはむ」とちぎりたりける夜ありけり。
【訳】「今夜きっと逢おう」と約束しておいた晩があったとさ。
【注】
「こよひ」=今晩。
「あふ」=男女が知り合う。結婚する。
「ちぎる」=約束する。

【本文】女いたう化粧して待つに音もせず。
【訳】女が非常に念入りに化粧して男の来訪を待っていたが音沙汰もない。

「いたう」=非常に。
「化粧す」=顔を装い飾る。
「音す」=おとずれ。たより。音沙汰。

【本文】目をさまして、「夜やふけぬらん」と思ふほどに、時申す音のしければ、きくに、「丑三つ」と申しけるを聞きて、男のもとにふといひやりける、
【訳】待ちくたびれてうとうとしていたが、目を覚まして、「もう夜が更けただろうか」と思っていると、時報を知らせる声がしたので、聞いていると、「丑三つ」と言ったのを聞いて、

「時申す音」=宮中で宿直の者が時刻を知らせる音。

【本文】人心うしみつ今は頼まじよ
といひやりたりけるにおどろきて
【訳】愛する人の心を信じて来訪をあてにしていたが、あなたを信じたばかりに「憂し」という目を見たた。すでに「丑三つ」時になった今となってはもうあなたが来るのは当てにしません。
と五七五の上の句を作って贈ったのに
【注】
「うしみつ」=午前三時。「丑三つ」と「憂し、見つ」の掛詞。『筆のすさび』に「うしみつ今は頼まれず」という言い方が見える。

【本文】夢にみゆやとねぞ過ぎにける
とぞつけてやりける。
【訳】「夢の中であなたの姿が見えるかと寝過ごすうちに、うっかり約束の時間を忘れて子の刻が過ぎてしまった」
と七七の下の句を付けて贈った。
【注】
「ねぞすぎ」=「寝ぞ過ぎ」と「子ぞ過ぎ」の掛詞。

【本文】しばしとおもひてうちやすみけるほどに、寝過ぎにたるになむありける。
【訳】約束の時刻まで少しの間と思って、ちょっと休息していたあいだに、寝過ぎてしまったのだったとさ。
【注】
「しばし」=少しの間。

【本文】かくて世にも労あるものにおぼえ、つかうまつる帝かぎりなくおぼされてあるほどに、この帝うせ給ひぬ。
【訳】このようにして世間でも和歌に熟練している者だと思われ、お仕えしている天皇もこのうえなくお思いになっていたところ、この天皇が御隠れになった。
【注】
「労」=熟練すること。経験を積むこと。

【本文】御葬の夜、御供にみな人つかうまつりける中に、その夜よりこの良少将うせにけり。
【訳】ご葬儀の晩に、お供として関係者全員参列いたしました中で、その晩から良少将は姿を消してしまった。
【注】
「うす」=姿を消す。

【本文】ともだち、妻も、「いかならむ」とて、しばしはここかしこ求むれども、音耳にもきこえず。
【訳】友人や妻も、「どうしたのだろう」と思って、少しの間、あちこち探したけれども、うわさすら耳にはいってこない。
【注】
「音」=うわさ。

【本文】「法師にやなりにけむ。身をや投げてむ。法師になりたらば、さてあるともきこえなむ。身を投げたるべし。」とおもふに、世の中にもいみじうあはれがり、妻子どもはさらにもいはず、夜昼精進潔斎して、世間の仏神に願をたてまどへど、音にもきこえず。
【訳】「法師になってしまったのだろうか。あるいは身を投げてしまったのだろうか。もし法師になっているのなら、どこそこでそうしているといううわさでも、きっと耳にはいるだろう。そういう話もないところをみると、きっと身を投げてしまったのにちがいない。」と思うにつけても、世間でもひどく同情し、妻子はいうまでもなく、夜も昼も精進潔斎して、世の中にありとあらゆる神仏にどうか無事に生きておりますようにと盛んに願をかけるが、いっこうに噂すら聞こえてこない。
【注】
「法師」=出家。仏法によく通じ、人の師となる者。
「身を投ぐ」=投身自殺する。
「あはれがる」=かわいそうに思う。気の毒がる。
「さらにもいはず」=もちろん。今さら言うまでもない。
「夜昼」=夜も昼も。いつも。
「精進潔斎」=心身のけがれを清める。寺に参る際に「精進」、神社に詣でる際に「潔斎」。
「まどふ」=動詞の連用形について「盛んに~する」「はなはだしく~する」。

【本文】妻は三人なむありけるを、よろしくおもひけるには、「なほ世に経じとなむ思ふ」と二人にはいひけり。
【訳】良少将に妻は三人いたが、そこそこ愛していた妻に対しては、「唯一の主君と思ってお仕え申し上げていた帝がなくなった以上、やはり世間には交わりを持つまいと思う」と二人に言っていた。
【注】
「よろしく」=ほどほどによく。

【本文】かぎりなく思ひて子どもなどある妻には、塵ばかりもさるけしきもみせざりけり。
【訳】このうえなく大切に思って子どもなどももうけた妻に対しては、これっぽっちもそのような出家の意志があるようなそぶりも見せなかった。
【注】
「かぎりなく」=このうえなく。
「塵」=わずかなこと。ほんのすこし。
「さるけしき」=そのようなそぶり。

【本文】このことをかけてもいはば、女もいみじとおもふべし。
【訳】このことを心にかけて口に出せば、女も非常に未練に感じるにちがいない。
【注】
「このこと」=出家する気でいること。
「かけて」=心にかけて。

【本文】我もえかくなるまじき心ちしければ、よりだに来で、にはかになむ失せにける。
【訳】愛する妻子に会って決意を話したら自分も決心を実行できそうにない気持ちがしたので、妻子のいる屋敷には寄りつきさえしないで、突然姿を消してしまった。
【注】
「え~まじき」=「~できそうにない」。
「にはかに」=急に。だしぬけに。

【本文】ともかくもなれ、「かくなむおもふ」ともいはざりけることのいみじきことを思ひつつ泣きいられて、初瀬の御寺にこの妻まうでにけり。
【訳】いずれにせよ、「こんなふうに自分は考えている」とも言わないで失踪したことの、あまりにひどい夫の仕打ちを思いながら、ひたすらお泣きになって、この妻は初瀬寺に参詣したとさ。
【注】
「泣きいる」=ひたすら泣く。
「初瀬」=大和の長谷寺。天武天皇の御代の創建。本尊は観音。

【本文】この少将は法師になりて、蓑ひとつをうちきて、世間世界を行ひありきて、初瀬の御寺に行ふほどになむありける。
【訳】この少将は法師になって、蓑ひとつを羽織って、各地を仏道修行しながら歩き回って、長谷寺にたどり着き修行している最中であった。
【注】
「蓑」=雨を防ぐ上着。カヤ・スゲ・ワラなどを編んで作る。
「行ふ」=勤行する。仏道修行する。

【本文】ある局ちかう居て行へば、この女、導師にいふやう、「この人かくなりにたるを、生きて世にある物ならば、今一度あひみせたまへ。身をなげ死にたる物ならば、その道成し給へ。さてなむ死にたるとも、この人のあらむやうを夢にてもうつつにても聞き見せたまへ」といひて、わが装束、上下、帯、太刀までみな誦経にしけり。
【訳】ある部屋の近くに座って修行していたところ、この女が、その座の首席の僧に言うことには「うちのこの主人はこのように行方不明になってしまっているが、もしこの世に生きているのなら、もう一度お引き合わせください。もし身投げして死んでいるなら、成仏させてやってください。そうして、たとえ死んでいるとしても、この夫があの世でどのように過ごしているかその様子を、夢の中でも、現実にでもいいから、お聞かせあるいはお見せください。」と言って、私の装束、すなわち上下、帯、太刀にいたるまで、全部読経の料とした。
【注】
「局」=参拝者のために寺の宿所を衝立などで仕切った部屋。
「導師」=法会や供養のときの中心となる首席の僧。
「装束」=正装するとき身に着ける衣冠・服装。
「誦経」=読経をしてくれた僧への謝礼として贈る品物。布施。

【本文】身づからも申しもやらず泣きけり。
【訳】自分自身も、最後まで仏さまに願い事を申し上げられないようなありさまで、泣き崩れた。
【注】
「申しもやらず」=最後まで願いを申し上げることもできずに。悲嘆で言葉にならないさま。

【本文】はじめは何人の詣でたるならむと聞きゐたるに、わが上をかく申しつつ、わが装束などをかく誦経にするをみるに、心も肝もなく悲しきこと物にも似ず。
【訳】最初は、どんな人が参詣しているのだろうかと耳をすましていると、自分の身の上をこれこれこういう事情でと申し上げながら、自分の衣装などをこんなふうに読経の報酬に布施として与えるのを見るにつけても、出家を決意したときのしっかりした心もなくなり、悲しいことたとえようもない。
【注】
「詣づ」=参詣する。神社や寺院などにお参りする。
「わが上」=少将自身の身の上。
「心も肝もなく」=気力もなく。しっかりした心もなく。『源氏物語』≪桐壺≫に「参りては、いとど心苦しう、こころぎもも尽くるやうになむ」という表現がみえる。
「物にも似ず」=たとえようがない。他に比べるものがない。このうえない。

【本文】走りやいでなましと千度思ひけれど、おもひかへしおもひかへし居て夜一夜なきあかしけり。
【訳】走って出ていこうかしらどうしようかしらと何度も思ったが、ずっと繰り返し思い返して一晩中泣き明かした。
【注】
「や~まし」=「~しようかしら」。
「居て」=「ずっと~して」。
「夜一夜」=一晩中。
【本文】わが妻子どもの、なほ申す声どももきこゆ。
【訳】自分の妻子たちが、さらに「どうか所在がわかりますように」と神仏に祈る声などが聞こえる。
【注】
「申す」=神仏に願いごとを申し上げる。

【本文】いみじき心ちしけり。
【訳】ひどく複雑な気持ちがした。
【注】
「いみじき心ち」=名乗りでようか出まいかという葛藤。

【本文】されど念じて泣きあかして朝にみれば、蓑も何も涙のかかりたるところは、血の涙にてなんありける」とぞいひける。
【訳】けれども、ぐっとこらえて泣き明かして翌朝になって見たところ、蓑も何もかも自分の涙がかかったところは、血の涙にそまっていた。」と言った。
【注】
「されど」=そうではあるが。しかし。
「念じて」=がまんして。
「血の涙」=非常に悲しい思いをしたときに流す血のまじった涙。

【本文】「その折なむ走りもいでぬべき心ちせし」とぞ後にいひける。
【訳】「あの時はさすがに私も家族の前に走り出てしまいそうな衝動がした」と後になって語った。
【注】
「ぬべし」=「今にも~しそう」の意。

【本文】かかれど猶えきかず。
【訳】こんなふうに身内などが懸命に探したが彼の定かな消息は依然として聞こえてこなかった。
【注】
「猶」=依然として。

【本文】御はてになりぬ。
【訳】帝の崩御後、一周忌を迎えた。
【注】
「御はて」=服喪期間の終わり。一周忌。

【本文】御服ぬぎに、よろづの殿上人河原にいでたるに、童の異様なるなむ、柏にかきたる文をもてきたる。
【訳】喪の明けた日に、多くの殿上人が賀茂の河原に出ていたところ、風変わりな少年が、カシワの葉に書いてある手紙をもってきた。
【注】
「服ぬぎ」=喪が明けて、喪服からふつうの着物に着替えること。
「殿上人」=四位・五位で清涼殿の殿上の間に昇殿を許された者。

【本文】とりてみれば、
みな人は花の衣になりぬなり苔の袂よかはきだにせよ。
とありければ、この良少将の手にみなしつ。
【訳】手に取って手紙を開いて見たところ、
世間の人はみな、喪服を着かえて華やかな着物になってしまったそうだ。涙にぬれたわが墨染めの衣よ、せめて乾いてくれ。
と書いてあったので、この行方不明となっている良峰の少将の筆跡だと見て判断した。
【注】
「花の衣」=華やかな衣服。
「苔の袂」=僧や隠者の粗末な衣服。この歌は『古今集』巻十六≪哀傷歌≫に収める。
「手」=筆跡。

【本文】「いづら」といひて、もてこし人を世界にもとむれどなし。
【訳】「どこへいった」と言って、持参した者を辺りで探し求めたがいない。
【注】
「いづら」=どこ。

【本文】法師になりたるべしとは、これにてなむ人知りにける。
【訳】法師になっているのにちがいないとは、このことで人は知った。
【注】
「法師」=僧。出家。仏法によく通じ、人の師となる者。

【本文】されど、いづこにかあらむといふこと、さらにえ知らず。
【訳】そうはいっても、どこにいるのだろうかということが、まったくわからない。
【注】
「されど」=そうではあるが。しかし。
「さらに~ず」=「まったく~ない」。
「え~ず」=「~できない」。

【本文】かくて世の中にありけりといふことをきこしめして、五条の后の宮より、内舎人を御使にて山山たづねさせ給ひけり。
【訳】このようにしてこの世で生きていたということをお聞きになって、五条の后の宮から、雑用係を使者としてあちこちの山を探させなさった。
【注】
「あり」=生きている。生存する。
「きこしめす」=お聞きになる。耳にしなさる。「聞く」の尊敬語。
「五条の后の宮」=藤原順子(八〇九~八七一年)。冬嗣の娘で仁明天皇の皇后となった。
「内舎人」=よみは「うどねり・うちとねり・うちのとねり」。中務省に属する職。帯刀して宮中を警備したり、宿直や雑役に従事したりする。また、東宮職や主殿寮の雑役を担当した職員を指すこともある。
「たづぬ」=所在のわからないものを探し求める。

【本文】「ここにあり」と聞きてたづぬれば又失せぬ。えあはず。
【訳】「ここにいる」といううわさを聞いて訪問したところ、また姿を消してしまった。そして対面することができなかった。
【注】
「失す」=行方不明になる。姿を消す。

【本文】からうして、隠れたるところにゆくりもなく往にけり。えかくれあへであひにけり。
【訳】やっとのことで、少将の隠棲している場所に突然おじゃました。これには少将も逃げ隠れすることもできずに、宮の使者と対面した。
【注】
「からうして」=ようやく。やっとのことで。
「ゆくりもなく」=不意に。突然。
「あへで」=「~するひまがない」「どうしても~することができない」。

【本文】宮より御使ひになんまゐりきつるとて、「おほせごとに『かう帝もおはしまさず、睦ましく思し召しし人をかたみとおもふべきに、かく世に失せ隠れたまひにたれば、いとなむかなしき。
【訳】宮からご使者として参上したというので、「宮様のお言葉に『このように帝もいらっしゃらず、親しくお思いになっていた人を思い出のよすがと考えるはずなのに、こんなふうに世間から姿をくらましなさってしまったので、とても悲しい思いです。
【注】
「おほせごと」=おっしゃったお言葉。
「おはします」=生きておいでになる。「あり」の尊敬語。
「睦まし」=親しい。
「かたみ」=亡き人を思い出すきっかけ。

【本文】などか山林に行ひたまふとも、ここにだに消息ものたまはぬ。
【訳】たとえ山林で仏道修行なさるとしても、どうしてせめて私のところにだけでもご連絡なさらないのですか。
【注】
「などか~のたまはぬ」=反語表現。どうして[現況を]おっしゃらないのか、いや、おっしゃってくださればいいのに。
「消息」=連絡。たより。伝言。手紙の場合も、口頭の場合もある。

【本文】御里とありしところにも、音もしたまはざれば、いとあはれになむなきわぶる。
【訳】ご自宅であった場所にも、なんの音沙汰もなさらないので、とてもしみじみと悲しく泣いてつらい思いをしていました。
【注】
「里」=自宅。実家。

【本文】いかなる御心にてかうは物したまふらむときこえよ』とてなむおほせつけられつる。
【訳】どんなお考えで、こんなふうに世間と断絶なさっているのだろうかと、心配していたと申し上げよ』とことづけるようお命じになった。
【注】
「御心」=お考え。おつもり。
「きこゆ」=申し上げる。
「おほせつく」=伝言するようお命じになる。

【本文】ここかしこ尋ねたてまつりてなむまゐりきつる」といふ。
【訳】あちこちと探し申し上げて、やっとここまで参上しました」と言った。
【注】
「ここかしこ」=あちらこちら。
「尋ぬ」=探し当てる。
「たてまつる」=謙譲の補助動詞。
「まゐりく」=目上の人のところに到着する。

【本文】少将大徳うちなきて、「おほせごとかしこまりて承りぬ。
【訳】いまや高僧となった少将はちょっと泣いて、「后の宮様のおっしゃっることは恐縮して伺いました。
【注】
「大徳」=ダイトコ。高徳の僧。
「かしこまる」=恐れ入る。
「承る」=「聞く」の謙譲語。うかがう。お聞きする。

【本文】帝かくれたまうて、かしこき御蔭にならひて、おはしまさぬ世にしばしあり経べき心ちもし侍らざりしかば、かかる山の末にこもり侍りて、死なむを期にてとおもひ給ふるを、まだなむかくあやしきことは、生き廻らひ侍る。
【訳】仁明天皇が崩御なさって、もったいないご恩にあずかって、帝のいらっしゃらない朝廷で、ちょっとの間でも日を過ごす気もしなかったものですから、このような山のはずれに隠れまして、死ぬ時を修行の終る時だと考えておりましたが、まだ、このように不都合なことには、生きながらえています。
【注】
「かくる」=亡くなる。貴人の死を遠回しにいう語。
「かしこき御蔭」=もったいない恩恵。『源氏物語』≪桐壺≫に「かしこき御蔭をば頼みきこえながら」と見える。
「おはします」=いらっしゃる。ご存命である。
「世」=朝廷。帝が国を治める期間。
「あり経」=生きて年月を過ごす。生きながらえる。
「あやしき」=不都合な。よくない。けしからん。

【本文】いとも畏く問はせ給へること。童の侍ることはさらにわすれ侍る時も侍らず。」とて
かぎりなき雲ゐのよそに別るとも人を心におくらざらめやは
となむ申しつると啓したまへ」といひける。
【訳】非常にありがたくも使者をおよこしになりお訪ねくださったことです。子供がいますことは決して忘れる時はございません。」と言って、
このうえなく遠い宮中とこの山と別々に別れへだたっていても愛する人のことを心の中では後に残すだろうか、いや心のなかではいつも一緒に寄り添っている。
と申しておりましたと后の宮様にお伝えください。」と言った。
【注】
「雲ゐ」=宮中。
「おくらざらめやは」=歌意通じがたい。異本および『古今和歌集』には「おくらさんやは」の形で引く。
「啓す」=皇后・皇太子・院などに申し上げる。

【本文】この大徳の顔容貌姿をみるに、悲しきこと物にも似ず。その人にもあらず、蔭のごとくになりて、ただ蓑をのみなむきたりける。少将にてありし時のさまのいと清げなりしをおもひいでて、涙もとどまらざりけり。
【訳】この高徳の僧の姿かたちを見ると、悲しいことこのうえない。別人のように変わり果て、影法師のようになって、ただ蓑だけを着ていた。帝のおぼえめでたく少将を務めていたころの面影が非常に上品で美しかったのを思い出して、涙もとまらなかった。
【注】
「顔容貌姿」=顔立ちと姿。「かたちありさま」という場合が多い。
「物に似ず」=他に比べるものがない。たとえようがない。この上ない。       
「清げなり」=こざっぱりとして美しい。

【本文】悲しとても、片時人のゐるべくもあらぬ山の奥なりければ、泣く泣く「さらば」といひて帰りきて、この大徳たづねいでてありつるよしを上のくだり啓せさせけり。
【訳】悲しいとはいっても、わずかの間も常人がいることができそうにない山の奥だったので、泣く泣く「それではこれで失礼いたします」と言って宮中に帰ってきて、この高僧を探し当てて先刻の少将のありさまを、上記の一件を報告させた。
【注】
「片時」=ついちょっと。わずかの間。もと一時(いっとき・約二時間)の半分の一時間を指し、短い時間をいう。
「さらば」=それじゃあ。さようなら。人と別れる時の言葉。「さらばいとま申さん」などの略。
「たづねいづ」=捜し出す。『源氏物語』≪桐壺≫「亡き人のすみかたづねいでたりけむ、しるしのかんざしならましかば」。
「ありつる」=さっきの。例の。
「上(かみ)のくだり」=上記。すでに書き記してあることをいう語。


【本文】后の宮もいといたう泣きたまふ。さぶらふ人々もいらなくなむ泣きあはれがりける。宮の御かへりも人々の消息も、いひつけて又遣りければ、ありし所にも又なくなりにけり。
【訳】きさいの宮もとてもひどくお泣きになった。その場にお仕えしていた人々もはなはだしく泣き気の毒がった。宮のおつくりになった返歌も、縁ある方々の近況も、ことづけて再び使者を行かせたところ、少将が先日いた場所には、またいなくなってしまっていた。
【注】
「さぶらふ」=おそばでお仕えする。
「いらなく」=はなはだしく。激しく。
「かへり」=返事。また、返歌。
「消息」=伝言。便り。連絡。手紙の場合も、口頭の場合もある。
「いひつく」=たのむ。ことづける。
「遣る」=人を先方に行かせる。
「ありし」=いた。以前の。

【本文】小野の小町といふ人、正月に清水にまうでにけり。行ひなどして聞くに、あやしう尊き法師のこゑにて読経し陀羅尼よむ。この小野の小町あやしがりて、つれなき様にて人を遣りて見せければ、「蓑一つを着たる法師の、腰に火打笥など結ひつけたるなむ、隅にゐたる」といひけり。
【訳】小野の小町といふ人が、正月に清水寺に参詣した。仏道修行などして聞いていると、常ならず尊い法師の声で経を読みあげ陀羅尼を口ずさんでいる。この小野の小町が不思議に思って、なにげないふりで人を行かせて様子を見させたところ、「蓑一つを着ている法師で、腰に火打笥などを結びつけたている法師が、隅で座っている」とい言った。
【注】
「小野の小町」=六歌仙の一人。九世紀後半(八五〇年ごろ)の人。小野貞樹・僧正遍昭・在原業平・安倍清行・文屋康秀らと歌の贈答をした。
「清水」=清水寺。京都市東山区六条大路の東方の東山の山すそにある。本尊は観世音菩薩。舞台づくりの建物として知られる。
「読経」=経文を見ながら声を上げて経を読むこと。
「陀羅尼」=梵語の経文の一部を漢文訳せずに梵語のまま表音的に漢字をあてたもの。一語一語に無限の意味があり、これを唱えると、災いを除き、功徳を得るとされる。
「つれなし」=無関心だ。
「火打笥」=発火の用具である火打石と火打ち金を入れた容器。

【本文】かくてなほきくに、声いと尊くめでたうきこゆれば、ただなる人にはよにあらじ、もし少将大徳にやあらむとおもひにけり。「いかがいふ」とて「この御寺になむ侍る。いと寒きに御衣一つ貸し給へ」とて、
いはのうへに旅寝をすればいと寒し苔の衣をわれにかさなむ
といひやりたりけるかへりことに、
【訳】こうして、さらに聞いていたところ、声がとても尊くすばらしく聞こえたので、まさか尋常な者ではあるまい、ひょっとすると良少将大徳ではないだろうかと思い当たった。「どう反応するか」と思って「この御寺でおる者でございます。とても寒いので御着物を一つお貸しください」といって、
岩の上で旅寝をするので非常に寒いです。僧衣を私に貸してほしい
と和歌を作って少将に言い送ったその返事に、
【注】
「ただなる人」=凡人。普通の人。
「よも~じ」=「まさか~ないだろう」「よもや~ないだろう」。
「もし」=もしかしたら。ひょっとしたら。疑問・推量表現に用いる。
「旅寝」=自分の家でない場所で寝ること。
「苔の衣」=僧や隠者の粗末な衣服。
「なむ」=「~してほしい」。他に対する願望の意を表す。
「かへりこと」=返事。レオン・パジェスの『日仏辞書』に「Cayericoto」とあり、「こ」は清音。

【本文】
よをそむく苔の衣はただ一重かさねばつらしいざ二人ねむ
といひたるに、さらに中将なりけりとおもひて、ただにも語らひし中なれば、あひて物いはむと思ひていきければ、かい消つやうに失せにけり。
【訳】俗世間をそむいて出家した僧衣はただ一着です。これを貸さないとなるとそれも心苦しい。やむをえません、さあそれでは、二人で一着を分かち合って眠ろう。
と返歌をよこしたので、いちだんと、あのお方はやっぱり良中将だなあと確信して、直接言葉を交わした仲だから、対面して口をきこうと思って、経典を読み上げる声のしていたほうへいったところ、すっかり消滅するように、あとかたもなく姿が消えてしまった。
【注】
「よをそむく」=俗世間から退く。また、出家する。
「つらし」=心苦しい。この「つらし」を「薄情だ」と解する人もいるが、ここでは自身の貸さないという行為を指すので貸してやらないのも「心苦しい」という意に解するべきであろう。
「さらに」=いちだんと。
「ただにも語らひし中なれば」=普通に言葉を交わした仲だから。

【本文】一寺求めさすれど、さらににげて失せにけり。かくて失せにける大徳なむ僧正までなりて、花山といふ御寺にすみたまひける。
【訳】寺中捜させたが、完全に逃げて姿を消してしまった。こうして姿を消してしまった少将大徳は、のちには僧綱の最高位である僧正にまでなって、花山寺といふお寺に御住みになった。
【注】
「一寺」=寺じゅう。寺全体。
「さらに」=すっかり。
「僧正」=僧綱の一で、僧官の最高位。大僧正・正僧正・権僧正の三階級がある。
「花山」=京都府東山区の元慶寺。良峰宗貞(遍昭)が創建したので彼は花山僧正と呼ばれた。のちに花山院が出家した場所としても知られる。

【本文】俗にいますかりける時の子どもありけり。太郎は左近将監にて殿上してありける。かく世にいますかりときく時だにとて、母もやりければ、いきたりければ、「法師の子は法師なるぞよき」とて、これも法師になしてけり。
【訳】俗世間にいらっしゃった時分の子がいた。その長男は左近将監として殿上人になっていた。父親はこのように僧になって無事に世に生きていらっしゃると聞いた時だけでも、せめて一目だけでも息子を父に会わせてやりたいと思って、母親も会いに行かせたので、長男が少将大徳のもとへ会いに行ったところ、「法師の子は法師になるのがよい」とおっしゃって、息子も法師にしてしまった。
【注】
「いますかり」=「あり」の尊敬語。いらっしゃる。
「太郎」=長男。
「左近将監」=左近衛府(宮中の警備や行幸の際の警護にあたる役所。庁舎は上棟門と陽明門との間にあり、日華門の内に詰所があった。長官は大将。)の判官(第三等官)。
「殿上」=殿上の間に昇殿をゆるされること。『黒本本節用集』「殿上人 テンジヤウビト ≪公家、詳らかに月卿雲客の注に見ゆ≫」旧注に「四位なり」。(岩波新日本古典文学大系『庭訓往来』七十二ページ脚注)

【本文】かくてなむ、
折りつればたぶさにけがるたてながら三世の仏に花たてまつる
といふも、僧正の御歌になむありける。
【訳】このようにして、
折ってしまうと手首に汚れがつくので、地上に立って生えているまま前世・現世・来世の三世の仏に花を差し上げる。
という作品も、僧正遍昭のお作りになった歌だとさ。
【注】
「三世」=前世・現世・来世。過去・現在・未来。
「花たてまつる」=花を仏さまにお供えする。『源氏物語』≪若紫≫にも「すだれ少し上げて、花たてまつるめり」と見える。

【本文】この子をおしなしたうびける大徳は、心にもあらでなりたりければ、親にも似ず、京にも通ひてなむしありきける。
【訳】この、長男を無理やり僧になさった大徳は、いやいやながら僧になったので、親の少将大徳とは似ても似つかず、京にも行き来して女性の家にもあちこち歩き回った。
【注】
「おしなす」=「しいて~する」。
「たうぶ」=「たまふ」。
「心にもあらで」=気がすすまない状態で。いやいやながら。
「親にも似ず」=親に似ざるを不肖という。
「しありく」=何かして歩き回る。

【本文】この大徳の親族なりける人のむすめの、内にたてまつらむとてかしづきけるを、みそかにかたらひけり。親聞きつけて、男をも女をもすげなくいみじういひて、この大徳をよせずなりければ、山に坊してゐて、言の通ひもえせざりけり。
【訳】この大徳の親戚だった人のむすめで、内裏に差し出し入内させようと思って大事に育てていた娘に対し、長男の大徳はこっそりと人目をぬすんで口説いてものにしてしまった。娘の親が聞きつけて、大徳をも娘をも容赦なく罵倒して、この大徳を屋敷に近づけなくしてしまったところ、山に僧坊を構えてじっと修行していて、文通もできなかった。
【注】
「親族」=親類。身寄り。
「内にたてまつる」=入内させる。
「かしづく」=大事に育てる。
「みそかに」=人目を避けてこっそり。
「かたらふ」=夫婦の契りをむすぶ。男女の仲になる。
「すげなく」=容赦なく。思いやりがなく。
「坊」=僧坊。僧の住む所。
「言の通ひ」=言葉や手紙のやりとり。

【本文】いと久しうありて、この騒がれし女の兄どもなどなむ、人のわざしに山に登りたりける。この大徳の住む所にきて、物語などしてうちやすみたりけるに、衣のくびにかきつけける。
しら雲のやどるみねにぞおくれぬるおもひのほかにある世なりけり
と書きたりけるを、この兄の兵衛の尉はえ知らで京へいぬ。妹みつけてあはれとやおもひけむ。これは僧都になりて、京極の僧都といひてなむいますかりける。
【訳】だいぶん歳月がたってから、この騒がれた女の兄たちが、人の法事を行いに山に登った。この大徳の住む所にきて、雑談などしてちょっと休息していたところ、衣服の襟にかきつけた歌。
私はあなたの顔を拝見できずに白雲がとどまるこの高い峰に取り残された。生きているのも不本意な男女の仲だなあ。
と書いてあったのを、この兄の兵衛の尉は気づかずに京へ立ち去った。妹が大徳の和歌を見つけて、ああお気の毒なことと思ったのだろうか。この長男はのちに僧都になって、京極の僧都と世間の人から呼ばれていらっしゃったとさ。
【注】
「わざ」=仏事。
「物語」=雑談。
「うちやすむ」=ちょっと寝る。ちょっと休憩する。
「くび」=襟。
「みねにぞおくれぬる」=山の高い峰に一人置き去りにされたという意とあなたのお顔を見ることもできずに死に遅れた、の意をかける。
「兵衛の尉」=兵衛府(内裏の警護、行幸・行啓の御供などをつかさどる役所)の三等官。
「京極」=平安京の東西両端をそれぞれ南北に通る大路。
「僧都」=僧綱の一つで僧正につぐ僧官。もと大僧都・少僧都各一名であったが、のちに大僧都・権僧都・少僧都・権少僧都の四階級となった。












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Last updated  September 1, 2016 10:48:38 PM
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