趣味の漢詩と日本文学

趣味の漢詩と日本文学

September 18, 2016
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カテゴリ: 学習・教育
【本文】今は昔、二人して一人の女をよばひけり。
【訳】それは昔のことですが、二人で一人の女性に対して言い寄っていたとさ。
【注】
「~して」=「~で」。動作の共同者を表す。
「よばふ」=言い寄る。求婚する。

【本文】先立ちてよばひける男、つかさまさりて、其の時の帝近うつかうまつりけり。
【訳】先に言い寄っていた男が、官位も勝り、その当時の天皇のおそば近くにお仕えしていたとさ。
【注】
「つかさ」=官職。また、役目。


【本文】後よりよばひける今一人の男は、その同じ帝の母后の御兄末(あなすゑ)にて、つかさおくれたりけり。
【訳】あとから言い寄ったもう一人の男は、その同じ天皇のご生母の子孫で、官位は劣っていた。
【注】
「兄末」=末裔。子孫。
「おくる」=劣る。

【本文】それを女いかが思ひけん、後よりよばひける男に、かの女はあひにけり。
【訳】それなのに、女はどう思ったのだろうか、あとから言い寄った男に、例の女は結婚してしまった。
【注】
「あふ」=男女が知り合う。結婚する。

【本文】さりければ、この初めよりいひける男は、宿世(すくせ)のふかく有りけるとおもひけり。
【訳】そういう事情だったので、この最初から女に言い寄っていた男は、女と自分の恋敵の男とは前世からの因縁が深かったのだろうと思ったとさ。

「さりければ」=そうであったから。「さありければ」の約。一語の接続詞のように使う。
「宿世」=前世からの因縁。「夫婦は二世の契り」という。

【本文】かくて、よろづによろしからずたいだいしき事を、物の折ごとに、帝のなめしと思し召しぬべき事を、つくりいでつつ聞こえないける間に、この男は宮仕へいと苦しうして、ただ逍遥をして、歩きを好みければ、衛府の官にて、宮仕へをもせずといふ事出できて、其のありける官をぞとり給ひてける。
【訳】こんなふうにして、さまざまに好ましくない不都合な事を、折に触れて、帝が無礼だとお思いになるはずの事を、でっちあげてはお耳にいれたので、この後から女に求婚した男は、宮中に出仕するのがとてもつらくて、ただひたすらぶらぶら散策ばかりして、出歩くのを好んだので、衛府の役人でありながら、役所に出仕しないという事態が生じて、その所有していた官位を剥奪なさってしまった。
【注】

「たいだいし」=不都合だ。とんでもない。もってのほかだ。
「なめし」=無礼だ。無作法だ。失礼だ。ぶしつけだ。
「思し召す」=お思いになる。お考えになる。「思ふ」の尊敬語。
「つくりいづ」=作り出す。
「聞こえないける」=「聞こえなしける」のイ音便。「なす」は、動詞の連用形について「そのように~する」「意識して~する」「特に~する」「ことさら~する」意。
「この男」=話の流れからすると、「後よりよばひける今一人の男」。
「宮仕へ」=宮中に仕えること。
「逍遥」=気の向くままに出かけてあちらこちら遊びまわること。
「歩き」=出歩くこと。
「衛府」=宮中の警備を担当する役所。中古初期以降は、左右の近衛府、兵衛府、衛門府の六衛府となった。

【本文】さりければ、男、世の中を憂しと思ひてぞこもりゐて思ひける。
【訳】そんなふうだったから、男は、この世の中をつらいものだと思って家に閉じこもって悩んでいた。
【注】
「さりければ」=そうであったから。「さありければ」の約。一語の接続詞のように使う。
「憂し」=つらい。心苦しい。いやだ。『万葉集』八九三番・山上憶良「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」。

【本文】人の命といふもの、幾世しもあるべき物にもあらず。
【訳】人間の寿命というものは、いつまでも存在できるものでもない。
【注】
「幾世」=何代。

【本文】思ふ時は、はかなき官(つかさ)も何にかはあるべき。
【訳】心に思い悩むことがある時には、取るに足らぬ官位も何になろうか、いや、何の役にも立たない。
【注】
「はかなし」=つまらない。大して価値がない。むなしい。なんにもならない。
「官」=官職。役目。

【本文】かかるうき世にはまじらず、ひたぶるに山深くはなれて、行ひにや就きなんと思ひければ、近くをだにはなたず父母のかなしくする人なりければ、よろづの憂きもつらきも、これにぞ障りける。
【訳】このようなつらい俗世間とは付き合わず、いちずに山奥に世間から離れて暮らし、仏道修行に専念しようかと思ったので、そば近くからさえも離さないように父母が大事にしている人だったので、さまざまな心配事もつらいことも、出家の志の支障となった。
【注】
「かかる」=このような。こんな。
「うき世」=無常でつらい現世。つらいことの多いこの世。
「ひたぶるに」=いちずに。
「行ひ」=仏道修行。勤行。『方丈記』「世をのがれて、山林にまじはるは心を治めて道を行はんとなり」。

【本文】時しも秋にしも有りければ、物のいと哀れにおぼえて、夕ぐれにかかる独り言をぞいひたりける。
うき世には 門させりとも 見えなくに など我が宿の いでかてにする
といひて、ひがみをりける間に、なまいどみて時々物などいひける人のもとより、蔦の紅葉の面白きを折りて、やがて其の葉に、「これをなにとかみる」とてかきをこせける。
【訳】ちょうどそのとき、季節は秋だったので、なにかととてもさびしく感じられて、夕ぐれにこのような独り言を言った、その歌。
この俗世間には門を閉ざしてあるというふうにも見えないのに、どうしてなかなか我が家を出られないのか。
と歌を作って、鬱屈しているうちに、中途半端に恋をしかけて時々情を通わせていた相手のところから、蔦の紅葉で美しいものを折り添えて、すぐにその葉に、「これを何だとおもいますか」と書いて寄越した。
【注】
「さす」=閉ざす。
「いでかてに」=出られないで。出られずに。
「ひがむ」=心がねじける。ゆがむ。かたよる。
「なま」=用言の上について「なんとなく~」「すこし~」「どことなく~」「いくらか~」「なまじ~」などの意を表す。
「いどむ」=恋をしかける。
「物いふ」=恋愛関係にある。男女が情を通わせる。

【本文】
うきたつた の山の露の 紅葉ばは ものおもふ秋の 袖にぞありける
と言ひやりけれど、返しもせず成りにければ、かくとしもなし。
【訳】つらい噂ばかりがたつ竜田川のもみじ葉は、悩みの多い私が流す血の涙に染まる私の袖の色そのものなのだなあ
と言い送ったけれども、返歌もせずじまいになってしまったので、このような意図で送ってきたともわからない。
【注】
「うきたつたの山の露の紅葉ばはものおもふ秋の 袖にぞありける」=このままでは歌意通じがたい。『平中物語』には「うきなのみたつたのかはのもみぢばはものおもふ秋の袖にぞありける」とある。それならば、つらい噂ばかりがたつ竜田川のもみじ葉は、悩みの多い私が流す血の涙に染まる私の袖の色そのものなのだなあ、の意。
「うきたつ」=そわそわする。うきうきする。
「ものおもふ」=いろいろと思い悩む。物思いにふける。思い憂える。
「返し」=返歌。返事として作る歌。「和歌(主として短歌)の贈答は上代(~奈良時代)から行われ、特に、中古(平安時代)の貴族社会では、男女の求愛を中心とする社交の手段として非常に盛んだった。歌を詠み掛けられれば、即座に歌で答え、歌で手紙がくれば、歌で返事をしなければならなかった」(佐藤定義遍『詳解古語辞典』明治書院)。

【本文】かかる事どもを聞きあはれがりて、此の男の友だちども、集まりてきて慰めければ、酒飲ませなどして、いささか遊びのけぢかきをぞしける。
【訳】こんなことを聞いて、気の毒がって、この男の友達が、集まってきて慰めたので、男はお礼に酒を飲ませなどして、ちょっぴり音楽の遊びで身近なものをしたとさ。
【注】
「いささか」=ちょっとだけ。ほんのすこし。
「遊び」=酒宴を開き、歌舞音曲を演ずる。
「けぢかし」=親しみやすい。

【本文】夜になりければ、この男かかる歌をぞよみたりける。
身をうみの おもひなきさは こよひ哉 うらにたつ波 うち忘れつつ
とぞよみたりける。
【訳】夜になったところ、この男がこんな歌を作ったとさ。
わが身がいやになる憂鬱さが無いのは今夜だなあ、心に立つ動揺を忘れて。
【注】
「身をうみの おもひなきさは こよひ哉 うらにたつ波 うち忘れつつ」の「うみ」に「憂み」、「なきさ」に「無き」と「渚」、「うら」に「心(うら)」「浦」を掛ける掛詞。「海」に対して「なぎさ」「うら」「立つ波」は縁語。

【本文】かかりければ、これをあはれがりてぞ、あはれに明かしける。これも返しなし。
【訳】こんなふうに慰安会を男が素直に感動したので、友人たちも酒宴を開いた甲斐があったと喜んで、しみじみと楽しんで夜を明かしたとさ。しかし、この男が作った歌を女の元へ届けさせたが、これにも返歌を寄越さなかった。
【注】
「あはれがる」=感心する。おもしろがる。

【本文】さて又の夜の月をかしかりければ、簀の子にゐて、大空をながめてゐたりける程に、夜のふけゆけば、風いと涼しううち吹きつつ、苦しきまでおぼえければ、物のゆゑしる友達のもとに、「これのみぞかねて月みるらん」とて、かかる歌をよみて遣はしける、
なげきつつ 空なる月と ながむれば 涙ぞあまの 川とながるる
【訳】そうして、次の夜の月が風流だったので、簀の子にすわって、大空を眺めているうちに、夜が更けていき、風が非常に涼しく吹いて、苦痛なほどに感じられたので、情趣を解する友人のところに、「この人たちだけは、先刻から月を見ているだろう」と思って、このような歌を作って贈ったその歌、
己の運命を嘆きながら空にある月眺めていると涙が天の川のように滔々とながれることだ。
【注】
「物のゆゑしる」=風情を解する。情趣を解する。

【本文】さりけるほどに、いと深からぬ事なりければ、元の官(つかさ)になりにけり。此の友だちどもは、躬恒・友則がほどなりけり。
【訳】そうしているうちに、あまり深刻な事態でもなかったので、元のお役目に復帰したとさ。この友達というのは、凡河内躬恒と紀友則などといった連中だったとさ。
【注】
「元の官」=六衛府の官人。
「躬恒」=平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。宇多法皇・醍醐天皇に仕え、紀貫之らと『古今集』の撰者となり、また、宮廷歌人として活躍した。
「友則」=紀友則。平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。紀貫之のいとこにあたる。みやびやかで感情のこもった作風の和歌で知られる。『古今和歌集の撰者の一人。

【本文】同じ男、知れる人のもとに常に通ふに、いとにくさげなる女のあるを、女は大人になれば、こよなくなだらかになるなれど、此の女を憂しと笑ひけれど、見るたびにやうやうよくなりもてゆく。ことのほかに生ひ勝りしてみえければ、
ぬま水に 君はあらねど かかる藻の みるまみるまに おひまさりけり
【訳】同じ男が、知人のところにふだん通っていたが、非常に醜い女がいたのを、女は成人になると、格段に性格が温和になるということだが、この女はいやだと嘲笑していたが、見るたびにしだいに見栄えよくなってゆく。意外に成長するにつれて立派になるように見えたので、作った歌、
あなたは、濁って底が見えない沼の水というわけではないが、生えている藻がみるたびに繁茂するように、会うたびに立派になっていきますね。
【注】
「にくさげなり」=いかにも醜い。
「大人」=成人。
「こよなく」=格段に。
「なだらかなり」=温和。気持ちが穏やかだ。
「~もてゆく」=「しだいに~してゆく」。
「おひまさる」=成長するにつれて立派になる。
「みるまみるま」=「見る間」と海藻の「海松布(みるめ)」を言い掛けた。

【本文】女、このかへし、
かかるもの みるまみるまぞ うとまるる 心あさまの 沼におふれば
とかへしたりける。
【訳】女が作った、この歌に対する返歌、
このように私のように醜い者は、見る見るうちに、嫌われる、あなたのように人を愛する心の浅い沼のなかに生えたばっかりに。
【注】
「もの」=「者」と「藻の」の掛詞。
「みるまみるまに」=「見る間」の「みる」が海藻の「海松」との掛詞。

【本文】此の男に、女のいへりける、
いつはりを 糺の森の ゆふだすき かけてを誓へ 我を思はば
【訳】この男に、女が詠んだ歌、
いつわりを正すという糺の森のゆうだすきのように神にかけて誓いなさい、もしも本当に私を愛しているのなら。
【注】
「いつはりを糺の森のゆふだすき」=「かけて」を導く序詞。この歌は『新古今和歌集』≪恋≫一二二〇番にも見える。 
「糺の森」=京都市左京区にある下鴨神社の森。賀茂川と高野川(たかのがわ)の合流点にある。
「ゆふだすき」=「かく」にかかる枕詞。ゆう(木綿)で作ったたすき。白く清らかなもので、神事に奉仕する者が用いる。
「かく」=「ゆふだすき」の縁語。神に誓いをかける。心を相手に寄せる。


【本文】女の、思ふ男をして、たしかにいだすをみて、
あらはなる 事あらがふな 桜花 春はかぎりと 散るを見えつつ
【訳】女が、愛する男を、よその女が確かに家から送り出すのを見て作った歌、
はっきりとバレていることに対し、いいわけなさいますな。桜の花が今年の春はもう終わりだと散って枝から離れていくる姿を見せているように、あなたの心も私から離れていくのは、わかっているから。
【注】
「あらはなり」=明白だ。たしかだ。
「あらがふ」=反論する。言い訳する。

【本文】返し、
いろにいでて あだにみゆとも 桜花 風のふかずは 散らじとぞおもふ
【訳】それに対する返歌、
態度に出て、たとえ誠意がないと思えても、桜花は、もし風が吹かなければ、散らないだろうと思う。それと同じように、あなたの私に対する風当たりが強くなければ、あなたのそばを離れるつもりはありませんよ。
【注】
「いろにいづ」=態度に現れる。顔色に現れる。
「あだなり」=浮ついている。誠意がない。『古今和歌集』≪春・上≫「あだなりと名にこそたてれ桜花」。


【本文】西の京六条わたりに、築地所々崩れて草生ひしげりて、さすがに所々蔀あまたささげわたしたる所あり。
【訳】
蔀戸を西の京の六条あたりに、土塀がところどころ崩れて草が生い茂っていて、そうはいうものの所々蔀戸を掲げ連ねてある所がある。
【注】
「西の京」=平安京のうち、朱雀大路を境に東西に分けた、その西側の区域。この話は『平中物語』三十六と同じ。
「六条」=平安京で東西に通る大路で、北から六番目のもの。
「築地」=土をつき固めて土手のように作った塀。のちには、柱を立て、板を中にして泥で塗り固め、屋根を瓦で葺くようになった。
「蔀」=寝殿造りで、光線や風雨を防ぐため、格子の片面に板を張った戸。上下二枚のうち、下一枚を固定し、上一枚を上げ下ろしする釣り蔀や半蔀と、室内にも用いる衝立の形の立て蔀とがある。

【本文】簾のもとに女どもなどあまた見えければ、此の男なほも過ぎで、供(とも)なる童(わらは)して、「などかく荒れたるぞ」といひければ、「誰がかくは宣(のたま)ふぞ」といひければ、「大路(おほち)ゆく人」といひけるに、崩れより女どもあまた出て、かくいひかけたりける。
【訳】すだれのそばに女性たちが多数見えたので、この男は依然として素通りしかねて、子供の召使を使って「どうしてこんなに荒れてしまっているのか」と質問させたところ、「どなたがこんなことをおっしゃるのか」と逆に質問してきたので、「大路を通りかかった者です」と言ったところ、土塀の崩れめから女性たちが多数出てきて、こんなふうに歌を詠み掛けてきた、
【注】
「あまた」=数多く。
「供」=従者。主たる人のあとに付き従う者。
「童」=元服前の子供の召使。また、頭髪を童形にした召使。
「宣ふ」=「いふ」の尊敬語。おっしゃる。
「大路」=大通り。町の中心になる道。

【本文】
人のあきに 庭さへあれて 道もなく 蓬しげれる 宿とやは見ぬ
といへりければ、童の口にいひいれて、
たがあきに あひて荒れたる 宿ならん われだに庭の 草は生ふさじ
【訳】愛する人が私に飽きて私の心がすさんだだけでなく、庭まで荒れて、道も無いほどに、蓬がしげっている家だとお思いになりませんか、きっとそのように見えるでしょう。
と歌を作って寄越したので、子供の召使の口を通じて内にいる人に言葉をかけて
いったい誰の飽きにあって嫌われて荒れている庭なのだろう、私のような無精者でさえ庭の雑草は生えささないようにしているのに。 
【注】
「あき」=「飽き」(いやになること)と「秋」との掛詞。
「蓬」=キク科の多年草。モチグサ。生長した葉はモグサに用いる。荒れ地に生えるところから、荒れ果てた場所の象徴。
「宿」=家。すみか。また、庭先。屋敷の中庭。家の敷地。
「童」=元服前の子供の召使。

【本文】さて、ときどき通ひけれど、いかなる人のすかすならんと、つつましかりければ、人にもそこそことも言はで通ふほどに、みな人物へいにけり。
【訳】そうして、ときどきこの屋敷へ通ってきたが、どのような方が自分をだまそうとするのだろうと、きまりが悪かったので、周囲の人にも、どこどこでこういう女性がいたとも言わずに通ううちに、その女性たちはみんなどこかへ行ってしまった。
【注】
「すかす」=だます。あざむく。
「つつまし」=恥ずかしい。きまりが悪い。

【本文】ただ独り有りて「もし、人とはば是をたてまつれ」とて、文書きて出しける、
 わが宿は ならの都ぞ 男山 こゆばかりには あらばさて訪へ
と有りければ、此の男いたく口惜しがりて、其の家に置きたるものに、物などくれてとひけれど、ふつといはで、ただ「奈良へ」とぞいひける。尋ねん方なし。
【訳】ただ単身ここにいて、「もしも、人が訪ねてきたら、これをお渡しせよ」といって、手紙を書いて出した。その手紙に
私の引っ越し先の家は奈良の旧都です。男山を越えるような機会がありましたら、お訪ねください。
と書いてあったので、旧宅にやってきた男は女が転居したのをひどく残念がって、その家に残してある使用人に、物などをやって「奈良の旧都のどのあたりか、詳しく教えよ」と質問したが、留守番の者はちっとも口を割らず、ただひたすら「奈良へ参られました」と言った。そういうわけで、それ以上尋ねようにも方法がなかった。
【注】
「たてまつれ」=お渡しせよ。差し上げよ。
「男山」=山城の国綴喜郡八幡町(いまの京都府八幡市)にある標高百四十二メートルの山。山頂には石清水八幡宮(主祭神は応神天皇)がある。
「ふつと」=(あとに打消しを伴って)全然。少しも。さっぱり。絶えて。

【本文】さる程に思ひ忘れにけるに、此の男の親、初瀬に参りける供に有りて、「まこと、さる事ありきかし。ここやそならん、かしこやそならん」など思ふほどに、供なる男どもなどに語らひなどしけり。
【訳】
そうするうちに、忘れてしまったが、この男の親が、長谷寺に参拝するおともをして、「ああ、そういえばあんなことがあったなあ。ここがあの女の家だろうか。あそこが女の家だろうか。」などと思ううちに、おともをしている男たちに過去の思い出を話しなどした。
【注】
「さる程に」=そのうちに。
「まこと」=ああ、そうそう。忘れていたことを思い出した時に用いる感動詞。
「さることありきかし」=そういうことがあったよ。「き」は、過去の助動詞。「かし」は、終助詞。
「初瀬」=奈良県桜井市初瀬の長谷寺。真言宗で天武天皇の御代の創建とも、聖武天皇の創建ともいわれる。平安時代、貴族でも特に女性の信仰が厚かった。本尊は観世音菩薩。
「かしこ」=あそこ。

【本文】さて、かの初瀬に詣でて、三条より帰りけるに、飛鳥本といふ所に、あひ知れる法師も俗もあまたいできて、「今日、日はしたになりぬ。奈良坂のあなたには、人の宿り給ふべき家もさぶらはず。此処に泊らせ給へ」といひて、門並べに家二つを一つに造りあはせたる、をかしげなるにぞとどめける。さりければ、とどまりにけり。
【訳】それから、例の長谷寺に参詣を済ませて、奈良の三条大路を通って帰る際に、飛鳥本という所に、知り合いの法師や一般人も大勢現れて、「今日はもうご帰宅なさるには、時間も中途半端で途中で日が暮れてしまうでしょう。奈良坂からむこうには、お泊りになれる家もございません。ここにお泊りなさいませ。」と言って、隣同士の屋敷を一つにつなぎ合わせて建築してある、情緒ある屋敷にこの一行を泊めた。そういうわけで、男の一行は宿泊した。
【注】
「さて」=それから。
「三条」=平城京の東西に通る大路で、北から三番目の通り。
「飛鳥本」=奈良市元興寺町あたり。
「俗」=俗人。出家していない世間一般の人。
「あまた」=数多く。
「いでく」=姿をあらわす。
「日」=日の出ている時間。

【本文】饗応など人々しければ、物など食ひて騒がしきほどしづまり、程なく夕暮にはなりてけり。
【訳】御馳走のもてなしなど人々がしてくれたので、食事をして騒ぎも落ち着き、まもなく夕暮時になった。
【注】
「饗応」=酒食を用意し、もてなすこと。また、もてなしの酒盛り。ごちそうがたくさんある宴会。
「ほどなし」=少ししか時がたたない。間もない。

【本文】さりければ、戸のもとに佇み出てみるに、この南の家の北なる家にて、楢の木といふ物をぞ二木三木うゑたりける。「あやしく異木をもうゑで」などいひさしのぞきたりけるに、清げなる蔀どもあげわたして、女どもあまたをり。
【訳】そんなふうだったので、戸口のところにたたずんで出て見てみると、この南に建つ家の北にある家で、ナラの木というものを、二、三本植えてあった。「不思議なことに、他の木を植えずに」などと言いかけて、のぞいたところ、こざっぱりとして美しい蔀戸を全部上げて、女たちが大勢いる。
【注】
「戸のもと」=家の出入り口周辺。
「異木」=ほかの種類の木
「清げなり」=こざっぱりとして美しい。
「蔀」=寝殿造りで光線や風雨を防ぐため、格子の片面に板を張った戸。上下二枚のうち、下一枚を固定し、上一枚を上げ降ろしする、釣り蔀や半蔀と、室内にも用いる衝立の形の立て蔀とがある。

【本文】「あやし」などをのがうちいひて、供なりける人をよびよせて、「此の人は此の南に宿れるか」と問ひけり。
【訳】「不思議だ」などと、自身で何気なく言って、男の御供をしていた人を呼び寄せて、「あなたの主人はこの屋敷の南の屋敷に宿泊しているのか」と質問した。
【注】
「うちいふ」=何気なく言う。ちょっと口に出す。

【本文】築地の崩れより見し人は、「いかに忘れざりけるにか、もし男などに具してきたるにや」など、くもでに思ひ乱るるほどに、
 くやしくも ならぞとだにも 言ひてける たまほこにだに 来てもとはねば
といひけり。
【訳】築地の崩れ目から見た男は、「なんと、私のことを忘れなかったのだろうか。あるいは、ひょっとすると他の男などに従ってきたのだろうか」などと、あれこれと思って心が乱れるうちに、女のほうから、
 後悔されるのは別れ際に引っ越し先が奈良だと言ったことだなあ。道を通ってたまたま近所に来てさえ訪問しないのだから。
という和歌を手紙に書いて寄越した。
【注】
「もし」=ひょっとすると。
「具す」=従う。連れ立つ。
「たまぼこに」=「道」「里」などにかかる枕詞。「たまさかに」=偶然。まれに。の意をきかせた

【本文】此の「庭さへあれて」といひし人の手なりけり。京さへなま恋しき旅のほどなりければ、硯こひ出て、
楢の木の並ぶほどとは教へねど名にやおふとて宿はかりつる
と言ひたりければ、
【訳】その手紙の文面を見たところ、なんと「人のあきに庭さへあれて・・・」と、あの歌を作って寄越した人の筆跡だったよ。初瀬詣でに数日京を離れて、京のことでさえなんとなく恋しい旅先のことだったので、家の者に硯を貸してくれるよう頼んで、
 ナラの木が並ぶところとまでは教えてくれなかったが、名前として持つだけのことはある宿かなと思ってこの宿を借りた。
と歌を作って贈ったところ、
【注】
「名におふ」=名前として負い持っている。その名にふさわしいものである。

【本文】「あなうちつけの事や」とて、かくぞ言ひ出したりける。
 門すぎて 初瀬川まで わたるせも 我が為とは君は答へん
【訳】「まあ、なんて軽率なふるまいでしたろう」と言って、こんなふうに家の中から男のいる外に向かって和歌を詠んだ。我が家の門前を通り過ぎて初瀬川まで渡る瀬までも、ずうずうしいあなたなら私のために渡るのだよと答えるのでしょうね。
【注】
「うちつけ」=軽率だ。

【本文】その夜とまり、つとめて、男、
 朝まだき たつ空もなし 白波の かへるかへるも 帰り来ぬべし
【訳】その夜は一泊して、その翌朝、男が女に贈った歌、
夜が明け切らない時分に、あなたとの別れがつらいから、旅立つ場所も考えられない、ずっとここにいたい。白波のように沖に帰り沖に帰りするも、再び岸に戻ってくるように私も京へ一旦帰るが、またあなたに会いにもどってくるつもりだ。
【注】
「朝まだき」=夜が明け切らない頃。早朝。
「空」=よりどころを離れて不安定である場所。






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Last updated  October 10, 2016 11:17:03 AM
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