第百七段
【本文】
むかし、あてなる男ありけり。その男のもとなりける人を、内記にありける藤原の敏行といふ人よばひけり。されど、若ければ、文もをさをさしからず、ことばも言ひ知らず、いはむや歌はよまざりければ、かのあるじなる人、案を書きて、書かせてやりけり。めでまどひにけり。さて、男のよめる。
つれづれの ながめにまさる 涙河 袖のみひちて あふよしもなし
返し、例の男、女にかはりて、
浅みこそ 袖はひつらめ 涙河 身さへ流ると 聞かば頼まむ
と言へりければ、男いといたうめでて、今まで巻きて文箱に入れてありとなむいふなる。男、文おこせたり。得てのちのことなりけり。「雨の降りぬべきになむ、見わづらひはべる。身さいはひあらば、この雨は降らじ」と言へりければ、例の男、女にかはりてよみてやらす。
数々に 思ひ思はず 問ひがたみ 身を知る雨は 降りぞまされる
とよみてやれりければ、蓑も笠も取りあへで、しとどに濡れてまどひ来にけり。
【注】
〇あてなり=身分が高貴だ。
〇内記=ナイキもしくはウチノシルスツカサ。中務省に属し、詔勅、宣命を作り、叙位の辞令を書く役。大内記(正六位上)、少内記(正七位上)、各々二人。儒者を任ずる。
〇藤原の敏行=藤原富士麿の子。母は紀名虎の娘で、紀有常の妹にあたり歌人として知られている。貞観九年(八六七)に少内記、十二年に大内記となった。『古今和歌集』に十九首の歌が採られており、書家としてもすぐれていた。ちなみに有常の娘の一人が在原業平の妻。
〇よばふ=女性に言い寄る。求婚する。『伊勢物語』六段「女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを」。
〇をさをさし=大人びてしっかりしている。
〇ことば=物言い。
〇いはむや=まして。いうまでもなく。
〇案=手紙に書く下書き。
〇めでまどふ=大騒ぎして喜ぶ。『竹取物語』「あてなるも、いやしきも、音に聞きめでてまどふ」。
〇ながめ=物思いにふけりぼんやりと外を見やる。「長雨」を掛ける。
〇涙河=涙が多く流れるのを川にたとえた語。
〇ひつ=水につかる。
〇巻く=丸める。
〇文箱=手紙を入れてやりとりする箱。
〇見わづらふ=見て困る。思案にくれて見る。
〇さいはひ=幸運。
〇身を知る雨=わが身が愛されていないことを知って流す涙の雨。
〇しとどに=びっしょり。
〇まどひ来=あわててやってくる。
【訳】
むかし、身分が高い男がいた。その男のところにいた女性に対し、内記だった藤原敏行という人が言い寄った。しかし、若いので、恋文も未熟で、物の言いかたもよく知らず、ましてや歌は作り慣れていなかったので、女の雇い主である人が、手紙の下書きを書いて、女に清書させて送った。男は大騒ぎして喜んだ。そうして、男は次のような歌を作った。
降り続く長雨に川の水量がまさるだろうが、あなたを思ってぼんやりと物思いに沈んでいると恋しさに涙が川のように流れる。そのため着物の袖ばかりがびっしょり濡れてあなたに逢う手立てもないのがつらい。
その歌に対する女の返事の歌を、いつものように、主人が、女に代わって作った歌。
あなたのおっしゃる涙河というのは、浅瀬ばかりなのでしょう。わたしへの思いが浅いから袖がびっしょり濡れる程度で済むのでしょう。思いが深くて涙の河に身さえ流れてしまうとお聞きしたら、あなたを頼りに思いますのに。
と言ってやったところ、男がとてもひどく感動して、今まで巻きおさめて手紙箱に大事にしまってあるということだ。その後、男が手紙をよこした。それは男が女を手に入れてのちのことだった。「雨が今にも降りそうなので、空模様を見てお訪ねしようかやめようか迷っています。私の身に幸運があるなら、雨は降らないだろう。そうしたらお訪ねしよう。」と言ってきたので、いつものように、男が、女に代わって歌を作って届けさせた。
愛しているのか愛していないのか様々に質問を重ねるわけにもいかないので、その程度にしか思われていないのだと知った辛さで流す涙の雨がどんどん降ることです。
と作って送ったところ、蓑も笠も手にとるまもなく、びっしょり濡れて慌ててやってきた。