第九十四段
【本文】
むかし、男ありけり。いかがありけむ、その男住まずなりにけり。のちに男ありけれど、子ある仲なりければ、こまかにこそあらねど、時々もの言ひおこせけり。女方に、絵かく人なりければ、かきにやれりけるを、今の男のものすとて、ひとひふつかおこせざりけり。かの男、「いとつらく、おのが聞こゆることをば、今までたまはねば、ことわりと思へど、なほ人をば恨みつべきものになむありける」とて、ろうじてよみてやれりける。時は秋になむありける。
秋の夜は 春日忘るる ものなれや 霞に霧や 千重まさるらむ
となむよめりける。女、返し、
千々の秋 一つの春に むかはめや 紅葉も花も ともにこそ散れ
【注】
〇いかがありけむ=どうしたのであろうか。
〇住む=男が妻と決めた女の家に通って泊まる。『伊勢物語』二十三段「男、住まずなりにけり」。
〇男=夫あるいは愛人。ここでは新しい夫。
〇こまかなり=ねんごろなさま。
〇言ひおこす=言って寄越す。手紙に書いて寄越す。
〇女方=女性の側。
〇ものす=いる。来る。
〇おこす=寄越す。
〇つらし=冷淡だ。薄情だ。
〇聞こゆる=申し上げる。「いふ」の謙譲語。
〇たまふ=お与えになる。下さる。「あたふ」「やる」の尊敬語。
〇ことわり=もっともだ。
〇なほ=それでもやはり。
〇恨みつべきものになむありける=たしかに恨みに思ってしまうものだなあ。「つ」は強意の助動詞。
〇ろうず=からかう。ひやかす。
〇むかふ=相当する。匹敵する。
【訳】
むかし、男がいた。いったいどうしたのであろうか。男は妻と決めた女の家に通って泊まらなくなってしまった。のちに、女には他の夫ができたのだが、もとの夫とは間に子供がいる仲だったので、ねんごろにというわけではなかったが、もとの夫に時々手紙を寄越したのだった。ある時、男が女のところに、女は絵をかく人だったので、かいてもらいにやったところ、新しい夫が家にいるというので、一日、二日絵をかいて寄越さなかった。その男は「ひどく薄情なことに、私が申し上げたことを、いままでして下さらなかったので、今の夫を最優先するのはもっともだと思うけれども、それでもやはり、恨みに思ってしまうものだなあ」と書いて、からかって歌を作って送った。時期はちょうど秋であった。
秋の夜には春の日を忘れるものなのだなあ。春の霞に対し秋の霧は何倍も勝っているのだろうか。
と詠んだ。それに対し、女が返事をして、
いくら秋をかさねても、一つの春のすばらしさに匹敵しないように、あなたのほうが今の夫より何倍も勝っています。そうはいっても今の夫もあなたも、どちらも私に対する愛情が移ろってしまうことには変わらないでしょう。