第九十段
【本文】
むかし、つれなき人をいかでと思ひわたりければ、あはれとや思ひけむ、「さらば、明日、ものごしにでも」と言へりけるを、かぎりなくうれしく、またうたがはしかりければ、おもしろかりける桜につけて、
桜花 今日こそかくも にほふとも あな頼みがた 明日の夜のこと
といふ心ばへもあるべし。
【注】
〇つれなし=冷たい。冷淡だ。薄情だ。
〇いかで=「得む」などの省略されたかたち。なんとかして手に入れよう。どうにかして手に入れたい。
〇あはれとや思ひけむ=自分に対して一途な思いをしみじみ嬉しく感じたのだろうか。
〇ものごし=簾・几帳・屏風などが間を隔てている状態。『例解古語辞典』の「要説」に「平安時代の物語などでは、貴族の男女が『物越し』に対面する描写が多い」。第九十五段にも見える。
〇にほふ=美しく照り映える。
〇あな頼みがた=あてにしづらい。
〇心ばへ=不安な気持ち。
【訳】
むかし、自分に対して冷淡な態度の女性を何とかして妻にしたいと思いつづけていたところ、男の一途さをしみじみ嬉しく感じたのだろうか、「それほどまでに言うなら、明日、屏風越しにでもお逢いしましょう。」と言ってきたのを、このうえなく嬉しく、その一方では、疑わしかったので、風情たっぷりに咲いていた桜につけて、
桜の花が、たとえ今日はこんなにも美しく照り映えているとしても、まああてにはしづらい、 明日の夜の逢う約束は。
という不安な気持ちもあるにちがいない。