朗読劇をやったのだった


お客様には大変好評を頂き、メンバーの皆さんと協力できて大満足だった。

「葉っぱのフレディー -いのちの旅-」
レオ・バスカーリア作 みらいなな訳 童話社 (ISBN4-88747-002-9)
という絵本を分担を決めて暗記して朗読するのだ。
内容↓
http://www.geocities.jp/kusa_kai/academy/happa.html

メンバーは生涯学習講座のようなものの受講生で、
女性ばかり高校生から50代までの幅広い年齢層だ。
教室は地元で活躍する劇団「かいつぶり」が県の助成を受けて開いていたもので、
演出家、舞台美術家、音楽、照明、ダンスの有名な先生方を講師に呼んで半年くらいで演劇のエッセンスを学び
最後には発表会として受講生が朗読劇を実際に行うというものだ。

私は深呼吸がうまくなれば、身体造りが楽しいのだと知ることができれば、
と自分に向かった内向きの動機で受講を決めていた。
演劇の素養はなかったし、それゆえ演技そのものへの興味も少なかった。
しかもいつも運動ばかりかじっていて、文化方面への教室参加は初めてであった。
だからこれから述べるように、人生のあり方にまで考えを及ばせることができるとは、始めは考えてもいなかった。


呼吸法を学ぶ。腹式呼吸。
腹のみならず背中にも空気を入れよう。
胴体の筋肉をほぐそう。
普段動かさない部分を動かしてほぐすので
はじめは肋骨周りがさわやかに疲れ、翌日は筋肉痛である。
発声法を学ぶ。吸った息は全部吐こう!

滑舌を学ぶ。
「っ」や「い」「ん」などは日本人であってもきちんと発音できてなく、
冷静になって聞くとまるで外国の人のような訛り方である。
「さしすせそ」は特に難しく、うっかりすると幼稚園児のような発音である。

強く読むところを学ぶ。
同じ文でも強く言うところを間違えると
文意が異なったり、ストーリーが分からなくなったりする。

はきはき話す練習をするうち少し腹式呼吸がうまくなったようだ。

ダンスの先生に歩き方を学ぶ。
変な歩き方を治してもらってごきげんである。
バランス感覚を鍛えるステップも学ぶ。
ダンスをはじめすべての動きは一歩一歩に重心を素早くしっかり移せることが基本だったのだ。

舞台美術、照明、音楽を学ぶ。
あまりにも知らないことだらけで、
でも先生達は具体的な経験の話をたくさん交えてくれるので
とても分かりやすい。
次からショーやイベントを見に行くのが楽しみで、実際楽しさ倍増である。

本番が近づいてきた。
台本が配られ、数回通読したあと配役が決まる。

「葉っぱのフレディ」は木の葉を主人公として擬人化し、
人生の意味と死の意味をやさしく説いた子供向けの絵本で、
アメリカの哲学者の作である。
春に生まれた葉っぱのフレディが、仲間とともに夏に人生を謳歌し、
秋に死を予感して人生の意味を問い、冬に満足して散ってゆくストーリーで
例えば親族を亡くした小学生などから読めるし、
大人であっても読みごたえはとても大きい。

途中途中、重要なところは劇団の方に読んでもらって話のしまりをよくし、
受講生は短めに2箇所ずつ位読む。
私は、いいところに当たったんだ。
まずは、主人公葉っぱのフレディーが、
夏になって人生を謳歌しはじめるところ!
夏を天真爛漫に楽しんでいる様を聴衆に強く印象づけ、
その後のストーリー展開を大きくしたい。

そして秋が深まって死の意味を悟り、
自分にもうすぐ来る終焉をとうとう受け入れ、覚悟を決めるところ。
短いけど、フレディとそれを諭すダニエルのせりふが入っていて、
登場人物の、感傷なんかでは表現しきれない、
ぎりぎりの重い心情を、文章と違う表現にして一気に注ぎ込めるところだ。

上の通り重いテーマであるため、
朗読時はたとえ文字通り読んでも読み方が間違っていると
テーマの重みが伝わらない上に最悪意味も通らなくなるのだ。
素人には難しい、でも大切なことがぎっちり詰まった本だったのだ。

文の切り方ひとつでストーリーが流れたりぼけたり。
強く読む単語を間違えると、その瞬間主人公が不在になったり。
声を落としても声量は落としては、重みがぼけるし何より聞こえない。
前のひとの朗読を聞いていないと、流れがとぎれる。
悲しいからって悲しく読んでしまうと手前みそになって安っぽくなる。

そう、読むひと個人の感情を出すのではないんだ。
聞いた人に感情を湧きおこさせるように読むんだ。

まずは聞こえてナンボ、次は声が大きいだけではイマイチで
ストーリーを正確に伝わるように読む・・・。

そんなこと実際に読んでみるまでは実感したことがなく、
「文章を読む」ことに正しい、間違い、があることを初めて知った。
読み方の「個性」は正しく読んだあとの色づけだったんだ。

・・・、へぇ・・・。身体の使い方もそうだ。
正しい動きの上に個性がにじみ出してくるんだ。
きっと人生もそうだ。
正しい生き方の上に、個人の流儀が被さっているんだ。

それに気づいた時、ぞっとして首筋から鳥肌が立ったものだ。
こんなに急に何かに気づいたのは、いつもと違う「文化」系の経験をしたからかも知れない。
それをきっかけに朗読はすっと上達し、
演出家の先生から突然「何も言うことがなくなった」といわれてしまった。
「つかんだ」ということなのだそうだ。聴き手にも分かるのか。
いや、聴き手に分かってこそなのだ。それがすべてなのだ。

練習が続いて話が大きくなってきたのだ。
演出が大先生らしい、というだけでもとてもありがたいのに、
効果音が作曲家の先生の作曲になってしまった。
そうすると演奏者の顔が浮かぶらしく、効果音が生演奏になってしまった。
これは何が何でも成功させなければならない。
ド素人だからといういいわけなんて意味がない。
下手は下手でも俄然張り切って、やるべ!!

あっという間に本番の、自分の番が来た。
練習では、めきめき上達する周りの人の朗読に聞き惚れて出番を間違えたり、
ほんの「てにをは」一つを間違えると台無しになるのが分かっただけに、
それに気をとられてつっかえたり、冷や冷やしたけれど。

夏になるとますます嬉しくなった。という様を躍動感が伝わるように声を張る。
前のひとと後ろのひととのつなぎもうまくいったようだ。

次は秋だ。
すぐ脇でクラリネット生演奏が私のせりふに被さるんだ。
私専用の一回しか使わない作曲と演奏だ。

前のせりふが終わった。間合いをとって声を出す。
「変化する(死ぬ)ってしぜんなことだと聞いてフレディは少し安心しました」
練習になかった照明があたる。
秋の演出のためか、すっと出力が落ちたようだ。
演奏も練習時と違ってほんの少しゆっくりでほんの少しほわっとした音色だ。
私も練習と違う、少し落とした感じで声を出す。
「この木も死ぬの?」
一番力を入れていた7文字だ。
「いつかは死ぬさ、でもいのちは永遠に生きているのだよ」
諭すダニエルのせりふ。
二つのせりふをどう言い分けるか、
考えるのもそれを表現に出すのも難しい。
今回は技術的には無理だったし、考えも終わっていない。
人生経験や、考えることそのものが足りないのを実感した会話だったのだ。

出番は終わりだが、つづくひとのせりふをじっと聞くと
個人個人の解釈と、それが前のひとの解釈を引き継いで次につなぐ感じが練習のときに比べてずっとはっきりしている。
効果音のメロディーと演奏によって
作曲家・演奏者の解釈がまた違った角度から切り込んでいたのだと言うことが分かる。
始めの浅い解釈からずっと深まって、演じているだけでも満足である。
加えて帰って行かれる観客の顔が皆いい顔だったというコメントを受けて
感謝の念が湧く。

そう、演じるというのは観客と一体になれて初めて成立するのである。
人生も、同じなんだ。





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