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【参拝日:2021(令和3)年8月1日(日)】 夏の朝の神社は、すがすがしい ※ 第三鳥居※ 公式HPより 平成7年5月21日、第61回神宮式年遷宮(平成5年)で撤下された皇大神宮の内宮板垣南御門(ないくういたがきみなみごもん)を、久伊豆神社に曳き入れる「越谷お木曳祭」が斎行されました。このときには神宮当局より最大の奉曳車(ほうえいしゃ)の借用が許可され、また老若男女2000人以上が参加するという前代未聞の盛大なお祭りとなりました。 その後、同年9月には、太さ約60センチの木曽ヒノキ材を用いて高さ7.5メートル、幅8.5メートルの第三鳥居として再建されました。 〈越谷久伊豆神社:埼玉県越谷市越ヶ谷1,700〉
2021年08月01日
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【参列日:2021(令和3)年8月1日(日)】 初めて参加しました。 月次(つきなみ)とは、「毎月」のことです。自由に参列できます。 さすがに長ズボンはいていきました。 ※ 公式HPより 毎月一日と十五日に月次祭を執り行っております(1月1日以外)。祭典に先立ち、神職自身をお祓いし、本殿へ向かいます。そこでは、久伊豆神社の神々に神饌がお供えされ、天皇陛下と皇室の安泰、国の隆昌と地域の発展、そして国民の安寧を祈ります。 祭典が終了すると、神職はじめ参列者が直会の御神酒を頂戴します。その後、神職は境内にある御末社に向かい、その神々にも神饌をお供えいたします。 ※ 美しい! 〈越谷久伊豆神社:埼玉県越谷市越ヶ谷1,700〉
2021年08月01日
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【参拝日:2021年(令和3年)7月31日(土)】 ※ 公式HPより 当山は江戸幕府開府以来、徳川家との関連は深く、御朱印寺領二十石を賜り、歴代将軍による日光社参の際の休憩所と定められ、由緒と格式をもつ寺院として開創以来法灯を絶やすことなく燈し続けております。 先代・俊則大和尚はかつての七堂伽藍の再建として、昭和五十年(1975)十月に大本堂、客殿の建立。鐘楼堂、地蔵堂、山門(御成門)などを移設改築し落慶法要を奉修。さらに昭和五十八年(1983)には、本坊、書院、庫裡などを新築。梵鐘の新鋳、表門の新設、築地塀の増設、境内通路、墓地通路の敷地整備をし寺門興隆に尽力されました。 ※ 錫杖寺山門は明治期に移築されて来た旧宇都宮城のもの。戊辰戦争の時の刀傷や銃弾の跡がのこります。 〈宝珠山地蔵院 真言宗智山派 錫杖寺(しゃくじょうじ):埼玉県川口市本町2-4-37〉
2021年07月31日
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【参拝日:2021年(令和3年)7月31日(土)】 ※ 公式HPより 川口神社はもと「氷川社」と称し、川口町の鎭守氏神(土地を治める神様)として古くから領主・住民の崇敬を篤くいただいておりました。 創始は天慶年鑑(てんぎょうねんかん:西暦940年前後)と伝えられており、暦応二年(1339年)及び天文四年(1535年)の板碑や室町初期の古神像、江戸期の棟札等が残されています。 江戸時代に「氷川大明神」と尊称され、八代将軍吉宗公が行った産米のための見沼開発における芝川落口の門樋工事において、工事成功祈願の後、成功の運びとなったことからこの神恩に感謝して神前に奉納された神鏡は現在市指定文化財となっています。 維新後の明治六年に村社に指定された後、町内の天神社、稲荷社(三社) 金山社を合祀(一つの社殿に他の神様をお迎えして御一緒にお祭りすること)して社名を「川口神社」と改め、昭和の市制施行に伴い川口市の総鎮守(川口市全ての土地を守護する神社)となりました。 ※ 富士塚 〈川口神社:埼玉県川口市金山町6-15〉
2021年07月31日
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【参拝日:2021年(令和3年)7月31日(土)】 ※ 御嶽塚※ 力石 〈飯塚氷川神社:埼玉県川口市飯塚1-7-18〉
2021年07月31日
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【参拝日:2021年(令和3年)7月25日(日)】 神主様を迎えに行きました。 ※ 公式HPより 久伊豆神社は久伊豆大明神と古来氏子・崇敬者から崇められてきた、国造りの大神・縁結びの神・福の神として知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)(大国さま)と、その御子神で父神と共に代表的な福の神である言代主命(ことしろぬしのみこと)(恵美須さま)を主祭神とし、また配祀として大国主命の御女子神である高照姫命(たかてるひめのみこと)、言代主命の御妃である溝咋姫命(みぞくいひめのみこと)、そして皇祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)の第二の御子であり、出雲国造いずもの(くにのみやつこ)の祖先神である天穂日命(あめほひのみこと)の三柱を奉斎しています。 ご創建の年代は不詳ですが、平安時代中期以降には武士団武蔵七党の一である私市党(騎西党)の崇敬も篤く、除災招福の神として武士や庶民の信仰を集めてきました。応仁年間には伊豆国宇佐美の領主である宇佐美三八郎重之が埼玉郡騎西の地を領するところとなり当神社に古刀を奉献し、篤く尊崇したといいます。近世に入ると、徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝えられています。 また当神社は古来、現在の越谷市の中核となった元の四丁野村、越ケ谷宿、大沢町、瓦曽根町、神明下村、谷中村、花田村の七ケ所の総鎮守とされ、当神社の神宮寺として天文四年に開基された迎摂院(越谷山神宮寺)は五石の朱印を与えられました。 このように、当神社は往古より武士・庶民の崇敬・信仰を多く集めてきた御神威・御神徳により、明治の御維新の後は当地の総鎮守として明治六年四月に郷社に列格されております。以来、ご社頭はますますの繁栄、賑わいを見せて現在に至り、今日では氏子区域のみならず、県下はもとより広く全国に亙って信仰崇敬を集めております。 ※ 力石 〈久伊豆神社:埼玉県越谷市越ヶ谷1700〉
2021年07月25日
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【参加した日:2021年(令和3年)7月25日(日)】 地元の鎮守様 今年も納涼大会は中止です。 ※ お供えの準備 〈増森神社:埼玉県越谷市増森1892〉
2021年07月25日
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【作業日:2021年(令和3年)7月22日(海の日・木)】 地元の神社 前から考えていたことやってみた。 ※ よし、看板作ってみよう ※ 立札(力石) ※ 立札(庚申塔) ※ 神社の説明(社務所)※ 神社の説明(本殿) 〈増森神社:埼玉県越谷市増森1892〉
2021年07月22日
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【参拝日:2021年(令和3年)7月8日(木)】 ※ 波立寺 〈波立寺:福島県いわき市久之浜田之網横内89〉
2021年07月08日
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【参拝日:2021年(令和3年)7月8日(木)】 Jビレッジにある神社 ※ 蹴球(サッカー)神社 ※ おみくじ ※ 1回目 ※ 2回目※ 3回目 〈蹴球(サッカー)神社:福島県楢葉町大字山田岡字美シ森8 Jヴィレッジ内〉
2021年07月08日
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【参拝日:2021年(令和3年)7月8日(木)】 ※ 北田天満宮 〈北田天満宮:福島県楢葉町北田天神原〉
2021年07月08日
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【参拝日:2021年(令和3年)7月8日(木)】 ※ 津之神社 河岸稲荷 〈津之神社 河岸稲荷:福島県楢葉町山田岡仲入〉
2021年07月08日
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【参拝日:2021年(令和3年)6月22日(火)】 〈日蓮宗 長谷山本土寺:千葉県松戸市平賀63〉
2021年06月22日
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【参拝日:2021年(令和3年)6月22日(火)】 ※ 公式HPより 当山は、源氏の名門平賀家の屋敷跡であり、建治三(1277)年、日蓮大聖人の篤信者である時の領主曽谷教信公の協力を得て、領内の地蔵堂を当地に移して法華堂としたことに始まり、大聖人よりご直筆の御本尊・ご愛用のお袈裟・お数珠の三箇の霊宝と共に「長谷山本土寺」の寺号を授かった事により開山と致します。 また当平賀の地は平賀家の三兄弟、すなわち日蓮大聖人の直弟子で師孝第一の日朗聖人、京都弘通という日蓮大聖人の遺命を全うされた日像聖人、そして池上・比企ヶ谷両山の第三世である日輪聖人の三聖輩出の聖地でもあります。 かつて当山は池上の長栄山本門寺、鎌倉比企ヶ谷の長興山妙本寺と並び「朗門の三長三本」と呼ばれ、宗門屈指の大山として末寺百数十を統べ、 山内は四院六坊がとりまく十四間四面の本堂を中心に七堂伽藍がその山容を誇ったものでありました。しかし、不受不施の法難と明治維新の廃仏毀釈運動により、その偉容は衰退してしまいました。 現在は「あじさい寺」「四季花の寺」として親しまれ、花の時季には多くのご参拝を頂いております。境内には、日像聖人をお祀りする像師堂の側らに「乳出のご霊水 日像菩薩誕生水の井戸」が遺されおり、安産・子育てに霊験があると伝えられています。他にも三聖人のご生母で「母菩薩」とも称される妙朗尊尼や、子育て鬼子母神等の様々な神々より御守り頂いているお寺でもあります。 本土寺の「本土」とは法華経壽量品に説かれる「我此土(わがこのど)」つまり、久遠実成の本仏であるお釈迦様がお住まいになる国土を意味しています。また本土寺の草木・花々は、仏土を鮮やかに彩る「宝樹」であり、お釈迦様だけでなく我々衆生をも「心の安らぎ」へ導くという祈りが込められているのです。 〈日蓮宗 長谷山本土寺:千葉県松戸市平賀63〉
2021年06月22日
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【見た日:2021(令和3)年5月16日(日)】 こんな社務所だったんだ! 〈増森神社:埼玉県越谷市増森1892〉
2021年05月16日
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【参拝日:2021年(令和3年)5月8日(土)】 越谷探検シリーズ 〈真言宗豊山派 大澤山 弘福院:埼玉県越谷市北越谷1-21-26〉
2021年05月08日
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【参拝日:2021年(令和3年)5月8日(土)】 越谷探検シリーズ 〈高野山真言宗 女高山 大澤弘法寺:埼玉県越谷市1-9-2〉
2021年05月08日
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【参拝日:2021年(令和3年)5月8日(土)】 越谷探検シリーズ 〈真言宗智山派 梅華山 照光院:埼玉県越谷市大沢2-4-6〉
2021年05月08日
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【参拝日:2021年(令和3年)5月8日(土)】 越谷探検シリーズ ※ 大好物 〈香取神社:埼玉県越谷市大沢3-13-38〉
2021年05月08日
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【参拝日:2021年(令和3年)5月8日(土)】 越谷探検シリーズ 〈真言宗智山派 光明院:埼玉県越谷市大沢3-16-15〉
2021年05月08日
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【いただいた日:2021年(令和3年)5月3日(憲法記念日・月)】 コロナ渦で、雷電講は中止 残念 ※ 雷電神社 御札(700円)
2021年05月03日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月24日(土)】 〈稲荷神社:埼玉県吉川市平沼53-6〉
2021年04月24日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月24日(土)】 吉川中央病院の隣にある神社 通学に使っていた小道にあります。 ※ 右側が小道 〈鷲神社:埼玉県吉川市平沼116-1〉
2021年04月24日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月24日(土)】 〈真言宗系単立 大聖山日蔵院:埼玉県吉川市保107〉
2021年04月24日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月24日(土)】 吉川郵便局の北側にある神社。 大好物の力石がありました。 ※ 力石 ※ 力石 ※ 水神宮 〈香取神社:埼玉県吉川市保1-34-6〉
2021年04月24日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 ※ ずっと探していた力石が、こんなところに ※ 力石っぽいんだけど ※ これも、力石っぽいんだけど ※ 社殿 〈増森神社:埼玉県越谷市増森1892〉
2021年04月09日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 ※ 力石 ※ 力石〈増林下組香取神社:埼玉県越谷市増林4232〉
2021年04月09日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 〈護郷神社(旧浅間神社):埼玉県越谷市増林3199〉
2021年04月09日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 〈水神宮:埼玉県越谷市東大沢3丁目 定使野公園〉
2021年04月09日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 ※ 本殿※ 力石ありました 〈弥十郎稲荷神社:埼玉県越谷市弥十郎441番地〉
2021年04月09日
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【参拝日:2017(平成29)年3月26日(日)】 〈真言宗智山派 延命寺:埼玉県吉川市1541〉
2021年03月26日
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【参拝日:2021(令和3)年3月20日(春分の日・土)】 〈大泊香取神社:埼玉県越谷市大泊19〉
2021年03月20日
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【参拝日:2021(令和3)年3月20日(春分の日・土)】 ※ 浄土宗 安国寺 〈浄土宗 安国寺:埼玉県越谷市大泊910〉
2021年03月20日
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【参拝日:2021(令和3)年2月11日(建国記念日・木)】 ちょっと寄ってみたら、建て替え中でした。 かえって貴重かも 〈曹洞宗 浄山寺:埼玉県越谷市野島32〉
2021年02月11日
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【参拝日:2021(令和3)年2月11日(建国記念日・木)】 ※ 野島久伊豆神社 〈野島久伊豆神社:埼玉県越谷市野島261〉
2021年02月11日
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【参拝日:2021(令和3)年2月3日(水)】 ※ 公式HPより 湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。 明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。 明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。 元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。 明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。 「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とはは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。 菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。 延長八年(930)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。 菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。 やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。 そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。撫で牛(手水舎横)※ 合格甘酒 〈湯島天満宮(湯島天神):東京都文京区湯島3-30-1〉
2021年02月03日
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【参拝日:2021(令和3)年2月3日(水)】 ※ 公式HPより 烏森の地は、古くこのあたりが武蔵の国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一体は松林であった。その為当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりである。明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。 平安時代の天慶3年(940年)に、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが、烏森稲荷の起こりである。 明暦の大火(世界三大大火の一つに数えられる俗名 振袖火事)が起こった際、江戸市中は焼け野原となり、もちろん当社の周辺も大方焼けてしまった。ところが烏森稲荷社だけは不思議にも類焼を免れたのである。これは神威の致すところと考えられ、以降当社に対する信仰は日に日に厚くなっていった。 また、椙森神社(日本橋)柳森神社(神田)と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されている。明治6年にはこれまでの烏森稲荷社の社名を烏森神社と改め、新橋烏森の守り神として多くの人々の信仰を得ている。昭和46年には御社殿を造営し現在に至っている。※ 社務所 〈烏森神社:東京都港区新橋2-15-5〉
2021年02月03日
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【参拝日:2021(令和3)年2月3日(水)】 ※ 公式HPより 1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。 慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。 その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。 大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にあります。これは23区内で自然の地形としては一番高い山。春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木の涼と蝉時雨、秋は月と紅葉、冬は雪景色と四季折々の表情で、訪れる人の目を楽しませています。 オフィス街に位置することもあり、境内はお昼休み時は近隣で働く人々でにぎわいます。 都心の中にぽつりと残ったオアシス的な存在として人々の安らぎの場となっています。 〈愛宕神社:東京都港区愛宕1-5-3〉
2021年02月03日
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【参拝日:2021(令和3)年1月1日(金・元日)】 地元の鎮守様 今年は、新型コロナの影響で、おでんなどはなく、破魔矢をいただきました。〈増森神社:埼玉県越谷市増森1892〉
2021年01月01日
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【参拝日:2020(令和2)年12月30日(水)】 地元の神社。お正月の準備 ※ 榊〈新田神社:埼玉県越谷市増森〉
2020年12月30日
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【参拝日:2020(令和2)年12月30日(水)】 地元の神社。お正月の準備 〈雷電神社:埼玉県越谷市増森〉
2020年12月30日
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【参拝日:2020(令和2)年12月30日(水)】 地元の神社。お正月の準備 〈三峯神社・古峯神社:埼玉県越谷市増森〉
2020年12月30日
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【作業日:2020(令和2)年12月30日(水)】 地元の神社の世話人デビュー 鈴の緒に三色晒を交換しました。 ※ 力石のような、違うような 〈増森神社:埼玉県越谷市増森1892〉
2020年12月30日
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【参拝日:2020(令和2)年12月6日(日)】 〈愛宕神社:埼玉県さいたま市岩槻区本町3-21-25〉
2020年12月06日
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【参拝日:2020(令和2)年11月16日(月)】 ※ 公式HPより 鷲神社は天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした由緒正しい神社です。現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めており、また十一月の例祭も現在は「酉の市(とりのいち)」として広く知られています。 社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました。 天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。 後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」です。この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となりました。 江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。十一月の例祭も現在は「酉の市」と広く知られていますが、正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日です。※ なでおかめ〈鳳(おおとり)神社:東京都台東区千束3-18-7〉
2020年11月16日
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【参拝日:2020(令和2)年11月16日(月)】※ 公式HPより 江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参詣者が訪れている。 池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。〈吉原弁財天本宮/新吉原花園池(弁天池)跡:東京都台東区千束3-22〉
2020年11月16日
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【参拝日:2020(令和2)年11月16日(月)】 ※ 公式HPより 当社は吉原遊郭とともに歩んできた神社です。吉原遊郭は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまります。この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1655)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。 この「新吉原」には廓の守護神として五つの稲荷社が存在しました。吉原の入口である大門(おおもん)の手前に「玄徳(よしとく)稲荷社(吉徳稲荷社)」、さらに廓内の四隅には「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」がお祀りされていました。 その後明治5年に、これら五つの稲荷社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられました。当初は玄徳稲荷社旧地にお祀りされていましたが、関東大震災にて焼失。震災後は水道尻付近の仮社殿にてお祀りしていましたが、昭和9年に現在地へ新社殿を造営、そのさい新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。その後昭和20年の東京大空襲で惜しくも焼失しますが、昭和43年に現社殿が造営されて現在に至ります。 〈吉原神社:東京都台東区千束3-20-2〉
2020年11月16日
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【参拝日:2020(令和2)年11月16日(月)】 ※ 公式HPより 富士信仰が最も盛んであった江戸時代、富士山参拝は江戸庶民にとって生涯の夢であった。しかし当時は交通事情も悪く、そうした中、富士山崇敬を目的とした「富士講」が結成され、全国各地に浅間神社の勧請が行われた。富士山山開きの6月1日(現在は7月1日)には、富士参りの出来ない人々が、各地元の浅間神社に参詣した。そうした富士山遙拝所として当社が創建された。 当初は、現蔵前の三好町に勧請・分祀(御神霊を頂くこと)され、その後幕府の命により昔は富士に似た森厳なる小丘であった現在地(浅草五丁目)に移されたとされている。 詳しい創建日は不明だが、当社本殿より発見された棟札によると元禄年間(1688~1703)の創建と推察されるが、元禄年間以前の「江戸絵図」にはその鳥居が描かれており、この辺をどう解釈するかが今後の課題である。 当社が再建されたとする江戸時代は神仏習合の時代であり、仏が神の姿をかりて世俗に現れるという権現思想の中、当時神社自体は富士権現として浅草寺子院 の修善寺が管理していた。その後明治維新の神仏分離の政策により修善寺の管轄を離れ、明治6年より浅草神社の兼務社として現在に至る。 明治11年に建てられた社殿は、先の東京大空襲で土蔵造りの本殿を残し全焼。その本殿の観音扉の内側には明治維新前後の作と思われる下り龍の漆喰彫刻が残っている。現在の社殿は平成10年に神社奉賛会その他篤信の方々の努力により再建されたもので、さらに平成14年4月には、石造りの玉垣が奉納され、完成した。〈浅草富士浅間神社:東京都台東区浅草5-3-2〉
2020年11月16日
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【参拝日:2020(令和2)年10月4日(日)】※ 三ノ宮卯之助の力石発見!〈飯塚神社:埼玉県さいたま市岩槻区飯塚1294〉
2020年10月04日
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【参拝日:2020(令和2)年10月4日(日)】〈富士浅間神社:埼玉県さいたま市岩槻区府内1-6-24 〉
2020年10月04日
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