マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2010.10.18
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カテゴリ: 日本史全般
 不思議な墓(2) 

 国司壇を見つけたのはたまたまで、私の目的は龍雲寺にある川崎伊達家の廟所を訪れることだった。お寺の東方100mほど離れた場所に墓地がある。廟所の在処を尋ねると直ぐそこにあると言う。確かに古そうな墓石がずらりと並んでいた。だが、仙台藩の歴代藩主が眠る廟所とは違って厳かさが全くない。

 一般の墓域との区別も無く、それほど大きくない墓石が直接地面の上に立っているだけの廟所。藩主の親戚筋であればもっと立派な墓でもおかしくないと思うのだが、何故これほど貧相なのだろう。私の疑問は一気に膨らんだ。

 戦国時代まで、この川崎は砂金氏が治めていた。一説によれば砂金氏の祖は源義経の家来だった由。また浪々の末にこの地に辿り着き、守護となったとの説もあるようだ。伊達氏が米沢、岩出山を経て仙台に入るとその配下となって仕え、元和4年(1618年)城を元々の本城から笹谷街道近くの川崎館に移し町割した。だが、元禄15年(1702年)同家は廃絶する。

 その後、享保7年(1723年)に一門の伊達村△(「言」に「全」の字)がこの地に入る。交通の要衝である笹谷街道を守る必要があったのだろう。城はそれ以降「川崎要害」と呼ばれた。石高は2千石。伊達藩は一門(11)、一家(17~21)、準一家(8~15)、一族(22~33)、宿老(3~8)、着座(29~45)、太刀上(4~10)、召出一番座、召出二番座、平士、組士、郷士から構成されているが、最上格の一門で2千石はあまりにも低い。中には7千石取りの一族もいると言うのに。

 廟所には第2代から第8代までが夫人と共に眠っていた。第8代伊達邦賢は幕末の戊辰戦争で敗れ、家禄を返上し川崎要害は廃城となった由。この小さな宿場町に激震が走った時代があったのだ。墓地から退散しようとた時、木の株にキノコがびっしりと生えているのを発見。傍の人に聞くとヨシタケだそうだ。一般名はナラタケで食用になるとの返事。喜んで袋に詰めた。

 その時バスが近づくのが見えた。「伊達なバス旅」で20名ほどの参拝客があるとのこと。そのツアー客に配る資料を私にもくれた。廟所の配置図と「羽前街道(笹谷街道)」に関するパンフレットだった。これは良いものをもらった。だが、このことで再び迷いが生じた。果たしてここから村田町方面に向かうべきか、それとも旧笹谷街道が通る四方峠経由で蔵王町へ向かうべきか。



 それよりも村田町経由で大河原町に出、そこから蔵王町に入って逆に四方峠を北上するのはどうか。当初のコースから逸脱し、距離も予定より伸びてしまうが大きな登りが2つで済むし、見たいところが全て見られるのが良い。かなり冒険だが今日はそれで行ってみよう。覚悟は決まった。果たしてどんな事態が生じるか。<続く>





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Last updated  2010.10.18 20:05:27 コメント(4) | コメントを書く


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