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白い倍音の魔法使い

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白い倍音@ そうだったんですね ごちゃまぜアイスさんへ  ブログ閉鎖さ…

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April 2, 2010
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 昨日、悲嘆ということを書いた。

 また気持ちが楽になった。

 今日、スーパーの駐車場に桜の木があった、満開だ。
悲嘆していいんだ、と思い、
いつもは無感情で通り過ぎるのを、立ち止まりジッと桜の花を見つめた。
「ピーピー」野鳥が飛んできて桜の木の枝に止まった。
 悲しくなってもいいんだ、と思い、桜を見つめていると
なぜか、悲しくはなかった、不思議と心が暖かくなった。


 不思議だな、
悲しみ、嘆いてもいいんだって、思ったら急に楽になった。
母の命日も過ごせそうな気持ちになってきた。
泣いても悲しんでもいいのだから、そうする日なのだから。
 そう思うと不思議だな
悲しみが薄らぐ気がする。
 そうしていいんだよ、って言ってもらえたことで
逆にそれほど悲しくなくなる・・・
 心って不思議だな~って、つくづく思う。
我慢してるとか、そういうのとは違う。
 心がほっとして、緩んで暖かくなる。


 でも、罪悪感や自分を責めるのは悲嘆とは違う気がする。
同じように苦しみや辛さの中にある状態かもしれないけれど、
ずっと罪悪感を抱いたり、自分を責め続けるのがいいとは思わない。
 私の場合は、
罪悪感を持つことで、母の死から目をそらそうとしている。

 自分を責めることは、この世が自分の思い通りにならないことへの苛立ちで、
もっと自分は出来る人間のはずなのに、という傲慢さの現われではないだろうか。
 そして、なにより、悲嘆と罪悪感の大きな違いは
罪悪感や自責は「許せない」ことから湧き出てきている。
 現実が許せない、
 自分が許せない
許せない状態で、ほっと出来る訳ない、心が暖かくなるはずもない。

 悲嘆は許すことだ、認めることだ。
母の死を認め、母に会いたいという自分の願いは叶えられないのだと、悲しみ苦しむ自分を許すことだ。
 その先には何があるかは、まだ分からないけれど

 今まで好き放題させてきた罪悪感は、手放すことだ。
罪悪感がなぜ湧いてくるのか、
罪悪感を抱くことで自分や他人に与える影響を考えれば、
出来るはず、
 罪悪感を抱く自分を許す、
というのもいいかもしれない。
 罪悪感と許しは共存できない。
罪悪感を許せれば、きっと罪悪感は消えていく。

 いつまでも、自分はだめな人間だ、悪い人間だ、
と想い続ける事は、
 癒しからは一番遠い。

 私は自分を癒したい
 自分を愛したい、大切にしたい、と思う。

 だから罪悪感はもう手放したい。
何かを見て母を思い出したとき、例えば旅行の案内を見たとき
今までなら「あぁ、あんなに一緒に旅行しようと言われていたのに
私は連れて行ってあげれなかった、なんて私はひどい人間なんだろう、
お母さんごめんなさい、ごめんなさい・・」
と言い続けていたのだけど、
 これからは、旅行案内を見たとき
「あぁ、私はもう生きている母と旅行することは、二度とないのだ」
と自分を責めるのではなく、
母は死んでしまったから旅行が出来ないのだと、その事実を見つめ
悲しければ、涙を流そう
 それが、罪悪を手放し、悲嘆することだと思う。 

 悲嘆と罪悪感は違うと思う。














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Last updated  April 2, 2010 05:42:58 PM
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