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坂本野原物欲はこのごろ消えてトリュフ塩買って終わりぬ成城石井ポピュラーでRomanticな表現は松本隆に全部やられた『風に吹かれて』を転倒させた『風をあつめて』に始まり、全力疾走しつつ渾身の2100曲。ご本人もインタビューで「からっぽになった」と語っている。・・・そりゃそうだろうな(笑)日本語の詩的表現に興味がある者の端くれとして、陰ながら深く尊敬している。このブログひそかにやっていることも知らない妻をひそかに愛すすず・アリス美人姉妹のひと昔前は倍賞千恵子と美津子あやうげな新木優子の演技力 はらはらしつつどきどきしつつ大谷はどうなってんだ現実のスーパーマンか28号この国を悪く言うのがマスメディア 青少年よ大疑を抱け衆議院不解散論浮上せり戦争だから王道詭道* 任期満了総選挙といえば、本来は民主政治の王道中の王道だが、現実政治においては意表を突く詭道ともなり得る。コロナワクチン接種状況を睨みつつ、野党の準備状況も天秤にかけつつ、基本的に遅ければ遅いほどいいという見方が自民党内に浮上。連立相手の公明党も歓迎だろうし、なるほど八方丸く収まる。法的には、なんと最大11月末投開票まで引っ張れるのだという。・・・さすが、こういうことがメシより好きな軍師が揃っているわい。
2021年06月30日
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小倉百人一首 九十九後鳥羽院(ごとばいん)人もをし人もうらめし あぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は続後撰和歌集 1199人間がいとおしくもあり人間が恨めしくもある。つまらないと世を思うゆえに物思いに耽る身には。註をし(愛し、惜し):いとしい。いとおしい。いじらしい。うい。現代語「惜しい」の語源であるとともに、「うい」ともおそらく語源的関係があるか。あぢきなし:つまらない。面白くない。現代語「あじけない」の語源だが、「味気ない」は当て字でありニュアンスも異なる。後鳥羽上皇は、33歳でこの歌を詠んだ9年後、鎌倉幕府に対して承久の乱を起こし、敗れて隠岐島へ配流の身となり、そこで崩御した。この後鳥羽院の傍に長年仕え、「新古今和歌集」の選者でもある当時の和歌の泰斗・権威(日本文化トップ)の藤原定家は、私家版のミニチュア・アンソロジーともいうべき小倉百人一首の99首目にこの歌を配置した。その意図については、古来幕府(武家政権)への「精神的懲罰説」ひいては「呪詛説」など禍々しい巷説が囁かれてきたが、それほどではなくとも、名状しがたい深い同情・悔恨・懐旧、思慕の念など万感の思いが込められていることは確かと思われる。 百人一首 「人もをし飛ともうらめし阿ち記なく」ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメインの
2021年06月30日
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この記事は、2010年9月22日に投稿したものですが、これ一つで閲覧回数は3万アクセス行っており、このブログで常に上位にランキングされております。読み返してみると、我ながら確かに面白い記事になっており、大きく訂正すべき点もないようなので、閲覧の便のためそのまま再掲載します。藤原道長(ふじわらのみちなが)この世をばわが世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば藤原実資『小右記』(寛仁2年・1018)この世をば、わが世だなあと思うのだ。この満月の、欠けたところもないのを思えば。註平安時代中期、事実上の最高権力者である左大臣の地位にあった藤原道長の詠んだ歌として古来有名。道長の長女・彰子(しょうし)は一条天皇の中宮(皇后)となり、二人の皇子を生んだ。この二人は、のちに後一条天皇と後朱雀天皇となる。1018年、彰子と腹違いの娘・威子(いし)が後一条天皇の中宮に入内(じゅだい)することとなり、その立后の日(旧暦10月16日・新暦11月26日)の宴(うたげ)で詠んだ。この時道長52歳。その場に同席した、道長に批判的だった政敵・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が、その日記『小右記』にこの宴の模様を詳らかに書き留めたため、長く後世に伝わることとなった。その場の即興(インプロビゼーション)ゆえであろうか、「思ふ」「思へば」の重複、下2句の意味が今一つ分かりにくいなど、和歌作品としての完成度が高いとは言えない。当時すでに発達していた象徴主義的表現の幽玄微妙などどこ吹く風の、露骨ともいえる直截な表現である。が、それにもかかわらず、凡百の和歌が裸足で逃げ出すド迫力があることもご覧の通りである。内容から読み取れるのは、半ば実感、半ば虚勢・強がりといったところだろうか。巷間、怪物的な自恃自矜(ナルシシズム)の典型のように言われるが、よく読めば、案外それほどの排他的(エグゼクティヴ)な心境を示したものではなくて、単純素朴でイノセントな多幸感(エクスタシー)を率直に表現したものとも思える。酒席での座興のアドリブらしいこともあり、共感できるとまでは言わないが、やや情状酌量すべき余地はある。われわれ庶民といえども、人としてこの世に生まれて、道長の何百分の一であっても、このような境地を一度や二度味わうのは悪くないかも知れない。結婚式や、子供が生まれた時とか、仕事で大成功したとか、枚挙にいとまはなけれども。ただ、当時の権謀術数渦巻く平安国家権力中枢にあって、これほど脇の甘い太平楽な歌を詠むとは、案外お坊ちゃま丸出しで「天然系」の、意外と人好きのする、けっこういい奴(?)だったのかも知れないとさえ思う。・・・僕が勝手に抱くイメージでは、「渡辺徹」みたいな?事実、娘・彰子の女房(侍女兼家庭教師のようなもの)であったインテリジェント・キャリアウーマン紫式部をはじめ、当時の一流の女性たちにモテモテであり、あの「光源氏」のモデル(の少なくとも一人)となったことも、ほぼ間違いないと言っていいだろう。・・・と同時に、この歌に、わずかに不吉な翳が射しているのを読み取るのは僕だけではあるまい。「望月」が欠けたところがないという我田引水で牽強付会なイメージの展開が、今現在の境遇がピークであり、満ちた月は明日の夜から欠け始めるという栄枯盛衰・生者必滅・色即是空・祇園精舎の無常を微かに連想させる。当時、位人臣(くらいじんしん)を極め全権力を掌握していた藤原氏の完全無欠な権柄と栄耀栄華は世を覆っていたが、すでにこの時、道長の身体は貴族社会の不健康な生活習慣と運動不足、過度の飲酒、ストレスなどによってであろうが、飲水病(現・糖尿病)に罹患しており、眼病(糖尿病性の黄斑変性症などの網膜疾患?)や心臓神経症(脚気衝心=ビタミンB欠乏症?)も患っていたという。藤原氏の繁栄も、彼一代が頂点であり、はつかなる綻びと衰亡の予兆も垣間見せ始めていた。彼自身、さすがに悟ることがあったと見え、この翌年には剃髪して仏門に入り、病気の治療を加持祈祷の神通力に縋る次第となった。そんなこんなの、日本人なら誰しも持っている「諸行無常」な感受性を呼び起こす点でも、やや下手で放胆なこの歌をして、天下の名歌たらしめているゆえんであるといえよう。なお、僕らの世代には、松任谷由実(当時、荒井由実)の名曲「14番目の月」の歌詞も連想される。
2021年06月30日
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UnderworldBorn Slippy
2021年06月28日
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Roger NicholsThe Drifter
2021年06月28日
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坂本野原加藤茶も思い残しはなかるらむ米倉涼子「ちょっとだけよ」に今日もまたあおり男が車から降りてわめいて 映ってますよ
2021年06月28日
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大森靖子Rude
2021年06月27日
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坂本野原娘より最尖端の知見聞く はや高三となりにけるかも父好むサカナクションに興味なし 音楽好きは血筋なれどもなりゆくはマイ・フェア・レディ十分に自覚しているセキュリティなど家族みないつも一緒に行っていたプールさびしくひとりで泳ぐ父われがしてあげられることといえば飲むヨーグルト買うことぐらい父さんは健康オタクちかごろはお相撲さんに似てきたねとぞイミダゾールジペプチドを摂るために鶏胸肉を欠かさない我
2021年06月27日
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平井 堅 瞳をとじて
2021年06月27日
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Bee GeesHow DeepIs Your LoveTake ThatHow DeepIs Your Love
2021年06月25日
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作者不詳伊香保いかほろのやさかのゐでに立つ虹ぬじの 顕あらはろまでもさ寝をさ寝てば万葉集 3414伊香保の山の麓の川の八尺(やさか)の高さの井堰(いぜき)に虹が現れるように人に露わになるまでもずっとあなたと共寝していられたらなあ。註伊香保ろ:現・榛名(はるな)山、またその辺りの意味。「ろ」は「そこらへん」を示す「ら」の東国訛りか。古代の「伊香保」は、温泉郷で有名な現在の行政上の群馬県渋川市伊香保町に比べ、遥かに広い範囲を指していた。まあ、大雑把だったのだろう。現在の東京の地名「渋谷」も、古くは遥かに広い範囲を含んでいたことと相似(ちなみに、地名の「渋」は水の流れが渋滞・滞留する場所の意味という。渋沢、渋川、渋井など、いずれも水に関わりがある)。「伊香保ろのやさかのゐでに立つ虹の」の上3句までが、状況説明でありつつ「顕はろまでも」を導く序詞(じょことば)の構造になっている、古代の歌としてはなかなかの技巧。顕はろまでも:(恋人との秘めた仲が)人に露見しても構わないほど。上野国(上つ毛・かみつけのくに→こうずけのくに、ほぼ現在の群馬県)の東歌(あずまうた)。東歌は、当時の各地の民謡・俗謡のようなもので、古代の地方人の大らかな息づかいを生き生きと伝えている。また、独特の訛りがあるのは今も同じか。ごめんねごめんね~各地の国府(大和朝廷の出先機関)などを通じて、「租庸調」などの現物納付の税(みつぎもの)とともに、都(奈良・平城京)に送られ収集されたものと考えられている。なお、古代においては虹は凶兆とされていたといわれ、あの厖大な万葉集で虹という言葉が出てくるのは、わずかにこの一例のみであるという。今日の感覚から見れば何とも奇異だが、確かに虹は、原理を知らなければ不気味な現象に見えなくもない。何らかの天変地異すら連想させたのかも知れない。事実、その後も和歌ではほとんど詠まれていない。
2021年06月23日
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坂本野原大谷ショーヘイは愛しき男ひとよレイモンド・チャンドラー見しベーブ・ルースか* 米作家レイモンド・チャンドラーの代表作の一つ『さらば愛しき女ひとよ Farewell, My Lovely』は、主人公の私立探偵フィリップ・マーロウが、当時空前の大記録を築きつつあったベーブ・ルースのホームランをラジオの生中継で聴いて感嘆する場面から始まる。ベーブ・ルースは、大谷のいわゆる「二刀流」の大先輩で、世界野球史上伝説の大プレーヤー。野球の神様と称される。「ベーブ」は本名ではなく愛称で、童顔だったゆえの「ベイビー(赤ちゃん)」の略。不遇な少年時代から裸一貫で這い上がった不屈の精神と庶民的な気さくさが同居した人柄は万人に愛された。ちなみに、「二刀流」とは、わが国伝説の剣豪で、晩年は悟りの境地に達したと伝えられる実在の偉人・宮本武蔵の代名詞ともいえる流儀。この一首、推敲に3日を要した。
2021年06月23日
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山下達郎 フェニックスNHK SDGsキャンペーン山下達郎 フェニックスわが敬愛してやまぬ山下達郎は、いつも永遠を歌っている。なんてこともない個人的な恋の歌でも、彼が作って歌うと真摯な祈りと神秘性を纏ってしまう。おそらく、もともと柄が大きい音楽的資質・感性に加え、日曜午後のFMラジオ番組などで惜しみなく披歴されるポピュラー音楽に関する驚くべき該博かつ緻密な知識がそれを生み出している。いい意味での音楽オタクである。そしてその歌は、永遠になる。彼の音楽を聴いていると、キラキラした眩しさを感じる。五感の垣根を超えるこういった現象は、心理学では「共感覚」とかいうんだっけ?本当に眩しい。
2021年06月21日
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小泉今日子 優しい雨うわ~、改めて聴くと、名曲だなあ~。・・・何十年前だろう? 彼女も若くて絶世の美女だった。こっちも若くてビンビンだった。当時もなんとなく聴いてはいたし、ボーイッシュな(子供っぽい)美少女アイドルだったキョンキョンが大人っぽい路線に転換した記念碑的作品だなとは朧げに認識していたが、こっちも元気盛りで毎晩夜の花街で飲んだくれていたので、不注意に流していた。今、再発見したよ。
2021年06月20日
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CarpentersRainy Days And Mondays 雨(オランダ・アムステルダム)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大
2021年06月20日
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明智光秀(あけち・みつひで)ときは今あめが下しる五月さつきかな天正十年(1582)旧暦五月二十四日(もしくは二十八日)連歌会「愛宕百韻」にて* 本能寺の変は、同年旧暦六月二日(新暦換算6月21日)発生。〔1〕時は今雨が下領しる五月かな(時節は今、梅雨が下界を覆い尽くし「領有」する五月だなあ。)〔2〕土岐は今天が下治しる五月かな(わが土岐一族が、いま天下をしろしめす時の五月であることよ。)註 表向きの〔1〕の意味は、「降り続く梅雨の雨が、地上の全てを覆い尽して(いわば)占領してしまうよ」という、一種の気宇壮大なユーモアを漂わせた戯咲的で諧謔的な発句で、これ自体、教養ある武将にふさわしい風格の佳句ではないかと思う。小室等「雨が空から降れば」を連想する。 ただ、〔2〕の、よく知られた政治的な意趣を読み取ることも十分に可能であり、短歌実作者の端くれとしての直観でいえば、確証があろうはずもないが、たぶん広く言われる通り本能寺の変における謀反の意思をほのめかしたと推測していいのだろう。とき:「時」(時節、時季)と、作者の本姓の「土岐」を掛けている。あめ:「天」と「雨」を掛けている。「天」が天皇(朝廷)の意味であるとする説もあり、ややうがちすぎかとも思うが、捨てがたい解釈である。あめが下:天下。しる:知る。しろしめす。統すべる。治める。支配する。統治する。領する。占める。平らげる。「知事」などの語に残滓的痕跡。五月さつき:皐月。旧暦の五月。ほぼ現行暦の6月に当たる。梅雨時。語源は「さみだれ月」(梅雨の月)ともいわれる。「さつき晴れ」は、もと梅雨の晴れ間を言った。* 江戸中期の儒学者・湯浅常山の戦国武将の逸話集『常山紀談』によると、本能寺の変・山崎合戦後にこの発句を知った秀吉らが「愛宕百韻」に同席した里村紹巴を詰問したが、紹巴は光秀の自筆懐紙を持参し、光秀の発句の部分を示した。そこには「下なる」を「下しる」に書き直した跡があり、当初は「下なる」であったものを、誰かが自分を貶めるために「下しる」と書き直したものと弁明し、追及をかわしたと伝える。本当は、最初から「下しる」とあったものを、咎めを懼れた紹巴が「し」を消したうえで改めて「し」を書いた小細工ともいう。 仮に「時は今天が下なる五月かな」(時は今、天下の五月だなあ)でも意味が通らないことはないが、あまりにも凡庸になるように思われる。 明智光秀像ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2021年06月19日
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The Doobie BrothersWhat A Fool Believes The Doobie Brothers 1977ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2021年06月18日
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梅沢富美男 子の傘に透ける窓あり青蛙17日放送の『プレバト・富美男のお手本』より。(兼題:折り畳み傘)さすがは永世名人、相変わらずうまいなあ。僕も、わが子がまだ小さかったころ、今どきのカラフルな子供傘に「窓がある」(透明な部分がある)ことに一瞬ハッと感じ入ったことを思い出した。その詩情の小さな発見を簡明に表現した。・・・とはいうものの、上2句はこのことのやや散文的な状況説明ともいえ、俳句の世界では蛇蝎のごとく嫌われる「理」に堕ちるかどうかの瀬戸際である。ここまではツーアウト満塁のレオナルド・ダ・ピンチである。俳句にならない。が、下の句の「青蛙」の一語で、梅雨時の季節感をまとった非凡な着地になっている。一種の爽やかな清涼感、清冽ささえ感じさせる。地味ながらなかなかの離れ業であり、手練れの所業であった。この、ぽつんと配置された一匹の小さなアオガエル(という言葉と、それから喚起されるイメージ)が、実に可愛い。いとおしい。美しい。ひとつの宝石や~っ。この「子」が青蛙をどうしているのか、ただ「傘の窓」を通して眺めているのか、それとも、友達と大騒ぎした挙句にとっ捕まえて傘の窓に乗せて遊んだりしているのかは分からない。というか、はっきりと言い表すにはもはや到底字数がない。が、それはそれでいい。そこは読む者の想像に委ねる。むしろ十七音の制約が楽しい想像をかき立てる。われわれ韻文マニアは、これを肴にしばらく飲める。酒が美味くなる。韻文(短歌・俳句・詩)を玩味するということは、興味のない人から見れば、こういう変態チックな行為である(笑)季節感・清涼感という観点で言えば、季節は違うが万葉集の名歌、志貴皇子(しこのみこ)「石(いは)走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」をちょっと連想した。・・・と言ったら、いくら何でも言いすぎだろうか。
2021年06月18日
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〔以下の駄文は酒を飲みながら書いたので、さまざまな表現がやや過剰というか大げさになっておりまして、しらふで読み返すとちょっと気恥ずかしいのですが、・・・まあ、これはこれでいいか~ 〕15日に終了したテレビドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』(フジテレビ系全国ネット・関西テレビ制作)が素晴らしかった。具体的な内容については、すみませんがめいめいググってみてください。番組が終わってから書くのも、証文の出し遅れというか間が抜けた話だが、ともかくも一筆書きたくなる代物だった。視聴率的にはかなり苦戦した模様で、一般視聴者の評判は「面白い/つまらない」の真っ二つに分かれているらしいが、私はテレビドラマのひとつの到達地点といってもいい出来だったのではないかと、陰ながら高く評価している。「つまらない」という感想も、実は全く分からないでもない。現代社会を生きる知的な大人の日常が、緻密な観察眼に支えられたリアリティと絶妙な演技で微苦笑的なコミカルさの中で淡々・延々・黙々と表現されていた。地味といえばやや地味である。連続テレビドラマならではの一種のたっぷりとした時間の余裕もこれに相俟っていた。芸術・芸能表現においては、高度で本物になればなるほど、ある種の「退屈さ」と紙一重になってくることは、どの分野でも多少齧ってみれば誰にでもわかる事実である。神に近づくことは、宇内の静謐に近づくことだからだ。1300年の伝統を有する短歌・俳句などその好例だろう。表現者は、そうした中で勝負する。鑑賞者もそれに準ずる。このドラマは、受け手の側の一定の研ぎ澄まされた感性も要求される、驚くべき自由闊達さと完成度の、小さな奇跡だった。メディアやネット上の見巧者の評価もきわめて高く、我が意を得たりである。歴史の評価に堪えるということは得てしてこういうことだと思う。同時代では案外と見過ごされてしまう。宮沢賢治は、東北・岩手の農学校の無名の一教師として死んだ。ゴッホも、悲惨というべきほどの無名かつ赤貧だった。・・・その他芸術家・文学者の実例、大勢すぎる。芸能芸術を志す者であれば、無縁仏で野垂れ死にする覚悟がどこかにあるべきだろう。知る人ぞ知る。分かる人は分かってくれる。宝くじは誰かに当たる。くだんのこの作品は、私の最も好きな作家・保坂和志の作風に近いことは指摘してもいいだろうか。純文学の目指しているひとつの方向性・目標である、大したこと(いわゆる波乱万丈の「ストーリー」とか)はほとんど何も起こらない日常のリアル感と同時に、限定されたシチュエーションにおける人生の桃源郷ともいえる幸福感が満ち満ちていた。私ごときがいうのはおこがましいのは重々承知しているが、文学などの鑑賞眼はそれなりにあるつもりである。偉そうにいえば、表現行為に関心がある者はぜひ見ておいた方がいいというレベルの達成だったと思う。しかも楽しみながら勉強できる。松たか子演ずるタイトルロールの女性が、きわめて魅力的でキュートなのは言うまでもない。演出・演技の驚くべきナチュラルさは、今や大女優となりつつある彼女の中期代表作のひとつになったと思う。チャーミングでコケティッシュであると同時に、現代社会で働く・戦う女ならではの一種のガサツさ・豪快さ・男前な性急さなども含めて十全に表現された。・・・が、にもかかわらず、この作品の表現のツボはそこではなかろう。松たか子は、半ば狂言回しといってもいい存在であり、ツボは「三人の元夫」の振舞いにある。ゴールデンタイムのテレビドラマとあって、状況設定はやや奇抜でケレン味があるが、それも大したことではなく、この3人の元夫たちの掛け合い漫才的なじゃれ合いこそが作者(脚本家・演出家)の本懐であろう。いずれ達者な演技派俳優の「間」も見事な芸の奔流が本当に楽しかった。彼らは、お互いに寛容である。大豆田とわ子という女性への思慕・渇望、女神への崇拝めいた志向を秘めた、一種の盟友である。たまに対立することもあるが、さほど深刻な葛藤には至らない。かといって、微温的なぬるま湯ともまた違う、真剣で緊張感のある応酬があり、引いた目線で客観的に見るとコミカルでもある。そしてその状況を作中人物(キャラクター)たちは限りある唯一無二の人生の貴重な一部として存分に楽しんでいる。この楽しさが、見ているわれわれにも伝わってくる。この雰囲気・表現の境地は、わが駄文では説明できない。野心的な脚本家と演出家によって創造され、生身の俳優によって演じられたドラマ(テキスト)そのものを見てもらうしかない、というほかはない。フジテレビの午後の再放送枠で、うまくすれば一回ぐらいOAされるような気もするし、いずれDVDも発売されるであろう。そんなこんなで、見て損はないと思う。
2021年06月16日
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