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第2章.小さな冒険
2.小さな冒険
あれからしばらくして、僕たちはこっそりと家を出て近所の公園に移動していた。
とりえず授業が終わるまではここにいて、その後家に帰ることに。
翔ちゃんは興奮した様子で、僕の携帯をチラチラと気にしている様子。
「ミカミ……サトル……」
お母さんが大切にしていた2冊のスケッチブック。
その中のたくさんの人の名前の中から、僕が選んだ一人の名前。
別に誰でも良かったのだけれど、僕はなぜかその人を選んだ。
翔ちゃんが指をさしたからかもしれないし、横に父さんの名前があったからかもしれない。
まだ会ったこともないから、どんな人なのかもわからないけど、僕はこの人に会うと決めた。
もしかしたら、僕の知らない何かを知っているかもしれないからだ。
「まず電話して、会ってもらえるかどうか交渉しようぜ!」
「でもそれで断られたらどうしよう……そうなったら諦めるしかないかな……」
「和樹!」
「ごめん……会うって決めたけど……でもまだちょっと自信ないんだ……」
真実を知りたいと思う気持ちと、真実を知るのが怖いと思う気持ち。
その二つの感情の間で、僕の心は激しく揺れ動いていた。
引き出しの中を勝手に見て、勝手に学校を抜け出して、勝手にアドレスを登録した。
このことを父さんや母さんが知ったら怒るだろうか?
それとも、黙っていたことについて何か言ってくるのだろうか?
震える手で一生懸命アドレス帳から番号を呼び出し、一呼吸置いてから通話ボタンを押した。
コールするたびに緊張して、額からはじわじわと汗が滲み出ている。
「も……もしもし!」
そう言った瞬間、電話の向こうから留守であることを知らせる声が聞こえてきた。
それと同時に明らかにハッキリと聞こえた『三上……』と言う言葉。
留守ではあったがちゃんと繋がったことを意味し、安心しながらも緊張が解けることはなかった。
「初めまして……あの……北島和樹と申します……あの……北島大地の……えっと……」
少し焦りながらも何とか自分の存在と自分の携帯番号を留守電に残して電話を切った。
あとはこのメッセージを聞いた、三上という人からの連絡を待つだけだとそう思っていた。
それなのに、何日経っても三上という人からの連絡はなく、個別着信音以外は鳴らなかった。
いつものように翔ちゃんや健からの電話やメール、父さんや母さんとのやり取りがある程度。
学校でも電話のことが気になって授業に集中できず、ノートは真っ白のまま。
「和樹、電話は?」
「ううん……まだ……」
「そっか……でも諦めんなよ!」
翔ちゃんに励まされ、心の中で何度も大丈夫だと自分に言い聞かせた。
それでも僕の携帯が鳴ることはなく、また一日が過ぎてゆく。
朝が来て目が覚めて、学校へ行って昼になって、家に帰り夜になる。
いつもと同じように1日を過ごしているだけで、僕にとって特別なことは何もない。
ただ周りの雰囲気がいつもと違い、一週間後にやってくる夏休みのことで騒がしくなっていた。
僕の事情を全く知らない健は、他の生徒と同じように、むしろそれ以上に騒いでいる様子。
電話が来たら健にも全てを話すつもりでいたけど、このまま話すことなく終わりそうな気がする。
どんなに言い聞かせても日を追うごとに気分は落ち込み、自然と諦めることばかり考えてしまう。
どんよりとした気分のまま、その日も一日が過ぎ家に帰った。
誰もいない家の中で返事もないのにただいまを言い、階段をゆっくりと登っていく。
登り切った先には父さんたちの寝室があり、そこで僕はふと立ち止まった。
自分の部屋には行かずにそのまま寝室に入り、ゆっくりと引出しを開けた。
中はあの時のまま変わらず、そっと写真を手に取り一枚ずつ見ていった。
「あ……これ……」
それはこの前見た時には気づかなかったこと、改めて見て気付いたこと。
最後の写真に写っていた、お母さんの腕に光る腕輪。
今でも父さんが、同じ腕輪をつけていることを思い出した。
「お母さんのだったんだ……」
まだ一度も確認していなかった携帯にも手を伸ばし、そっと電源を入れてみた。
待ち受け画面には笑顔で映る僕の姿があり、かずき3才と言う文字が入っている。
きっとこの携帯もお母さんのもので、父さんがまだ捨てられずに残していたものだ。
データファイルを見てみても、入っているのは僕の写真ばかり。
笑っている僕、怒っている僕、泣いている僕、変な顔の僕。
その他にも数枚父さんの写真を発見したが、お母さんが写っている写真は1つもなかった。
一枚だけ見つけたおかしな写真は、半分が指で隠れてしまってよく見えない。
最初は不思議に思ったものの、これが更にお母さんへの思いを募らせる。
僕を何枚も撮るお母さんの姿を想像しながら、目を閉じて携帯を胸の辺りに押しつけた。
すると突然、また新たな記憶が僕の頭の中を駆け抜けていった。
ピアノを弾いているお母さんの後ろで、僕はこの携帯を握りしめている。
「ん~ここ難しいな~」
お母さんはそう呟きながら、指で譜面を追っている様子。
僕は携帯のボタンを勝手に操作し、カメラを起動させていた。
こっそりお母さんを撮るつもりで、必死にカメラをお母さんの方に向ける。
でも僕の小さい手ではうまくいかず、上半分が指で隠れてしまった。
「あ! 何やってるの~?」
シャッター音に気づいたお母さんが、弾いていた手を止めて僕の方へと歩いてきた。
慌てて携帯を後ろに隠し、何もしてないと苦しい言い訳をする。
直ぐに携帯を取り上げられたが、怒られたような記憶はない。
むしろその時お母さんは笑っていて、その写真はそのまま保存された。
その後帰って来た父さんも写真は見せられ、2人は楽しそうに笑っていた。
それがただ嬉しくて、僕もつられて笑う。
2人が笑っていたから、僕はいいことをしたんだと思った。
つまり、このおかしな写真は僕が撮ったもの。
僕がお母さんの姿を撮ろうと、携帯を向けたのだ。
その時、普段聴き慣れない着信音が鳴り響いた。
そして画面には、三上と言う文字がはっきりと表示されている。
途端に携帯を持つ手が震え、頭の天辺から足の先まで一気に緊張が走った。
すぐに写真や携帯を引出しに戻し、慌てて自分の部屋に戻って通話ボタンを押す。
「も……もしもし……」
『はじめまして……』
その人の声はとても優しそうで、聞いた瞬間に少しだけ緊張がほぐれた。
突然あんな風に電話したにもかかわらず、三上さんはそのことについては何も言わなかった。
何日も連絡がなかったのは、海外に出張中だったためとの説明を受け、僕はそれに頷く。
それから直ぐに電話の理由について聞かれた僕は、堰を切ったように今までのことを話した。
引き出しのことや楽譜のこと、お母さんのスケッチブックで三上さんの存在を知ったことも。
お母さんについて思い出したことや、まだ知らないことがたくさんあるということも全て。
まだ会ったこともない人なのに、何故か言葉が溢れるように出てくる。
それもとても細かく、ついさっきまで忘れていたこともハッキリと。
『このこと、お父さんは知ってるのかい?』
「いえ……黙って勝手に電話しました……」
『そうか……お父さんは知らないのか……』
「ごめんなさい! 突然電話して、いきなりこんなこと言って……」
『気にすることはないよ……それより……今から言う場所に来れるかい?』
あまりにも突然で、さっき消えかけていた緊張の波がまた押し寄せてきた。
三上さんの方から会う場所を指摘してくるとは思わなかったからだ。
焦りながらも三上さんの言葉通りにメモを取る。
「三上さん……ここって……」
電話が鳴ってから約二十分、僕は携帯の電源ボタンをゆっくりと押した。
胸の鼓動が一気に高鳴り、体中がだんだんと熱くなっていく。
これを興奮というのだろうか? 何が起きたのかうまく整理できなかった。
直ぐに翔ちゃんに電話して、今起こったことを全て話す。
僕の言葉に驚いたのか、翔ちゃんは手に持っていた何かを床に落としたようだ。
しかも足の上だったらしく、ドスッと言う鈍い音の後に微かに痛がる声も聞こえた。
『それで……場所は!?』
そこはうちからさほど遠くないところにある墓地で、昔何度か行ったことのある場所。
その時はまだ小さかったため、とても退屈で帰りたいとおばあちゃんを困らせた。
今でも夏になると、必ず父さんが一人でそこへ行く。白くて綺麗な百合の花を持って。
どうしてこの場所を指定したのか、どうしてこの場所なのかが最初はわからなかった。
けどゆっくり考えれば自ずと答えは見えてくるもの。
『そこって……やっぱり……』
「うん……たぶんね……」
『いつ会うんだ?』
「それはまだ……また三上さんが連絡くれるって……」
『そっか……』
「明日……健に話すよ……」
電話を切り何気なく部屋を出ると、父さん達の部屋から微かな物音が聞こえてくる。
ゆっくりとドアの前まで行くと、母さんがあの引き出しを開けて中身を見ていた。
その光景に驚きつつも、母さんの悲しそうな顔を見ているうちに薄れていく。
それよりも、どうして母さんが悲しそうな顔をしているのかが気になる。
母さんは今、どんな気持ちであの写真や楽譜を見ているんだろう。
僕を一生懸命育ててくれた母さんが、僕を生んでくれたお母さんの写真を見ている。
何だかとても不思議な光景で、でも凄く優しい気持ちが込み上げてきた。
(母さん……ありがとう……)
次の日、予定通り健に事情を説明するため、僕は翔ちゃんと共に屋上へと向かった。
学校を無断で早退した理由、三上さんからの電話、うまく言葉にできずしどろもどろな状態。
そんな度下手な説明に、健はただ黙って下を向いたまま何の反応もない。
慌てて翔ちゃんが説明を加えても変わらず、少し怒っているようにも見える。
「1人で説明もできないのかよ……」
「健……あの……」
「そんなんじゃ1人で真実にはたどり着けないぜ!」
次の瞬間、健が見せたのは満面の笑みだった。
「何だよ~俺だけ除け者にしてずるいぞ~!」
「ごめん……」
「俺バイト入れちゃったから手伝えないけど、応援する!」
「ありがとう……結果わかったら教えるよ」
今まで黙っていたことを怒りもせず、健は優しく接してくれた。
それが凄く嬉しくて、思わず健に抱きついて泣いてしまう。
「本当に……ありがとう……」
「和樹!! おぃやめろって!!」
この明らかにおかしな光景に、近くにいた他の生徒達が笑いながらこっちを見ている。
健は焦っているのと同時に困ったような表情で、必死に翔ちゃんに助けを求めていた。
胸の支えが少し取れて、僕はその嬉しさも重なって涙が止まらない。
これが人生初の嬉し泣き、悲しくなくても涙は流れるということを実感した瞬間。
既にバイトを入れていた健は、授業が終わると直ぐに教室を飛び出していった。
帰り道はいつも以上に楽しくて、特に寄り道はしなかったけど足取りは軽かった。
もう引き出しの中身はほとんど見たし、三上さんとも電話で話せた。
再び電話が来ることは確実なわけで、そのことで気に病むようなことは何もない。
着替えを終えてカバンから携帯を取りだし、何気なく画面を見つめた。
(電話よ……来い!)
そう強く願った直後、玄関のドアの開く音がして、立て続けに母さんの声が聞こえた。
買い物からの帰りだろうか? ビニール袋のガサガサと言う音が微かに聞こえる。
階段を下りて居間へ向かうと、嬉しそうに袋から買ってきた物を出していた。
「母さんお帰り」
「ただいま~! 今日は色々安かったから買っちゃった!」
鼻歌交じりで陽気な母さんの姿に、突然昨日のことを思い出した。
あんな悲しそうな母さんの顔は、どんなに記憶をたどっても思い出せない。
昨日のことを聞きたくなって、声を出しかけたが直ぐに辞めた。
あの引き出しのことを、今母さんに言うわけにはいかないからだ。
「どうかした?」
「べ……別に……」
その時突然、ポケットの中にある携帯が震えだした。
恐る恐るポケットに手を伸ばし携帯を握りしめると、急いで階段を駆け上がり部屋に戻った。
その着信が、三上さんからだと既にわかっていたから。
昨日の電話の後、個人設定で三上さんの振動パターンを変えておいた。
普段滅多に使わない振動パターンが、握っただけで直ぐに三上さんだと教えてくれる。
通話ボタンを押し、聞き漏らしたりしないように携帯を耳にしっかりと当てた。
「もしもし……」
『三上です』
「はい……どうも……」
緊張した。昨日よりも遥かに緊張して、手が不自然なほどに震えている。
自分が望んでいたはずの展開なのに、弱っちい僕の心が不安の渦に飲み込まれていく。
せっかく聞き漏らさないように頑張っても、この緊張では全く意味がない。
三上さんの言っていることのほとんどを聞き流す形となり、気が付けばかなり話が進んでいた。
緊張しながらも何とか頑張って、頭の中で整理しつつ話を続ける。
三上さんは昔の写真を見つけたらしく、それを持ってきてくれると言う。
日時も教えてもらい、すぐに僕は近くにあった紙に書き留めた。
夏休み最初の週の木曜日に、三上さんが仕事で近くまで来るらしい。
三上さんに会えるのは木曜日の午後、場所は三上さんに指定されたとある墓地。
お母さんが眠っている、北島家のお墓だった。
メモをポケットにしまい、何食わぬ顔で外に出ると母さんの姿が。
一瞬で焦り戸惑い、明らかにおかしい僕の行動に母さんは首を傾げている。
「今誰と話してたの? 電話?」
「あ……ちょっと……」
「あんまり長電話しないようにしなさいよ~! 通話代だってタダじゃないんだから!」
「うん……」
深く追及されるかと思っていたが、特に何もなく母さんは去っていった。
首をかしげていたからもしかしたら不審に思ったかもしれない。
大きな声を出さないようにしてはいたが、聞こえてしまった可能性もある。
そう思いながらも、何とかそれを顔に出さないように頑張った。
幸いそれ以上の追及はなく、父さんにもそのことが知られることはなかった。
僕はホッと胸を撫で下ろし、電話があったことを翔ちゃんや健に報告。
電話だと聞かれてしまう恐れがあったため、あえてメールを打つことにした。
不意に緊張がゆるみ、電話での会話を思い出すだけで顔がにやける。
(凄い……三上さんに会うんだ……お母さんのことを教えてもらえるんだ……)
そう思うだけで興奮して、メールを打つ手が震えていた。
もう後戻りはできないこの状況で、僕の心は必要以上にドキドキしていた。
僕がこんなことをしているなんて、父さんや母さんが知ったら驚くだろう。
もしかしたら怒られるかもしれないけど、僕はどうしても知りたかった。
僕の存在の意味を、僕はどうやって生まれてきたのかを。
今までの僕だったら、こんなことを考えたりはしなかっただろう。
でもあの時写真を見つけた時から、僕は心の中で思っていた。
僕には探さなければいけない、知らなければいけない真実があるんだということを。
この状況を察してくれたのか、翔ちゃんも健もメールで返事をしてくれた。
すぐに2人に返事を出し部屋をそっと出ると、父さんたちの寝室に入った。
引出をゆっくりと開けて、お母さんの写真をじっと見つめる。
何度見てもお母さんの笑顔は明るくて優しい。
だからこそ、この笑顔を鮮明に思い出せないでいる自分が悔しくてたまらない。
見れば見るほど切なくなって、もう会えないとわかっているのに会いたくてたまらなくなる。
(お母さん……お母さんは……僕のせいで……)
そんな思いが頭を過り、慌てて引出しを元に戻し部屋を出た。
階段を下りて居間へ行くと、母さんが夕飯の準備に動きまわっている。
父さんがいつもより早く帰ってくるらしく、時間がないと焦っているようだ。
この慌ただしい状況にもかかわらず、母さんは手を借りようとしない。
僕が手を出すと、却って時間がかかることを知っているからだろう。
しばらくして父さんが帰宅し、母さんはなんとか間に合った夕食をテーブルに置いた。
「早かったんだね」
「取引先で会議があって、会社に戻らずに帰ってきたんだ」
そう言いながら鞄をソファーに置き、ネクタイを緩める。
時々父さんが見せる寂しそうな表情、今もそうだ、心をどこかに置いて来たように見える。
父さんはすぐに顔に出るみたいだから、母さんも気づいてるかもしれない。
「そういえば……前にキーボード欲しいって言ってたろ? どんなのが欲しいんだ?」
「あ……」
確かにそんな話をしたことがあったが、もうすっかり忘れてしまっていた。
むしろ今は、ピアノのことはあまり考えたくなかった。
やめようと思ったこともあるくらい、何のために弾けばいいのかがわからない。
どうして弾き始めたのかもわからないのに、どうして弾き続けるのかなんてわかるはがずない。
「もういい……」
「何だ? いらないのか?」
「うん……」
「夜も練習したいって、言ってたじゃないか」
「もう休みに入るし、昼間いっぱいできるから」
「そうか……」
嘘だった。本当はなぜ自分がキーボードを必要としているのかわからなくなったから。
わからないことだらけで、頭の中がパンクしそうになるのを必死でこらえる。
(大丈夫……もうすぐ三上さんに会える……全てがわかるんだ……)
父さんはまだどこか寂しそうで、僕は悪いことをしたと思った。
何気なくピアノの方に目を向けると、急にさっき見たあの写真を思い出す。
微かにしか思い出せていないのに、お母さんの座る姿が妙に焼き付いて離れない。
途端にピアノを見ているのが辛くなり、慌てて階段を駆け上がった。
部屋に入りベッドに蹲ると、無性に寂しくなり涙が出そうになる。
何とか必死に堪えようとしたが、少しだけ出てしまった。
(お母さん……僕……父さんに……悪いことしました……ごめんなさい……ごめんなさ……)
次第に瞼が重くなり、頭の中で靄が掛ったように辺りが薄れていく。
気が付くとそこは夢の中。
イチゴがたっぷり載った手作りのショートケーキと、火の灯った3本のローソク。
ソファーの上にはプレゼントの箱が置かれていて、お母さんがピアノを弾きながら歌っている。
「和樹~! おめでとう!」
その言葉を合図に息を吹きかけるが、ローソクの火は一本も消えずゆらゆらと揺れていた。
笑顔で僕を見つめるお母さんが、一緒に消そうと言って息を吹きかける。
直ぐに父さんがプレゼントを持ってきて、僕の目の前で開けて見せた。
中に入っていたのはおもちゃのピアノ。
適当に鍵盤を押す僕の姿を、お母さんは満面の笑みで見つめている。
その時初めて押したのが、僕の好きなGの音。
「ソの音だ! ママの好きな音だよ~」
嬉しそうに僕を抱きしめるお母さんの腕が、すごく優しくて温かかった。
微かに感じる石鹸のような香りが、心地よい気分をより一層引き立てる。
まるで本当に抱きしめられているかのように、全身で感じる温もり。
「大丈夫」
「え?」
その声に辺りを見渡すと、そこは居間ではなく僕の部屋だった。
子供っぽい柄のカーテンが突然今のカーテンに変わり、机の上のおもちゃも消える。
体の置くが急に熱くなり、小さかったはずの僕の体は徐々に大きくなっていく。
さっきまで着ていたTシャツやズボンも、寝る前着ていた服に変わっていたようだ。
半年前に転倒してできた腕や足の傷見て、これが今の僕だと言うことに気付いた。
体中を見渡して、違和感がないかを確認する。
夢の中にしては珍しく、触る感覚や感触は妙にリアルだった。
それでもやはりここは夢の中、お母さんは老いることもなく、写真に写っていたあの姿のまま。
僕だけか急激に成長することは、現実では有り得ない。
お母さんは少し背伸びをして、僕の頭を何度も撫でながら優しく微笑んだ。
「大丈夫……お父さんはそんなことじゃ怒らないから」
「お母さん……」
「謝らなきゃいけないのは……私だから……」
「どうして? お母さん?」
どこか寂しそうなお母さんの顔は、時々父さんが見せるあの表情に似ている。
もっと聞きたいことや知りたいことがあるのに、うまく言葉にすることができない。
お母さんは急に黙ってしまい、何も言わずにまた僕を強く抱きしめてくれた。
優しくて温かくて心地よい、全身で感じる温もりが、ゆっくりと僕を包み込んでいく。
(お母さん……ママ……)
和樹……和樹……
(誰かが僕を呼んでいるような、誰だろう? あぁ、この声は、母さんかな……)
「和樹! 和樹!」
「んん……母さん?」
「まったくご飯も食べないで! お腹出して寝て、風邪引くわよ?」
「うん……ごめん……」
無理矢理体を起こされて、現実の世界に戻ってきたんだと頭の中で思った。
けれど夢から覚めても、あの温もりや感覚が焼き付いて、僕の中から消えることはなかった。
それから1週間とちょっと、それは長いようで短く、思っていたよりも早く感じた。
木曜日、三上さんとの約束の日が、とうとうやってきてしまった。
心の準備もろくにできないまま、緊張で朝早くに目が覚める。
そんな日が何日も続いていたため、特に怪しまれることはなかった。
「今日も早いじゃない! 去年なんて昼間まで寝てたっけ?」
「も……もう高1だしね!」
何とか返事をして部屋に戻り、心の中で何度も呪文のように唱える。
(大丈夫……大丈夫……)
翔ちゃんと出かけると言う名目で外に出た僕は、何度も呪文を唱えながら歩いた。
約束の時間までまだ余裕があったため、駅の近くのお店で翔ちゃんを待つことに。
あの夢での出来事が頭から離れず、それが更に緊張の波を呼び起こす。
翔ちゃんと合流した後も緊張は抜けず、しばらく無言のままが続いた。
そんな僕に気を使っているのか、翔ちゃんはただひたすら話し続けていた。
健のバイト先に押し掛けたこと、そこで昔の友達と再会したこと。
その子が僕にも会いたがっていると言うことなど様々。
僕の緊張が少しでも解れればと、翔ちゃんは必死に話を続けてくれた。
「ありがとう……ごめんね……」
「謝るなって! そろそろ時間だし! もう行こうぜ!」
お店を出て、メモしておいた地図を片手にお墓のある墓地を目指す。
駅周辺はざわざわとしていたが、歩けば歩くほどざわざわした音が小さくなっていく。
駅から歩いて10分ぐらいだろうか、途中で道を間違えそうになりながら何とか辿り着いた。
まるで別世界のように辺りは静かで、ただジワジワと来る蒸し暑さが夏を感じさせる。
入り口を入って二つ目の角を左に曲がって、向かって右側の前から5つ目。
ここに来るのは本当に久しぶりで、最後に来たのは4歳か5歳ぐらいの時。
覚えているはずないと思っていたけれど、僕の頭には鮮明に残っていた。
ゆっくりと進み、二つ目の角を曲がった瞬間僕は足を止めた。
北島家のお墓の前に、花束を持った男の人が立っている。
(あの人が……)
直ぐにそれが三上さんだとわかり、三上さんの姿をじっと見つめる。
三上さんはそっと目を閉じて、手を合わせたまましばらく動かなかった。
僕は声を掛けるタイミングを失い、ただ三上さんを見つめたまま時間だけが過ぎてゆく。
痺れを切らした翔ちゃんが、僕に代わって声を掛けた。
三上さんは直ぐに気づき、僕は慌てて三上さんの方へと向かった。
「君が……和樹君?」
「はい……北島……和樹です……」
「三上悟です、大きくなったね」
「え? 僕……会ったことあるんですか?」
「あぁ……でも覚えてなくて当然だよ、会ったのは君が生まれて直ぐだったからね」
三上さんはそう言うと、一枚の写真を見せてくれた。
生まれたばかりの僕を、お母さんがギュッと抱きしめている。
頬と頬をくっつけ、嬉しそうに笑うお母さんの横で僕は泣いていた。
写真の裏には、三上さんが書いたと思われる文字がうっすらと残っている。
『和樹君、生後10日』
僕が生まれて10日後に、三上さんが撮った写真。
それからもう一枚、今度は父さんと3人で写っているものだった。
相変わらず僕は泣いていて、それでも笑っているお母さんと少し戸惑った様子の父さん。
最後の一枚は、泣いている僕を必死に抱きかかえる父さんの姿。
それらは全て、生後10日の日に三上さんが撮ったもの。
他にも三上さんが撮った写真がいくつもあり、三上さんは全て見せてくれた。
お母さんと三上さんが出会って間もない頃の写真や、父さんと三上さんが2人で写っている写真。
黒髪にピアスだらけで写っている父さんは、どこか機嫌が悪そうに見えた。
結婚式の写真では、お母さんが父さんの頬にキスをしている。
他にもお母さんや父さんの写真がいっぱいで、僕は何度もその写真達を見返した。
三上さんは地球一周の船の上でお母さんと出会い、同時に父さんとも出会った。
昔、父さんが20代の頃に参加したと言っていた地球一周の船旅。
約3ヶ月掛けて船で地球を一周し、その約3ヶ月間の間に訪れた寄港地は約16ヶ所。
三上さんの参加したクルーズは、南半球の暖かい国々を目指す、僕にとっては夢のような話だ。
その頃からお母さんはピアノが上手で、初めて声を掛けた時もピアノを弾いていたと言う。
それから父さんや他の人とも出会い、三上さんはいつしかお母さんに恋心を抱いた。
つまり、父さんと三上さんは、恋敵だったと言うことになる。
三上さんは積極的だったが、父さんはあまりそう言う性格ではなかった。
だがそこに三上さんの入り込む隙はなく、お母さんの涙を見た三上さんは身を引いた。
三上さんと知り合う前から、お母さんは父さんに心惹かれていたからだと言う。
「お母さんの涙って……」
「それは、あとでちゃんと説明するよ……ちゃんと順序立ててね」
「お母さんはどうして父さんのことを?」
「ほっとけなかったのかもしれないな」
「え?」
「君のお父さんは、心の奥に闇を抱えているみたいだった」
そう言って三上さんが差し出した写真を見て、僕はすぐにそれを理解することができた。
時々見せる寂しそうな表情、心をどこかに置いて来たような、あの顔をしている。
今でも時々見せるあの顔は、お母さんを失った悲しみによるモノなのだろうか?
そんな父さんとは裏腹に、お母さんの笑顔はとても眩しく輝いている。
お母さんの笑顔を見るたびに、心の中が切なくなって涙が出そうになった。
「和樹君? 大丈夫かい?」
「ごめんなさい……僕……お母さんのこと……僕が……僕が……」
考えれば考えるほど、気持ちが自分を責める方へと向かってしまう。
だって僕さえいなければ、お母さんは今でも笑っていたはずだ。
大好きなピアノを目いっぱい弾いて、父さんと笑いあって幸せに。
それを僕が奪った。僕がお母さんを、僕が……。
「自分のせいで亡くなったと思ってるのか?」
「だって……だってそうでしょ!? そうじゃなきゃお母さんは笑ってたはずです! 今でも!」
「和樹君!!」
「ごめんなさい……」
「いや……いいんだ……でもそれは違う……君のせいなんかじゃないよ……」
三上さんはそっと、優しく僕の背中をさすってくれた。
堪えきれずに溢れ出た涙が、地面にスッと消えていく。
「この写真を見ればわかるだろう? 君のことを抱いてこんなにも輝いている」
「三上さん……」
「お母さんにとって君は、何よりも大切な宝物だったと思うよ」
「宝物……僕が?」
「あぁ……大切な宝物だ……」
僕はもう一度お母さんの写真を見た。
何度見てもお母さんの笑顔は変わらずに輝いていて、涙は止まらずに流れ続けた。
三上さんは僕の肩に手をそっと置くと、昔のことを話してくれた。
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