三河の住人の庵

三河の住人の庵

寛政重修諸家譜 大久保彦左衛門



大久保忠教(ただたか)

初忠雄 平助 彦左衛門 大久保平右衛門忠員が八男。母は小坂氏。

天正三年浜松にをいてめされて、東照宮につかへたてまつる。時に十六歳
四年遠江國乾の戦ひに、兄七郎右衛門忠世にしたがひ首級を得たり。
九年三月二十二日高天神の役に城将岡部丹波守長教と槍をあはせ、つゐに長教をつきふせ、忠世が家臣本多主水某をしてこれを討しめ、また敵と戦て首級を得たり。
十一年二月信濃國佐久郡小諸岩尾の城をせむるのとき、奮戦し田野口にをいて首級の功あり。
十三年正月同國相木にをいても敵と戦て高名す。
八月真田昌幸が居城上田に兵をむけらるゝのときも、兄忠世とゝもにかの地におもむき、閏八月二日城攻のとき、昌幸歩卒をひきゐて城外砥石町にうちいでたゝかふこと急なり。我軍利なくして引しりぞく。このとき戦死するもの三百数人、昌幸勝に乗じてこれをををふ。忠教忠世ともに馬を返し奮戦し、敵一騎をつきふせ首級を得たり。こゝにをいて衆軍ふみとゝ"まりて励みたゝかふ。凱旋のゝち諸士の優劣をたゝ"さるゝのとき、忠教が言をもつて證とせらる。をよそ忠教忠世に属し所々にをいて軍塁をまもり、しばしば戦功をはげます事、あげてかぞふべからず。
(天正18江戸入りの)のち相模守忠隣が所領武蔵國埼玉郡(羽生)のうちにをいて二千石を知行す。

慶長十九年忠隣罪かうぶりて所領を没収せらるゝのとき、忠教を駿府にめされ、三河國額田郡のうちにをいて更に千石の地をたまひ、この年大坂の役に御槍奉行となりしたがひたてまつる。
元和元年夏御陣にも供奉し、乱たひらぐのゝち諸人相つたへいふ。東照宮の御旗すでに退くありと。忠教これを聞て衆人をのゝしりて、我御槍の奉行たれば御旗とともに一所にあり。しかれどもその退くを見ず、何ぞさる事あらむやといふ。こゝにをいて諸人その偽りなる事をしる。
これよりさき武蔵國永の御槍をよび葉茶壺青磁七官の花器をたまふ。

寛永二年十二月十五日台徳院殿より采地の御朱印を下され、三年御上洛の時したがひたてまつる。
九年六月二十五日御旗奉行に轉じ、七月朔日馬上同心一騎足軽同心十五人を付属せられ、十一月二十日布衣を着する事をゆるさる。
十年七月二十六日三河國額田郡のうちにをいて千石をくはへられ、すべて二千石を知行す。
十二年額田郡の三百石の地を常陸國鹿嶋郡のうちにうつさる。

十六年二月朔日死す。年八十。法名日清。采地額田郡尾尻村の長福寺に葬る。妻は馬場右衛門信成が養女。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: