花夢島

花夢島

第〇章~prolog~


 月のない、漆黒の夜。人通りの少ない路地裏を選んで夜の街を駆け抜ける1人の姿があった。
 薄汚れた襤褸を身に纏ったその人物は、息を切らし、体力的限界を迎えながらも走るスピードを緩めなかった。
 足を止めれば、追っ手にすぐにでも捕まってしまう。そうなれば、ただではすまないだろう。
 恐怖から、人間は強く願った。
 死にたくない、と。
 そう願った時、襤褸の下に着込んだ制服のポケットから光が洩れた。
 強く願えば願うほど、輝きは増していく。
「これ……は……」
 思わず足を止めてしまう。半ば無意識にポケットの中のものを取り出した。
 銀製の十字架。一目見て惹かれて以来、毎日持ち歩いているもの。今まではただの十字架だと思っていた。
 しかし、銀色の光を怪しく放つクルスは、自分は普通ではないのだと強すぎる主張をしていた。
 十字架を握る。心を、通わせる。
 十字架の輝きが一層強さを増したかと思うと、人間は儚げな笑みを浮かべ、何かを呟く。
 追っ手がピストルの引き金を引きながら近寄ってくる。
 放たれた弾丸は、人間の腕を、足を、額を、心臓を容赦なく貫こうとする。
 だが、そのどれもが、後1メートルといったところで外側に軌道が逸れ、掠りもしなかった。
 何発撃っても、それは当たらない。
 目の前の事実が信じられないのか、彼らは何度も何度も引き金を引いた。カチャ、カチャと、空撃ちの音が虚しく鳴り響く。
 人間は何かを呟きながら、不敵に微笑んだ。
 クルスが、一際強く輝く。鋭い閃光が広がっていく。眩しすぎる光に、その場にいた誰もが目を覆った。

 暫くして、人間が再び目を開いた。
 先ほどまで自分を襲っていた者達は、忽然と姿を消しただの1人も残ってはいなかった。
 人間は、踵を返し歩みを刻んだ。
 一刻も早く、光の下へ。
 その刻みは徐に感覚を短くしていく。
 人間は、走っていた。
 ただ、一心不乱に。
 自分がしたことを、忘れようと、ただ必至に走っていった。




 ――足音がどんどん遠くなっていく。
 薄れ行く意識。目も見えないし、体も動いてくれない。
 ただ、その場所に倒れていることしかできなかった。
 残された聴覚も、役割を果たさなくなる。
 その女性には、小さくなり行く足音が意味することが分からなかった。
 誰かがこの場所から走り去ろうとしているのか。
 それとも自分の聴力が意識と共に消え去ろうとしているのか。

 その答は、女性の意識と共に闇の中へ葬り去られた。

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