アサヒコ以外はイソタケルとミズヤとされているミヤが生きていることを知る人間はいませんでしたが、アサヒコを訪ねてくる人間がいることは考えられましたから、イソタケルとミヤは、一旦カヤに落ち着いた後、二人で東国の果てのニギハヤヒの本拠地ツガルを訪ねることにしました。
ツガルに戻っていたオオヒコは、殺されたと聞いて残念に思っていたイソタケルが生きていたことを知るや、彼とミヤを、イズモから来たニギハヤヒ一族のイズモ・オオトシと妻のミヤ夫婦として歓迎してくれました。
また、宿敵として対戦したガイ将軍も、彼が生きていたことを大喜びして迎えてくれました。
そして、オオヒコ自らツガルを案内してくれたのですが、ツガルは、農耕が発展し始めていたヤマトとは異なり、狩猟や漁で生活している者たちと、それらを交易する人たちの町であり、生活、文化のレベルが違う人々が、それぞれの立場を尊重しつつ暮らしていた。
しかも、ヤマトと異なり、海外との交易も盛んでしたから、ヤマトでは見たこともない珍しい品物が取引されていました。
二人は、ツガルが気に入りましたから、オオヒコの客人として暮らしながら、自分達の持つヤマトの文化や技術を伝えていくことにしました。
2年後、二人の間には男の子が生まれたので、オオヒコから名をもらい、イズモ・オオヒコと名付けられました。
イソタケルは、もう二度とはヤマトに帰らぬ積りでしたから、息子のオオヒコには、ツガルの海の民で、南方から来たのではないかと思われる肌の色が浅黒く、陽気なアソベ族、土着の山の民で、背が低いが肌は白く、物静かなツボケ族、東国一体に先住していた色白で背が高いエミシ族、元はヤマト系で、自分達と同じニギハヤヒ一族、それから、遠い海の向こうから来たと言う、茶色から金色の髪の毛と灰色から青の目をした色白のホータン族他あらゆる部族の人々と交流させ、偏見を持たないように教育しました。
オオヒコは、名付け親のニギハヤヒ・オオヒコに一番なつき、彼の息子や娘たちとの交流を深めて行くことになりましたが、当然自分の両親のことを疑問に思うようになりました。
後に生まれた弟、妹たちは、最初から当然のように皆に溶け込んでいったのですが、オオヒコだけは、両親と自分が他の人々と微妙に違っていることに気付いていたのです。
両親に聞いても、自分たちはイズモから来たニギハヤヒ一族の一派であるとしか教えてくれませんから、彼は、ニギハヤヒ一族の長老と言われるオオモノヌシを訪ねて、両親のことを聞くことにしました。
オオモノヌシは、ニギハヤヒの長老ながら、一族の長であるニギハヤヒ・オオヒコにさえ滅多に姿を見せない変わり者だったのですが、イズモ・オオヒコが会いたがっていると聞くと、喜んで会ってくれました。
実際に会ってみると、オオオモノヌシは、年齢がわからない奇妙な風貌であり、しわのない顔は良く見れば若者のようでもあり、穏やかなようで底知れない威厳を秘めた表情は、老人のようでもありました。実際、目の当たりにしながらも、何と表現してよいのかわからない人物だったのです。
彼は、オオヒコの疑問に正直に答えて、父のオオトシは実はイソタケルであり、ヤマトから来たことを教えるとともに、はるか昔からのこの国の歴史を教えてくれました。
オオモノヌシによると、この国ははるか昔にはヤシマと呼ばれ、今のヤマトよりも進んだ文明を持って栄えており、世界一の強国と見られていたと言うことでした。
しかし、度重なる天変地異で、多くの国が滅んだ中、ヤシマも没落し、当時の進んだ文明も姿を消したのでした。
その後も細々と続いてきたヤシマ王朝でしたが、近縁ながら海を渡ってきたニギハヤヒやヤマトの先祖たちと混交し、ついには消え去ってしまったのでした。
そして、新しく渡って来た人々と元からいた人々が、折り合ったり、争ったりが続いて現在のこの国があることを教えられると、オオヒコは、部族同士の争いがばかばかしくなりました。
彼は、どの民族も同じ人間であり、お互いを尊重しようとする、父やニギハヤヒ・オオヒコの思想が一番だと痛感したのでした。
オオヒコは、ニギハヤヒ・オオヒコに頼んで、ツガル周辺の全ての民族の人々の集落に順々に同居させてもらい、それぞれの民族の風俗習慣の差を学ぶことにしました。
そして、一通り学んだ末にニギハヤヒ・オオヒコの後を継いだテルヒコに側近として仕えることになりましたが、エミシの集落で生活した時に親しくなった、族長の娘で誇り高い美女だったオキ・ミリと結婚しました。
その後、イソタケルの他の子供達もそれぞれ気に入った相手と結婚して巣立っていきました。
子供たちが巣立ってミヤと二人だけの生活に戻ったある冬、引退したニギハヤヒ・オオヒコが、イソタケル夫妻をツガルの少し南にある大きな湖に案内してくれました。
するとそこには何千羽もの白鳥が渡ってきており、湖一面が白く見えるほどでした。
一部は更に南に渡って行きましたが、春になるとその何千羽もの白鳥たちは、北に帰って行くのです。
渡りの時には、空一面が白鳥に覆い尽くされるほどであり、二人は東国では白鳥が死者の魂をトコヨノクニに運んで行くとの言い伝えを、身をもって感じることができました。
オオヒコは、イソタケルがツガルにやって来たことは偶然ではないと言います。
理由を聞くと、ニギハヤヒ一族がヤマトから移ってくる以前に、この地を訪れたヤマトの一行がおり、その長の名がイソタケルだったとの伝承があると言うのです。
では、その一行は、はるばるヤマトから何をしに来たのか。
その答については、オオヒコもよくわからないが、伝承では人々に掟を教え、木を植えていったと言うことでした。
ミヤも、オワリ一族の先祖に全国を巡ったイソタケルという人物が居たことを聞いたことがありました。
ですから、イソタケルが東征軍の将軍としてオワリに派遣されてきた時、父が不思議な偶然があるものだと話してくれたことを覚えていました。
ツガルの伝承でもオワリの伝承でも、イソタケルはその後ヤマトに帰ったことになっていたのですが、別れを惜しむ人々に、自分は何時かここに戻ってくると言ったことも伝わっていました。
ですから、父イソタケルは、本当に帰ってきたのかもしれないと考え、オオヒコも、オオモノヌシから長い年月を経て客人が来るとのお告げがあったので、イソタケル夫妻がひょっこりやってきた時、しかもツクバで講和を結んだ時から親しみを感じていたものの、その後死んだと聞いて落胆していたイソタケル本人がやってきたことには運命的なものを感じていたのでした。
イソタケルとミヤ夫妻は、ツガルで 30 年を過ごしましたが、ニギハヤヒ・オオヒコが亡くなったのを機に、成人して独立した子供達をツガルに残してカヤに戻り、カヤの長の娘と結婚し、後を継いで長となっていたアサヒコと再会しました。
アサヒコは、イソタケルの息子のカワチノミコが、ハヤミ国王の死後ミトシとなって跡を継いで国王となっていましたから、会いに行くなら手配すると申し出ましたが、自分は 30 年前に死んだはずの人間だし、今更出て行くとややこしくなるから会わないと固辞しました。
ミヤも、オワリの両親が死んだことは伝え聞いていましたが、自分の身代わりになったミズヤがどうなっているのかが気になったので聞くと、アサヒコは、ミヤとなったミズヤと密かに連絡は取っており、婿を取ってオワリノカミの跡を継ぎ、 4 人の子供に恵まれて幸せに暮らしているとのことでしたから安心し、彼女も会いには行かないことにしました。
アサヒコとしては、イソタケルこそカヤの長にふさわしいとすすめましたが、彼は身分を明かさないことを条件に、アサヒコの協力者となって、カヤをその地方一豊かな村にすることに貢献しました。
イソタケルは、カヤに戻って 8 年後に亡くなりましたが、ミヤは 90 歳まで長生きしました。
そこで、ミヤが死んだ時、アサヒコの跡を継いでいた息子のモトヒコは、彼女のために大きな墓を造って弔いました。
ここからは、現世の私の記憶になります。
私が大学 3 年生の時ですから、昭和 53 年ですが、研究室の研修旅行で丹後半島を一周したことがあったのです。
助教授と助手と私の車 3 台で巡ったのですが、帰りに峰山から加悦に向かう途中、運転しながらふと、「ヤマトタケルノミコトのモデルになった王子と妃のお墓がこのあたりにあるはずだ。」と漏らしたことがありました。
私、たまにこんな風に幻視してつぶやいてしまうのですが、何年か後に、そのあたりで古墳が調査され、女性の人骨と、三種の神器の副葬品が発見されたと新聞記事になりました。
大谷古墳と言いますが、女性の骨が出土した古墳は大変珍しいとのことです。
そして、同じ頃だったと思うのですが、峰山近くで新しい古墳が発見されたとの新聞記事も見た覚えがあります。
ミヤとイソタケルのお墓だと思います。
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